エリック物語 第2章

日本へ来た理由。謎に包まれた過去を紐解く




   記者は、もどかしい気持ちでエリック(文4)の活躍を見ていた。彼はほとんど日本語が話せないため、取材をしようにも難しい。幸い、我々にも英語を話せる部員がいた。初戦後のインタビューで、大体の正体をつかむことができた。だが記者の心に、エリックの人生をもっと知りたいという強烈な思いが沸き起こる。

   記者はまず、上床(社2)を通じてエリックの連絡先を入手し、英語によるいくつかの質問を文面で送った。しかし、返信はなかった。エリックは2月に帰国予定であるため、時間は限られている。焦った。
   そこで、直接接触を試みることに。試合後、必死な思いで駆け寄ると、並んで歩く女性が「通訳しましょうか」と一言。その正体は、エリックの内縁の妻だった。ニューヨークに在住している彼女は、彼の誕生日に合わせて来日したそうだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。そう思い、通訳を介することで用意してあった質問をエリックにぶつけた。すると、これまでの人生を少しずつ明かしてくれた。
試合前恒例のエリックとのハイタッチ


   「私は1977年、ニューヨークで生まれました。そして5歳の時にスケートを始め、7歳の時にアイスホッケーを始めました。お父さんがスポーツ好きなので、野球、アメフト、バスケットボールなどにトライしましたが、アイスホッケーの試合を観に行った時にかっこいいと思ってそれ以来やみつきになりました。防具のかっこよさに惹かれ、GKを志しました。しかし、父親にはGKをやるためにFW、DFを経験しなさいと言われました。そのため、最初はインハウスチームという1つのリンクで活動するチームでOFとDFとしてプレーしました。そして、12歳の時にトラベリングチームに入り、GKとしてプレーするようになりました。そのチームでは、アウェイチームとして各地を転々とし強豪と対戦しました」。  

   しかしその後、大学入学と同時に競技から離れてしまう。
   「大学でも続けたかったですが、怪我に加え、強豪校のトライアウトに受かりませんでした。しかし、プロを目指し、どこまで行けるかわからないができるところまでやってみようという目標がありました。そのため、チームには所属せずに地元の人と試合をしたり、コーチに教えてもらったりしてトレーニングを積み、GK用のトレーニングキャンプに行くなどし、練習だけは続けていました。周りの人も、絶対に素質があるから頑張った方がいいと応援してくれました」。

   すると24歳の時、夢は現実となる。
   「当時フロリダに住んでいて、地元のマイナーチームを見に行った時、コーチに自己紹介をしました。すると、GKは埋まっているから今はいらないと言われましたが、その日の練習でGKが1人来ておらず、防具があったのでおいでと言われました。その時、たまたまいい所に居合わせてチャンスをもらいました。最初は運で練習に参加し、次は明日もおいでとなり、それが続いてトレーニングキャンプにもとなって、契約書にサインするところまでいった。ほとんど運みたいなものです」。

   彼の住んでいたニューヨーク、マンハッタンの近くはアイスホッケーがあまり盛んではなく、注目される機会が少なかった。プロに入ったのが24歳と遅咲きなのは、それが要因でもあった。アメリカには、世界最高峰のアイスホッケーリーグNHLがある。その下には、AHL。その下にはイーストコーストリーグ。そして、さらにその下のデベロップリーグにあるのが、彼が入団した“Jacksonville Barracudas”というチームだ。いくら下部のリーグとはいえ、プロはプロ。生き残るには厳しい世界だった。

   「競争が激しく、誰かしらが自分のポジションを狙っているのでコンスタントに成績を残しつつ生き残るのは難しかったです」。
   2度の移籍を経験。スターターとしてはわずか2、3試合ほどの出場で、基本は練習とバックアップとして現役生活を過ごした。「もうちょっとやろうと思っていたし、やろうと思ったらできたけど、年齢もあって大学も中退していたから学位をとるのが遅すぎないように、辞める方を選びました」。

   プロ入りから3年後、引退を決意する。その後は、父親と自営業を3年、最終的にはニューヨークの法律事務所で事務員を10年間務めた。そして昨年退職し、日本への留学を決意。   なぜ日本へ来たのか。その答えを、エリックはこう話した。

   「基本的には人生の経験を積めればいいので。日本には日本なりのやり方があって、それを学んで自分の生活スタイルを合わせていく。できるならなんでも学びたいです」。

   すると、彼女は笑いながらこう語った。
   「彼は日本が好き。私が日本出身なので、何回か日本に来ていて、去年2回目に来た時に日本が好きだ、暮らしたいと話していて、向こうでも大学に通っていますが、交換留学があるかもと言って。その日のうちにプログラムを見つけてきて、行くことにしたそうです」。

   こうして、1977年生まれのアメリカ人と、立大アイスホッケー部の運命が交差した。

(12月5日/取材・編集=浅野光青)





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