田中治彦研究室


なぜ「もののけ姫」か?

1999年1月27日掲載

2000年1月23日更新

田中治彦(立教大学)


引き込まれてしまいました

テーマは何か

ファンの反応

娯楽作品として

最後のセリフ new


引き込まれてしまいました 

 1999年1月22日にアニメ『もののけ姫』がテレビで初放映されました。もののけ姫がタイタニック以前の最大のヒット作品であること、そのテーマが人間と環境らしいこと、は知っていました。宮崎アニメはこれまで子どもたちに勧められて結構見ていたので、今回も見逃すまいとテレビの前に座りました。

  最初の90分くらいはダラダラと見ていました。スジの進展も遅いしとりわけ印象に残るようなシーンもなかったし。ところが「しし神」を討ちに行く最後の30分ほどは、どんどん引き込まれていってしまい一気に見終ったという感じです。

  これはすごい! 本当にびっくりしました。これだけ困難なテーマをよくここまで描いた。自分が『南北問題と開発教育』で246頁を使って書きたかったこと、同名の講義で30時間かけて学生に伝えようとしていること、を宮崎駿は2時間13分の映画の中でアニメという手法を用いて見事に描きました。

  私たちがよく使う「共生」というテーマを、自然と動物、動物と人間、個と集団、男と女、もろもろの関係性の中でとことん追求しています。「とことん」というのは主人公アシタカがどんな巨大な力の前でも、どんなに絶望的な関係の中でも決してあきらめないことです。「あきらめない」だけならばよくあるヒーローですが、彼の場合は「死」と向き合っている、あるいは超越というか諦観しているようにも見える。

  ラストシーンは元のさやに戻ったり、ハッピーエンドではなくて、弁証法的です。対立を超えたところに新しいステージが生れている。文字通り、未来に希望がもてるのです。北と南の対立、民族間の紛争、経済開発と地球環境、グローバル経済と地域コミュニティの絶望的なほどの落差、そして男と女−これらもやはりあきらめたらいけないのです。 

                                  (1999.1.22.)

 


テーマは何か

  まだ見ておられない方はこれ以上読むと先入観が入りすぎるかもしれません。以下、宮崎駿がそのように意図したかどうかは定かでありませんが、半分くらいは当っているでしょう。

  アシタカは最初は自分の不治の傷を直せるかもしれないという一抹の望みをもって旅に出ます。そしてタタラの村に入る頃から自分の使命らしきものを感じ始めます。個人的な動機から始まって公的な使命感へ、これは国際協力NGOのボランティアによくある話です。

  対立関係は複雑です。科学技術文明を象徴する「たたら(製鉄)の村」、それを攻めとろうとする豪族(浅野氏だったと思います)。動物の方もいのししと山犬と猿みたいな一族とはやはりしっくりきていません。森の立場を代表するサン(もののけ姫)はもともと人間でマージナルな存在、アシタカはすべての利害に関係しない中立的な悩めるコーディネータ役。

  村の人間関係で階級差がありますし、「らい」を暗示させるシーンもあってしかも彼らが差別されていないように見えて、村のなかで一定の地位を占めている。隅隅まで「共生」のテーマを追っている。「共生」なんていうテーマはアニメで扱えば「くさい」テーマで、なかなか難しいと思うのですが、よく娯楽作品にしたてている。

  ジェンダー的には、人間文明の代表である「えぼし」も森の代表「もののけ姫」も女性、アシタカが男性。しかしどの人物も中性的に描かれていて、男と女を交換しても物語は成立します。たたらの村で女性がやたらに元気なところは「現代」を表わしています。

  いろいろ葛藤や対立があっても、ロマンスがあれば視聴者はそれで気が済んでしまうものですが、このアニメでは男女の「愛」は副次的です。男女の「愛が地球を救う」とは一言も言っていないところも気に入りました。

  この物語のすごいところは、最後に「しし神」を殺すところです。見ている方からすると、すべてを超越する絶対者だろうから最後は何とかしてくれるだろうなどと思っているのですが、これが殺されてしまう。しかも、特別製の鉄砲で(ハイテク兵器の象徴)。最後は新しい世界が示されて、新たな絶対者の存在が示唆される。あくまで示唆されるだけに終るところが世紀末の現代の世界状況にマッチするのです。

  宮崎アニメは残念ながらこれが最後だそうです。私たちの世界でも1つのテーマで本を書くのに10年かかります。アニメの世界でも同じでしょう。次のテーマを追求しようとしたら今から10年。しんどいでしょうが、宮崎駿さんにはもうひと仕事期待したいところです。

                           (1999.1.22.)

