先生達にとって教えることが楽しい環境であれば、肉体的疲労はあっても疲弊することはありません。

(楽しい学習環境にするための準備には時間が取られ、段階的に螺旋状に学習を進ませる過程は気を抜くことができず苦しいものです。しかし、学習者の立場に立って学力が伸びていく教材と教育法をいつも思案工夫し、実際にその伸びを感じながら教えることを楽しめない教員はいません。それが学生からの信頼と尊敬をうけることに、また教員自身の教育者としての成長につながっています。そして、もっとよい教え方をしようとする意欲にもつながっています。学習者が伸びていくのを楽しめる限り苦労は疲弊につながりません。)

 「疲弊」などいう言葉は、厳しい職場環境を知っている人には単なる甘えかも知れません。大学は夏休みもあるし、出講日も毎日ではありませんし。しかしまた、そういう余裕があるところに語学や文学あるいは数学、自然科学などの一般教養文化が栄えていたようにも思えます。
 英語教育も日本全体に飽きが来ているように見えます。経済的に強い日本を作り出すために、富国強兵の時代が来そうな気配ですが、英語を学んで海外に飛躍せよと激励しても若者は内向き志向になってしまいました。TOEICの点数で輪切りにされるのが分かれば、TOEIC対策を一生懸命するでしょう。TOEFLが大学入学や卒業に関わるのであれば、TOEFLの問題だけを一生懸命やるでしょう。お受験です。このお勉強はいつになったら使えるレベルになるのでしょうか。テストで高得点を取れば使えるのでしょうか。いや、よい会社や官公庁に入るための点数として使えるのです。それは、日本人全員が受けなければいけないものでしょうか。受けたくなければ受けなくてもいいんだよ。その代わり仕事も与えられないよ、と言われてしまうのでしょうか。Points to be added to your score
 他人の不幸は蜜の味、と言われますが、劣等感を持つ人間は他人をいじめることによって、優越感を持てるのかもしれません。それをテストで具現化してはいけません。テストは一生懸命教師が教えたことを、教師自身がその教え方を反省するためにすると考えた方がよいのです。確かに、テストのためにある種の知識と技術を覚えられることも確かです。それなら全員がほぼ満点になるような教育をして欲しいと思います。

もちろん、個人によってその資質、能力が違いますから、それは無理です。しかし、選別された人たちが、選別の仕返しをして憂さを晴らすような英語教育政策あるいは教育政策はますます内向き志向の人間を作り出します。学生はそのような利己的な一部教員集団に利用されているということに気がついている人もいます。でも今更大学を変えることはできません。生き残るしかありません。気がついていない振りをしていじめられないようにしないといけません。
ある大学で英語の教科書を与えられながら、その教科書とは無関係な統一英語問題が60点分出題されることになりました。それぞれのクラスの先生は一生懸命教えたと思います。学生も一生懸命学んだと思います。でも、この統一試験に対してだれもなんらかの特別な勉強はしませんでした。使った教科書をもう一度読み直しても役に立ちません。先生たちも、特にどういうところを一生懸命教えるかというとなると、要点はありません。とにかくリスニングとリーディングの力をつけさせることでした。テストを作る必要がなくなれば、どういうところを復習してほしいということも言う必要がなくなりました。語学は復習がなければ、覚えることはできません。このコースを取った学生は英語は復習しなくてよいことを学びました。先生たちは、テストを作らないと楽だということを学びました。

内向き志向の人たちは、外界の人たちがお為ごかしのことを言っても、耳を貸しません。選挙にも無関心になります。もう分かってしまっているのです。
 教育再生会議の諮問委員の方のどのくらいがTOEFLを受けたことがあるのでしょうか。==>TOEFL?別に教養どうでもいいんで…
日本人はもう知っているのです。いつまでたっても、入学試験の点数のためのお勉強だけだと。自分たちひとりひとりを大切に育てないで、日本が世界の国々との経済戦争で勝つための先兵になれとばかりに、TOEFLというテストで脅しかけ、英語のコミュニケーションスキルを学べと言っているだけだと。
 
教育機関でも、単に学生をできる学生とそうでない学生とに二分してレベルに合せて異なった教育を与え、さらにそれを教える教員をも二分して少人数クラスを独占する組織を作り出します。犠牲となったできない学生クラスは劣悪環境の中で学力が伸びません。できるクラスの踏み台です。さらにそれは教員の研究の時間を左右します。教員も二分された差別構造の中に置かれます。何年も経つうちにこの差別構造は教員組織の中に大きな格差を産み出して行きます。
差別によって、競争的な構造を作り出せば、プラス10の部分に喜ぶ独占教員グループと劣等感を持つ学生を押し付けられた教員グループによるマイナス20の部分が出たりして、切り捨てられた学生は、やる気を失い、教員側もそれぞれが学生の教育のためではなく、できるだけ自分の利益を守るために動きだしますから、教育や学習はその目的を変えて行きます。
学校では、評価による締め付けをする支配層となった教員集団と自由な発想と情熱を奪われた教員集団とが拮抗するだけで、その結果は教育の荒廃と教員の疲弊です。悪貨は自分たちだけに有利に働くルールを策定しながら巧妙に良貨を駆逐していきます。そして真の良貨は駆逐され、残された悪貨が良貨と見なされるようになります。掃除当番を多数決で押し付けるような何年にもわたる差別的構造がそれまでの良貨をほろぼしてしまいます。結果的に権謀術数で勝ち残った質の落ちた悪貨レベルの教育が通貨として蔓延します。そこまで来ると、学生にはどちらがよいか分からなくなります。比較対象がなくなるからです。議決機関を独占し、自らの利益だけは守る集団は、差別的な規則を作って、自分の身を危うくする良貨を滅ぼすのです。やがて学生もそれをまねて勝ち組に残る生き方を学びます。
学生のためという錦の御旗が一部教員の利益のために振られる状況です。
お受験的競争の過程である種の自己否定的な経験を負わされた人間は、教育に対して何らかの否定的な感情と負の意識に生涯悩まされているのだと思われます。良貨になった思いながら実は自らの質が何も変わっていないことに悩まされ脅かされ続けるのです。(2010年7月/2017年6月加筆)
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