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科研「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者-広域社会秩序と地域秩序」

第1回研究会(200752627)

報告者とタイトル

弘末雅士「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者-広域社会秩序と地域秩序」

大石高志「南アジアと環インド洋世界における移住者と混血者をめぐる研究の現状と課題」

貴堂嘉之「アメリカ港市世界における奴隷・移住者・混血者をめぐる研究の現状と課題」

清水和裕「中東イスラーム世界の奴隷とその諸問題」

出された主な論点


  アジアの植民地港市におけるヨーロッパ人と「現地妻」の生活と、欧米人の間における人種主義とジェンダー規範の展開を、連関性をもって考察することの重要性。

・ イスラームや社会主義思想の男女関係に与える影響。

  当該の人々にとって「混血者」とは何者なのか、個々のコンテクストで理解することの重要性。

  「混血」あるいは「改宗」が、意味を持つ状況と、そうでない状況。

  移民の出て行く港市と外来者を受け容れる港市。

・ 奴隷を再生産し続けることで成立したイスラーム世界や「アラブ人」、また奴隷解放により白人意識を鮮明にしたアメリカ。奴隷と人種概念の連関性が浮き上がる。

  「奴隷」の境遇の多様性。比較研究の重要性。

  アフリカ出身の奴隷をとおして、古代地中海世界、イスラーム世界、環大西洋世界における奴隷をめぐる歴史を、連関性を持って考察できる可能性。




第二回「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者―広域社会秩序と地域秩序」研究会            札幌 200771415

報告

・「清末の“排満”主義と人類学」(石川禎浩)

・「ハプスブルク帝国の「海への出口」・港市トリエステ」(佐々木洋子)

・「海商と僧侶の海―元朝・明朝初期にかけての東アジア海域史研究の最新成果 - 榎本渉『東アジア海域と日中交流‐九~一四世紀‐』を読む」(荷見守義)

 

出された論点
 中国で「人種」がどう考えられてきたのか。Cf. 混血者
  欧米→日本→中国という形の参照を重ねて成立した清末以来の“新学”。
  排満革命論の人種観に影響を与えた日本の形質人類学
  「漢民族」と「中国人」

  後背地とのネットワークの築きにくかったトリエステと、築いていたヴェネチア。
  18世紀末にハプスブルクとの関係を強め、海への玄関口となったトリエステ。
  他地域との競合や鉄道建設により、19世紀にトリエステの活動が衰退。
  港市(ヴェネチアやトリエステ)の統合原理と内陸部とのネットワークを支える原理との関 係は?
  従来言われていたような商人の移り変わりはなく、宋代・明代における東アジア海域における交易活動は、中国 商人が主要的役割を担う。
  倭寇と商人については、襲う側と守る側の行動倫理が異なるのでは?
  倭寇研究に偏りがあるのでは?
  僧侶は、商業活動にいかなるスタンスを持っていたのか?




第三回「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者―広域社会秩序と地域秩序」研究会               富山 2007101314

報告

・「安南に渡航した朝鮮人趙完璧:17世紀初頭東南アジアに渡った朝鮮人」

(鈴木信昭)

・「古代ギリシアにおける「奴隷」」「古代ギリシアにおける植民市」(高橋秀樹)

 

出された論点

  朝鮮史における奴隷の研究は、これまでほとんどない。

  文禄慶長時の朝鮮被慮?が、奴隷として売買されたことが史料にあり(クリスチャン洗礼名の朝鮮人などが現れる)。

  そうした奴隷の動向をとおして、1640年以前の近世のアジアの混沌とした状況が垣間見られる。

  一人の人間が、複数の名前を持つことの意義。

  文禄慶長時の朝鮮被慮?の趙完璧は、日本に連行され、文字が読める才能を買われ、朱印船に乗り安南へ行き、安南の高官と交流する。日本に戻ったのち、朝鮮に帰国(奴隷がもたらす情報)。

  奴隷が作り出す交流網。

  典型的奴隷も中間的な隷属者(隷属民)も広範に展開。

  「市民」と「奴隷」の社会的区分けは、それほど固定的なものではないのでは。

  「奴隷」の流動性(奴隷から解放奴隷になり、さらに市民となる。また奴隷出身の遊女から解放奴隷となり、市民の妻となる)。

  市民であっても、身体が抵当となること、債務を返済できないために奴隷となることは、古代ギリシア世界において珍しいことではなかったのでは。

  古代ギリシアにおいて、アテナイのように身分としての「市民」が確定され、法的に保障されたことの方が、特殊な事例か。(アテネが「異民族」を峻別したことも、比較的例外では)。

  ローマ時代の奴隷も流動的。

 

 

 

第四回「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者―広域社会秩序と地域秩序」研究会             

200831日・2日 大分

 

報告

・「近世イングランドにおける都市コミュニティと移民」唐澤達之

・「テクノロジーと移民のアメリカニズム:軍艦「モニター」をめぐる言説」

 土田映子

・「18世紀ポルトガル大西洋帝国にけるアマゾン川」疇谷憲洋

 

 

出された論点

  イングランド都市史研究のなかで、移民研究が一つの核となっている。

  イングランド近世都市史研究のなかで、社会経済変動へ対応した中世からの共同体組織が再評価されている。

  近年の移民史研究では、移民のアイデンティティとともに、都市コミュニティにおける社会統合のあり方に着目されている。

  市民権(freedom)が与えられず、ギルドに所属できなかった移住者たちは、自分たちの教会を作り相互扶助をはかる。都市や国王もそうした教会を支援。

  都市コミュニティに王権が介入することで王権は強化されたが、同時に中世からの中間団体も存続。

  そうしたなかでの、オランダ人、ワロン人、フランス人らの移住者は、当初既存のコミュニティに入り込むことは困難であったが、2代目とか3代目は「市民」に融合していくのか。

 

 

  スウェーデン系移民のコミュニティが、スウェーデン系独自のアメリカニズム言説を強化し、テクノロジー国家としてのアメリカ像を担った可能性。

  ノルウェー系やドイツ系移住者と競合していたスウェーデン系コミュニティにとって重要であった、モニター号。

  モニターvs.ヴァージニアの戦いが、アテネのペルシアとの海戦に譬えられる。ギリシア・ローマと連関性を持たせようとするアメリカのモダニティ。

  科学・技術の語りにおける女性不在をどう考えるか。

  科学・技術に関する語りと「人種」。

 

・ ポルトガル海洋帝国の特質:港湾都市と交易ルートの統制(「点と線の支配」)。まとめていたのはゴアの総督と各地のカピタン(カピタンの権限が比較的自立)。

  17世紀後半より海洋帝国の重心が、大西洋にシフト。ブラジルが重要になる。

  イエズス会や世論により先住民の奴隷化が法的に禁止された。16世紀半ばから19世紀半ばまで、360万人の黒人奴隷がブラジルに連れてこられた。

  奴隷は戦争捕虜を身請け金の形で、買い入れられた。レコンキスタの際のルールが、ブラジルでも適用された(イスラームの影響)。

  先住民・白人・黒人の混血による複雑な人種社会の形成。先住民とポルトガル人との結婚が奨励された。

  黒人の流入により、社会はどう変化したのか。

 

 

 

中国調査旅行

 

期間:2007820日~30

参加者:弘末雅士(本科研以外の経費)、石川禎浩(本科研以外の経費)、佐々木洋子、清水和裕、荷見守義、疇谷憲洋(以上全行程)、大石高志(アモイより合流)

 

820日 日本から上海へ。上海浦東空港からリニアモーターカーに乗る(最高スピード430キロ)。黄浦江沿いを歩く。黄浦公園より東方明珠塔を臨む。かつての横浜正銀の建物の前を通る(日本の租界跡)。

821日 東方明珠塔に登る。黄浦江は船舶多し。「租界」は、旧上海城の周辺部に構えられた。上海城市歴史発展陳列館を訪れる。租界時代の展示あり。日本占領時代はあまりなし。1400上海発の黄浦江から揚子江に至る遊覧船に乗る。長江へ至る黄浦江で多数の貨物船などの船舶見かける。1538頃長江が見えてくる(水の色が一層泥水のように濁っている)。1540長江に出る。波はなし。しかし、対岸は見えない。かなりの数の船が往来する。1700上海へ帰還。夜、新天地(フランス租界跡)へ。中国共産党第一回会議の開かれた建物の前を訪れる。

822日 朝、虹橋空港へ向かう高速道路―北側が英米租界跡で南側がフランス租界跡。飛行機にて福州に向かう。機中より福州付近の複雑な海岸線を望む。水田や池があり。1209比較的海岸に近い福州の空港着。1250閩江渡る。開元寺(空海の記念碑あり)訪問。僧侶たちが修行していた。林則徐記念館(中華民族的英雄とされている)訪問。1905年開館。

823日 琉球人墓地を訪れる。1980年に市の物保となる。康熙、乾隆、道光期のものあり。墓守いる。泛船浦天主堂(イタリア人宣教師ジュリオ・アレーニ布教)訪問。1988年再建。福建師範大学の前の本屋に立ち寄る。福州市対外友好関係史館(琉球館)柔遠駅(1983年再建)。日中友好萬古長青の碑あり。万寿橋(かつて琉球人がここで下船)。まわりには商店あり、また橋の上には露店あり。1227馬尾(南京条約で開港した福州の港)到着。1330昭忠祠(馬江海戦記念館訪問。清仏戦争時に南洋艦隊がベトナムからのフランス軍艦に殲滅される。馬江諸戦士遺骨之処。1405船政博物館訪問。羅星塔(162127年に再建)に登り、途中より馬尾を望む。湾のように見える。大きな橋が見える。1536その橋を渡る。1600集落の入り口に狛犬と門を構えたつくりを随所で見かける。1608長楽(鄭和の寄港地付近)着。鄭和航海館を訪問。王景弘、李(黄)参(鄭和に随行)。インドネシアに「三保洞」「三宝垈」「三宝洞花园」あり(展示より)。鄭和像の前で写真撮影。

824日 福州から泉州へ。道中、サトウキビ畑あり。水田もあり。1037 恵安

着。しかし崇武古城(倭寇取締りのための城)には、台風の余波のため行けず。1053泉州の町に入る。石材店多し。1056洛陽橋着。1059年蔡襄により竣工。泥が川に堆積。河幅は1051歩(500~600mか)。泉州を流れるもう一つの河は晋江。1229杏宅回族村の標識見る。狛犬が座るが、上にはミナレットあり。1235華僑大学通過。1405泉州海外交通博物館着。13世紀ごろからのムスリムの墓碑多い(たとえば1274年)。クリスチャン(景教)の墓碑(1324年)。パスパ文字での墓碑もあり。マニ教の遺跡(泉州にあり)。開元寺よりの出土品もこの博物館に展示されている。1457霊山伊斯蘭教聖墓着。鄭和行香碑あり。二つの古い墓あり。少し離れて丁氏とその妻の墓あり。龍頭や狛犬のレリーフあり。1542開元寺着。広い境内。7世紀建立。東西に五重の塔。泉州湾古船陳列館に13世紀のジャンク船(沈没船)の下部が陳列される。1620孔子を祀る文廟前通過。1621清淨寺着。“慈悲深く慈愛あまねく神の御名において”のアラビア語が入り口に書かれている。12世紀のムスリムの墓があった。今でも礼拝に用いている。もとは、東側にドームがあった。1650天后宮を訪問。表海神。シンガポールやマレーシアからの華人が奉納した瓦あり。この天后宮の前にかつて門(市)あった。その外が港。李贄(李卓吾)故居。明代の思想家。家の前に堀が通じている。近くに清時代の海関跡あり。1758晋江渡る。2010アモイ着。

825日 厦門大学の南洋研究院(1996年:南洋研究所1956年創設)、東南亜研究中心(2001年)-重点研究地区となる(政治、経済、国際関係、歴史の部門)。研究所の出版物シリーズ化。シリーズ3種類:華僑・華人の研究(既刊16冊)、東南アジア華僑・華人の資料集(既刊10冊)、翻訳シリーズ(日本や欧米の研究書)(既刊5冊うち日本のもの3冊)。またライデン大学とアモイ大学の共同研究としてバタヴィア公館の文書を出版中(全部で16あるいは17冊になる予定。うち6冊出版される)。厦門大学のほか広州の中山大学そして  

南大学に東南アジア研究所がある。北京大学をはじめ雲南の華僑大学、広西の温州大学、山東大学、上海大学に華人・華僑研究所がある。また1980~90年代から、対外貿易史や中国の港市(泉州、アモイ、福州、漳州など)についての研究者あり。なお、中国の東南アジアとの関係文書:北京第一档案館(清朝期)、南京第二档案館(民国期)、また台北にあるものもあり(既に多くが刊行されている)。厦門大学は、陳嘉庚をはじめ華僑が創設した大学。現在も陳嘉庚記念館あり。現在、華僑の子弟も中国語を厦門大学に学びに来る。

826日 コロンス島へ。日本領事館の元建物あり(1898年建設、今は人が住んでいる)。天主堂あり(ギターで賛美歌を歌いながら、ミサを行っている)。海天堂(1921年建)。鄭成功像あり。林語堂(1930年代活躍)の故居。また元オランダ領事館の建物あり。鄭成功記念館を訪れる。父の芝龍は天主教の洗礼を受け、オランダとも交易。明朝のもとで、福建の将軍。鄭成功が隠元和尚にあてた手紙あり。また鄭成功の支配下で使われた通貨あり。1650年代には、揚子江河口から南部中国の沿岸部を勢力化においていた。遊覧船に乗り、中国と台湾との国境の島々付近まで行く(大金門、小金門、大担、二担諸島、「盼望祖国早日統一」)を中国側の観光船が看板に。台湾側は、「三民主義統一中国」の看板を島に掲げる。途中、土砂を採取する船数隻見かける。

827日 アモイから客家の華安土楼群へ。サトウキビ畑。バナナ畑見かける。九龍江(泥色の河)。河では土砂を採取している。土壁の家々。茶畑(モデル地区)。1035仙都(鎮)着。1100大地土楼群の二宣楼(1770年建立)。4階建(3階まで人が住んでいる)。中央が空間。井戸あり。4階には外を見張る窓があり。土楼のまわりの家屋も土壁のものが多い。山の上まで、段々畑(茶)。1247茶店に寄る。高山茶を購入。一年に5回茶摘(冬摘みが一番うまい)。茶を立ててもらう。1427「印尼華僑林炳坤敬謝」と記した看板あり。1535漳州西より高速道路へ。1605養殖池多い。1801韓江渡る。1812汕頭に。

828日 ホテルの前の公園より港を見る。向かい岸が見える。韓江の河口(水は泥で濁る)。船(貨物船)が往来する。輪タクが走る。中国南方航空(China Southern)で広州へ。上空より養殖池望む。広州でアフリカ系の人々をしばしば見かける。広州沙面建築群。十三行路は、今は商店街となっている。粤海関の建物あり。

829日 越秀公園へ。古い城壁あり。広州博物館(鎮海楼1547年建立)を訪れる。墓(南越)木棺あり。周代(BC.8)と秦代(BC.209)の石刻文あり。三仏斉と中国との交流を記した広州天慶觀記碑(1079)、広州の対外貿易を記した南海広利洪経昭順威顯王記碑(1165年)あり。秦代以降、中山五路あたりを中心に町が発展していく。清代の広州の模型あり。十三行、十三夷棺あり。町の中心部を壁で囲う。友誼商店で、潮州刺繍を購入。天河ブックセンターにて書籍購入。

830日 広州‐上海、国内線から国際線に乗り換える(1Fから3Fへ)。上海上空より揚子江河口を見る。泥水が海の沿岸部一帯に。

 

 

 

喚起された論点

  上海、福州、泉州、アモイ、スワトウ、広州、いずれも河口の港。河口の国際的な港市と河川ネットワークとの関係は(広域ネットワークと地域ネットワークとの関係)。

  華僑と故郷とのつながりがさかんに論じられるが、華僑が作り出す新たな「故郷」との関係は。

  客家が、華僑のなかで果たす役割。

  アモイ大学の東南アジア研究は、東南アジアの華人・華僑関係に特化している。華人・華僑関係、あるいは鄭和の遠征以外の東南アジア研究は、手薄か。

  西アジアのムスリムの来航は、8・9世紀の波と13世紀の波との間で断絶か。また1314世紀以降は、来航者が少なくなる(マラッカなど東南アジアの中継港の役割が増大か)。

  中国の港市では、外来者が現地妻を有する習慣はなかったのか。(cf. 日本、朝鮮、東南アジアの港市)

 

                 

 

 

20083月、中部ジャワ北岸地域調査報告 


3月16日

成田よりシンガポール経由でジャカルタへ向かう。成田出発者:弘末、西尾、遠藤、久礼の4名。

シンガポール航空SQ637便11:3017:55着のスケジュール。約6時間半のフライトで、ほぼ定刻通りにシンガポール、チャンギ国際空港到着。時差は1時間

同空港にて、ジャカルタ行きの便に乗り換えるため、ターミナルを移動。東南アジア最大級のハブ空港だけあり、施設は充実。空港内に燕窩(ツバメの巣)の売店あり。品質、色などについて質問し、店員から説明を受ける。

軽く夕食をとり、現地時間21:20発SQ968便でジャカルタへ出発。約1時間半のフライトで、21:55にジャカルタ、スカルノハッタ国際空港に到着。時差は2時間。チャンギ国際空港に比べ、全体に暗く、老朽化が進んだ感あり。

イミグレーションで10ドルを支払って1週間分のビザを受け取る(※カンボジアは25ドルで1カ月滞在のビザ)。その後、タクシーでジャカルタ市内へ。時間が遅いこともあって、高速道路もすいており、30分程度でホテル(ホテルニッコージャカルタ)へ到着。

到着後、ホテルの食堂にて夕食。ナシ・ゴレン(飯)ミー・ゴレン(麺)など。

3月17日

出発前、ホテル付近のショッピングセンターを見学。

ホテルロビーにて、深見純生先生と合流。

11:30 ホテルにて、5人乗りのLCをチャーターし、ジャカルタを出発。当初は海岸沿いにチルボンに直行の予定だったが、   後背地の地勢を確認するため、バンドン経由のコースに変更。ジャカルタ市内から高速道路に入る。

   高速道路沿いにモスク多数。タマネギ型の屋根をした「典型的」なモスクと、三角形の屋根が重なった「ジャワ的」モ   スクも多い。周囲にはバナナの木が多い。ココヤシはあるが数は多くない。


12:30  分岐点からバンドン方面のルートへ入る。周辺の土壌は赤色が目立つ。それほど肥沃ではない由。棚田が多い。

13:10 この頃から、道路沿いに松が多くみられる=標高が高い。

13:45 バンドン市内に到着。車、バイクが多く、ひどい渋滞に巻き込まれる。
   信号が赤で車が停止している間、新聞、菓子などの物売りが車の間を往来。
     中には、ウクレレを持って歌い、金を要求する物乞いもいた。

14:00  市内ホテルに到着。食堂で昼食。ナシゴレン、ミーゴレン。
       ホテルロビーは重厚な意匠の装飾、コロニアルな雰囲気。同地がヨーロッパ人の避暑地であったことの名残か。

15:00  ホテルを出発。アジアアフリカ会議の会場となった建物へ向かう。
    現在は博物館となり、往時の状況を伝える。ただし、この日は休館日。
    その後、バンドンの大モスクなどを車中から見ながら市内を移動。
     渋滞激しく、なかなか進めず。

   「1945.8.17」の文字が入った柱を市内各所で見かける。この日付はインドネシア独立記念日の日付とのこと。他の町よ   りも多く見られる。バンドンが独立戦争の独立派の拠点であると同時に激戦地であることを伝えるものか。

16:15  バンドン市内を抜け、高速に入る。空はまだ明るい。
    高速道路周辺は水田地帯。成長中の田、収穫直前の田など、多様な様相。

    集落は高速道路から離れた場所に点在する傾向が強い。

    CILENEY料金所=高速道路は終点。一般道に入る。


16:50頃 パジャジャラン大学キャンパス前を通過。その後道路は山道へ入り、updownnが激しくなる。この頃から雨が降り出    し、時間の経過とともに土砂降りに。


18:00  集落を通過した際、アザーンが聞こえる。

    その後も山道を下り、海岸方面へ。チルボンに近づくにつれ、勾配が緩やかになる。


21:00  チルボンに到着。サンジャヤホテルに到着。到着後、ホテル食堂にて夕食。


 


3月18日

9:10 ホテルでチャーターした車で、スナン・グヌン・ジャティ墓所、クスプハン王宮跡などの調査に出発。チルボン市内は  混雑が激しく、無秩序な印象。ペチャ(人力車)の数が多い。

   町中の両替商にて両替を試みるが、ジャカルタから両替用のルピアが到着していないとのことで、後刻再訪することにす  る。この日のレートは非常に良。

   その後、チルボン鉄道駅前、Gedung Negara(旧オランダ理事官邸)前を通過し、スナン・グヌン・ジャティ墓所へ。


10:00 スナン・グヌン・ジャティ墓所に到着。

     墓所に入る、要所要所でお布施を取られる(5000R50000R)

   墓所前には多くの人が集まる。墓所の前に座り、呪文を唱える

   いわゆる「イスラーム」信仰とはまったく異なる様相。

   墓所の壁には陶磁器のタイル=染付、赤絵、三彩などが張り付けられる。

   生産地は景徳鎮?中には、風車、人魚など、明らかにオランダ(ヨーロッパ)的モチーフもある。デルフト陶器と類似   したものも。

   墓所にある墓:表記がローマ字のもの=新しい 古い墓は表記がジャウィ
   遺体は、体の右側を下にした臥座で葬られる=顔をメッカ方面に向ける

   ジャウィ:単に文字としてばかりでなく、染付の文様としても用いられる。

     墓所周辺のタイル:オランダ的モチーフのものも多い。世界観の発現?

