![]() ここ数年の間に、応援団を取り巻く環境はずいぶんと変わった。全国で大学の応援団が関わった不祥事が相次いで発覚。「応援団」に対する風当たりは強くなり、冷ややかな目で見られることも多くなった。立教大学体育会応援団の今年度のスローガン、「誇り高く」は、そんな状況であるからこそ掲げられたものだ。「自分たちは恥ずかしいことをやっていないし、正しいこと、自分が選んだことをしっかりやっているんだという気持ちを持ってもらいたくて――」。確信をもってそう語るのは、第78代団長・中里悠太郎(法4)だ。彼は何の根拠もなく、応援団の活動を「正しいこと」と言っているのではない。そして、ある意味で体育会系の象徴とも言われる伝統主義で、自分たちを強引に正当化しているわけでもない。彼は彼なりに、応援という行為をしっかりととらえ、その意義を確信したのだ。 「喜びだったり悲しみを分かち合える仲間になれるようなものでありたいと思います」。「応援とは?」という質問に対して中里はじっくり考えた末、そう答えた。スポーツの試合を応援席で観たことがある人間なら必ず体感する、不思議な一体感がある。見ず知らずの人とハイタッチを交わすことが、抱き合うことが、応援席以外で果たしてありえるだろうか。中里は信じている。感情が最大限に高まるような経験を――それは喜びであっても、悲しみであっても――共有することで生まれる絆。それこそが応援することの一つの意味であると。 いつの時代も、応援団の活動は生半可な気持ちで続けられるものではなかったはずだ。しかし今、応援団はその存在意義をより深く問われている。多くの誤解や冷ややかな視線の中で、その真価を問われているのだ。 だが、彼らがその姿勢を変える必要など、どこにもない。この厳しい状況にあっても、いや、この厳しい状況だからこそ、彼らは信念を曲げず、愚直なまでに応援を続けている。「やるかやらないかで迷うんだったら、『やるためにはどうしたら…』で悩むようにしようと思って。そんな感じでやってます」。来たる秋。体育会の活動が本格的に再開する。彼らの存在意義を示す手段は、唯一つ。「応援」をおいて他にない。 (2009年7月8日・森田)
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