 


ファンの反応 

 大学で回りの人にもののけ姫を見たかどうか聞いたのですが、学生はたいてい見ていました。私と同じ世代の人は子どもを連れていって見たとか、是非見ろとすすめられてビデオやテレビで見たという人が多かったです。ホームページでファンのページを見ましたが、ファン層は10代後半の人が最も多くて、次に10代前半と20代前半の人が多い。つまり、中学校、高校生が宮崎アニメの主流です。

  興味深かったのは伝統的な宮崎ファンの中で「もののけ姫」は失敗作ないしは面白くない、という意見が相当数あったことです。その中に意見で「宮崎駿はマスコミや環境保護派にたきつけられてこんな作品を作った」というもので、ようするにエンターテインメントとしてもっと面白いものにしてくれ、ということのようです。

  確かにエンターテインメントとしては「となりのトトロ」は不朽の名作で21世紀にも末永く残ることでしょう。それに比べて「もののけ姫」は確かに一時的な大ヒットではあったけれど、時間とともに消えていくかもしれません。「時代」を扱っただけにおそらくそうなるでしょう。はじめてのテレビ放映であったにも関わらずボードへの書き込みが少なかったことを指摘するメッセージもありました。若い人の間ではもう熱はさめた、あるいはリピーターが少ないということなのでしょう。

  宮崎アニメはどんなにエンターテインメント性が高いものでも、しっかりしたメッセージがあると感じています。それだからこそ娯楽性のなかにもより心に残るものがあるのだと思います。もののけ姫はテーマ性を追求するあまり、どうしても娯楽性という点では不満が残るのはいたしかたない。私はどうしても開発教育の視点から見てしまうのですが、タイタニック以前では最高の人を集めたという点がすばらしいと思うのです。ようするにあまりテーマに関心がない10代の人々をも、映画館に足を運ばせてそれを見せたわけです。開発問題にもっとも遠いところにいる人々にいかに訴えるか、が開発教育の最大の課題ですので。

  娯楽性という点からいえば、もののけ姫ではロマンスをもっと発展させれば伝統的な宮崎ファンも納得したように思います。宮崎駿はあえてそれをしなかったわけで、ここは議論の分かれるところでしょう。

                       (1999.1.23.)

 


娯楽作品として 

 「もののけ」関係のホームページをサーフィンしてきました。前のメッセージで伝統的なファンから結構「もののけ」批判があると言いました。「もののけ」批判派の議論はかなり説得力のあるもので、それに対する反論はやや感情的「私の好きな宮崎アニメを批判するなんて許せない」の類です。それではもののけ姫のどこがよかったのか、というと案外書かれていなかったりする。

  批判派の議論が説得力あるのはようするに「アニメとして面白くない」という論点だからです。アニメの制作者としては一番つらい発言でしょう。なぜ面白くないかというと、カタルシスに欠けるからのようです。たまった感情を吐き出しきれないからです。

 宮崎さんほどの人ならばそんなことは百も承知で、面白くする手段はいくらでもあった。例えば得意の「空を飛ぶ」ことです。もののけでは空を飛ぶシーンがない、という意見がチラホラありました。空を飛べばすっきりしますよね!

  あるいは前にも書いたようにロマンスを発展させればよいのです。愛が実ればこれもすっきりする、タイタニックみたいに。

 説明不足も多分にあります。2時間13分の映画を30分くらいにするだけでそれはできます。一人の登場人物にあと5分ずつ説明してやれば、相当わかりやすくなるはずです。宮崎さんはインタビューで認めているのですが、あえてそれもしなかった。「心に傷や痛みのある人にはわかるだろう」と結構つきはなした言い方をしている(傷や痛みのない人にはわからなくてもよい、の裏返し)。

  最大のカタルシスは、善悪をはっきりさせないこと。この映画には正義の味方=ヒーローがいない。主人公のアシタカからして4人も殺しているし、誰もが正義と傷を両方もっている。善のかたまりであるはずの「しし神」すら最後は大量殺戮にはしる。

  これだけいらいらの固まりなのに、よくあれだけ観客を動員した。映画館でもののけ姫を見た10歳や12歳の子どもが、またテレビでも見ようとした。視聴率は映画としては歴代8位の35.1%だったそうです。本当に感心してしまいます。私はアニメ論をやろうとは考えていないのですが、この作品だけは作者の気持ちが痛いほどわかるだけについ入れこんでしまいました。

                                      (1999.1.25.)

 


最後のセリフ

  その後ビデオを買ってきて見ました。ラストシーンでよくわからなかったことがあったのです。 アシタカはもののけ姫に対して「サン、きみは山に帰れ、私はあの村に残る」といいます。 このセリフはファンからいろいろ問題にされたところで、なぜアシタカはサンと一緒にならないのか、そうでないならば自分の村に帰ればよいのに、という意見が多かったです。

  ビデオを見て2度めでやっと気づきました。アシタカは山に行ってもいけないし、生れた村に帰ってもいけない、そうでないとテーマが成り立たないと感じたのです。 つまり、アシタカは最初は自分の運命を見定めるという個人的動機でいろいろ動きましたが、間もなく自分の立場と役割に気づきます。タタラの村と森の動物たちとのコーディネータ役を勝手に引き受けるのです。「あいつはどっちの見方なんだ」というセリフが途中で入ります。

 しし神が「死んだ」後の世界において、アシタカはその役割を自分の使命であり天職であるはっきり認識したのです。いろいろな民族が「共生」していくためには、アシタカのようなコーディネータが必ず必要です。国際協力や環境に関わるNGOはそのようなコーディネータのプロ集団となるべき存在です。

 アシタカが山に入れば「愛は地球を救う」という陳腐なメッセージになってしまうし、生れた村に帰れば結局個人的な「武勇」で終わってしまう。 すべての人々・動物・自然が共に生きていくためになくてはならない存在として、アシタカのセリフはこの物語の一つのメッセージを伝えているのです。

                                  (2000.1.22.)


 

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