     墓所の開帳は金曜日。ただし墓所に入るのは管理人のみで一般のムスリムは入らない。また、開帳は5分間のみ。

   この他、儀礼用の小大砲や様々な種類のクリスが見られた。

   墓所を出る際、出口の売店にて木製の数珠を購入。一見イスラーム信仰とは無関係に見えるが、これも信仰の道具。

   車に乗るまで4,5人の物乞いの少年に付きまとわれるが無視。


12:00 ホテルに戻り、昼食。


13:30 ホテルを出発。チルボン市内の両替商を再訪し、両替する。
   その後、クスプハン王宮跡へ。王宮跡前は市場になっており、ひどい混雑。

     王宮前市場:食堂や、おもちゃ、陶磁器、菓子など様々なものを扱う商店がひしめく。    王宮跡と博物館を見学。 
   博物館:様々な展示物あり

     ガムランの楽器:ドゥマク、バンテン、チルボンのもの

             それぞれの楽器に地域差が見られ、興味深い

     VOCの銘が入ったガラス製品:1745年の年号が入る

     オスマン帝国カリフからの下賜品であるクリスタルガラス(1738)

     ポルトガル製の鎖帷子(1527年の年号あり)

     籠=王族の子供と幾種類かの品物を入れ、何を取るかでどのような人間になるかを占う(例:武器=強い将軍)

     チルボン王家の系図

15:30 王宮跡を出てチルボン港へ。

   石炭を満載した船が接岸、石炭はカリマンタン(ボルネオ)島産とのこと。

16:00 チルボン華人街跡とされる場所にある潮覚寺を訪問

   =観世音菩薩と関聖帝君(関羽)を祀る=仏教と中国民間信仰が混淆。

   境内の碑文:道光已丑年臘月( )の銘あり。

   境内では、子供たちが集まって祭(中国的獅子舞?)の練習。子供たちの年齢は、小学校の低学年から高学年ないし中   学12年程度か。
     獅子舞=アクロバティックな動き、子供たちはやりたがる

   指導している人物は明らかに華人系。しかし、子供たちの顔は大半がインドネシア系。中には、ムスリムのスカーフを   かぶりながら教わっている少女も。


16:45 Masjid MERAH PANJUNAN訪問。

   1480年頃建立との伝承。壁に陶磁器がはめ込まれる。

    その後、付近の書店にてコーランを購入。書店は閉店間際(17:00閉店の由)。


17:30  
ショッピングセンター2Fの書店にて、書籍、地図などを各自購入。

     電化製品売り場もあり、電子辞書なども販売。


18:00
 ホテルに帰還。

19:00 再び市内へ出て夕食。チルボン中心部の、別のショッピングセンター4Fの中華料理店に   て。隣の大広間では、地元有力者(?)による宴会。100人近くが集まっていた。ナマコなどの海産物料理が中心。

21:00 ホテルに戻り、休息。

3月19日


9:00 ホテルを出発。グヌン・スンバン聖丘へ出発

    昨日と同じルートを通って向かう。スナン・グヌン・ジャティ墓所とは、道路を挟んでほぼ真向かいの位置

9:30 グヌン・スンバン聖丘に到着。調査開始。

   丘全体が墓地となっている。ムスリムばかりでなく、華人の墓もあり。

   スナン・グヌン・ジャティが修行を行ったと伝えられる穴:胸くらいの深さ

   廟にはスナン・グヌン・ジャティ墓所同様、陶磁器=染付、赤絵、青磁=がはめ込まれる

   卒塔婆に類似した石積みあり。9聖人の墓地と伝わる。石は明らかに火山岩。

  聖水の井戸が存在。ジャワ各地の「聖人墓」に見立てたモニュメント
   =同丘をめぐることでジャワの聖地を一通り巡ることができるようになっている。

    砂糖ヤシを1本見つける。カンボジアでヤシ砂糖を作るのに利用されるヤシも、砂糖ヤシと言われるが、あちらは正式に  は「オウギヤシ」であり、砂糖ヤシとはまったく別の種類。


11:20 スマランへ出発。途中プカロンガンに立ち寄る旨伝えたところ、追加料金を取られる。

     チルボン~プカロンガンの道中は水田、サトウキビ畑が多く、ジャカルタ近郊に比べてココヤシが多くなる印象。東方   へ移動するにつれて、ココヤシの数も増えていくように思われる。海に近い場所を通っているためか。

     沿道にはツバメの巣を養殖する建物が散在。立方体に屋根をつけ、側壁に穴がいくつも開いている、印象的な形態。ま   た、モスクの数は相変わらず多い。

   紅白のプルメリアが沿道に植栽。カンボジアでは「チャンパの花=チャンパカ」と呼ばれるが、ジャワではこの花を「   カンボジア」と呼ぶ人もいるとのこと。

     途中、プマランを通過するとプカロンガンまでは水田の中の一本道を走る


14:00 プカロンガン到着。華人街に入り、レストランを見つけて昼食。

     食堂は華人の経営であるにもかかわらず、アルコール類は扱っていないとのこと。出された食事の味はよし。ビールに   よく合う味付け。ビールがなかったのが少し残念。


14:40 昼食後、華人街(跡)を調査。

     かつての名残を残す建築物が散見されたが、全体として寂れ、衰退した印象が強い。華人寺院が1つ存在していたのが   同地が華人街であったことをうかがわせる。沿道には新興宗教の建物が数件存在。

15:20 オランダ人街跡へ移動。VOC時代の牢獄の壁が残っていると言う情報に基づく。オランダ人街跡は、現在市庁舎が存   在(1983年に建設されたとのこと)。

     結局、VOC時代の壁がどこにあるかは判明せず。

16:10 スマランに向け出発。

   途中、バタンを過ぎたあたりから、起伏の差が激しくなる。


19:00 スマランに到着。ホテル(ノボテル・スマラン)にチェックイン。

    夕食後、各自休息。夜半、かなり激しい雷雨となる。

3月20日 

9:00 ホテルを出発。深見先生は、単身ジョクジャカルタに向かわれるとのことで、ホテルロビーにて別れる。天候は晴れ、蒸  し暑い。スマラン市内を移動。オランダ時代の建造物と思しきヨーロッパスタイルの建物が散見。スマラン市内を抜ける  際、昨晩の雷雨のせいか出水が激しい箇所あり。そこを通過し、ドゥマクへ移動。

9:35 道路標示から、ドゥマクに入ったことがわかる。ただし、市の中心部までにはまだ距離があるとのこと。ヤギが多く見ら  れる。


10:15 モスク、ムスジット・アグン(Masjid Agung)に到着。

     モスク及び同敷地内の歴代ドゥマク王墓所、博物館を調査。

     モスクの壁面:マジャパヒトの印が刻まれ、陶磁器も埋め込まれる

     =ドゥマク:マジャパヒトの正統な後継者であることを唱える

     陶磁器:外部世界との交易による繁栄を示す

     博物館:プートリ・チャンパ(チャンパの王女、ジャワにイスラームを伝えたという伝承あり)に明王朝が贈ったとさ   れる壺が2個展示

     =ドゥマクと中国の親密な関係を示すひとつの証拠


11:30 ムスジッド・アグンを出発、スナン・カリジョゴ(9聖人の一人)の墓所へ

12:15 スナン・カリジョゴ墓所に到着。参堂には多数の商店が出店。信仰による地域の繁栄の一事例。モスクでは「ジグル」   (礼拝者が聖句を繰り返し唱える行為)を実見。一般的なイスラームの礼拝とはかなり異なる。


12:30 スナン・カリジョゴ墓所を出発、クドゥスへ向かう。

13:15  クドゥス到着。ムスジット・ムナラ(Masjid Manara)及びスナン・クドゥス(9聖人の一人)墓所を調査。
      ムスジッド・ムナラ:モスク建造以前に同地に存在したヒンドゥー寺院をそのまま取り込む。ヒンドゥーの遺構がモ    スクに包み込まれるように存在。

      =イスラームが勢力を拡大する際にヒンドゥー的要素を取り込んだことを明確に示す

      モスク内のヒンドゥー遺構のひとつの前で女性の一団が礼拝  


14:30
 クドゥス市内中心部のレストランにて昼食。華人系の料理店。


15:30 クドゥス出発、ジュパラへ向かう。

   道路周辺は主に水田。一部サトウキビ畑あり。また、森に覆われた山あり。

     林業が行われているかどうかは不明。

     現在のジュパラの市内:チーク材を利用した家具店が多い。


16:30 市内を抜け、現在のジュパラ港に到着。

     周辺の島々とジュパラ港を結ぶフェリーが停泊。往事を感じさせる賑わいはなし。

16:45 ジュパラ港を出発。運転手の案内で、海岸に面したリゾート的な喫茶店を訪問し、休憩。プールもあり、現地の人々が   楽しんでいた。目の前が海水浴場としても使えそうな砂浜であるにもかかわらず、海で泳いでいる人はなし。


17:10 出発。ジュパラ市内へ戻る途中、川沿いに小型船(漁船と思われる)が多数停泊している地点を通過。車を止め、橋の   上から同地を撮影。
     往時のジュパラ港市がこの付近に存在していた印象。

   その後、出発。ジュパラ市内を通過するうちに日も落ち、夜になる

   途中、激しい雷雨に見舞われつつ、ドゥマクを通過。スマランへ向かう。


20:30 スマラン、ホテルノボテルに到着。夕食。

3月21日

 
9:00 ホテルを出発 三保洞へ向かう


9:45 三保洞着 鄭和を祀った場所。

     鄭和一行:遠征時に東ジャワ=グレシク、マジャパイトなどを訪問

        スマランを訪問した記録はなし

    鄭和を祀る多くの建物が存在。ただし、建造中の建物もいくつか見られ、近年の建造物という印象が強い。鄭和の伝記を  描いた壁画あり

    現地の訪問者の姿はそれほど見られなかった


10:45 三保洞発 市内を車にて移動。華人の寺院である大覚寺へ向かう


11:15 大覚寺着。孝感堂という寺院に隣接 建物前の河に復元したジャンク船が設置。琉球の進貢船に類似。

       孝感堂(道光丁未年)=清朝中期に建造されたもの    
     大覚寺:観音・地蔵・関帝(関羽)を祀る=商業信仰の一形態を示す。

12:00  スマラン鉄道駅へ移動

      スマラン鉄道駅:スマラン港とともにスマランの重要な施設特にスマラン港埋没後は、交通の拠点として重要な役割           を果たす。
                  スマランを共産党の牙城たらしめた重要拠点のひとつ

                  現在は、東南アジア各地で見られる地方駅の一つという印象。

12:30 旧ヨーロッパ人居住区へ移動
    植民地時代のヨーロッパ風建造物が見られる

     ドーム型の屋根を持った建造物あり。モスクのようにも見えたが、実際にはキリスト教の教会。イスラーム様式との折   衷か?


13:00 スマラン市街の海鮮レストランにて昼食。現地の客も多い。


15:00  スマラン空港へ。到着後、搭乗・出国手続きを行い、待ち時間に構内売店にてバティック製品を購入
      なお、正式名称は「アフマド・ヤニ空港」。スマランが彼が属した軍部に対抗する最大の勢力であったインドネシア共産党の牙城であったこ     とを考え合わせると、奇妙な因縁を感じる。
     また、インドネシアの国内航空会社に「シュリビジャヤ航空」なる会社があることを知る。
     インドネシア国内における「シュリビジャヤ」の認知度を示す一つの象徴か?

17:30  雷雨の中、ガルーダインドネシア航空にてシンガポールへ出発。
      シンガポール到着が近づくにつれ、上空からシンガポール海峡を行き交う船やシンガポール周辺の夜景を見ることができる。東南アジア      最大の港市としてのシンガポールの存在感を実感。

21:00  シンガポール着。その後ホテルに向かい、夕食後、各自休息。
      翌22日午前のシンガポール航空便にて出国、午後無事に帰国。  



 

第五回「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者―広域社会秩序と地域秩序」研究会   

                                                       2008年5月24日

趣旨説明 弘末雅士

 科研「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者-広域社会秩序と地域秩序」の狙いのうち、本日特に対象とするのは「各海域における外来者と現地住民を媒介した現地人妻妾の役割」についてである。

 本問題について、東南アジアの場合、港市に来航した外来者に現地人有力者が女性を斡旋する、という事例が多かった。そうした外来者に、現地の言語・慣習を教えたのはこうした女性たちであった。その一方で、彼女らは家事を司り、小商いを行ったりもしたが、そうした活動を通じて得られる人脈や情報が、外来者にとっては重要であった。

 奴隷も数多く使われていた。特にヨーロッパ人が拠点を構えた場所では、奴隷の人口が過半数を超えていたとされる。現地妻を娶る際の手続きを煩雑と考えた外来者が、滞在時のみ女奴隷を所有・使役する事例も多かった。

 こうしたことの結果、認知された混血児がヨーロッパ人社会の大多数を形成した。一方、認知されない混血児はさらに多く、現地社会に戻るためにあえて認知を受けないという事例もあった。こうした人々が、当時の現地社会において重要な役割を果たした。

 このような状況下で、現地と外部を介在する、現地妻・奴隷・混血児の役割は、かなり重要な位置を占めていたと思われる。

 東南アジアでの状況は以上のとおりであるが、環シナ海世界の状況はどのようなものであるか。東南アジアに比して厳しい管理下にあるという印象はあるが、そうした中でどのように外来者と現地社会を仲介したのか。その結果生まれた「混血児」はどういった境遇にあるのか。現地人妻妾を持つことと近世東アジア国際秩序はどのように関係するのか、といった問題について議論を行う。


荒野泰典  「国際関係における男女関係―近世日本の場合を中心に」

 本発表は、1630年代を境に制度的にも大きく変化していく男女―外国人男性と日本女性―関係を焦点とする。
 1630年代以前の日本は、いわゆる「諸民族雑居」状態にあった。このような状況下においては、様々な形の男女関係が存在しえた。
 まず、ヨーロッパ人の男性と日本人女性という関係がある。イギリス商館に年季奉公していた女性が、商館員に送った手紙が残っているが、そこには外国人に対する疎外感・差別意識というものがまったく見られないのが特徴的である。こうした関係が成立しえた要因としては、当時の日本社会が外国人に対する疎外感を有していなかったことと、たとえ奉公の結果子供をもうけても、年季が明ければ奉公先を辞して日本男性と結婚することが許されるという、当時の日本社会のある種解放された性のあり方が挙げられる。ただし、当時の日本社会が外国人に対して全面的に開放的だったわけではない。当時の平戸では、「イギリス人の侍女」を揶揄する里謡がいくつも作られ歌われていたし、オランダ人は、外国人を忌避する日本の習俗をも記録している。このような二重性こそ、「諸民族雑居の状態」を特徴付ける要素である。
 唐人については、明の海禁政策と華人(=唐人)の活動という2つの要素が背景となっている。明の海禁政策に反発し、交易活動を通じて彼らは広大なネットワークを形成していた。この状況下に、日本の銀産の急増が重なった。銀は当時中国で需要が激増していた。このような状況を背景に、日本に来航する唐人の数が激増し、各地に唐人町が形成された。その渡来の理由は、「倭寇」としての密出国、倭寇の被慮、漂流、秀吉の朝鮮侵略の際の捕虜など、多様であった。彼らは日本の文化面において広範な足跡を残した。また、朱印状を受給し、交易活動に携わる者もいた。その一方で、倭寇の被慮として人身売買の犠牲となり、悲惨な境遇に陥ったものも少なくなかった。
 朝鮮人については、漂流および倭寇の被慮として来航したものが多い。特に、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際、被慮となったものが多く、その数は5~6万に及んだ。朝鮮から見ると、秀吉の侵略は最大規模の「倭寇」であったといえる。彼らのうち7500人は160724年の3度にわたる朝鮮国王使の際に送り返されたが、東南アジア方面に流れた者もいた。彼らは朝鮮に出兵した武将が多くいた九州、中国、四国地方に多かったほか、大阪、京都など交通上の要地にも多かった。彼らの活動としては、陶工としてのそれがよく知られているが、その他、知識人、医者、通事などとして活躍した者もいた。また、女性は大名・藩士などの妻・妾・侍女になった者も多く、その例として平戸の「小麦様」が知られている。
  17世紀初めにおいては、このように日本には様々な外国人が居住し、特に平戸や長崎などは文字通り「諸民族雑居」の状態にあった。こうした中で、外国人と日本社会のかかわり方にはa)短期的な渡航者 b)日本に長期滞在する者(ただし、活動の拠点は日本だけではない) c)日本社会に取り込まれ、同化する者、の3類型があった。163040年代にかけて起きたことは、まさにbの排除に他ならず、それはキリスト教の排斥と強くかかわりあっていた。1640年以降は日本における外国人の類型はacのみとなり、日本社会と外国人の関係は一過性のものに限定される。それは、日本社会と外国との「境界」に位置する人々の排除だった。外国人と通婚の禁止、また、そうした女性及び「混血児」の追放は、そうした幕府の姿勢を端的に示した措置と言える。このようにして、江戸時代における外国人との男女関係は、遊女との関係に限定され、それも権力の厳しい監視下に置かれたものとなっていく。このような状態は、ペリー来航による「開港」まで変わることはなかった。「開港」体制下において、「単身赴任」が否定された=妻を同行する外国人が増加したことと、「長崎遊女」の制度が新開港地に適用されたことで外国人と日本女性が交流する機会が増えたことで、大きく変化するのである。

