卒業生に送る言葉  

 

『やりたいこと』と『やらねばならぬ』こと

文学部教授 稲生 永

 卒業生の皆様、卒業おめでとうございます。卒業後の新しい人生での皆様のめざましい活躍を心から祈り、大いに期待しています。
 実は私自身も、この3月、28年におよぶ立教大学での教育研究生活を終え、定年退職することになり、待ち受けている新しい人生を前に、胸をときめかせているのです。
 思えば、私が立教大学に着任しました時、立教大学では大学紛争が一応収束したばかりでした。そして、すぐさま改革の日々が始まりました。また、定年退職をひかえたこの数年間は日本のすべての大学を巻き込んだ大綱化に基づく大学改革の荒波に翻弄され続けました。つまり、立教大学での私の28年間は、改革に始まり改革の渦中で終わりを迎えることになったというわけです。
 改革に明け暮れたこの28年間、私が自らに課した課題は「やりたいこと」をやることと「やらねばならぬこと」をやることとのバランスを如何に保つかということにあったといえます。
 「やりたいこと」をやるというのは、人間にとっての当然の欲求です。
従って、何をやっていいのかわからないというのは、実に困ったことです。大学はそれを模索する場としても機能しているはずです。しかし、仮に「やりたいこと」が山ほどあっても、「やりたいこと」に専念するだけでは駄目だと思います。何故なら「やりたいこと」をやるというのは、「やれること」しかやれないということでもあるからです。つまり、「やりたいこと」をやるだけでは自分の器量に見合ったことしかできず、自分の能力の限界を超えることはできないのです。
 自らの能力の限界を乗り越えて、飛躍を図るためには、「やらねばならぬこと」を見定めた上で、渾身の努力を傾注してその実現を図るべきだと私は信じています。
 卒業式を迎えるにあたって、「やりたいこと」をやり遂げることと、「やらねばならぬこと」をめざして邁進すること、このふたつの課題を卒業生の皆様と、定年退職する私自身に贈りたいと思います。なぜなら、このふたつの課題は、大学改革の領域に限ったものではなく、人生全体に適用すべき課題でもあるからです。


「学閥」の勧め

経済学部 教授    疋田 康行

 社会にはさまざまな組織がある.政府や自治体,政党,企業,学校などは,社会の基軸的機能を担う公的な基本組織といえる.また,家庭も人間の再生産を担う社会の基本組織である.しかし,こうした社会の運営と再生産を担う基本的組織の他に,ボランティア団体や宗教団体,趣味やスポーツのサークルなども数多い.そして,前者の基本的組織と後者の各組織は,重なり合いつつ相互に影響を与え合っている.
 「学閥」は,後者のグループに入ると思われるが,校友会・OB会組織を基盤とする政府・企業などの中のインフォーマル組織として,きわめて大きな社会的影響力を発揮している場合がある.その代表的なものは,如水会(一橋)・三田会(慶応)・稲門会(早稲田)などであろう.とくに,政・官・財を結ぶ人的ネットワークの重要なパイプとなっている.現在,大蔵省と都市銀行などとの癒着が問題になっており,国際的にも日本のこうしたシステムに対する批判が強まっているが,学閥もこの癒着構造のインフラ・ストラクチャーの一つである.こうした面から,「学閥」にはマイナス・イメージが強い.
 しかし,学閥活動には,大学での共通の努力と協力の思い出をもとに,卒業後も互いに助け合い組織的に能力を高めあうという,積極的な側面もある.経済学部は,全学的な制約によりマスプロ教育がなかなか解消できず,在学中には皆さんに苦労をかけたと,遺憾に思っている.しかし,先輩にも
同期にも多くの学友がいるという面は,これからは大きな財産になるはずである.職場の上司や先輩だけでなく,信頼できる経済学部の多くの先輩からも,アドバイスや援助を受けつつ職業能力を高めたり、組織を超えた協力を実現していってほしい.
経済学部は,経済・経営の実務的な面も教育の中で紹介するが,決して「実学」を志向してはいない.経済や経営の仕組みを理解し,その変化を的確に予測して合理的に対処するとともに,積極的にシステムを革新していける専門能力を持った社会人を養成することを目標としている.企業や家庭などで行われる経済活動は,社会の基礎的活動として公共的な側面が大きく,私企業も公的存在として社会を構成する人々の生活に深く関わっていることを,経済学部を卒業する皆さんは理解しているはずである.現在の日本的企業社会システムは,この公的な側面を無視する傾向が強い.学閥活動を強め,それを基礎の一つとして世界に通用する公正公平な経済・経営システムを作り出すことを,目指してほしい.そして,「立教の学閥は強力であるとともに公正である」,との積極的な社会的評価を獲得していってほしい.
こうした積極的な学閥活動は,もちろん,学部としても協力を惜しまないが,在学中に培った力をもとにして,皆さんが自主的に行うものである.ご健闘を祈る.


