【第16回】座敷童子、沈黙交易、象徴交換

今日は、幾つかのトピックのなかに、経済人類学の課題を追究してみよう。

@<座敷童子>や<憑き物筋>などの日本の宗教現象を取り上げる。

それらが、どのように経済のトピックなのかを考えてみたい。

A市場交換はどのように生まれたのだろうか。

物々交換が貨幣を用いる市場交換へと発展したのか。

市場交換の原点には、いったい何があったのかについて考えてみたい。

B<贈与>や<交換>を、アメリカ先住民の考え方から捉え直してみよう。
とりわけ「贈与の霊」を取り上げて考えてみたい。



@座敷童子/憑き物

ここでは、
<座敷童子><憑き物>を取り上げてみたい。

そのような現象は、じつは、経済と深く関わっている。


遠野物語

柳田國男のテーマは、「本当の日本人の幸福とは何か」であった。

日本民俗学の原点「遠野物語」のなかで、柳田國男は、遠野の山河の風景、
四季の変化と人の心を描き出した。










座敷童子


”ザシキワラシはまた女の児なることあり。

同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、
童女の神二人いませりということを久しく
言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、
町より帰るとて留場の橋のほとりにて
見馴れざる二人のよき娘に逢えり。

物思わしき様子にて此方へ来たる。

お前たちはどこから来たと問えば、
おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。
これから何処へ行くのかと聞けば、
それの村の何某が家と答う。


その何某はやや離れたる村にて、
今も立派に暮せる豪農なり。

さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、
それより久しからずして、この家の主従二十幾人、
茸の毒に中りて一日のうちに死に絶え

七歳の女の子を一人残せしが、
その女もまた年老いて子なく、
近きころ病みて失せたり。”

栄えている家があり、
そこには
座敷童子がいると言われていた。

ある時、男が道で見慣れぬ童子に会う。

どこから来たかと聞くと、
その栄えている家から来たと答える。

どこへ行くのかと聞くと、
別の家に行くと答える。
はたして、それまで栄えていた家は没落し、
童子の行った家は栄えた。


(柳田國男『遠野物語』18より)


赤面垂髪の5、6歳くらいの童子。

豪家や旧家の奥座敷におり、その存在が家の趨勢にかかわると言われるため、
これを手厚く取り扱い、毎日膳を供える家もある。

座敷童子は悪戯好きで、夜になると客人のふとんの上に
またがったり枕を返したりするが、見たものには幸運が訪れるといわれる。

その姿は家の者以外には見えず、
また、子供には見えても、大人には見えないとする説もある。


座敷童子がいる家は、繁栄している。
繁栄する家には、座敷童子が見られる。
没落すると、座敷童子は見られなくなる。

座敷童子は、
「外部の他者」がもたらす富と繁栄を表している。

CMにも取り上げられた
座敷童子




座敷わらし

座敷童子は、経済的な繁栄と没落に関わるという点で、
経済人類学の重要なテーマである。



憑き物

憑き、オサキ憑き、犬神憑き・・・
憑き物の家系がある=
憑き物筋

群馬県多野郡などで、
よく人に憑くといわれる
オサキあるいはオーサキといわれる動物は、
どんな動物なのか村の人たちに聞いてみると、
ネズミよりはすこし大きく、
茶、茶褐色、黒、白、ブチなどの
いろいろな毛並みをしており、
耳が人間の耳に似ていて、
鼻の先がちょっと白いとか、
鼻がブタのようだという人もあり、
四角い口をしている。
(吉田禎吾『日本の憑きもの』39頁)

とにかく

このオサキないしオーサキに憑かれると、
発熱し、興奮し、精神異常を呈して
身体中を掻きむしったり、油揚やオハギを
たくさん食べたがったりする。


そして今日は××がお見舞いにスシを持ってくるというと、
その通りにその人がスシを持ってくるという・・・

(吉田禎吾『日本の憑きもの』40頁)