松井洋子 「近世長崎の遊女と異国人、そして混血児」

 遊女、異国人、混血児の研究としては、戦前から「南蛮人」「紅毛人」との関係の変遷、遊郭、遊女、混血児を対象とした研究がなされ、1980年代以降になると、女性史研究、外国側からの状況、「境界に住む人」としての整理など、新しい視点からも研究が行われるようになりつつある。
 時代としては、16世紀後半~鎖国が完成した1641年までが第一期であり、この時期はいわゆる「諸民族雑居」の状況にあった。1641年から1856年(日蘭和親条約の締結)/1859年(=出島の閉鎖)までが第二期であり、本発表で対象とする「長崎の男女関係」が成立・機能した時期である。長崎の男女関係として想定されるケースは①出島内における異国人と日本人遊女の関係、②長崎市中における異国人と遊女の関係、に限定されていた。
 まず、「異国人」とは何か、という問題であるが、その区別の指標となっていたのが「住宅」であった。これは「住みつくこと」を意味する動詞である。その期間の長さによって、①短期滞在者、②長期滞在者、③日本社会に同化した者、という類型がなされた。このうち、鎖国令にいたる1630年代の諸令によって排除の対象とされたのは②であった。「異国人」と関係を持ち、子供をもうけた場合、その母子も排除の対象となり、追放されることになった。この結果、長崎から「異国人」の「家」は消滅し、長崎に滞在する「異国人」は短期滞在者のみとなり、同時にそれは「オランダ人の男」及び「唐人=華人の男」を意味することになる。
 「オランダ人の男」=オランダ東インド会社の職員であり、彼らは単身で赴任していた。彼ら以外で出島に上陸できるのは船長、医師、貿易要員、出島の維持要員に限られ、いずれも単身での赴任を求められた。
 一方「唐人」の場合は、長崎に来航した唐船の関係者すべてに上陸が許された。そのため、人数も多く階層も多様だった。彼らは元禄2(1689)年以前は市中に滞在が許されたが、それ以後は唐人屋敷に隔離されることになった。
 この結果、江戸時代の長崎において認められた「異国人」の男女関係は

  オランダ人:遊女を出島へ呼ぶか、外出許可の際に遊女町へ行く

   唐人  ::町宿へ呼ぶか、遊女町へ行く(元禄2年以前)

:唐館へ呼ぶか、外出許可の際に遊女町へ行く(元禄2年以降)

 という形に限定されることになった。異国人は遊女以外の女性と関係を持つことは厳しく禁じられていた。
 このような状況を背景に、長崎の遊女町が形成されていった。長崎の遊女町は寛永19年までに丸山町と寄合町の両町に集約される形で成立し、一般の市中からは隔離された存在だった。このような環境で、遊女は外国人を相手にし、その子供を生み、時には抜け荷にかかわることもあった。
 遊女たちは長崎およびその近郊の出身であり、「親元」が存在した。遊女の揚代は交易による利益が当てられていた。遊女には金銭、砂糖、身の回りの品々などが与えられ、その総額はかなり大きなものになった。遊女は特定の異国人とのみ関係を有していた。オランダ商館長2名と関係を有した「浮音さん」の事例はその典型と言える。
 遊女と「異国人」との間に生まれた「混血児」については、特に重要であったのは、子供を父親の本国に連れ帰ることは禁止されていた、ということである。これは、寛永年間に「混血児」を追放した政策と比較すると、一件方針を転換したように見えるが、子供を「日本人」として扱う以上は当然の措置だったとも考えられる。

村尾進 「広州の場合」

 広州の場合は長崎とは異なり、空間の広がりと男女関係が焦点になる。時代としては、1759年から1842年までが対象となる。この時期は、キリスト教宣教師が排除され、諸民族雑居状態が解消した時代であり、いわゆる広東システムが完成した時代であった。同時に、広州とマカオがある空間を有機的に使って対外関係を処理しようとした時期でもあったのである。
 広州に来航するイギリス船は、まずマカオに錨を下ろした。ここで中国側官憲およびイギリス人に来航を伝えたのである。次に珠江の河口へ向かい、川を遡って黄浦へと向かった。ここは停泊地であり、船員たちはすべて船にとどまった。ここからさらに進むと広州に達するのだった。
 空間の面から見ると、長崎とは異なり様々な要素が錯綜していた。第一に、シャムの朝貢と民間貿易の問題がある。彼らは一貫して広州に滞在し、儀礼の際には入城が許された。西洋人の場合、こうした入城が許可されることはありえなかった。
 欧米諸国から来航する船は、各国の東インド会社、貿易会社、アメリカ、インドから来航する地方貿易船などがあった。彼らは、マカオに滞在する西洋商人と合流して広州に入り、ファクトリーにおいて交易活動を行った。
 マカオ自体については、中国の管理下にあった。人口的には各地から流入した中国人がもっとも多く、3万人いたと言われる。これに対しポルトガル人は5000人程度であり、その内訳は男性が1500人、女性が2300人、男性奴隷が450人、女性奴隷が800人ほどであった。なお、広州のファクトリーに女性が入ることは許されなかった。
 重要な要素として水上居民がある。当時の絵にその様子が描かれているが、それによると珠江を覆いつくすほど彼らの船が存在したことが分かる。当時彼らの人口がどの程度であったかは不明であるが、20万人はいたという見方もある。彼らは「移動する者」とみなされており、当局の管理は受けていなかった。この他、海賊や東南アジアに交易に出る中国人などの問題もあった。 
 こうした様々な要素が錯綜しながらも、この空間には一定の秩序が保たれていた。まず、広州自体は「朝貢」の場として天子の徳が及ぶ空間であるとされた。その意味で、儒教的イデオロギーが体現された空間だったといえる。これに対し、「珠江」とマカオは、中国当局の管理が及ばない、アナーキーな領域とされた。アヘンの密輸、ポルトガル人の存在など、多様な要素が交錯していた。この領域の重要な要素として水上居民が存在したが、彼らについては非常に偏った見方がなされていた。その例として、「彼らは異民族である」「一生陸に上がらない」などといったものがある。前者については、人類学的に漢民族であることが証明され、彼らは人口過密な広州から水上に出てきた人々であることが指摘されている。後者については、彼らが陸上がりしていることが絵画の記録などから証明されている。広州における水陸の関係は双方向的なものであったと考えられる。
 当時の男女関係については、当時の状況からして広州の陸上=都市空間内で外来者と現地の人間との間で関係が生じることはありえない。それが生じえたのは「珠江」ないしマカオにおいてということになる。「珠江」というのは水上居民を意味する。明確な記録はないが、売春を生業とする人々が相当数存在したようである。実際、そうした目的の船として「flower boat」「egg boat」といったものがあった。ただし、前者については、そこに乗っている女性がすべて水上民というわけではなく、陸に住んでいる女性が乗り込んでいる場合もあった。マカオの場合は水上居民の女性がポルトガル人の住居を訪れるか、そうした目的の建物の中で関係が持たれた。当時のマカオにおいて、中国人・ポルトガル人・欧米商人は相互に干渉することなく、各自の社会を形成していたといわれるが、上記の事実に鑑みれば、再確認の必要がある。

総合討論

 ◆日本の男女関係がオランダ人にはどのように意識されていたか

 ◇幕府の定めるところに従わないと排除されることになるため、それを避けるために当時の外国人は日本側の制度に従っていた。男女関係もその延長線上にあるといえる。

  当時のオランダ東インド会社にとって、日本商館はもっとも利益を挙げていたため、

撤退するわけにはいかなかったこともその背景にあった。

 ◆東南アジアのような現地妻妾が商業活動を仲介したり情報の相互提供を行うといった事例は、諸民族雑居期の日本にも共通に見られた事例ではないか

 ◇まさにそのとおりであるが、日本では事例は少ない。

 ◆女性が一方ではオランダ人と、他方では自分の実家とかかわりを持つことにより、長崎の社会に影響を与えたということはあるのか。あるとすればそれはどのようなものか

 ◇男女関係はあくまでも遊女町の中で完結しており、それほど大きな影響はなかった。

 ◆奴隷という観点から見たとき、長崎遊女の「奉公」もその一形態―解放期間が定まっている奴隷―に含まれると思われる。本来奴隷は「主人の家の中に入ってそこで保護される」存在と言えるが、その観点から見ると長崎遊女の事例は「奴隷が生産される場に極めて近い所に、自らの社会と関係を断ち切った主人が入っていく」という逆転現象が生じるように見えるが、その点はどうか。

 ◇遊女は遊女屋の人別帳という形で管理される。家との関係については遊女になる以上実家が近くにあろうとも縁を切ることに変わりはない。

 
 

              タイ・インド訪問調査

                       期間:200893日~12

 

93

成田よりタイ航空で、バンコクへ向かう。成田出発者:弘末、唐澤、貴堂、佐々木、荷見、土田の6名。

TG317  10:00 – 14:30 のスケジュールであったが、出発が少し遅れ、6時間10分のフライトでタイ国際空港(スワンナプーム空港)に到着。2時間の時差あり。

入国カードに年収を記入させる欄あり。93日よりバンコクが非常事態に入るというサマック首相の宣言を受けて、前日HISより予約した送迎車に空港で乗り込む。非常事態宣言下であるが、空港はあまり非常事態という緊張感が感じられず、タクシーやバスも走っており、比較的平穏な雰囲気であった。

高速道路で街中に入る。空港が2年前にオープンするとともに、高速道路が完成。空港からバンコク街中まで40分で到着。送迎車のガイドから、王宮やワット・アルンを訪れるのは、大丈夫と聞かされる。またバンコクに地震がないことや、チップは20バーツぐらいであることを聞かされた。

ホテル(Novotel Bangkok on Siam Square) で、清水さん、石川さん、疇谷さんと合流。夕食は、近くのCoca という名のタイ・スキのレストランで、スティームボートを食べる。 

  94

930 ホテルで、9名が乗れるバンをチャーターし、トンブリ地区に向かう。

950 中華街を通過。漢字の看板が多数。

952 チャオプラヤ河を渡る。

1003 トンブリに入る。

1030 トンブリ駅に着く。Historical Way to Bangkok No.1 の看板があり。

    Mikado Locomotive あり。目の前がチャオプラヤ川で、船が行きかう。そばに、ワット・アマリンあり。

1050 海軍省の建物の前を通過。

1055 ワット・アルン(Temple of Dawn) に到着。非常事態宣言の影響か、観光客は比較的少ない。寺院の登れるところまでいく。チャオプラヤ河や王宮、ワット・ポーが見渡せる。

1140 要塞跡に向け、移動。人に尋ねてみるが、場所がわからない。

1200 モスクあり。300年前ごろの墓所あり。ラーマ2世に仕えたNavy Commander のほか、9名の王朝に仕えた高官たちの墓あり。

1220 Wat Kalayanamit に到着。三寶佛公の漢字あり。寺院の仏像は、きわめて大きい。中国様式の像あり。華人系住民が線香をたいて祈る。チャオプラヤ川に大きな魚が浮かび上がっているのを見る。また北方に探していた要塞跡が見える(海軍省の敷地内にあり)。

1250 Santa Cruz Church に到着。元ポルトガル系の立派な教会。周辺に学校があり。

1340ごろ 中華街の南星というレストランに到着。燕巣(スープ状で、やや甘い)・ふかひれ、総計14,000バーツ。

1445 レストラン出発。

1500 雨となる。

1530 水田地帯が広がる。

1545 水田地帯のど真ん中で、山は見えない。

1610 アユタヤのKrungsri River Hotel 到着。

夕方、アユタヤ遺跡の王宮前まで、トゥクトゥクで100バーツ。

1830 Wat Phra Ram に入る。寺院跡を眺める。その寺院の向かい側に、ウートン像あり。ライトアップされていた。

1930 近くのレストランに入る。スコールが始まる。約2時間たって小降りになったところで、トゥクトゥクに乗ってホテルに帰る。

  95

924 ホテルでチャーターした車で、アユタヤ遺跡やその周辺の外国人居住区跡の訪問調査に出発。

930 日本人町跡に到着。この一体は整備されている。昭和38年の碑文あり。アユタヤ歴史研究センターの別館となる資料館に入る(『アユタヤ』の日本語訳の本が、日本で買う額の半額ほどで売られていた)。日本人町の人口:1,000~1,500人と推定されている。園内に泰日協会展示館があり、山田長政像が置かれている。お土産店で、「鮫皮」(実は、エイの皮)の財布を買う。アユタヤの町を取り巻く河に船が行きかう。付近に日本人町の関係者の墓地については、特に情報なし。

1110 アユタヤ歴史研究センター(Ayutthaya Historical Study Centre 1987年タイ国王の還暦を記念して創設)を訪れる。高校生たちが、訪れメモを取っていた。

1140 Wat Chai Watthanaram (アユタヤ史跡のなかで比較的仏像がよく残り、また寺院跡の状態も良好か)に到着。プラサートトーンが母親の生家の記念所として建立。周囲の塔の中に仏像が残っている。漆や金箔のあとがあり、後から塗ったものか。

1227 ポルトガル人居住区に到着。1. The Dominican Sect, 2. The Jesuit Sect, 3. The   
Franciscan Sect
の説明があり。教会跡が発掘される。埋葬者の棺があり、白骨化した埋葬者を上から見ることができる。船着場があり。そこから日本人町は対岸に見える。  

1250 Wat Lokayasutha に到着。蓮の花と線香を買う。大きな涅槃仏が横たわる(1956年復元)。金箔を上からこすり付ける。涅槃仏の後ろに、寺院跡が広がる。

1315 Phra Mongkhon Bophit (なかに比較的新しい大きな仏像があり)に到着。そのそばのWat Phra Sri Samphet 15世紀終わりに建立される)を訪問。3基の塔が並ぶ(3人の王の遺骨が納められている)。

1345 Wat Mahathat に到着。お土産店多い。観光客も多い。入場料は30バーツ。仏の頭が木の中に置かれている。寺院跡の高い場所に行くと、その北方に、Wat     
Rachaburana
が見える。帰りに観光客の写真入の皿が売られる。

1430 ホテル着。昼食。

1630 ホテルから市場の前の船着場へ移動。

1650 アユタヤのまわりを時計回りと反対に回る。一人あたり300バーツ。Wat  Chaiwatthanaram, Saint Joseph Catholic Church, ポルトガル人居住区跡、日本人町跡を水上より見る。水上から見ると、建物の正面玄関が河に面していることがわかる。住宅、寺院、教会、いずれも船着場を有している。

夜、ホテル近くのRiver Side Hotel Floating Rest. で夕食。

 

 

  96

730 Bang Pa-In へ出発。

733 華人系住民の墓あり。

745 タイの国旗とともに、青色と黄色の旗を道中でよく見かける。

800 Bang Pa-In に到着。

830 Bang Pa-In の駐車場で、River Sun Cruise のガイドと合流。離宮に入る。

       Krajome Trae Victorian Style の建物あり。ロシア風の建物もあり、ヨーロッパ風建築の建物が多い。観察の塔。中国様式の建物(Chinese Commerce Chamber により1889年に設立される)。ラーマ5世に贈られる。陶器のタイルあり。ラーマ5世が執政していた。

    H. M. Queen Sunanda Kumaruratana’s Monument, Princess Saovabhark Nariratana 3人の子供のモニュメント。

    Varobhas Bimarn (王の接見所)に入る。玉座には7層の傘が添えられている。女性が入る際には、サロン着用(ズボン不可)。

1000 アユタヤへ出発。アユタヤには450くらいの寺院があった。タイ人男性は、一生のうち最低7日間僧侶になる義務あり。

1030 Wat Mahathat に到着。どこで写真を撮られているか気になる。1388年に建立される。かつてはアユタヤで最大の寺院だった。ビルマ軍の攻撃により、中央のstupa (Cambodian Style) は倒れた。仏像の頭が、数多く転がっていた(そのうちの一つが、木にはさまった物)。

1123 アユタヤ王宮跡を望む。平地となっている。

1127 Wat Na Phramane に到着。1503年に建立。祠(wihara)の中に、ドゥヴァーラヴァティ様式の仏像あり。

1200 Wat Lokayasutha に到着。中央部は、stupa が残るのみで、他は何もない。仏陀(涅槃仏)の足の裏には、何も書かれていない。

1220 アユタヤから船着場へ向かう。

1310 Phatum Thani に到着。クルーズ船に乗る。トンブリまで45キロ。

1320 出発。船内で昼食。

1346 チャオプラヤ川の中州の手前を左折。

1515 チャオプラヤ川より眺める王宮、Wat Arun, Wat Kalayanamit, Santa Cruz教会など、いずれも美しく見える。川から人々が眺めることを想定して、建物が造られている。すべての建物に船着場がある。

1530 Boat Tour Center 着。ホテルに帰る。

 

 

  97日 

935 ホテルをチェックアウトして出発。1時間950バーツのバンを5時間借り上げて、バンコクの訪問調査に出発。

958 民主記念塔の通りを避けて、王宮前に到着。王宮前広場は平穏だった。王宮に入る(入場料300バーツ)。エメラルド寺院(ワット・プラケオ)へ向かう。本堂にエメラルド仏が、壇上にあり。ガルーダがナーガを制している。

    王宮を出てきたところで、タイ政府の観光局のインタヴューに、佐々木さんが応じる。

1100 National Museum へ。アユタヤからの出土品の展示されている場所を見つける。

    Wat Rachaburana の中にあった黄金の製品があり。1569年アユタヤ王の将軍がビルマ側のスパイだったため、アユタヤがビルマ側に落ちたと解説している。No.9 の部屋(Ayutthaya Art Gallery, Sukhothai) 仏頭は、顔長で、目がパッチリ。No.10 (Ayutthaya Art Gallery) アユタヤ後期の仏像は少し顔がふくよか。Golden Buddhist offering objects のなかにWat Rachaburana から出土の小型の金製品(仏像その他)多数。Museum Shop で本を購入。

1220 Wat Po へ。ラーマ1~ラーマ4世の仏塔あり。本尊は、寝姿の仏(Declining Buddha: 涅槃仏?)。アユタヤの涅槃仏よりも大きい。仏足は、きれいに螺鈿の作り。顔つきは優しい。本堂の前には、中国人風、ポルトガル人風の守護像あり。

1400 ホテルの近くのレストランで昼食。(唐澤、貴堂、土田、清水の4氏と別れる)

1530 ホテルから空港へ向かう送迎車に乗り込む。高速道路で3つのモスクを見る。タイシルクを売る空港の免税店に寄る。トランジットの大石さんと合流。

1845 発のTG317でムンバイへ向かう。インドへの入国書類には、収入やmarital status を尋ねる項目なし。ただし、NRI, PIO, OCI を尋ねることに熱心。

2155着(タイと1時間半の時差あり)。ホテルからの送迎車に乗り込む。道中、ガネーシャの誕生を祝う祭りで、町中にぎやか。1時間あまりの後、ホテル(Comfort Inn Heritage) に到着。

 

 

