今年、ホッケー部男子は関東ホッケーリーグ2部昇格を果たした。久々の吉報をもたらした現役部員の努力を評価したい。だが一見華やかに見えるその裏には、引退を控えた男たちのさまざまな思いが交錯していた。
4年次春季リーグ直前にじん帯および半月板損傷。ここで無理をすれば一生スポーツができない体になる。だが佐山(観4)はチーム事情を考慮すると、強行出場せざるを得なかった。それでもチームは低迷。代償として、秋の出場は絶望的だった。そんな状況の中、「自分が必要じゃない気がして」夏合宿ではマネジャーと並んで部員の靴下を洗った。割り切って裏方に徹した上での昇格も、悔しさのほうがまさった。
決してエリートだったわけではない。心底楽しんでいたつもりもない。だが動けなくなって初めて、ホッケーが好きだと気づいた。試合に出ること、ひいては走れること。これまで当たり前だと思っていたことの素晴らしさを今、改めて思い知らされるのだった。
2年次から正ゴールキーパーとして活躍した山中(法4)は、最後のシーズンを迎える直前に戦線離脱した。半月板損傷。自分が守ってきたゴールを新人の鈴木(理1)に譲らなければならなかった。ところが、リーグが始まってみればチームは快進撃を続け、自らが守っていた昨リーグより失点も格段に減っていた。その上、昇格。ずっと目標にしていたこともその瞬間をベンチで迎えたことで、うれしさと悔しさは半々だった。正直、「ついてない」とも思う。だが、単なる傍観者では終わらなかった。「俺が出ていた方がいい場面もあったし、鈴木の方がいい場面もあった。全然違うタイプだから勉強になった」。
外からしか、見えないものもある。山中は、最後にそれをベンチでつかんだ。
写真=戦況を見つめる佐山(左)、山中(右)。寂しそうでもある
「俺が落としちゃったからね」。5年目に挑戦する理由を、石村(経5)はこう語っていた。1年次秋からレギュラーに定着し、3年次秋には2部リーグベストイレブンにも選出された。翌年春に3部へ降格してからも、チームが低迷する中でただ一人ベストイレブンを獲得しつづけた。これほどの活躍を見せる彼に対して、降格の責任を見出す者などいるはずがない。だがそれもチームの核だという自覚があるからこそであろう。
この数年間、石村は怒鳴りつづけた。相手が同輩だろうが入部したての1年生だろうが容赦なく。そしてその指示は常に的確だった。「加藤さん(現監督。1990年秋、本学が20年ぶりの1部昇格を果たした時のエース)みたいになりたい。(30歳を超えた)今でも部員のだれより持久走は早いしホッケーも一番うまいし」。あの怒声がいつか、今度はベンチから聞こえてくるかもしれない。
写真=最後尾で守る石村。彼が前を向いている限り、本学が負けることはない
三人が選んだ世界最古の球技は、その歴史にかなうさまざまなものを与えてくれた。佐山、山中、石村。三者三様の最後を迎えたが、それぞれが大事なチームの一員であったことに変わりはないし、彼らの代わりもまた、誰にもつとまらない。
(2003年12月15日・安部)