「学ぶ」ということ

理学部助教授 家城 和夫

 卒業おめでとう。
 みなさんのうち多くの人はこれで「学業」を終えたことになります。では「学業」とは一体なんだったのでしょうか。 ゲーテは「ファウスト」の中で学生に「白い紙に黒い文字で書いたものは安心して家に持って帰れる」と言わせていますが、これが昔からの学生気質なのでしょう。潮木守一氏によれば、明治以来の日本の帝国大学においても、学生は教授の朗読するノートをダジャレに至るまで筆記していたのだといいます。漢文の素読でもあるまいし、今時そんなことをする人はいるまいと思っていましたが、学生諸君の話を聞いていると、案外、先生の言うことをノートにとることが勉強であると考えている人はいるようで、試験前のコピー屋の行列をみると、少なからぬ人達が講義ノートを頼りに勉強しているようにみえます。
 自然科学ではしばしば起こることですが、「真理」は新たな実験や発見によって更新されていくものです。現在、正しいと考えられていることも限られた近似やモデルの範囲内で正しいので
あり、教科書に書かれていること先生が言ったことが常に正しいとは限りません。いつかは陳腐になってしまう現在の知識を集積することだけで「学業」を終えてしまうのだとすれば、残念なことです。
 では、一体どうすれば本当に「学べ」るのか。自然科学における「発見」にしても、突然に起こる訳ではなくて、既成の事実や理論を不断から疑うことから出発しています。「学ぶ」上で大事な事は、本や講義などから得られた情報を自分なりに消化・反芻して再構築し、更にそれが意味するところを捉え直し、あるいは本当に正しいのかどうかを自分で検証していくことでしょう。これは至極当然の事のようにみえます。しかし、私は本当の意味でこれを理解している人はむしろ少ないのではないかと危惧しています。
 「学業」を終えることが「学ぶ」ことを終えることを意味する訳ではありません。みなさんはこれから新たなことにチャレンジしていくわけですが、立教で得たものを生かしてこれからも「学び」続け、新たな地平を切り開いていかれることを期待しています。


「立教の記憶を糧に」

社会学部助教授 安田 雪

 御卒業、おめでとうございます。
 今日から、みなさんは立教大学卒業生という新たな役割を担うことになります。社会の様々な場面において、新しい立場でみなさんが何を行ない、何を大切にし、どのように生きていくのかがそのまま立教大学に対する評価、すなわち、立教大学はいかなる「人材」を育てているのか、という社会の認識に直結します。キャンパスを離れてどのような世界に進もうとも、その新しい場において、みなさんの一つ一つの言葉や行動が「立教の卒業生」を象徴することには変わりはありません。
 卒業にともない、みなさんは社会人として自分の人生を責任をもって全うする力を獲得します。社会的・経済的・精神的に、社会を担い社会に貢献する一人の個人としての、立場と権利を得ます。
 しかし、卒業後の一番大きな変化は、これまでみなさんが無尽蔵のように感じて消費してきた「時間」というものを失うことだろうと思います。友人と共に過ごす時間、たわいのない冗談や遊び、風の香りやスポーツを楽しむといった余裕を保ちつづけることは困
難になるでしょう。職業人として、あるいは学問を続ける大学院生として、新しい環境においてそれぞれに課された役割と義務を誠実に果たさねばならないからです。他者に庇護され助けを受ける存在ではなく、他者を守り社会を支える立場にたつ以上、この喪失はやむをえないことです。
 しかし、その喪失の代償として、みなさんは大学時代の日々についての輝くような記憶を得ます。桜吹雪の下のサークル勧誘、大教室での講義、クラブ活動の汗、煉瓦と蔦と銀杏黄葉のコントラスト、コンピュータ教室の順番待ち、雪の時計台、図書館での試験勉強。昨日まであたりまえのようにとらえてきた、これらの光景は、すべて幸福な記憶に変わります。そして、みなさんを支える力になります。
生涯、世界のどこにいようとも、みなさんは立教大学の卒業生です。立教の記憶を糧に、誇り高く、強くしたたかに行動してください。我々教職員は立教大学で、後輩を育てつつ、みなさんの姿をずっと見つめています。幸福と健闘を心から祈りつつ。