  98

1043 ホテル発。空港に向かう。

1300発の9w3403 (Jet Airways India) で、ディウに向かう。

1405 ディウ着。空港付近は、木々がほとんどなく、植物の色がくすんでいた。椰子の木あり。気温30度。

1426 Radhika Beach Resort に到着(空港から5分ほど)。ホテルの前方は、アラビア海に面する。

1527 町の入り口に到着。赤色の城壁あり。中に入ると礼拝堂(1702年に作られる) あり。

    海沿いの通りを歩く。モスクがあり、ムスリムの居住区あり。

海に面した市場のある広場に至る(1799年を記す塔あり)。そばに礼拝堂あり。

    St. Thomas 教会に入る。1992年より博物館となる。聖人やイエスの像あり。また以前のジャイナ教の遺物も展示されている。教会の建物の最上階まで登る。

    白色の美しいSt. Paul 教会の前を通り、写真を撮る。歩く地元の人々のなかには、明らかにポルトガル系の顔つきをした人たちがいる。Indragandhi National University Study Centre Diu あり。さらに警察署あり。

    Diu Fort に到着。海に面した広大な敷地。アラビア海を望む。大砲が残っている。砦の各所に礼拝所あり。St. Tiago Bastion and Chapel, St. Luzia Bastion, St. George Bastion などの名称が残っている。そのなかに礼拝所が設けられる。対岸のガネーシャ祭の音楽や楽器が聞こえる。18時に砦を出る。

1815 Café O’coqueiro にて休息。蚊取り線香が炊かれる。レモネード(インドでニンブー)を注文。

19時頃 海域に面したレストランに入る。ディウの港は、市場のある広場の前か。対岸の景色が望める。魚を食べる。Riviera wine があり。シャンペンもあり。

    ディウは蒸し暑い。

 

 

  99

朝食におかゆあり。インドでは、ミルクと砂糖を入れて食べる。ローティー(チャパティのことcf. roti)。食後のクミンを砂糖ともに食べる。

午前中休息。

ホテルで昼食。Kingfisher ビール5%(mild)8%(strong, Diuのみで売られる)

空港へ。Jet Airways サーヴィスがいい。

Comfort Inn Heritage の元来の名前は、Heritage で、Comfort Inn がホテル・グループ名。ムンバイのDharavi(スラム地区、住民100万人ほど)、ホテルのあるのはByculla

夕食は、Jehangir Art Galleryから歩いてレストランKrishnaで。Tigerビール(マハーラーシュトラ州で生産され、そこでのみ販売されていた)を飲む。

 

 

  910

ホテルでInternet(一日Rp.650)

945 ホテル出発。

955 Haj House の前を通過。以前は巡礼者がここに集い、船で巡礼の旅に出かけた。近くに鉄道の駅あり(Victorian朝の建物)

1010 Jehangir Art Gallery の前に到着。Galleryの前に、バグダードからここに移ってきたユダヤ教徒たちが作ったDavid Sassoon Library (1870年創設)を訪れる。David Sassoon(イギリス政庁にかかえられる)の像あり。図書館は現在一般人も利用できる。その隣には、行政府の建物。

1030 ユダヤ教の礼拝所(青い建物)へ。ステンドグラスで飾られている。ハート型のカーテンの後ろに、モーゼの十戒の書物あり。偶像無し。一段高い祭壇あり(司祭が祈るためか)。比較的開放的な雰囲気。

1100 Fort の砦の一部を、今でも軍隊が使っている。向かいにゾロアスター教の関係者の建物あり。The Asiatic Society of Mumbai 1804, Town Hall 今は図書館。内部に入る。1910年代終わりごろより、インド人有識者の協会長が現れ始める。

    India Government Mint (今でも使われている)の建物。Port House の建物。Mumbai Port Trust 1873 の建物。Mackinon Abad Shipping Lited の建物。

1140 Britannia & Co. restaurant (Parseeのお店、1923年設立)に入る。店の主人が日本の雑誌に店が紹介された記事を見せてくれる。Fort の内部にユダヤ教徒、パルシーなどを抱え込む。

1220 パルシーの建てた時計台(アフラマツダの像:1880年創設)を見る。

    パルシー寺院、ジャイナ教寺院あり。

1310 Krishnaでの昼食。Vegetarian カレー(40ルピー)。

1400  昼食後、布問屋街(Swadeshi Market)へ。奥にガネーシャを祀る。

    1873年に建てられたヒンドゥー寺院(近代的建築)。ジャイナ教の店に入る(ガネーシャとマハーヴィーラの描かれたステッカーのような飾りを買う)。

1500 ムスリム地区へ入る。モスクは緑色の近代的建築。歯を磨く木が売られる。街中にヒンドゥー寺院あり(古いタイプ)。

1530 Haj Ali Darga (ハジ・アリ廟)へ。廟への参道に多くの乞食が座っている。Lailaha Ilahla を唱える肢体不自由な乞食のグループあり。

    廟の中では、聖水を参拝者の頭にかける人あり。ヒンドゥー教徒も廟を訪れる。

1700 土産店を3軒訪れる。

1900 Taj Mahal ホテル新館の最上階の中東レストラン(Souk) で食事。2万ルピーほど出費(6人)。

 

 

911

1106 Chhatrapati Shivaji Maharaj (formerly Prince of Wales Museum of West India)に到着。

    B.C. 2世紀のDvarapala Yaksha (Maharashtra) あり。Mahishasuramardini, 6th C., (Elephanta Maharashtra)あり。Brahma, 6th C., (Elephanta)あり。Trivikrama Vishnu, 6th C., (Elephanta)あり。Worship of Dharmachakra, 2nd C., (Amaravati)あり。Dvarapala (Gujarat, 6th C.)あり。Maheshamurti (Madhya Pradesh, 10th C.)あり。

 

        古代の主要な遺跡の位置関係(Pitalkhora Nasikは、Satavahana 200BC~200ADAjanta, Ellora, Elephantaは、Vakatakay Kalachuri Dynasty Style 275~550 AD)

       Pitalkhora          Ajanta

              Nasik              Ellora

  Elephanta

 

        Avalokiteshvara (9C. Kashmir)、薬師寺の日光、月光菩薩の体の傾け方に似る。

    ガンダーラ出土の5c. Boohisattva あり。4c. の仏の頭あり。Mahadeva(展示品はレプリカ:Parel (Mumbai, 6c.

 

    2階に細密画やチベット関係のマンダラや仏具あり。

 

    博物館の書店で、インド西岸関係や海洋交易史の研究書を購入。

 

1310 Ming Palace(中華料理)で昼食。Cobra(インドのビール:黒ビールを混ぜているのか)

1400 Elephanta島へ向かうために、インド門そばの船着場から船に乗る。ムンバイの周辺には、いろいろな小島あり。海の色は、泥色。大型船が小島のまわりに停泊している。周辺から見ると、小高い森の島がElephanta島。石窟寺院(島の外からは見えない)。SIVA Dancing像やCosmic Dance像など。中央部の部屋にリンガを祀る。所々に水がたまっていた。修行の場か(cf. Ajantaの石窟寺院)。

 

1900 ホテルで夕食。(翌日インドを離れる荷見さん、大石さん、佐々木さんと別れる)

2020ホテルからタクシーで空港に向かう(弘末、石川、疇谷の3名)。ホテルから空港まで350ルピーで、二時間近くかかった。道中、ガネーシャが輝いていた。

2225出発一時間ほど前にチェック・インしたとき、最後の搭乗者だった。TG318(ムンバイ発2335)でバンコクに向かう。

 

 

  912

530 バンコク空港に到着(インドとの時差1時間半)。空港にて関空に帰る石川さんならびに、夜バンコクを立つ疇谷さんと別れる。空港内の両替所では、ルピーからバーツへの交換ができない。バンコク空港は、広大なスペースで、トランジットでかなり歩く。

735TG676でバンコクから東京に向かう。機中で読売の東南アジア衛星版にタイの政局について、詳しい解説あり。サマック首相は辞任を表明。

1545 成田着。

 

 

 

以下、調査旅行をとおして出された論点:

    民主主義と経済発展は、矛盾なく進展しうるのか。

    チャオプラヤ川の河川交通の調査をとおして、河口付近の港市と内陸部とのネットワークを解明することの重要性が出された。

    これが非常事態宣言下の都市なのか、と思わせたバンコク(cf. 毎日が「非常事態」だったインド)。

    少人口社会と奴隷。

    バンコク王朝の王宮のきらびやかさは、有効需要の創出と関係するのか。労働者人口が増えたことの表れか。

    日本人のインド人観と、インド人の日本人観や東アジア人観とを、比較考察してみることの重要性。

    ディウの旧ポルトガル居住区のムスリムたちは、周りのポルトガル系のカトリック教徒たちとどのように共存したのか。

    ムスリムが相対的に少数派のところでは、イスラーム原理主義はどのように展開するのか。

    研究対象が、研究者の性格を作り上げていく。

 


2008年度第2回科研「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者―広域社会秩序と地域秩序」研究会

                    2008712日・13日 帯広畜産大学

 

 

 

報告1.「被虜送還と明朝鎮守」     報告者:荷見守義(弘前大学・人文学部)

 

要旨と論点

  北方(モンゴル)への守り、また海からの倭寇への守りとしての遼東鎮。同時に様々な人々(モンゴル、朝鮮、女直・女真など)と交流。

  辺境の守備部隊の兵卒がしばしば女直・女真やモンゴル人のもとに逃げていくため、人員確保は重要。探し出すか、代わりにさらってくる必要あり。

  被虜送還を扱うことで、当時の役人のシステムやその実態がよくわかる。

  遼東鎮は、明朝の対外関係の縮図となっている。 

報告2 .「南鉄道の建設とトリエステ―海港へそそぐまなざし」 報告者:佐々木洋子

                               (帯広畜産大学)

要旨と論点

  19世紀中葉に南鉄道の敷設案が、トリエステを窓口に東方貿易の振興を目指して、立案される。トリエステでも、海運会社オーストリア・ロイドが設立された。

  人々がトリエステに熱いまなざしを注ぎ始めるとともに、「海への出口」が帝国統合の宣伝にも利用される。

  しかし物流は、ドイツ国境やウィーンが主で、南鉄道はオーストリア最大の赤字鉄道となる。

  実際の貿易振興の手段とはならなかったが、人々の関心を惹き付けた南鉄道とトリエステ。


「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者-広域社会秩序と地域秩序」

科研研究会プログラム

 

 

 会場:長崎ワシントンホテル

 

 

10月20日(土) 場所:三十三間堂(同ホテル内)

1430~1440   研究会開会:参加者の自己紹介

1440~1510  「奴隷研究の課題」(清水和裕さん)

1510~1610  「19世紀東アフリカスワヒリ世界における奴隷:ムントゥワ、ムザリア、スーリア(仮題)」(鈴木英明さん(日本学術振興会特別研究員))

1610~1620   休憩

1620~1700     質疑応答

1700~1730  「環インド洋世界におけるポルトガル人と奴隷(仮題)」(ディスカッサント:疇谷憲洋さん)

1730~1800  「長崎のオランダ人商館の「黒坊」奴隷(仮題)」(ディスカッサント:島田竜登さん(西南学院大学・准教授))

1800~1900   総合討論

研究会終了後に懇親会を予定しています:青柳(丸山)
 

 

 

10月21日(日)  場所:カメリア(同ホテル内)

930~1030   「インドにおけるオランダ東インド会社の奴隷取引―17世紀コロマンデルの事例(仮題)」(和田郁子さん(甲南大学非常勤講師))

1030~1130   質疑応答さらに総合討論

1130~1200   今後の計画について

1200       閉会・解散

  

問題提起「奴隷研究の課題:これまでの問題の整理と課題の提示」

報告者:清水和裕

出された論点

・奴隷制社会論の行き詰まり

・「奴隷」概念を厳密に定義するよりも、広くとらえてみることの重要性。

・奴隷を機能の側面から、労働奴隷、家内奴隷、性的奴隷、遊興奴隷、軍事奴隷、専門職奴隷などに分類できるが、権力者の威信財としての奴隷も重要。

・混血による社会への同化形態の多様性と、「人種」間差異の強調。

・なぜ「混血」とカテゴライズするのか、そのこと自体を考察することの必要性。

・「アフリカ」の奴隷が、イスラーム世界、南北アメリカ、ヨーロッパそしてインドをつなぐリンクとなりうるか。ただし、アフリカ社会の多様性と独自性を考察しておく必要あり。

・宦官は奴隷ではなく、官僚。中国では宮廷外では、「火者(ホージャ)」。

 

19世紀東アフリカ・スワヒリ社会に於ける奴隷:ムントゥワ、ムザリア、スーリア」

                           報告者:鈴木英明

出された論点

・東アフリカでは奴隷が、農園の労働力としてまた所有者の威信財として重要な存在。

・従来の研究では、奴隷の側からの視点が重視されてきたが、所有者の側から考察することの重要性。

・スワヒリ社会に於ける奴隷比率の高さ:たとえばザンジバル島では、アラブ人一人に黒人奴隷が50人。インド系住民奴隷所有者が、平均して712人。

・『スワヒリ人の慣習』において奴隷は、「tumaする」:「(人を遣いとして)送る」「(人を)用いる」のように、人として扱われている。

・『スワヒリ人の慣習』では、主人に付き添い、主人のために雑用をこなし、ときとして、その代理をも果たす。Cf.農業労働力としての機能が第一の大西洋世界の奴隷制

・奴隷とその所有者との身分の違いは、反復的に繰り返される日常生活の振る舞いのレヴェルで常時確認され、また服飾によって、旅行者たちにも容易にわかるものであった。

・所有者との明確な対比が見出せる一方で、奴隷は一枚岩の社会的カテゴリーではなく、その内部に多様な地位を含む。

・一般的に、沿岸部につれてこられ、プランテーションで労働に従事し、主人と食事をともにしてはならない奴隷をムジンガとされ、沿岸部で生まれ、主人に近いところで労働・居住し、主人と食事ができ、ときに主人の代理を務める奴隷をムザリアとされる。ただし両者の区分は、出生の違いで固定化されるのではなく、沿岸部社会の言語、習慣、価値観を体得し、主人が「tumaする」ことでムザリアとなる。

・「tumaする」対象であるムザリアに、所有者はムザリアとしての社会的な性を付与(男性ムザリアは所有者世帯の男性に、女性ムザリアは所有者世帯の女性に)。

・スーリアは妾奴隷とされてきたが、スーリアは自らも「tumaされる」立場にあるが、それはムザリアと異なり、異性の所有者から。またスーリアとおぼしき人物が奴隷の所有者としてあげられている。

 

「環インド洋世界におけるポルトガル人と奴隷について」

                            報告者:疇谷憲洋

出された論点

・アジアにおけるポルトガル人の活動:カザード(既婚者)による都市共同体の形成/ソルテイロ(独身者)らの「拡散」現象。

・新キリスト教徒や現地人に対する公職その他における差別。→18C.の啓蒙改革によって差別は廃止される。</span></p>

・ポルトガルのレコンキスタによる戦争捕虜の奴隷としての「モーロ人」。

15世紀中葉より大西洋・アフリカ西岸への航海事業によるアフリカ系奴隷の流入開始(交易品としての「黒人」奴隷)。

・マディラ島のプランテーション労働者や水汲み、船乗り、物売りの奴隷のいるポルトガルに、他のヨーロッパ人は驚いた。

・その後、奴隷の供給地として日本、マカオ、ベンガル湾、東アフリカ+戦争捕虜。同時に現地勢力や宣教師による現地人奴隷化反対の圧力。</span></p>

・アフリカ東岸部のモザンビークはポルトガルの重要な奴隷供給地となる。モザンビークからディウやゴアへ奴隷が送られるとともに、ブラジルへも送られる。

・環インド洋世界に進出したころには、ポルトガルがすでに半世紀ほど奴隷貿易の経験あり。

・ポルトガル人到来以前の環インド洋世界における奴隷と、ゴアの奴隷のありかたには、差異がありか?(インドで奴隷を使うのはかまわないが、持ち出すのはいかがか)

 

「長崎出島のアジア人奴隷について」

                           報告者:島田竜頭

出された論点

・奴隷なしでは、活動できないアジアにおけるオランダ東インド会社の商館。

・長崎のオランダ商館で、商館員が有した「黒坊」とよばれた奴隷たち。その数は、平均的にヨーロッパ人商館員の2倍以上いた。

・「黒坊」は、当初アフリカ出身者が多かったが、18世紀になると南・東南アジアの出身者が主流となり、その大部分が東南アジア島嶼部出身者となる。

・オランダ東インド会社と「奴隷」を、伝統的な奴隷貿易史研究ではなく、労働史研究における位置づけが今後必要(forced labourの一つとして)。

・長崎商館の奴隷の事例研究が、会社史研究・港市研究・「社会史」研究に新たな光を投げかけることができる可能性あり。たとえば、密貿易へのかかわり。またムスリムであった彼らの葬儀は、どのようになされたのか。平均年齢二十歳前後の彼らは、女性との関係を持つことができなかったのか。

 

「インドにおけるオランダ東インド会社の奴隷取引―17世紀コロマンデルの事例を中心に―」

                           報告者:和田郁子

出された論点

1660年頃までは、バタヴィアに連れて来られた奴隷の大部分がインド亜大陸(ベンガル、アラカン、マラバール、コロマンデル)より供給される。

1660年頃以降、インドネシアの島々出身の奴隷の比重が増す。

・奴隷の送り先は、東南アジア、南アジア、南アフリカのVOCの拠点(各都市では奴隷の占める人口比が高い)。

・アラカン、ベンガルでは、162662年の間、VOCは毎年150400人の奴隷を輸出(アラカンではアラカン王の協力の下にポルトガルが残していった混血者が奴隷の取引を扱う)。

・マラバールでは、1663年まで多数輸出(沿岸部でとらえられた者が中心: 1658

63VOCはマラバール海岸のポルトガルの拠点を占領)。

・コロマンデルは、17世紀のVOCにとって重要な奴隷の供給源(数回にわたり奴隷輸出ブームが見られる)。

・ムガル朝は、ポルトガルが奴隷貿易を行うので、ポルトガル領のフーグリを占領した。またVOCの奴隷貿易に対しても批判的。

・またマラータ王国を建国したシヴァージーも、1678VOCによる奴隷輸出を禁止(ただし奴隷を領内で利用するのは可)。

・インド社会にも「奴隷」は存在するが、本来奴隷として指定されていない人々(例えば農耕に従事した人々)が輸出されたのか?