吉田禎吾
『日本の憑きもの』
中公新書



西南型農村=本家・分家型ではない
東北型=本家・分家
に憑き物筋が多く分布する。

西南型農村は、流動的な社会組織で、貨幣経済の流通で富を獲得した家系が
憑き物筋として語られる


憑き物筋の家系が、汚名を着せられる
のである。

その結果、その家は没落し、共同体は経済的に平準化する。

富を獲得した家系が憑き物筋として語られ、
そうした汚名を与えられた家が勢いを失って没落し、
やがて共同体は経済的に平準化されてゆく。




石塚尊俊
 『日本の憑きもの』
未来社


京極夏彦
『姑獲鳥の夏』








憑き物筋は、
宗教・心理的現象である。

一方で、栄えている家が、憑き物筋であるとされることで、
社会的な汚名を負い、没落して、共同体のなかに社会的・経済的な平等が
達成されるという意味で、それは、経済人類学的に重要なテーマでもある。




A市場交換の起源

市場における交換の起源にはいったい何があったのか?

経済史家、経済人類学者
カール・ポランニー
の考察



ポランニーは、西アフリカのダホメ社会を手がかりとして、
「原始・未開」社会の経済を研究した。 

経済の起源をめぐる考察


@互酬
(reciprocity)


AからBへ、BからAへ
贈り物とそのお返し

日本社会の互酬性
バレンタインデーとホワイトデー






A再分配
(redistribution)

一度たくさんの
AをBに集めておいて、
ある時期になると
BがAを配る

ポリネシア・タヒチ
余剰生産物の再分配
(首長制社会:エルマン・サーヴィス)






B交換
(exchange)


不特定多数のAとBが
相互に行き交う

イスタンブールの
グランド・バザール






「原始・未開」社会では、
互酬と再分配が主流
近代社会は、
市場における交換が主流

ポランニーは、


「原始・未開社会」=
互酬と再分配

近代社会=
市場交換

だとしても、

それぞれの交換活動のパターンは
独自のかたちで発展したと考えた。

原始→近代
互酬・再分配→市場交換

ポランニーの主張
人間にとっての経済を研究するためには、
それぞれのパターンがどのように組織されているのか
を観察する必要がある(ポランニー)。

ポランニーは、「物々交換がしだいに市場での交換になった」
という通説を批判した。

魚を取る人と米を収穫する人が出会って、
お互いにないものだからと交換する

(物々交換)
のが、市場交換の原初形態だという見方は誤り!


市場での交換の起源には、
「外部的な他者」とのやり取りがあった。


沈黙交易
(Silent Trade)


人びとが互いに言葉を交わさずに、
多くは自分の姿さえも隠しながら行われる交換のこと。


@カルタゴの交易
(教科書p.116)



A明治の直前まで、山梨の塩山の住人が、
米や酒、絹などを大菩薩峠に運んでおき、
丹波山村や小菅村の住人が、
コンニャクや下駄の木地、木椀などを
同じ場所において交換
(中里介山『大菩薩峠』)


沈黙交易
とは、異なる部族や共同体のコミュニケーションの一形態。

接触から生ずる危険を回避するために、ある場合には、
「交易」となり、
別の場合には
「戦闘」となる。

前者の制度化が、
沈黙交易であった。

現代の沈黙交易?
無人野菜販売所





交換の問題に「外部の他者」を含めることで、
経済人類学は、人間の内面的な問題へと踏み込む。



マーク・ボイル
『ぼくはお金を使わずに生きることにした』





B象徴交換

交換は、物と物の交換ではあっても、
そこで取り交わされる何かは、物以上の何かである。

マルセル・モース
(1872-1950)



ハウ
贈与の霊
(the Spirit of the gift)

(ニュージーランドのマオリ)

贈り物が贈り手から移動するときに一緒に移動するもの。

ハウは贈り主に帰りたがるので、別の物にのせてお返ししなければならないとされる。

贈与には:
「与える」「受け取る」「返す」という三つの義務がある。

・物には贈り主の分身がついているので、受け取らなければならない。

・拒めば、相手を受け入れないことになる。

・お返ししなければ、相手を無視したのも同然。

マオリの神話



以下では、アメリカ先住民の価値観から、資本主義について考えてみたい。

それは、
<贈与><貯蔵・売買>を対照させてみることである。


贈与の霊:アメリカ先住民の贈り物の習慣の意味



 アメリカ大陸に渡ったピューリタンたちは、そこで原住のインディアンたちと出会った。ピューリタンたちの目には、
インディアンたちがひどく交際好きで,浪費を好む人間のように見えた。

