応援団 夏季合宿−童話の里、応援団−童話作家、浜田広介の故郷。町の花、ツツジの季節を逃すも、立秋を過ぎてなお萌ゆる山の翠はある。門前を掃き清める老人。目抜き通りをゆく耕耘機。町は、風情に満ちる。天からの水は山でろ過され、摂理どおり田に溶ける。「泣いた赤鬼」、「椋鳥の夢」、「黄金の稲束」。「ひろすけ童話」として世に愛される数多(あまた)の作品を生み出した、その原風景。 そこに、遥か東京より現れた本学応援団は陣を張る。十日間の合宿。秋へとつづく、各部へのエールを送るため、集中した鍛錬は必要不可欠である。リーダー部、吹奏楽部、チアリーディング部。三部が揃って長丁場、同じ釜の飯を食む。時間制限アリ、古来より受け継ぐ仕来たりアリ。しかし、それらはすべて、誇り高くもやさしい応援団、そのアイデンティティー確立の布石であると信じたい。 練習は、といえば。延々何時間も、声を絶やさない、譜面から目を離さない、集中は途切れない。小さな体躯のどこより振り絞るのか、その声は山にこだます。音符は指揮棒に繰られ、笑顔は絶やさずとも必死にバランスは維持される。そこへ、ときに、叱咤激励は「被弾」する。うなだれる君よ、なに思う。表情を伺う。書き置いておくが、みな「いい顔」をしている。いわゆる、澄んだまなざし、視線はまるで透明。絞り出す声も、怒声も、ともに言霊(ことだま)と化す。 その厳しさは、あくまで陽性だ。ささくれ立つこの世相にあって、失われかけた、痛くもやわらかい「棘」、ひとを想えばこその「鞭」。過酷な現場に、さりげなく投入される保育器。三部とも後輩は育つ。遺伝子は受け継がれる。頼もしいじゃないか、山の神はそう呟くのか。そこに、たしかなやさしさがある。 秋の訪れは近い。応援ひとつで、ゲームの流れはふわりと変わる。それだけのエネルギーを養うには、十日は長くも短い。鉄の咽喉、夢を奏でる銀楽器、ツツジのごとき微笑。しかし、それらは真であって、真にあらず。その陰に、強靭な四肢、屈強な精神は鈍く光る。アスリートとして鉄を、銀を、花を支える。その姿が、美しい。 三部が鍛錬を積む場所は区々(まちまち)。宿舎、運動場、小学校の体育館。しかし、どこへ行こうとも、多くはない町のひとは目を輝かせる。そっと見守る。やさしく目を細める。孫を連れた老婆。ふと自転車を停める男。片手に虫取り網の少年。虫かごは空でも、山からの帰り道に見たものは収穫である。夕餉の話題に、必ず上る。その景色もまた、美しい。 ひとを、本質的に善意なるものとして捉える目を備えた、冒頭の作家。はて、彼ならこれらの光景をどう、わらべに話して聴かせるか。 団長は厳格にも泣かぬ赤鬼。チアリーダーは椋鳥のごとく可憐に舞い、楽団は黄金ならぬ銀色の楽器より音を紡ぐ。 やさしい心が織りなす、美しい童話の世界。 この合宿もまた、無縁ではあるまい。 (黒川)
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