・アジア間交易におけるポルトガル人の奴隷取引のイメージ(日本やインドの場合)。しかも「野良化した」ポルトガル人が扱っている。

・イギリスから出てくる反奴隷運動とは別個の反奴隷貿易。

・主人のポルトガル人やオランダ人と彼らが連れていた奴隷は、人々にどう映ったのか(主人と従者の奴隷とが移動する)

2009年度 第一回 科研研究会

「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者-広域社会秩序と地域秩序-」

                 200953031日 縄文人の宿・弘前大学

 

第一報告「古代ギリシアの植民活動(シケリアの場合)と交易活動」

報告者:高橋秀樹

 

出された論点

  ギリシアの可養人口の限界により、植民活動や海上交易に依存せざるをえない。

  古代地中海世界の三大穀倉地帯(エジプト、黒海沿岸、シケリア(シチリア))の一つシケリアには、イベリア半島やイタリア半島、さらにはギリシアやフェニキアの移民が古くから存在。

  シケリア島で最も重要な都市であったゲラとシュラクサイでは、前5世紀にギリシア系住民が、周辺の非ギリシア系諸都市を制圧。

  ゲロンは、ゲラやカマリナの市民をシュラクサイに強制移住させ、エリートによるシュラクサイ作りを目指す。

  ギリシア祖国との関係から離れた、独自のシュラクサイの住民としてのアイデンティティが形成される。

  後背地と港市との関係が、独自のアイデンティティ作りに寄与したか。

 

 

第二報告「“眠れる獅子”のイメージと梁啓超」

    報告者:石川禎浩

 

出された論点

  「眠れる獅子」言説は、梁啓超が『国聞報』の記事、および厳復のコメントを曾紀沢「中国先睡後醒論」とミックスして生み出した想像的解釈。

  想像困難なフランケンシュタインを想像したことによる思わざる新イメージの創出。

  その後「眠れる獅子」言説は、中国の留学生達によって、中国から日本、欧米にフィードバックされて定着。

  梁啓超の造語能力と文筆力(一日に5000語書けた!)の卓越性。

  「獅子」は、当時の中国の人々にとって、仏教と連関し、かつ人々を守護するイメージがあった。それを梁啓超が新たな状況下で蘇生させた。

  梁啓超自身も、亡命先の日本において出版社を持ち、『清議報』や『新民叢報』を出版し、自らもそれに論説を掲載した。

  伝統的イメージを、それに新たな意義を注入して蘇生させる能力。優れたプリント・キャピタリストであり、かつ優れた精力的な文筆家。こうして神話的イメージが誕生した。

 

 

  十三湊遺跡の訪問調査(五所川原市教育委員会十三湊発掘調査室主査の榊原滋高の案内のもとに、530日午前11時から午後350分に実施)

  福島城跡の土塁と堀跡

  福島城跡

  山王坊遺跡

  唐川城跡

  中島の市浦歴史民俗資料館

  中世・近世の十三湊の港市跡

  浜の明神

  中世紀の十三湊の日本海側への出口跡

  十三湊安藤氏の館跡

 

出された論点

  十三湊は環日本海交易の拠点であろうが、大陸部への帰りのための風を考えると、どの程度大陸部から人々がやってきていたのか、慎重に考える必要あり。

  外来商人たちがやってきていたとすると、彼らはどこに居住区を構えたのか(寺?)。

  道南十二館の存在は、安藤氏が蝦夷との交易のためのしっかりした基盤を形成していたことをうかがわせる。

  しじみラーメンは美味かった。



 

第四回「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者広域社会秩序と地域秩序」研究会             

2009年7月26日 東京

報告

   アナトリア半島におけるモスク建築の諸相      山下王世

出された論点

 ・ オスマン朝(12991922)建築の様式区分:6期に分けることができる      
    初期(12991500)  古典期(15011703)  チューリップ期(170330) 
    トルコ・バロック期(17301808) コスモポリタン期(18081908)  ネオ・オスマン期(190822) 

 ・ 1113世紀のアナトリア半島のモスク建築

    特徴:多柱式の礼拝所、中庭の存在、ミニラーブミニラーブ(メッカの方向を示す壁のくぼみ)前にドームが存在

        シリアのモスクに類似するものやペルシャの影響が見られるものも

アラブ・ペルシャのモスクの特徴:広い中庭の存在

トルコのモスク:中庭は狭くなり、ドームで覆われる

 ・ オスマン朝時代のモスク

     初期 : 多機能モスク=礼拝所兼宿泊所 小規模ドームが複数存在

     古典期 : オスマン朝最盛期=経済・技術面での発展→モスクの大規模化 
            アヤソフィア寺院の影響 : 外観の類似、内部はまったく違う
                            =アヤソフィアの欠点の克服

     チューリップ期以降:
       古典期に確立された様式がベースになる
       オスマン帝国が西洋化→その影響が建築にも現れる=装飾
       曲線・楕円の導入、尖塔の変化

 ・ モスク建築の立地条件
    港に建設されたモスク(イェニ・モスク)の存在(スルタンの母親が建築)
    交易港としてのイスタンブル、ユダヤ人商人の存在
    オスマン帝国=皇帝を頂点にいただく、緩やかな統治を実施するイスラム
    モスクの様式:オスマン帝国の権威を外部者に誇示する目的



弘末科研2009年の旅

2009825日(火)フォーレスト本郷。起床730、入浴・朝食。920チェックアウト。丸ノ内線で東京駅へ。東京駅1003成田エクスプレス15号で成田空港1058着、ホームで貴堂さん、弘末さんに遇う。私は2号車だったが、ご両人は1号車であったよし。アリタリア航空カウンター前で先に来られていた唐澤さん、佐々木さんと合流し、手続き後、空港内食堂で昼食。食事の途中で唐澤さんのみイスタンブール行き直行便で先に出発。残りはアリタリア航空7851320成田空港発。食事が二回出る。1900(現地時間・時差-7時間、サマータイム実施中)ローマ・フィウミチーノ・ダ・ヴィンチ国際空港着、保安検査場に長蛇の列。その先頭の方に石川さん、清水さん、疇谷さんの姿を発見。ここの検査にやたらと時間がかかる。乗り継ぎ時間が短い帰りはどうなるのか不安。待合いで三氏と合流。ボーディング時間近くになってもゲートに係りの若いあんちゃんがうろうろしているだけで、どうしたのかなと思う。待合いの前の土産物売り場の鉄格子が降りて、店じまいかと思ったら暫くしてまたゆっくり上がって行った。あれはいかなる意味があるのだろうか。どちらにしても客も店員の姿もないから関係ないけれども。近くの長椅子に座っていた同じ飛行機に乗る人も不安になったらしく我々に確認を求めて来た。アリタリア航空70222時前にローマ・フィウミチーノ空港発、ゲートが開いてから離陸まではえらく速かった。遅れていてもすぐ出ますからというノリなのかも。お茶菓子が1回出る。疲れと眠さで死にそうになっているところに、無情にも入国カードの提出を求められる。トルコ共和国1時過ぎ(現地時間・時差-6時間、サマータイム実施中)に到着。荷物を受け取り、両替(001536)を済ませ、200トルコリラずつ会計係の疇谷さんに預ける。空港カウンターで石川さんがライオンホテルまでのリムジンのワゴンを手配して一路ホテルへ。ライオンホテルはヨーロッパ側タクシム広場近くの石畳のストリートにある。チェックインはスムーズ。部屋の差し込みは220VCBF型。歩数8945歩・244㌔㌍、就寝0235(日本時間の26日朝835)。

826日(水)ライオンホテル。起床630(現地時間)、入浴、前日の日記を付ける。900朝食会場のホテルA階のレストランに行く。9階建ホテルの規模に似合わず広々としたレストランである。バイキング形式ですでに石川さんが来られていた。後に弘末さん、疇谷さんが現れ、また清水さんが行動計画の連絡で来られた。1030、ホテルロビーに集合、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究・研究科附属イスラム地域研究センター、副センター長(准教授)の東長(とうなが)靖さんが来られ、1日の行動日程について相談をする。東長さんはイスラム神秘主義研究調査のため、度々この地に滞在されているという。(我々と同時期にDNCグループの別会社に出向されていたことが後に判明した。)たまたま近くのドミニコ修道会の宿泊所におられたため、清水さんのご依頼で調査の合間にご案内頂くことになった。ホテル近くの中華のお店の前を通ってアタチュルクの記念碑がモニュメントになっているタクシム広場まで歩いて行き、メトロ・フィニキュレルでタクシムからカバタシまで乗る。坂を上り下りしている1区間のみの地下鉄。イスタンブールでの乗り物利用にはプリペイド式チケット「アクビル」が便利で、複数人での使い回しができる。これは乗車料金が16トルコリラ均一であるため、先に入場した者が外の仲間に渡して順繰りに入場することができる。退場時には回転バーを押して出るだけで済む。また、いちいちチケットを買うより20%安く、また乗り継ぎ割引もされるので、2つ購入して皆で使い回すことにする(デポジットとして1つ6トルコリラ必要、また金額が減ったら必要な分だけ入金すればよい)。カバタシまでは降り勾配を無人の列車が降って行く。発車の場内放送など一切無く時間になったら戸が閉まって発車する。カバタシからはトラムに乗り換えて旧市街のスルタンアフメットまで行く。トプカプサライの入口で東長さんと分かれる。夕食はご一緒できるとのこと。トプカプサライ博物館は入場料大人20トルコリラ。まず表敬の門から幸福の門まで歩く。右手の陶磁器展示室は閉鎖されていたので中国陶磁器など見られず残念。かつてここは4000人の食事を賄うことができた一大厨房であった。また表敬の門には当時イェニチェリが詰めていた。幸福の門の前ではかつて外国使節との謁見や供宴が行われ、給料の支払いなども行われたと、清水さんが『イスタンブル歴史散歩』(鈴木薫著)を読み上げつつ進む。次ぎに会議の間を見て、別料金15トルコリラのハレムを見る。宮殿内の宮廷レストラン「コンヤル」で金角湾の絶景を眺めつつ、昼食。440トルコリラの豪華な昼食であった。トルコの食事ではフランスパンが豊富に駕篭に盛られて来る。冷たいメゼ、茄子のサラダ(パトルジャン サラタス)、トマト・キュウリ・レタスの生野菜サラダ、ドネル・ケバブ、シシ・ケバブなど7品目とチャイ、トルココーヒー、味も文句なしに美味しいし、サービスも陽気で行き届いている。高めの価格設定でも大いに流行っている理由が分かる。食事後、聖遺物の間、宝物館、レバンキオスク、サマーパビリオン、バグダッドキョシュキュなどを巡る。通路にローマの遺跡が残されていた。最後に博物館売店、土産物売場を覗くがめぼしいものがなかった。続いて近くのアヤソフィア寺院を見る(20トルコリラ)。内部には大きな足場を組んで内装か改修工事をしていた。寺院の入り口に地下からやはりローマの遺跡が顔をのぞかせていた。更に地下宮殿(イェレバタン・サライ)(10トルコリラ)を見る。ここは6世紀以来の貯水槽だったところである。中は暗闇の中にうっすらと列柱がライトアップされており、地下宮殿の柱の根本に流用されているメドゥーサの首は巨大だった。ここのカフェで飲み物を買って小休止。街の所々にローマの遺跡が顔を出していておもしろい。日本語を話すトルコ人が近づいて来て絨毯があるというので、避けようとしてズボンを垣根に引っかけて鉤裂きができる。換えのズボンを持って来て正解。(この後、この鉤裂きは拡がって行きアテネの最終日に捨てた)次にトプカプサライの向かえ側にあるブルーモスクを拝観。モスクの敷地でブックフェアをしていた。終わりにローマ時代の競馬場跡であるヒポドゥロームでテオドシウスのオベリスクと蛇のオベリスクを見る。オベリスクの横にケバブ屋が軒を連ねていた。再びトラムの乗り場まで戻るとケバブ屋?の前に長蛇の列ができていた。すっかり忘れていたが一応はラマダンなので日没を待って公園でテイクアウトを楽しむのかもしれない。行列を横目にトラムと地下鉄を乗り継いで来た道をホテルに戻る。2030、ロビー集合で東長さんとともに一両だけ小さな赤い車体のトラムが走るイスティクラル通り(オスマントルコ時代に大使館・在外商人の邸宅が立ち並び、まるで上海の租界を思わせるアール・ヌーヴォー様式の建物が建ち並び、書店や土産物屋もある、またリゼもあった)を歩いてデュネル広場近くのYAKUP2レストラン2階のオープンスペースで食事。ここの居酒屋。トルコの食事は冷たい前菜・暖かい前菜・魚料理・肉料理・デザートの五段構え、日本人は大概最初で撃沈するようである。ともかく肉と野菜の豊富な食事が嬉しい。最初に冷たい前菜の見本を持って来るので好きなものを選ぶ。フランスパンを切ってトーストしたものが盛られて出てくる。これは居酒屋がする流儀とのこと。各種メゼにサラダ、エビのグラタン風焼きであるカリデス・ギョヴェチ、キョフテなど。レストランに時たま猫が訪れて残り物をねだっていくのはアジア的かもしれない。食後、皆歩いてホテルに戻った。水は05トルコリラ、DEMESのプレミアム林檎ジュース1リットルは35トルコリラだった。この通りを歩きながら、イスタンブールは上海と趣が似ていて、上海が些か中国的ではないのと同じようにイスラム圏、トルコ圏では異質な趣があると清水さんと話した。歩数23333歩、11204㌔㌍。就寝2400

827日(木)ライオンホテル。起床430、下痢で4度、トイレに行く。昨日のアルコール(ビール・ラク)摂取は普段飲んでいないだけに響いたのかもしれない。6時過ぎから外が白み始めた。日記を書く。入浴、8時前にレストランに降りるところで唐澤さんと遇い、さらに貴堂さんと遇う。清水さん、石川さん、あとから弘末さん、佐々木さんが来られて朝食。9時ロビー集合。東長さんがお見えになられてタクシム広場からバスでエミノニュへ。まずエジプシャンバザールを散策、東長さんに冷やかされながらマフラーなど買う。バザールには地下があって、見た目以上に商品がある。東長さんからトルココーヒーをプレゼントで貰う。集合時間になっても佐々木さんが現れない。心配して東長さんが探しに行き、金のネックレス選びに夢中になっている佐々木さんを連れて戻って来た。買い物もまた異文化を知る大切な機会ではある。ちなみにエジプシャンバザールはイェニ・ジャミイの一部。メフメット3世のトルハン母后の墓室を見学。続いてシルケシ駅を見る。ここはオリエントエクスプレスのイスタンブールの発終着点であり、一部屋だけの無料のオリエント急行博物館が設置され、関係する写真や部品が展示してあり、展示品である座席に猫が寝ていた。そこだけ座布団が敷いてあることからどうもその猫の定位置らしい。入口では係のおじさんが陽気なトルコの踊るようなミュージックを聴きながら居眠るように座っていた。ホームは現役で使われているが、その片隅で猫がキャットフードにかぶりついていた。それからガラタ橋を渡って新市街地側の船着き場に移動する。途中、名物鯖サンドや海鮮のレストランが橋の下に軒を連ねていた。船着き場では船員組合の建物に東長さんが案内下さり記念室を見学する。英文のパンフレットを貰う。その後、近くのトルクバクラバシというお菓子屋さんでアシュレというライスプディングやバクラヴァなどとチャイを楽しむ。一休みした後、テュネルというイスタンブール最初の地下鉄駅を見学して、ガラタ塔への急坂を上りガラタ塔に登る。上までエレベーターがあって楽であった。東長さんは高いところが苦手ということで表の野外喫茶で待っておられた。塔から降りた後は近くのグネイという食堂で食事、ここは各種煮込み料理をライスにかけてくれる。ラムや牛肉のトマト煮込みが多い。ライス以外に大麦をケチャップで炒めたピラフもあり、私はそれを頂く。EU加盟問題でトルコでは全面禁煙が進められており、店内での喫煙は禁止されているが、同じ店でも店先のテーブル席では吸うことができ、アシュトレイも持ってきてくれる。店先のテーブルの下では猫が陣取っていた。それからタクシー2台に分乗して軍事博物館まで行く(3トルコリラ)。イェニチェリ軍楽隊の演奏を聞きたいという石川さんからの提案であったものの、肝腎の軍楽隊はアンカラに行っていて演奏はなく、皆で軍事博物館を見学する。広大な博物館にトルコのものはほとんどなく戦利品ばかりであった。後、バスでタクシム広場まで戻りホテルで休憩。日記を書く。18時ロビー集合、200トルコリラ再徴収。タクシム広場の地下鉄入口で東長さんと合流、香港大酒家という中華のお店の近くでワゴンバスでベジクタス・バルバロスの船着き場へ行く。帰宅途上の人々で混む渡し場からシーバスでアジアサイドのカドウキョイへ。途中、クズ島、ハイダルパシャ駅を望む。船着き場からレストランに向かう途中で東洋大学社会学部社会文化システム学科・准教授の三沢さん(トルコ史)と合流。三沢さんは二度目のサバティカルで奥様とアジアサイドにお住まいになられている。コジャレストランは海鮮を得意とする少し上等な飲み屋さんである。焼き魚がとても印象的で、夜風も心地よく途中から眠気に誘われてしまった。ここはギリシャ正教徒が経営しているので、店内に小さな礼拝堂が設けられていた。レストランの周辺は商店主など成功した人々の少しハイクラスの住宅街だそうだ。また人情純朴でかついろいろな宗教・人種が混在しているとのこと。この周辺は猫も多いが巨大な犬がうろうろしていた。がぶっとやられたら狂犬病でイチコロだろう。食事が終わり三沢さんと別れ、ワゴンタクシーでファティフ・スルタン・メフメット大橋(ボスフォラス大橋、円借款でできる)経由してタクシム広場に戻る。途中、墓地を切りひらいた道路を通ったが、基本的に土葬だから出てきた人骨は焚きつけに使ったとかいう話になった。昔、エジプトのミイラを蒸気機関車のコークス代わりに使ったという話で盛り上がる。41トルコリラ。ここで東長さんと別れてホテルへ。雑貨屋で飲み物を買う。弘末さんが高橋さんへの置き手紙を書いて解散。歩数24406歩、11756㌔㌍。就寝2400頃の模様。

828日(金)ライオンホテル。起床650、日記を書き、入浴。朝食。高橋さん、弘末さんの姿があった。石川さん、唐澤さん、弘末さんと朝食。9時ロビー集合。近くの両替所で1万円を換金。地下鉄とトラムを乗り継いでエミノニュからボスフォラス海峡から黒海入口までのクルーズに出る(片道13トルコリラ)。途中、オルタキョイジャーミー及びファティフ・スルタン・メフメット大橋(第二ボスフォラス大橋)近くでルメリヒサールとアナドル・ヒサールが見えた。船の2階デッキの階段の手すりにつかまって高橋さんが撮影していたので、私も真似して撮影。有名なカンルジャのヨーグルトを味わいつつ(2トルコリラ)終点アナドル・カヴァウで降りる。桟橋近くのヨスン(YOSUN)レストランでメゼとビール、魚のグリルを楽しむ。猫がいたので餌付けをしていたら5匹まで増えて、それが清水さんの座席を取り囲むように展開し、うち1匹に清水さんが指をひっかかれて、翌日には腫れていて申し訳ないことになった。すかさず指に塩を振りかけていたあたりが百戦錬磨を思わせ、妙なところに感心した。猫は指と餌を勘違いしたのだろう。食事を済ませて要塞まで登坂する。黒海がよく見えた。要塞までの登りの中腹にトルコ軍の駐屯地があり警戒が厳重であった。船内でのチャイ105トルコリラを2度も楽しみつつ再び船でエミノニュまで戻ると東長さんが待っていてくれた。彼の案内でリュステム・パシャ・ジャーミーを見学する。スィナンの設計になるこのジャーミーは白地にブルーの幾何学紋様、チューリップなどをモチーフにしたタイルが美しいことで有名。礼拝が済むのを待って中を見る。高橋さんは再来となった。ジャーミーの入り口は二階で、テラスから下を見ると問屋街になっている。続いて問屋街で魔よけやチャイ用ポットを購入。屋台で桃などが売られていた。そのままスレイマニエジャーミーに行くも修復中で入口のみ公開。スレイマン1世の墓所を見学したのち、イスタンブール大学の横を通り書籍街を経てグランドバザールに行く。このあたり猫だらけだった。閉店間際で30分ほどざっと見て、ジューススタンドで生搾りオレンジジュースを飲む。35トルコリラ。絶品。石川さん、貴堂さん、高橋さん、唐澤さんはベリーダンスショーを見に行かれた。21時から3時間あまりのショーで、石川さんはお立ち台で踊りチップも貰ったとのこと。外部資金獲得の新たな可能性が見えた一瞬であった。残りの私ほかはテュネルに乗ってテュネル広場へ。そのままイスティクラル通りを歩いてボンジュクレストランに行く。ここは小松先生などご贔屓が多いとのこと、随分階段を上って屋上のレストランに行く。途中で弘末さんと佐々木さんがストライキを起こしかけた。七、八階まで上るというなら先に言ってくれればいいものを。疇谷さんは揚々と上がって行かれた。ビベル・ドルマス(ピーマンに肉・米などを詰めたもの)などのメゼ、カラマル・タヴァ(イカのリング揚げ、弘末さんは「イカのナガサキ」と喜んでおられた)、シシ・ケバブなど食べる。隣のテーブルは大人数の宴席となっていて、そこに流しの演奏がやって来て佐々木さんが踊り狂っていた。おまけにチップまで取られる。昔、大学の後輩の友達にダンサー佐々木というのがいたが…。外部資金獲得の新たな可能性も春の淡雪のように消えていった瞬間であった。その後、歩いてホテルに戻る。石川さんたちは030までベリーダンスショーを楽しまれてお帰りになられたようだ。歩数18742歩、8831㌔㌍。就寝2340頃の模様。

