硬式野球部

 観戦論
〜今、大学野球に足りないもの〜


  
 私事ながら、昨年から高校野球をスタンドで観戦するようにしている。
 理由は二つある。
 
 一つは世間が注目する高校球児を生で見たいから。「この選手が立教に来たらおもしろいだろうなぁ」なんて淡い期待を持ちながらチェックする。事実、一年生ながら結果を残した本田裕貴投手(法1)の高校最後のマウンドを昨年の夏、私はスタンドで偶然にも観戦していた。だから、彼の活躍は地元の人間として、一立教の学生として心からうれしく思っている。
 もう一つは野球の感性を養うため。大学野球ばかり見るのではなくて、高校野球もプロ野球もしっかり見る。そうすれば「質のある取材ができる」と自分に言い聞かせている。取材人たるもの飽くなき向上心は持っていたいから。

 今年も高校野球の地方大会を観戦した。準決勝、決勝にもなるとスタンドは超満員、試合の質もグンと上がる。先に述べた二つのテーマを持って観戦に臨んだわけだが、今年はもう一つ課題を立ててみた。
 それは「高校野球と大学野球の違い」を自分なりに見つけること。難しいテーマではあるが、同じ学生野球の差異を探そうと試みた。

 まず、高校野球にあって大学野球にないもの。これは観戦すれば一目瞭然。 『青春』である。
 なぜなら私が勝手に思う『青春』の定義、「友」・「苦」・「音」の三要素をすべて満たしているからだ。
 「友」は部員やスタンドで応援する学生を意味し、
 「苦」は試合中たび重なるピンチを意味し、
 「音」はブラスバンドや声援、バットの金属音を意味する。
 その土壌はまさしく『青春』そのものであり、見ていてすがすがしい。試合に負けて泣きじゃくる選手を見ていると、こっちまで涙が出てくるし、ブラスバンドが「タッチ」の曲を演奏すると聞いている自分の胸がキューンと締めつけられる。「ああ、青春だなぁ」と感じずにはいられない。

 次に大学野球にあって高校野球にないもの。これは「プレーの質」である。高校野球はエラーが多い。つまらないミスが必ず得点にからむ。それに比べて大学野球は洗練され、一つ一つの動きに無駄がない。高い確率で上質な試合を見ることができる。だから、エラーをしても「ドンマイ、ドンマイ」で済まされないし、お涙頂戴の一塁ヘッドスライディングも大学生はあまりやらない。感情プレーよりも勝利へのこだわりを感じるのだ。
 
 いや待て。こう考えると、一つ疑問が出てくる。
 「大学野球も『青春』の要素を満たしているのではないか」と。
 確かに、三要素は満たしているし、大学は応援団、チア、吹奏楽どれをとっても高校以上に本格的で、試合に華を添えている。となれば大学野球は高校野球を上回る『青春』が存在すると言えるのだろうか。

 理屈ではそうなる。ただ、理屈以上に違う「何か」がある。高校野球をスタンドで観戦していて、私はその答えにふと気がついた。
 それは、「大学生というある意味、難しい立場」の問題ではなかろうか。
 
 大学生、それは実質的に「成人」であるとともに社会的には「学生」でもあるという変な立場の若者である。彼らはすでに『青春』を経験しているため、普通に考えて精神的にも大人である。が、ここでパラドックスが生じる。若気のいたり、ある種の葛藤を含むのが『青春』ではあるが、大人であるはずの大学生も『青春』を求めているのだ。
 
 大学野球の選手たちは、高校野球という最高の土壌で『青春』を経験してきた。しかし、高校球児すべてが『青春』を満喫したかと言えば嘘になる。けがで試合に出れなかったり、自分の実力が伴わず悔しい思いをした選手もいるに違いない。だから「大学で野球がやりたい」と思うのは、失うことで気がついた『青春』をもう一度謳歌(おうか)したいからであり、個々の限界に挑戦したいからであろう。

 そして一般学生たちも「青春をもう一度!」と思っている。何も考えず、がむしゃらだった過去に密かな憧れをもってしまう。ただ「成人」である以上、「青春、青春!」と叫んでいるのも何だか恥ずかしい。そんな複雑な気持ちが大学生には少なからずあるはずだ。

 さて、話は変わって大学野球のスタンドを見てみよう。誰が見ても正直、寂しいものがある。
 高校野球はあれほど満席なのに…
 スタンドという場には『青春』がつまっているのに…なぜだろう。
 
 確かに、大学生は忙しい。学業にアルバイト、趣味にも没頭したい年頃なのは間違いない。そこから『青春』が生まれるのも分かる。それにしても、スタンドにつまった『青春』を感じようとする学生が少なすぎる。
 これは大学に原因があるのではないかと私は考える。
 
 答えは一つ。大学側が『青春』を促進していないのだ。大学からすればこうだろう、「大学生なんだから『青春』とか何とかって言ってないの! 社会に貢献できるような人間になろうとしなさい」という具合に。もちろん、大学側の意見も十分承知だ。しかし、大学は大きな勘違いをしている。
 それは「『青春』の土壌は大学が作るべき」ということだ。

 つまり、大学側も学生が『青春』を求めていることをしっかりと認識する。「勝手に青春してなさい」ではなくて、それを促進してやるのだ。その典型例が大学野球観戦ではなかろうか。

 立教大学では、いまだに「勝手に青春してなさい」派であるため、リーグ戦優勝がかかった試合でも学生に呼びかけようとしていないし、授業も休講にしない。(絶対そうしろと言っているのではない。そういった広い心を持てと言いたいだけである)
 大学が『青春』を認めない限り、『青春』でつまったスタンドも絶対に埋るわけがない。『青春』を認めない大学で過ごした学生生活は陳腐でまったく意味のないものになる。そんな中途半端な学生に「社会で貢献しろ」という方が間違っている。大学改革とか何とかって言ってる前に、まずは『青春』を認めた大学作りが先決なのではなかろうか。

 もう一度言う、スタンドには『青春』がつまっている。そこで母校を応援することが母校を背負う人間を生み、人格形成につながる。自分の出た大学に誇りを持つことで社会的な責任感も出てくる。
 
 今、大学野球に足りないもの――。それは『青春』の三要素のうちの一つである「友」である。選手だけの「友」ではない。「友人」「仲間」もっと広い意味では「大学という一つの母体」である。
 高校野球は学校総出で応援しているというのに、大学野球は赤の他人で本当に良いのだろうか。高校野球を観戦してひしひしと感じた。

 9月になると秋季リーグ戦も始まる。
 この文章を興味本位で読んだ人も、たまたま読んでしまった人もこれは何かの縁だ。週末は「友」人を誘って一度、神宮球場へ足を運んでみたらどうだろう。選手たちは頑張る、応援団が学生席を盛り上げる、学生は母校のために声援をおくる。そこには日常にはない『青春』がつまっている。高校野球のようなベタベタな『青春』でなくて良い。大学生は大学生の、いわば「大人びた青春」を感じることができるはずだ。

 最後に立教大学卒の超有名人、ミスタープロ野球・長嶋茂雄の言葉を紹介して結びたいと思う。
 ミスターは
 「大学野球は絶対に神宮球場でやるべきだ」とおっしゃる。
 さすがミスター、私もまったくの同感である。
 「東京」にあり、「屋外の球場」で、その上「伝統がある」といえば神宮しかない。ここで野球ができる、スタンドで応援できる学生は限られた一部である。その喜びを今こそ噛みしめようではないか。
 
  そういえば、神宮球場のスタンドは一面、「青」。
 文字通り『青春』であることを私は偶然と思いたくない。

(2003年7月29日・田代)