「オトナのすすめ」

法学部 教授 角 紀代恵

 若い人の中には、「一応」という言葉をよく使う人がいます。「君、車は何に乗ってるの?」「一応、ソアラですけど…」というような言い方です。
 外車ではないけれど、そこそこのブランドでしょ、という感じがあります。
「君、大学どこ出たの?」と聞かれた時に、「立教大学」というのもこんな言い方がされそうです。
 しかし、実社会の中では、自由業は言うにおよばず、会社などの組織の中でも、学歴あるいは大学のブランド名というのは全くといっていいほど本人の評価とは関係がありません。ポルシェだろうがカローラだろうがちゃんと走らなければ評価されません。あたりまえのことです。
 今、社会は大変なスピードで変化しています。最先端のコンピュータ業界では、10年前の一流企業DECが、当時の三流企業コンパックに食べられてしまう、というようなことが起きています。詰め込んだ知識はどんどん古びてしまいます。いかにあふれる情報の中から重要なものを選び出し、自分の頭で考えられるかという能力が大切になるでしょう。
大学とは、そうした能力を自己責任で身につけることができる場を提供しているところだと思います。大学がどこだったか、何を勉強したのかはあまり関係がないのではないか、という気がします。自己責任というのは、そうした能力が身についたかどうかは本人次第だ、ということです(教師の責任回避だ!と非難するなかれ)。
 大学が卒業証書を出すのも、それこそ「一応」出しておこうということです。いつまでもいられても困るからとりあえず出しておくのです(卒業証書は品質保証書ではありませんから、返品には応じられません)。卒業証書はその程度のものだと考えて、今後の道を見据えて、世の中に通用するオトナになっていただきたいと思います。
 最後に、ミュージカル「回転木馬」の卒業シーンの有名な言葉を贈ります。"When you walk through a storm ,keepyour chin up high."もし万一、この簡単な英文の意味がひとめでわからないという人がいたら、その人は本学の卒業生だということを決して他言しないこと)


「キレる」ということ

大学教育研究部教授 朝比奈 誼

 卒業おめでとう、というべきところだが、諸君を待ち受けている社会の現状を考えると、お祝いの言葉が出てこない。 早い話が「キレる」という言葉の横行である。「キレて」荒れる生徒たちの処置に窮し、先生までが「キレる」寸前だといいだす。ところが、これは新語で、国語辞典最新版の「切れる」の項を探しても見つからない。「堪忍袋の緒が切れる」という。「緊張の糸が切れる」ともいう。しかし今問題の「キレる」はもっと衝動的であり、ほとんど生理的な現象だろう。一昔前には「プッツンする」といったが、それよりもっとせっぱつまって、人間であることを全面的に放棄すると言った感じが漂う。とすると「堤防が切れる」の切れるに近い用法だろうか。いずれにせよ、子供が選んだ言葉を大人が横取りした恰好だが、恐ろしいのは、言葉を使ったとたん、ムシャムシャが解消したかのように思いがちなことだ。むろん、それは錯覚で、そんなことで問題が解消するはずがない。あくまでも「キレて」はいけないと私は思う。
 その一方、気がかりは、近年の流行語の中に「キレる」の前兆が見てとれ
ることだ。まず「ビッグバン」。これは「金融システムの大改革」の意味で使われているようだが、先鞭をつけたのは1986年の英国だし、その源は天文学上の仮説で「宇宙の始まりの大爆発」のことだ。途方もなく古く、遠いところで、何かが限界を超え、砕け散ったということだ。
つぎは例の「バブルが弾けた」という比喩。私のような門外漢には放漫経営の破綻としか思えないのだが、皆がこれを使ううちに、人間の意志や能力を超えたところで何かが壊れたので、もはや人力ではどうしようもないという無責任か自暴自棄の状態に導かれてしまう。
さて、これら流行語を一つの連鎖と見なすと、従来の「人間」の枠組そのものが「キレかけている」という印象を受けないものでもない。「キレる」少年たちは大人たちに一種の警鐘を鳴らしているとも思える。そこで、これから本格的に大人の仲間入りをする諸君に私が言えることは、矛盾にみちている。すなわち、「人間」がキレかけていると覚悟した上で、君だけはできるかぎりキレるな。

 

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