829日(土)ライオンホテル。起床604、荷造り、入浴、ロビー640集合、各部屋の備え付け飲料等の確認で相当に時間が掛かりチェックアウトに存外の時間を費やした。あおりでタクシム広場から出るハバシュ(空港行リムジンバス)に目の前で行かれ、近くのタクシー2台に分乗して空港に向かう。私の乗ったタクシーは後続車であったが、105から110㌔平均で走りベンツをぶち抜いて空港手前の赤信号を突破したところでパトカーに追走され、運転手がパトカーと併走しつつうまいこと抗弁して難を逃れたようで、空港入口でハバシュを抜き去った。料金は先発車より10トルコリラぐらい安かったようである。タクシーメーターをうまいこといじってメーター速度をごまかすテクニックがあると聞いた。空港で諸手続の後、ロビーの喫茶コーナーで軽い朝食を採る。胃腸の調子が今一で、トイレットのロールが切れていたが、持参していたので事なきを得た。田舎道での緊急事態に備えたものが国際空港で役に立とうとは…。免税店でトルコリラの費消に努め、オリンピック航空3221005イスタンブール発、食事が一回出て(パン付きで、主食もパン、デザートもパンだったことに高橋さんが激しく反応して、いかにギリシャの食事が貧しいか力説し始めたが、私は気がつきもしなかった。皆さん、高橋さんの反応を面白がっていた。)ギリシャ共和国アテネのエレフセリオス・ヴェニゼロス国際空港に1125着(ギリシャはサマータイム実施で-6時間)、空港内でユーロに換金する(レイトは14891万円で644ユーロ)。5万円換えて322ユーロで、200ユーロを疇谷さんに供出する。当初、地下鉄でホテルまで行くところ、地下鉄は新駅建設で不通のため、リムジンバス(32ユーロ)でシンタグマ広場まで行き、ここから地下鉄に乗り換えて(1ユーロ)オモニア広場(1ユーロ)まで行き、ピレオス通りのドリアンインホテルまで歩く。高橋さん大焦りであったが、後からガイドブックを見たらそう書いてあった。そう言えば、リムジンでお年寄りご夫妻に席を譲ったら、途中降りていく時に譲り返された。こういうところは中国と同じだった。なお、各駅停車のリムジンで路線バスと変わりなかった。チェックイン後、荷物を部屋に置いてホテル12階のバーで軽い昼食。弘末さん、高橋さん、佐々木さん、清水さんと私。ビールとグリークサラダ・サンドイッチ・オムレツ。10ユーロずつ出す。ここはプールが併設されているほか、四方に視界を遮る建物がなく、アクロポリスなど一望できる絶景。水をホテル外のキオスクで買う。05ユーロ。日記を書いて17時、ロビー集合。石川さん、疇谷さんは早速近くを散策されていたようだ。高橋さんが時差とお疲れからか来られないので、フロントから呼ぶ。オモニア広場から地下鉄でシンタグマ広場まで行き、各自、1時間半ほど周辺を散策。高橋・清水・疇谷組とその他に結果的に分かれる。私の方の組はミトロポレオス通りを西に下り、修復中のミトロポレオス大聖堂(ギリシャ正教会・大統領就任式などする)を見ながらローマ時代のアゴラの横を通過し、アマリアス通りを北上して無名戦士の碑を見て広場に戻る。土産物屋とタベルナが沢山あり、盛んに日本語で話しかけられる。でかい野良犬が沢山歩いているのが印象的であった。それから皆でモナスティラキ広場まで行ってバイラクタリスというお店で夕食。ワイン・ビール・グリークサラダ・ムサカ・スブラキピタ・肉の葡萄の葉包み(ドルマ)、蜂蜜かけヨーグルトを味わい、チップ込み100ユーロ。店の中と外にテーブルと椅子を並べる光景はラマダンのイスタンブールと変わらないし、特に屋外の座席はぎっしり満員で活気があった。ちなみにラマダンの遵守率はトルコでは過半も行ってないのではということであった。やはり辛いらしい。帰りはモナスティラキ広場から地下鉄でオモニア広場に戻り、水を2本買って、また12階のバーで夜景見がてらワインを飲む。眠くなったので弘末さんたちと先に部屋に引き揚げる。オモニア広場からホテルのあたりは落書きなど多く、夜間の治安は悪いようだ。歩数15597歩、7405㌔㌍。2330頃就寝の模様。

830日(日)ドリアンインホテル。525起床、日記を書き、入浴・朝食は9時頃。弘末さん、清水さん、高橋さんが食堂で旅行計画を立てておられた。10時ロビー集合・チェックアウト、荷物を預けてアテネの外港ピレウス港を見に行く。地下鉄で途中駅まで行きバスに乗り換えてピレウス駅に到着。地下鉄駅工事の影響は大きい。ピレウス港を見つつ、徒歩でアギア・トウリアダ教会(ギリシャ正教会)まで行き内部見学、日曜の礼拝が終わったところであった。写真撮影は制止された。続いて考古学博物館に行くもやってはおらず(閉館の可能性)、そのままゼア・マリーナまで歩き海事博物館を探すが、中華のお店(東方明珠大飯店、張興酒楼)はあっても、別の建物を博物館と誤認して閉館と勘違いする。実は途中で見かけた潜水艦の魚雷発射口などが飾ってある公園が博物館であったことが食後に判明した。その頃には閉館の14時を過ぎていた。昼食はヤア・マスという海岸通りのお店でグリークサラダ、小魚のフリッター(ぴたリディア若しくはガエロピタか?)スブラキ・アルニシオ(ラムブロック肉の炭火焼)、パエリアなどを食べ、ビールはfischerであった。食後、海事博物館の外観だけ一目見て教会方面に馬の背越えで戻り、40番のバスと地下鉄を乗り継いでオモニア広場を目指し、ホテルに戻る。ホテルでタクシー2台を呼んで貰い、空港に行く。タクシーはぼらなかった。空港の荷物検査でパソコンのラップトップを皆開かされたが意味不明。待合で自民党大敗の様子を貴堂さんのパソコンで見させて貰った。今後の大学・研究支援体制はどうなるのだろうかと不安が過ぎった。オリンピック航空5141820アテネ発、1910ヘラクリオ空港着、タクシー2台に分乗してギャラクシーへ。ここは素晴らしい!一休みしてブエルタ・ア・エスパーニャ20092ステージを観戦。2030ロビー集合、近くのエレフテリアス広場まで行き、クイックレストランというお店で夕食、カラマラキア・スブラキ、ゲミステス、サガナキ(チーズの天ぷら)、グリークサラダとビール・ワインでギリシャらしい美味が揃う。クイックという店名通りどんどん出てきて吃驚した。2230頃歩いてホテルに戻る。水104ユーロで2本分、弘末さんに立て替えてもらった。歩数17528歩、8586㌔㌍。2300頃就寝の模様

831日(月)ギャラクシー。630起床、日記を書き、入浴、朝食、弘末さん、清水さん、高橋さんがいらした。9時ロビー集合。エレステリアス広場近くのバス停からクノッソス行きバスに乗る。片道13ユーロ×2。クノッソス・考古学博物館・歴史博物館の共通チケットで5ユーロ。クノッソス遺跡入口でガイドから英語がしゃべれるか聞かれる。我々にガイドは入らないので無視して遺跡に行く。快晴で日差しが厳しい中、欧米を中心とする沢山の観光客で遺跡は溢れかえっていた。観光客はおおよそバカンスで来ているせいなのか、背中を全部はだけた服装の女性が多かった。また、ピンクの猫耳傘の中年女性は行列でも強烈なインパクトであった。遺跡よりもそれに群がる観光客に我々の関心が移って行った。港科研のことを考えると遺跡の中にレプリカとして掲げられたイルカの絵など遺跡と海の関係を象徴しているようであった。2時間程度見たあと、遺跡を出てミュージアムショップによる。ここはまずまず充実していた。いよいよクノッソスを離れようとしたところ、ガイドと見られる女性から高橋さんが激しい叱責を受ける。こんどやったら警察に言うとか言われたらしい。どうも偽ガイドと間違われたらしい。少なくとも彼らの縄張りを荒らしたと判断された可能性は高い。なかなか印象深い事件であった。ただ、ガイドを使うかどうかは客が判断すべきものであろう。再びバスで市内に戻りエレフテリアス広場で降り、カフェ・ウゼリで昼食。グリークサラダ、サガナキ、ケフテデス(ギリシャ風肉団子)、ひよこ豆?の煮物、果物とウゾ。レッチオの飲み過ぎ。アニスの効いた独特の風味のワイン。クノッソス神殿を歩いている時に地母神のような女性に出会った。ご夫婦ともにそういう体型であったが、奥様の上半身はビキニ(さすがにマイクロビキニではなかったが)!だけだった。あまりの神々しさに一同手を合わせて拝んでしまったが、若いときにすらりとした八頭身の美男美女がどうしてドンドコドコドコ地鳴りの聞こえてきそうな体型になっていくのか、疇谷さんのタンパク質トライアングル+2=パスタ・米・芋+ワイン&オリーブオイルがその原因であるという説が印象に残った。せめて自分はそうならないようやはり帰国早々の50キロハイクに是非出ようと心に誓った。その後、考古学博物館に行くが改修中のためか一部の展示のみであった。続いて海岸沿いをヴェネツィアの要塞など眺めながら歴史博物館に行く。途中で第2次世界大戦博物館を見ようとしたが閉館後であった。やっとのことで歴史博物館はフル開館中であった。ニコス・ガザンザキスというクレタ島出身の思想家の展示が特徴的であった。エレフテリアス広場に彼のレリーフがある。その後、弘末さん、佐々木さん、貴堂さん、高橋さんはタクシーでホテルに帰り、残りは散策しつつホテルに戻る。途中、アギオス・ミナス大聖堂(隣はアギア・エカテリニ教会)を見学し、エヴァンス通りで清水さん、疇谷さんと別れ、石川さんの誘いでベニゼル広場に行きモロシニの噴水を見る。ここが旧市街の中心であり、広場に面して聖マルコ大会堂や市公会堂などがあり、多くのレストラン、喫茶がテーブルを出していたので、お茶を飲んで一休みする。オレンジジュース代3ユーロは石川さんに立て替えてもらう。その後、問屋街でサフラン3ユーロを2つ買う。その後、ホテルに戻る。途中でオレンジジュース1リットル2ユーロを買う。ホテルでブエルタ・ア・エスパーニャ20093ステージを見る。1930ロビー集合で港のよく見えるベネトレストラン・カフェで夕食。ここの給仕の女性は若くて美人揃い、よく働く。佐々木さんの誕生日を祝う。2年前の広東省広州の広州酒家以来である。ワインを大いに空け、グリークサラダ、サガナキ、魚のフリッターなど軽めに食べて、食後、歩いてホテルに戻る。歩数23550歩、11373㌔㌍。就寝137

91日(火)ギャラクシー。650起床、日記を書き、入浴、朝食、石川さんと一緒になる。ほかの皆さんも全て食堂におられた。佐々木さん、高橋さん、疇谷さんは外のテラスで食べていた。830ロビー集合。チェックアウトは一瞬で終わる。さすが一流ホテルは違う。タクシー2台に分乗して港に行く。945、イラクリオ発フライングキャットでミコノス島に向かう。途中、サントリーニ(ティラ)島、イオス島、ナクソス島に寄り、予定より1時間あまり遅れた1520頃ミコノス着。強風で海が荒れており私には厳しかった。乗客の欧米人が沢山吐いていた。下船時、砂礫が強風で顔・手足に容赦なく叩き付ける。ヨーロッパ北部に強烈な低気圧があると疇谷さんが言う。トランクは船の収蔵庫の一番奥に積んでいたので海水に浸っていなかった。高橋さん、清水さんにトランクを運んで頂いた。タクシースクエア・マント広場まで行って喫茶をしながらタクシーを待つ。ここではペリカンがマスコットになっていて、広場を歩いて水を飲んだり、優雅に空を舞っていた。ホテルは町はずれなので8ユーロかかったが、夜に町まで夕食を食べに行ったときは5ユーロほどであった。アテネ以外の地方はタクシーがぼることもないと高橋さん。タクシー2台に分乗してイアナキホテルに行く。私は横になって船酔いからの回復を期す。まだ、疲れたままだったが、1830にロビーに集合して科研の出版について30分ほど打ち合わせを行う。その後、タクシー2台に分乗してマント広場まで行き、細い通路を縫ってエヴァズ・ガーデンレストランに行く。グリークサラダ、大エビのトマト煮込み、魚の丸焼き、デザート、ほかワイン・ビール。私は体調からオレンジジュースと水だけにする。ここは高いお店で500ユーロ以上費消したらしい。資金の再徴収に向けて1万円を両替する。私はアルコールはやめてひたすら体力の回復に努める。食後は再びタクシーでホテルに戻る。歩数5022歩、2352㌔㌍。日記を書き、就寝。時間不明。1時頃だろう。

92日(水)イアナキホテル。630起床、珍しくお腹が空いている。体調は戻った。朝食が8時からなので先に荷物を預け、チェックアウトを済ませて朝食会場に向かう。客は我々以外、後から来たカップル一組だけだった。825頃にタクシーを呼び、前後2台に分乗してタクシースクエアに向かう。広場で先発隊と合流して急ぎフェリー乗り場に向かい、ぎりぎりで9時のデロス島行きフェリーに乗り込む。船の前で京都大学人文科学研究所の高島航准教授と奥様、お嬢さんの3人ずれに出会う。昨日の1便違いのフライングキャットで来られたそうである。あちらは家族旅行。デロス島までは約40分かかる。昨日に比べると落ち着いているものの、風はまだ強く海も荒れている。デロス島の波止場のところがチケット売場(10ユーロ/人)・ミュージアムショップになっており、ガイド行為をしないよう注意される。団体はガイドを雇うことがこの国では申し合わされているらしい。違反すると警察沙汰になるようだ。推測であるがガイド組合が国の観光政策の下に縄張りと利権を確保し、それで生活をしているので、その権益を遵守するよう観光客にも強制するようだ。1便あとの10時発のフェリーで来た団体にはそれぞれガイドがついていた。あの便と一緒になったらガイドからの攻撃に曝されていたことであろう。高橋さんは付かず離れずの案内をして下さり、意外なところでの労苦となる。聖なる港、デロス人のアゴラ、アポロンの聖域、ローマ時代のアゴラ、ライオンのテラス、聖なる湖、湖の家、闘技場、博物館、ディオニソスの家、クレオパトラの家、イルカの家、貯水池、古代円形劇場、シリア人の神殿などを見て回る。ミュージアムショップで冊子と土産物を買う。1215発のフェリーで戻る。帰りの波高くしぶきがかかる。帰りの便で再び軽い船酔いにかかる。お昼はタクシースクエアのタベルナ・アントニーニでゆっくり頂き(石川さんに3ユーロ返す)、午後は風車や土産物屋を見て回る。オリーブ石けんを10個買う(10ユーロ)。両替で5000円をユーロに換えたが33ユーロ(レート1386870)であった(弘末さんには1ユーロにして返す)。疲れたし見るところもじきなくなったので広場でお茶を飲み(5ユーロ)、2組に分かれて早めに引き揚げることになった。弘末さん、疇谷さん、佐々木さん、私が先に行き、ホテルでタクシーを待たせて荷物を積み込み、石川さんのJALカードが忘れ物としてカウンターに預けられていたので、話し合った結果、疇谷さんが伝言をカウンターに残すことにしてホテルを出発したところで石川さんたちのタクシーが来たので、その旨伝えて空港に向かう。アエジアンエア(AEGEAN33791910ミコノス発で出発のところ、全員空港に17時前に到着し前便以前にチェックインカウンターに並んだので、高橋さんが職員に尋ねたところ、前の便に乗ることは可能ということで急遽予定を早めてアエジアンエアO377に乗ることにし、すぐセキュリティーチェックを受けて、1710過ぎに搭乗開始、1740離陸、1817にはアテネに着いた。当初予定では1945アテネ着であるので、高橋さん曰く「早起きは三文の徳」と。タクシー2台に分乗してドリアンインホテルに向かう。高橋さん、弘末さん、疇谷さん、私の乗った方はとてもよい運転手さんで丁寧な運転(横断者に道を譲ること2回など)と厳格な規則厳守、フレンドリーな歓迎でとても気持ちの良いものであった。ところが石川さん、清水さん、佐々木さん、貴堂さんの乗った方は388ユーロのところ50ユーロ持ち逃げしようとして、清水さんの奮戦でやっと40ユーロで落ち着いたそうである。激しくやり合った清水さんにはお疲れの色が見えた。私が乗った方が先発だったにも関わらず、後発が先についていたので相当乱暴な運転だったのであろう。高橋さんが心配していたアテネの運転手問題についにぶつかった感じである。2030ロビー集合。清水さんは運ちゃんとの激闘が響いてまだ濃い疲労を引きずっている。弘末さんが集合に遅れて来られた。蓄積疲労がおありのご様子。ただ、ホテル周辺は治安が悪いため地下鉄で一駅のモナスティラキ広場まで行き、高橋さんがいつも行かれている方のバイラクタリスで夕食を食べる。お店の給仕のおじさんがとてもフレンドリーで、沢山サービスするから沢山チップ頂戴ねと。デロス島からの帰りのダメージが残っていたがビールを少しだけ飲む。勘定は100ユーロ台と非常に安かった。スブラキ、ケバブ、トマトと肉の煮込み、茄子と肉の煮込み、タマネギと肉の煮込み、ラムとジャガイモの付け合わせなど8品。ビール、ワイン。高橋さんはお店へのチップとは別にテーブルに付いたおじさんとウエイトレスにそっとチップを渡していた。明日、資金の再徴収があるとのことなので、石川さんから1万円借りる(翌日、もう1万借りた)。手持ちの日本円が尽きてしまった。モナスティラキ広場には昔の地下水道が保存されており(恐らく地下鉄工事で出てきたものだろう)、それをのぞき込んだ後、広場のキオスクで水を買って、地下鉄で戻る。歩数16704歩、7714㌔㌍。2300頃就寝の模様。