 インディアンは、たくさんの贈り物を交換しあい、もらったら必ずお返しをしなければ気のすまない人たちだ。倹約家で、こつこつとためるのが好きなピューリタンには、そういう「インディアン・ギフト」の習俗が、ひどく異様に見えたのである。







 インディアンは白人の行政官が村を訪れたときに、友情の贈り物として、みごとなパイプを贈った。数ヵ月後、インディアンがこの白人のオフィスを訪問したところ、暖炉の上に、あのパイプが飾ってあるのを見て、激しい衝撃を受けた。



 「白人はもらったもののお返しをしない。それどころか、もらったものを自分のものにして、飾っている。なんという不吉な人々だ」

 
インディアンの思考では、贈り物は動いていかなければならないのである。贈り物といっしょに「贈与の霊」が、ほかの人に手渡された。そうしたら、この「贈与の霊」を、別のかたちをした贈り物にそえて、お返ししたり、別の人たちに手渡したりして、霊を動かさなければならないのである。

 
「贈与の霊」が動き、流れてゆくとき、世界は物質的にも豊かだし、人々の心は生き生きとしてくる。だから、贈り物は自分のものにしてはならず、たえず動いてゆくものでなければならないのである。



 無駄遣いの嫌いな
ピューリタンたちは、大地を循環する「贈与の霊」の動きを止めることによって、自分の富を増殖させようとしていたのである。インディアンにとって、それはまことに不吉の前兆だった。



 大地と人の間を動き、循環していた何ものかが、とどこおり、動きを止める。個人的な蓄積が、将来の蓄積を生むという、別種のデーモニックな力が徘徊してゆくことになる。それは、人々の物質的な暮らしを豊かにするだろうが、魂を豊かにすることは、けっしてないだろう。なぜなら、
人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する「贈与の霊」とともにあるものなのだから。

 人が人に、贈り物を贈る。そのとき贈り物となった「もの」と、それを贈ったり、もらったりする「ひと」の間には、深い実存的なつながりが発生する。

 
贈られたものは、ただの「もの」ではなく、贈った人の人格の一部となり、贈り物といっしょに、人は他者の人の人格ないし魂の一部を受け取るのだ。さらに、この贈与の輪が拡大して、よりたくさんの「ひと」や「もの」をその動きと流れのなかに巻き込んでいくようになると、魂の流動するリングが形成されるようになる。



 それとは反対に、売買は分離の力をはらんでいる。何かの「もの」が売られるものになるためには、まずそのものと所有者との絆が、様々な意味で、断ち切られていなければならない。私が友人に、彼の欲しがっているものをプレゼントしたとすれば、二人の友情はますます深まってゆく。逆に、友人にものを売りつけたとすれば、二人には距離ができる。

  贈与は結びつけ、売買は分離する。

 
贈与して、それに答えて、贈り返す。ものごとの表面では、ただ贈り物が行ったり来たりしているだけのように見えるが、じっさいにはそこでは「霊」の受け渡しがおこり、この無の流動体のなかにには、運動への強い衝動が生まれている。

 
贈与は、人を人間の世界の外に連れ出そうとしている。これに対して、売買は、「霊」を殺す。



中沢新一著
『純粋な自然の贈与』
講談社学術文庫
(pp.9-13より抜粋編集)



異文化における贈与と交換をめぐる考え方を手がかりとしながら、私たちは、経済現象に関する全く別の見方を手に入れることができる。



@座敷童子や憑き物筋という宗教現象は、

経済と関わりのなかで理解する
ことができる。

宗教現象は、経済学では取り上げないが、富と繁栄について考えるならば、
そうした現象についても視野に収めることができる。

A物々交換から市場交換が生み出されたのではない。

「外部の他者」という視点を導入するならば、
交換という課題に、別の観点が加えられる


B非西洋社会の人びとの考えに寄り添うならば、
贈り物には「贈与の霊」が宿っているという
視点を手に入れることができる。

そのことをつうじて、
私たちの売買に関して考えてみることができる。

出発点としては、経済といえばお金の話だったのだけれども、
全然そうではなくなってしまった。

経済人類学は、「経済」に関する別の見方を提供する。

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