93日(木)ドリアンインホテル。600起床、日記を付け、入浴、朝食。石川さん、清水さん、高橋さんがいらっしゃる。後から弘末さん、疇谷さんが見える。900ロビー集合。地下鉄は一日乗車券3ユーロを買い、オモニアからアクロポリまで乗り、歩いてアクロポリスに行く(駅に地下鉄工事で出てきた遺物が展示されていて、まるで美術館のようであった)。石川さんから借りた2万円を郵便局で両替する(2万円で14774ユーロ、1万円が7387ユーロ、良い方である)。入場料12ユーロ。すでに多くの観光客が来ている。団体客はガイドがついている。入口で日本語ガイドから声をかけられる。ガイド料は人数で計算するので、一人10ユーロで計算すると膨大な利益がガイドに転がり込むことになる。当然利権の対象になるので、再びガイド問題が生じないよう散開し、高橋さん付かず離れずご説明下さる。アクロポリスを出ると向かい側のアレオパゴスの丘に登り、アクロポリス博物館に行く。開館記念価格1ユーロで入口には行列ができていた。博物館1階の軽食喫茶でサンドイッチと飲み物の簡単な昼食を食べ、バンアテナイ通り(麓からアクロポリス神殿に登る石畳の道、ローマ時代の石畳が一部残っている)を逆にたどって古代アゴラ博物館(アタロスの柱廊)、中央柱廊、ヘファイストスの神殿など見て廻り、アドリアヌス通りを通ってモナスティラキから地下鉄に乗るが、ここでスリ集団に狙われ、弘末さん、疇谷さん、私の懐を探られ、弘末さんが2万円あまりのユーロをポケットからすられる。一味は次のオモニアで降りたらしい。佐々木さんはオモニアでホテルに帰る。残りはビクトリアまで乗って、考古学博物館まで行く。徒歩でホテルまで帰る。日記を書く。1930、ロビー集合で2日連続スリに狙われた弘末さん及び佐々木さん、高橋さん、私がタクシー、ほかは地下鉄、シンタグマ広場で合流。ビザンティノで食事。弘末さんの胃腸の調子が悪い。お疲れが溜まったようだ。カラマラキア(この旅行中、最も不出来)、蛸足の姿揚げ、ケバブ、スブラキ、炒めたエビにビールとワイン。ビールを少しだけ飲む。帰りはまたタクシー(弘末・佐々木・石川・私)と地下鉄に分かれて帰る。飲み物をキオスクで買ってホテルに戻る。歩数23167歩(2262)、11045㌔㌍(1114)。2300頃就寝の模様。

94日(金)ドリアンインホテル。632起床、日記を書き、入浴、朝食。食後、すぐロビー集合、タクシー2台に分乗して空港へ。アリタリア航空7191225アテネ発、1340ローマ・フィウミチーノ空港着、アリタリア航空7841450ローマ・フィウミチーノ空港発、食事。

95日(土)朝食、1000過ぎ、成田空港着。





2009年度第三回・科研「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者

   ―広域社会秩序と地域秩序-」研究会   於:東横イン那覇旭橋駅前

 

                     プログラム

  

1219日(土) 場所:東横イン(那覇旭駅前)会議室(tel. 098-951-1045

14301500   開会・メンバー紹介・趣旨説明(弘末雅士)

15001600   ミステリアスな現地妻(ニャイ)-インドネシア民族主義の生みの母?(弘末雅士)・質疑応答

16001615   休憩

16151730   ご報告「国境を越える人々~近世琉球交流の一側面~(仮題)」(渡辺美季)

17301745   休憩

18001900   質疑応答・総合討論

その後、懇親会の予定

 

1220日(日) 場所は同上

9201050   ご報告「近世琉球における混血者問題-遊女・賄い女と冊封使・地元役人(両先島在番)の諸相-(仮
             題)」(豊見山和行)・質疑応答


10501100   休憩

11101200   前日のプログラムも含めて総合討論

1200       終了

 

2009年度第三回・科研「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者-広域社会秩序と地域秩序-」研究会

2009121920日 那覇(東横イン旭橋駅前店会議室)

 

1219

「小説に見るインドネシアの現地妻(Nyai)」(報告者:弘末雅士)

出された論点

  東インドで19世紀終わりより小説や演劇で、洋妾となったニャイがさかんに取り上げられ始めた。ヨーロッパ人と現地人さらには混血者が登場し、当時の社会全体がイメージでき、また正式な妻でない流動的な地位とミステリアスなイメージが人気を呼ぶ。

  欧亜混血者の作家による、ヨーロッパ人社会と現地社会との間を揺れるニャイ。

  華人作家によるニャイ小説、インドネシアナショナリズムが強まるなかで、現地人との共存を志向。

  近年のニャイへの関心の高まりは、近代国民国家の作り出した男女規範の見直しと連関か。

  ムスリム女性が非ムスリムの男性と同棲する現象は、イスラーム社会の西アジアで考えにくい。非ムスリムは外来の   奴隷を購入した(キリスト教徒は奴隷と同棲した)。ムスリム現地人女性を現地妻とするのは、東南アジア特有の現   象では。

  ポルトガル人は、移住先の現地で結婚する。一方、元来多民族の混淆していたイベリア半島では、16世紀の反宗教改革とともに、混血者への差別意識が台頭してくる。混血者は、血統を重んじる身分制社会に馴染まず。

 

「国境を越える人々~近世琉薩交流の一側面~」(報告者:渡辺美季)

 出された論点

  16世紀から17世紀の初めにかけての東シナ海・南シナ海は、国家や文化圈の境が曖昧になり、人々が混淆した海域であった(cf. 諸民族雑居」)。1718世紀に新しい国家の枠が固まってくると、琉球人、日本人、混血者といった差異が問題となってくる。

  近世に入ると、薩摩藩は日本人の琉球への移住や、琉球に居住している日本人の帰国を禁じ、また中国と琉球の関係も外来使節の往来のみとなり、民間の関係は失われた。そのため、すでに琉球に住み着いた渡来人は、「琉球人」として生きざるを得なくなった。

  薩摩藩から20名ほどで構成される在番奉行衆(中級から下級の武士)が、琉球外部からの船・人・物の出入りの監視のため那覇に派遣された。任期は28ヶ月。薩摩からの女性の移動は禁止され、また薩摩人が琉球で妻帯することも禁止された。

  薩摩の在番奉行衆には、琉球の遊女がアテンドした。在番奉行衆は、遊女と正式結婚できないし、彼女を薩摩に連れて帰ることや、また琉球に永住することは許されなかった。

  18世紀になると、近世初期以前の混血者の「琉球人」化が進行し、また混血者のタブー視化が台頭する。たとえば、遊女の子供は士に登録できない(農の身分に位置づけられた)。ただし士の人々も遊女と接触した。

  薩摩人と琉球女性との間にできた「島子」は、薩摩側の家系を継ぐために、時として薩摩人として迎えられることあり。また先島では、現地子を士族の身分に組み込む場合もあり。

  中国・朝鮮・ベトナムでは、国家が地方官の現地妻帯を建前上禁止(実態はいかがか?)。琉球においては、薩摩男が現地妻との間の現地子が、国境を越えたり、身分を超えたりしているのでは。

 

「近世琉球における外来者と遊女-薩摩役人・冊封使との関わりから-」(報告者:豊見山和行)

 出された論点

薩摩藩島津氏の琉球侵攻以前の那覇港の周辺社会は、華人、朝鮮人、倭人、琉球人の雑居。1609年島津氏の琉球支配後、朝鮮人、倭人は琉球人として琉球社会に吸収される。

  単身赴任の薩摩藩の在番奉行や船頭・水夫のみが、琉球を往来。また近世期に福州を往来した琉球使節・船員らは、福州で中国人と結婚し婦人・子供を連れ帰る事例なし(福州では蛋民が、琉球使節と接触か)。

  那覇では、江戸と異なり、遊里が自然発生的。琉球では、囲いなし。女性が遊郭の主人。遊女たちは、薩摩人や中国人(冊封使節団)と接する。中国語も薩摩弁も解したものと思われる。

  首里王府の把握する遊女以外の女性が、清人の宿舎に出入りすることを禁止する。しかし、しばしば商売の名目で、女性が清人宿に出入りする(近世の琉球において、商売は女性が主)。遊女的百姓の活動。薩摩人にアテンドした遊女も、しばしば商業取引に関与。

  近世において遊女の専業化が日本史において議論されるが、琉球の場合は遊女と百姓との境界がさほどリジッドでない。遊女は元来商売や芸能に同時に関与していたのでは。

  1840年代以降、欧米船がしばしば琉球に寄港。外交問題の発生を怖れて琉球王国は、琉球に遊女が存在しないと公言し、彼女らの存在の隠蔽化をはかった。

日本史において中世に永代身売りが存在したが、江戸時代には男女とも年季奉公が一般的となる。仲買人が重要な役割を担ったのでは。


 

総合討論で出された論点

  薩摩人と琉球女性との島子や長崎のオランダ人と遊女との間の子供らが、地元の社会に受け入れられ、特に排除される対象となっていない。むしろ米軍占領下の沖縄における混血者の方が、社会的に差別された。近現代における「混血者」の問題。

  琉球の薩摩人や長崎のオランダ人らは、比較的短期間の滞在であるため、同棲した女性たちは、東南アジアの現地妻と比べると、よりビジネス的感覚が強いのでは。外来者のコミュニティと現地社会の間を揺れることは、あまりないのでは。また子供たちはほとんど現地化か。

  近世日本では、海禁政策の強化とともに、遊女が外来者との交流において重要な役割を担った。中国の場合も然りか(蛋民)。近世東アジア的な特徴か。

  近世日本における遊女との交流のなかで展開する恋愛空間(cf. 一般の夫婦関係)。

  16世紀から17世紀始めの東シナ海世界は、「諸民族雑居」(荒野)状況を呈していたが、当人たちも「雑居」と認識していたのか。




科研「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者-広域社会秩序と地域秩序」

2009年度第4回研究会

 

 

                            プログラム

 

日時:2010年2月20日・21日

場所:横浜桜木町ワシントンホテル会議室

 

220日 午後3時半 開会とメンバー紹介。趣旨説明(研究代表者:弘末雅士)。

     午後4時  「戦後沖縄におけるAサインバー・ホステスの経験」

報告者:小野沢あかね(立教大学文学部・准教授)

     午後515分 休憩

     午後530分 質疑応答・討論

     午後7   終了。

     その後は懇親会(場所カーサ・フジモリ)。

221日 午前9時半 「インドにおけるイギリス支配とアングロインディアン-カルカッタを中心に」

報告者:中里成章(東京大学東洋文化研究所・教授)

     午前1045分 休憩

     午前11時  質疑応答・総合討論

     午前12時  閉会。

 

 

科研「近代移行期の港市における奴隷・移住者・混血者―広域社会秩序と地域秩序」

            2009年度第4回研究会

                     201022021日 横浜 (場所:横浜桜木町ワシントンホテル会議室)

 

                趣旨説明

 

 前回までの研究会の結果、東アジアや東南アジアにおいて、前近代において外来者と現地人妻妾が同居する慣行の実態がかなり明らかになってきた。東南アジアでは、外来者は慣行にのっとって多くが現地妻を持ち、非ムスリムのヨーロッパ人や華人がムスリム女性と同棲することも珍しくなかった。19世紀終りまで外来者の逗留期間が比較的長かったため、現地側は彼女たちを実質的な妻とみなした。一方、海禁政策の厳しかった近世の日本や中国では、遊女や蛋民が同棲者の役割を担った。外来者の逗留期間が制限されたた同棲期間は比較的短かった。しかし彼女たちは、その機会を活用して、しばしば広範な商業活動も行った。

 なお、同棲の結果生まれた混血者は、東南アジアにおいても東アジアにおいても、前近代の場合、比較的違和感なく現地社会に受容されている。むしろ、近現代の方が「混血者」に対する差異意識を強めているのではないか。

 また西アジアでは、イスラームに基づき、非ムスリムの男性外来者に女奴隷がアテンドしたであろうことが指摘された。西アジアにおける女奴隷の境遇は流動性が高く、オスマン朝の多くのスルタンの母親は、元奴隷であった。奴隷を固定化せず、東アジアにおける年季奉公などと連関させて考察するべきことが議論された。

 

・他者(とりわけ男)から見ると、こうした女性たちは、しばしばミステリアスに映る(一元的に影響力が行使できない複数の存在に服属することで、主体的空間ができる)。女性の視点からはいかがか。とりわけ当人は、どう考えて行動していたのだろうk。

・南アジアで外来者と対応した現地人妻妾の実態は。イギリス側の対応は。

・また誕生した混血者は、現地社会でいかに暮らしていたのか。また近代において彼らはどう扱われだしたのか。

 

 

220

「戦後沖縄におけるAサインバー・ホステスの経験(報告者:小野沢あかね)

出された論点

・ライフ・ヒストリーにおいて風俗営業をどのように捉えるか、というのは重要な問題である。従来の議論として、セックス・ワーク論、軍隊による性暴力などの視点があるが、前者は風俗営業を他の労働と同一視しがちになる傾向があり、風俗営業につきものの諸側面を描かない傾向がある。後者は、こうした問題における軍隊の重要性を強調した点で重要ではあるが、暴力の対象となった女性たちが実は風俗営業に従事しているという点を見落としている。風俗営業の存立には、貧困が深く関係しており、こうした業種で働く人間関係をも重視する必要があり、また、風俗営業自体が有する多様性と格差にも着目しなければならない

・戦後沖縄に存在した「自由売春」と「管理売春」。何らの希望・救いもない後者と相対的に自由度の高い前者。今回のインフォーマント(キャーティー)は前者に含まれる。

・Aサインバーホステスとしての誇りを強く有するキャーティー。水商売を自らの選択で主体的にしていたことを強調しつつも、詳しいことは話したがらない面も。

・風俗営業における家庭環境の重要性。キャーティーの場合は母親がホステス。母親の借金返済のためこの世界に入る。博打で身を持ち崩した母親には批判的な一方で理解しようともしている

・沖縄の家族形態に対して批判的なキャーティーの語り。位牌の扱いなどには「沖縄のしきたり」からの逸脱も多く見られる。

・キャーティーが話してくれた理由。借金などでやむなくホステスをやったわけではない、紹介者がいたなど。ただしこれは幸運な事例。単なる「世間話」から、ある時期を境に「自らの人生」を話してくれるようになった

 

 

「インドにおけるイギリス支配とアングロインディアン―カルカッタを中心に」(報告者:中里成章)

出された論点

・インドにおけるアングロインディアンの存在。「イギリス人」意識から「インド人」意識へ。

・イギリス人とインド人の混血者を表す呼称としての「アングロインディアン」。ポルトガル系(フェリンギ)との区別。

17世紀後半のイギリス人上級職の婚姻は、主にポルトガル系などのユーラシア人女性と。適切とはみなされないながらも、インド人女性との同居も多い。兵士などについてはインド人女性との結婚が奨励。18世紀後半には、上級職の間でもインド人女性との事実婚・同居が増大。結婚生活は安定。女性側の宗教・慣習の尊重、遺言による財産分与など。子供は父親の認知によりイギリス人社会に受け入れられる。

19世紀に入ると、イギリスのインド支配安定に伴い、キリスト教伝道や人種論の展開に伴い、こうした形態の事実婚・同居が批判されるようになる。

1820代、イギリス人社会における「ユーラシア人社会」の周縁化。それとともに「ユーラシア人」意識の形成が進む。最終的に1911年、アングロインディアンの自称を植民地政府に認めさせる。

・植民地当局のインド人エリート重用政策に危機感を受け、新分野の職業への進出、教育水準引き上げ、法的差別の撤廃要求などの実施。一連の法令におけるアングロインディアンの職業・議席面での保障という形での地位確保。

・ムスリムとイギリス人の同棲。慣習上、ムスリムの方がイギリス人に対する拒否感少ない。こうした同棲に関し、中東のような厳格な措置がなされたかは疑問。

・イギリス人の婚姻・同居に関しては、女性自らではなく家が決めていたと思われる。見返りも期待。その一方で、ユーラシア人はインド人社会からは排斥。

・国の管理から外れたイギリス人が多数存在。「プアホワイト」として問題化。

・インドにおける広範な奴隷制の存在。法的には1843年に廃止。しかし、実際にはその後も長く残る。イギリス人は主に家内労働や農業労働で奴隷を使用。



2010年度第一回科研研究会

                          2010年 6181920

                          場所:松前、函館

 

618日  1430 函館駅に集合し、レンタカーにて松前に移動。

       1652 松前着(道の駅北前船)。対岸に下北半島が見える。目の前の海岸    

           が旧波止場。道路の向かい側に松前城が見える。

       1750  松前温泉で入浴。

       1830 旅館丹波屋にて、松前町教育委員会の佐藤雄生さんにお会いし、明

日の打ち合わせ。そして夕食。

 

619日  900 佐藤雄生さんの案内のもとに、松前史跡の訪問調査に出発。

908 役場前の旧奉行所跡に到着。

       910  福山城跡へ。戊辰戦争時代に法華寺より砲撃を受ける。佐藤さんより資料の配布を受ける。

松前屏風・・・アイヌは小舟でやってくる。松前は、アイヌと商人との交易が経済基盤。

      930   城内に入る。松前城資料館へ。村岡コレクションあり。

          弁開凧次郎(アイヌ名イシシパ)八甲田の遭難の際に捜索。

          熊送りの図あり。弁天島、現在は陸続き。

          JapanschZoyaと記したコンプラ瓶あり。蝦夷錦(本来は明・清の

絹織物が北方諸民族の手を経る)が展示されている。

          イトコイ(蝦夷錦とロシア製のマントを着る)。

          1789年にアイヌの反乱平定に協力したアイヌの夷酋列像。   

      1010 本丸御門、右側に天守閣。1606年に完成した城は、福山館と称し

対岸の津軽が見える(晴れると岩木山が見えるという)。台場跡あり。函館開港とともに、松前の商人移る。

      1037  法源寺山門(曹洞宗)

      1040  龍雲院

      1043  光善寺(カラフトアイヌ供養顕彰碑)。血脈桜。

           寺町は元は大館にあったものを、福館に移す。

      1055  松前藩主の歴代の墓(法源寺が菩提寺)。側室や一族のものもあり。

           中川五郎冶がシベリアに拉致されたが、ロシアより種痘法を伝える。

      1120  松前町郷土資料館へ。蠣崎氏5世が、慶広。1592年秀吉より蝦夷地交易を認められる。1604年家康より大名として認められる。

           干鱈、干粕などが商われる。近江商人が介在。

           松前、江差、箱館の3港に沖の口(出入りを管理する役人置く)。

           1807年松前氏を福島に移し、蝦夷地を幕府の直轄領とする。

           明治元年松前は、榎本武揚の幕府軍の攻撃を受ける。翌年官軍により奪還される。

      1145  前浜。今は国道の橋ができたため、海岸の上に道路ができている。

           橋げたの間に波止場跡あり。この周辺でかつては荷揚げし、商人たちの家があった。

      1154  蔵の跡。石組みの跡が残る。

      1230  昼食後、函館へ向かう。

      1507  函館湯の川温泉竹葉新葉亭(研究会会場)に到着。

1600  会議室にて研究会開会

 

報告1.「東南アジアの港市における外来系住民と奴隷-奴隷制度廃止後の外来者との関係との対比」(報告者:弘末雅士)

 

出された論点

・人口過少の東南アジアにおける奴隷の境遇は、外来者にさほど過酷に見えない場合あり。奴隷が奴隷を持つ場合あり。

・東南アジアの港市における外来系住民の多くは、19世紀前半期まで奴隷なしで活動できなかった。また奴隷は、現地権力者と外来者とのクッション役として機能か。

・植民地権力は19世紀に奴隷制度を廃止して、クーリー労働者を導入したが、労働者の現地妻として略奪や密輸による女性を少なからず充てた。奴隷の密輸に携わるブローカーの存在。

・奴隷制度が廃止されると、人種主義が台頭し、現地生まれのヨーロッパ系住民の反感を招いた。彼らはそれまで培ってきたネットワークを活用して、原住民との連帯をはかった。その結果、東インドでは、多数派の原住民が政治の表舞台に登場し始め、解放奴隷の多かったバタヴィアで展開したパサル・マレーやその文化が、インドネシア民族文化として転生した。

 

 

報告2.「東アジアにおける“奴隷”概念の展開」(報告者:石川禎浩)

 

出された論点

・中国の『後漢書』に「奴隷」(戦争捕虜)の用例あり。しかし隷属民を指す用語として必ずしも一般的でない(「奴僕」「奴虜」「奴婢」などが一般的)。そのほか、南洋から来た奴隷を「崑崙奴」と呼んだ。

・明代以降マカオにポルトガル人の連れてきた奴隷(1000名ほど)を、「黒奴」と呼ぶ。

・近世の日葡辞典(1603)には、「nurei=奴隷」の語あり(奴隷:身分の低い奉公人)。また新井白石や高野長英らが、ヨーロッパ人の使用する「崑崙奴」のことに言及している。

・幕末の高野長英の著作(1847年)や佐久間象山(1862年)が、「奴隷」という語を用いる。『英和対訳袖珍辞典』(1862年)には、slave の訳語として、「奴隷」を用いている。

・福沢諭吉はアメリカの奴隷制度に言及しつつ、「牛馬の如く仕役」される「奴隷」の存在について語る。それとともに、儒学の尊古傾向によって、日本人が精神の奴隷となることを指摘。日本人の間で、「奴隷」が身分呼称から精神的従属性の意に転じる。

・清末においも、中国人はアメリカの「黒奴」のようになってはならないとの意見が出てくる。康有為は、変法を行わなければ国人全体が列強の「奴隷」となることを説き、梁啓超は、「人が独立できないときには奴隷と呼ばれ」ることを説く。こうした「国民」と「奴隷」の対概念は、革命派にも受け継がれる→漢族は革命によって満州族の奴隷から脱せよ。

・近代日本や中国におけるslave の訳語としての「奴隷」は、精神的覚醒をなしえていない精神的従属状態に置かれた人々を指す語として定着していった。その一方で、日本や中国に存在した隷属状態に置かれた人々の存在については、特に注目されなかった。

620日

       函館の元町の訪問調査に出発。函館山展望台より、元町や港を望む。急な坂が海に落ち込んでおり、箱館が良港であったことがわかる。元町を訪れ旧イギリス領事館訪問。その前の通りにペリー上陸記念碑あり。ペリーは箱館に下見のため、1854年上陸。中華会館あり。

       五稜郭跡訪問。戊辰戦争において、官軍の幕府軍も外国人居住区に砲弾が届かぬように配慮。

       開港当時の港を訪問。現在は倉庫の建物を観光客用のショッピングモールとして活用。




弘末旅団阿蘭陀・西班牙・馬邏可・葡萄牙日々記(文責・荷見)

  松下さんは研究ネームの土田さんで標記する。

  ところどころ記憶違い、記録違い、個人的感想が含まれますので、ご容赦を。

2010

822日(日)

弘前、午前10:56、弘前駅より特急つがる16号で出発、1242、八戸着、東北新幹線はやて16号で東京に向かう。午後4:08、東京駅着。午後420、秋葉原ワシントンホテルチェックイン。秋葉原のエスポートミズノでシューズの中敷を替えて貰い、新たに一足購入。池袋東武百貨店で買いそびれた旅行用品をまとめ買いする。その後、師匠と会食。午前2:20就寝。歩数9641歩。

823日(月)

秋葉原ワシントンホテル。快晴。朝6:30目覚まし作動。このホテルには声優の声で起こしてくれるサービスがあると書いてあったが、忘れていて頼まなかった。朝7:10起床。入浴。朝食。朝食ルームからJR秋葉原駅の改札が見える。ロビーから2分でホームまで行けるのがよい。朝8:10、チェックアウト。朝8:28、山手線で東京駅着、1本前の成田エクスプレスに間に合ってしまったがチケットが1本後なので見送り、ホームで暑中見舞いを書く。午前9:00発のN´EX15号で午前9:58成田空港着。車内の電光掲示板でKLM086210分早く離陸することを知る。KLMカウンターのある成田空港第一旅客ターミナル北ウィングに向かう途中、下痢止めと筋肉痛の塗り薬などを買う。午前10:50頃、ゆっくりとカウンター前に到着すると佐々木さん、土田さんはすでにチェックインを済ませていた。自動チェックインの機械でチェックインを済ませる。機械の前で高橋さんとばったり出会った。私は自動チェックインの機械の存在すら知らなかったので案内係に促されて戸惑った。まあ、パスポートを機械にかざすだけで手続きが出来たので便利ではあったが、航空券がぺらぺらの紙なので、なくさないか心配になる。それに紙が立派なチケットでないと飛行機が落ちそうでいけない。ともかく、トランクをKLMカウンターに預けて保険を掛けに行く。万一のこととはいえ、1万円少々の出費は痛い。カウンター前に戻って来ると佐々木さんと土田さんがご飯を食べに行きたいと言う。それでガイドブックなどを見に行った高橋さんを除いて、3人で軽食を食べに行った。昨年夏に東地中海に行った時と同じレストランであった。先にオランダに行かれた弘末さんから、KLMに多くは期待できない旨であったことを思い出した。食後、それぞれセキュリティーチェックとパスポート検査を済ませる。携帯の留守電が光っていたので出ると、高橋さんからゲートで待っているからということであった。それで歩いて行くと高橋さんはゲート前の長いすで寝ておられた。話ではアイルランドから3日前に新潟にお帰りになられたばかりとのことで、時差ぼけがあまり解消されていないと言っていた。12:50がボーディングタイム、午後1:20離陸。座席は私と佐々木さん、土田さんと高橋さんが隣り合わせとなる。離陸してすぐに飲み物と食事、着陸間際に再び食事が出る。日本とオランダの時差は7時間(サマータイム、通常は8時間)あるので、オランダ、アムステルダム、スキポール空港午後5:55着陸は日本時間の翌240:55のことである。結局、スキポール着陸の瞬間までずっと佐々木さんに目下の学務の愚痴を言い続けて終わった。本当は研究の話ができればいいのだけれども、昨今の日常が出てしまって情けない。

アムステルダムの天候は晴、気温は20℃を切っているかもしれない。清々しい午後という澄み切った空気で、午後6時だというのに夕暮れの気配もなかった。事前の天気予報では雨だったそうだ。トランクを受け取って4人でスキポール空港内のシェラトンホテル(シェラトンエアポート)に向かう(高橋さんは荷物をマドリッドまで預けてしまった、ほか3人はトランジットで一旦荷物を降ろしてもらった)。空港内のエスカレーターは日本のような段状ではなく、動く歩道が斜めに登って行く式になっているので、車輪の付いたトランクは縦にしてないと後ろに車輪が降りていってしまう。新手の筋トレマシーンとしてはいいけれど、善し悪しがあろう。空港内を歩くこと約500㍍でホテルに到着、ロビーで弘末さんの笑顔に出会う。疇谷さん、清水さんは予定通り関空から3時間前に到着されていた。早速ロビーでチェックインをした。パスポート提示のほかにクレジットカードの提示を求められる。ホテルの部屋内のバーを利用した場合はこれから差し引かれることになると言う。過去に料金を払わずにとんずらした奴でもいたのだろうか。チェックインの最中に疇谷さん、清水さんがロビーに降りて来られた。清水さんは股関節の具合に不安がおありとのことであった。

荷物を部屋(私は215)に置いて午後7時、ロビーに再集合して階上のホテル内レストラン「VOYAGWRVOYAGE)」で夕食を食べる。レストランの中央には五大陸をデコレートした巨大な地球儀が据えられ、天井には天空を象ったブルーのグラデーションの星空が広がり、窓外には空港施設が見渡せる。さて、食事はパンにはオリーブオイルと塩が添えられ、ワイン、水、シーザーサラダはキャベツにサラダ菜と小エビとゆで卵、それに大切りのクルトンがちりばめられている、ニョッキは温野菜にクリームチーズがかかっており、スパゲッティミートソース、白身魚のソテー、ウズラの目玉焼きとベーコンのサラダ仕立て、ホタテのベーコン巻、チーズ盛り合わせ。リースニングはすっきりとして美味しい。中国の雷司令(lei si lingレイ・ス・リン=リースニング:旅団通称、かみなりしれい)とは大違いだ。チーズの盛り合わせにはおろし生姜を煮込んだジャムが添えられていて、金沢柴舟小出の柴舟を思わせる味であった。甘いジャムがなぜチーズに添えられているのか、これはチーズが甘いデザートの範疇に入っていることによる。ただ、私たちは前菜とメインとチーズを一緒に頼んだ結果、ウェートレスが困惑した顔で皿を運んできた。一人約40ユーロ(総計の食事代は食事160ユーロ、ワイン140ユーロ)。これまで3年の旅程を振り返りつつ、これから始まる地獄巡りツアーに心を馳せる。高橋さんはグラナダで本場のフラメンコを見たいとのこと。モロッコからスペインへのルートはどうなったかなど疇谷さんの説明を聞く。午後9:00(日本時間24日午前4時)就寝、歩数9112歩。

824日(火)

アムステルダム・シェラトンエアポート、夜明け前。午前1:20起床、メールを打つ。時差ぼけどころか時差そのものが解消されていない。弘末さんは午前4時以前には絶対目が覚めますとおっしゃっておられたが、4時どころか……これはどうしたらよいものか。取りあえずこの旅の日記を書き始めた。入浴、午前4:30、荷物をまとめてロビーに集合、チェックアウトを済ませる。外は真っ暗で涼しい風が吹いている。気温は15℃もないだろう。肌寒さを感じる。全員揃っていたので佐々木さんが早く空港に移動しようと主張。旅団名物、佐々木さんの「早く行こう」病発症。彼女は心配性だから早めの行動ということになるのだが、そして大概この予感は当たるのだが、ともかく荷物を引きずって空港カウンターへ移動を開始する。そして佐々木さんの主張は正解で、早くもカウンターの前には行列が出来はじめていた。高橋さん以外は各自受託のトランク類を自動受託装置に入れる。これは荷物を台に乗せて顧客データを打ち込むと、荷物に取り付ける認識シールが出て来るので、そのシールを荷物に巻き付けてボタンを押すと自動的に荷物の預け入れができるというもので、空港の人減らしもここまで来たかと思った。これでまた空港労働者が首になったに違いないと佐々木さんか誰かが言っているのが聞こえた。私たちが乗るKLMKoninklijke Luchtvaart Maatschappij Royal Dutch Airlines)も持ち株会社エールフランス‐KLMの配下で運営されているぐらいだから、中国の春秋航空の「立ち乗り」便案もそのうち採択されるのでは。それからパスポートとセキュリティーチェックを受けてC11ゲートへ向かう。私は朝ご飯代わりにサンドイッチ(トマトとチーズとハムのサンドイッチのありふれたものであったが、日本のコンビニのしょぼいやつと違って大満足!)と水、チーズを買って空腹を満たした。疇谷さんたちはコーヒー。清水さんだったか、高橋さんだったか、何か景気の良い話題はないか、世界中で今一番景気の良い国はどこかという話になったが、昨今では世界中不景気で明るい話題は遂に出なかった。話題は暗かったが、そろそろ夜が白み始め、滑走路まで視界が拡がり始め、午前610KLM1699はボーディングタイム、午前650離陸。離陸直前に雲の合間から日の出。まことに美しい。機内食といっても飲料とジャムパンとチーズパンのセットが配られただけであった。ただ、パンの包み紙がデルフト焼のブルーの絵柄でとても可愛らしかった。所用時間は2時間30分、午前925、マドリッド着、荷物を受け取ってバスで国内線第4ターミナルへと移動した。ここはまことに巨大で、うねるような曲線のドームは趣味が良いかどうかは別としてもデザインしているのだぞというインパクトを感じた。混み合っているパスポートコントロールとセキュリティーチェックを通過し、トイレに寄りつつK82ゲートに向かう。空港の見渡す限りのコンコースの列柱は左右に張り出したY字型で深緑から若草色、そしてダイダイへとグラデーションがとても印象的であった。少し時間があったのでEvian1本を買う。日本にはないふとっちょデザインのボトルで、赤のキャップであった。イベリア航空IB274、ボーディングタイム午前1120、離陸は1215、グラナダ空港着1250であった。機内食がないことは同僚から聞いて知っていたので、はるばる用意してきたえびせんをマイ機内食にした。特段お腹がすいていたわけではなく、やってみたかっただけ。飛行機がイベリア半島に入って以来、眼下は緑豊かなオランダから赤茶けた大地へと変貌を遂げていた。その中、オリーブの木が規則正しく等間隔に碁盤の目のように並んで植わっていた。不思議なのは何も植わっていない畑が多く目に付くことであった。ただただ茶褐色の空間は農閑期なのか、植え替えの時期なのか、収穫直後なのか、判断は付かなかった。はたまた単なる空き地なのだろうか。空港で荷物を受け取り、当初はタクシーで行くつもりが、グラナダに詳しい高橋さんの誘導でシャトルバス乗り場に急ぐ。空港から市内までは17キロと近いので午後130にはアセラ・デル・ダロ通りで降りる。郵便を出したがっていた弘末さんが通り角の郵便局に飛び込む。照りつける強烈な太陽がアンダルシアに来たことを印象づける。気温は40℃近い。

弘末さんが用を済ませるのを待ってホテル・メリア・グラナダへ行く。郵便局から歩いて1分もない距離。チェックインの手続きをしているとロビーのソファから石川さんが現れた。マドリッドからコルドバを経て先着されていた。お嬢さんが大反対された闘牛を見て来られたそうだ。石川さんはすでにグラナダの日本語情報センターなど情報収集に動かれていて、早速、疇谷さん、土田さんがホテルカウンターで交渉されて、今晩のフラメンコツアーと明日午前のアルハンブラ宮殿ツアーが決定した。その上で部屋に荷物をおいてお昼を食べに行く。ホテルの外の街路の両側はアーケードになっていて、強烈な陽光を防いでいる。空気が乾燥しているため、石造りのアーチが架かった身廊は暑い中にも涼しさを感じる。ホテルから道を渡って一路後ろの路地に疇谷さんはLA CUEVA DEL TOROというバルを見つけ、外のパラソルを避けて狭い店の中に2卓を占める。壁から巨大な黒牛のオブジェがせり出しており、壁にはマタドールのダンディな写真の額が処狭しと掲げられている。カウンターの壁にはハモンセラーノの塊がずらりと下げられ、ワインとワイングラスが並べられている。厨房はその奥にある。下町の腕っ節母ちゃんがこんな日は外のパラソルの下で気持ちよく食べなよという顔をして注文を取りに来る。スペイン小皿料理タパスを幾つか頼んでワイン・ビールの世界。厚切りパンにハモンセラーノ、ジャガイモとパプリカのオリーブオイル炒め、鶏肉とパプリカのカレー風味煮込み、白身魚とオリーブ、パプリカの炒め物と魚料理1品、ワイン、ビール。食後、木立の中をエル・コルテ・イングレスという地元のデパートまで歩く。途中で高橋さんと私はアイスクリーム屋さんでアイスクリームを買って食べながら歩くが、デパートが近すぎて店の前のベンチに腰掛けて食べるはめになってしまった。私はピスタチオのアイス。デパート1Fの土産物コーナーで土田さんが絵はがきと睨めっこ。しばらく1Fを見て回ってから、高橋さんが晩酌のお供を買いに行くので、清水さん、疇谷さんなどと私もくっついて地下に降りる。それから午後730集合ということで自室に戻って横になった。

午後745、突如の電話で意識の深層から叩き起こされた。時間だということで、何の時間で、今が何時で、私はどこにいて、何をしなければいけないのか意識朦朧としつつ、しくじったという鋭い意識の反応で手早く服を着てロビーに降りていく。ロビーでは皆さんおられて、私と高橋さん、土田さんが集合時間に遅れたとのことで、じきに土田さん、高橋さんも駆け降りて来た。眠りが中断された時に催す吐き気と頭の重さに見舞われながら、午後7:30が集合時間であったことを思い起こす。清水さんが俺もちょっと遅れたよと笑う。その時間には弘末さんしかいなかったとも。土田さんの顔に疲れの色が浮かんでいた。ともあれホテル斜め向かいの路地を入ったバル「ラッカスジューナLA CASTELLANA」に行くと隣接する系列のレストランに連れて行かれる。この時間は現地としては食事の時間にはかなり早いのでバルだけ開けていたのだろう、少し私たち一行を外に待たせてシャッターを開ける。デジカメを忘れていることに気づくが遅かった。ワイン、ビア、アクア、食事はアンチョビとキャベツのサラダ、トルティーリャ・エスパニョーラつまりスペインオムレツ(ニンニクなし)が美味しかった。ニンニクありのほうは若干ねっとりとしていた。ほかサラダなど数品頼むが、疲れからか食欲が出ず、誰もパンに手を着けなかった。食事代一人20ユーロほど。ここで疲労の色の濃い土田さんは部屋に帰り、私はデジカメを取りに自室に走り、夜9:30、ほかの皆さんでフラメンコツアーに出かける。その頃には気分は回復していた。ホテルで昼に予約したもので、125ユーロ現金払いでガイドからチケットを買い、この中からガイドが取り分を現金で貰っていく仕組みらしい。ロビーでチケット代を払って皆さんと合流。バスでフラメンコの店「Cueva de la Rocio」に向かう。店は世界遺産アルバイシン地区の東側サクロモンテの丘まで道を上って行ったところにあり、ダロ川を挟んで向かいにはアルハンブラ宮殿が広がっている。このあたりには洞窟が沢山あり、かつてジプシーが多く住んでいた洞窟住居の集落であったという。ショーにはワンドリンクサービスだったのでオレンジジュースを頼む。フラメンコは夜遅くならないと真打ちが登場して来ないので丁度よい時間である。長細い店の両壁沿いと奥の階段状の場所に椅子が並べられ、その中央で踊り子が踊る。ギターの伴奏と歌(カンテ)に合わせて踊る(バイレ)スピードは早く激しく、素人の真似できるものではない。踊り子の激しい所作を見ているとギターが主役であることをついつい忘れてしまう。最後はお客さんの中から何人か踊り子に促されて一緒に踊る。そして、魅入られたかのように佐々木さんが選ばれ踊る。一旦座席に戻った後、彼女は再びダンディな踊り子から手を差しのばされて踊る。最後はポニーテールの髻を掴まれて風車のごとくぐるぐる廻されていた。まあ、1度席替えして目立つところまで進出していった彼女の努力が報われた瞬間だったのだろうか。昨年、イスタンブールで流しのおじさんに乗せられて踊り狂って以来の出来事だが、かくて佐々木さんは「地中海の東と西で踊った女」の称号を甘受することとなった。振り返れば、石川さんも昨年、イスタンブールのベリーダンスショーで日本人を代表して舞い、小銭を稼いでいるので、その再現なるかと思ったが、今後の課題として残った。フラメンコ鑑賞後、バスでアルバイシン地区まで戻り、ガイドからイスラム時代の街並みを案内される。この地区の豪邸は「カルメン」と呼ばれる。斜面に屋敷が林立していて、その間を細い路地が入り組むように張り巡らされている。クロスカントリーには打って付けのコース。エル・サルバドール教会に面したサン・ニコラス広場からは夜のアルハンブラ宮殿が一望でき、絶景であった。人混みに混じってシャッターを切った後、バスに戻ってホテルへと帰還した。午前0時過ぎ就寝か、意識を失うという方がより正しい。歩数11069歩。

825日(水)

グラナダ・メリアグラナダ、午前3時にトイレに一回立ち、5:10起床、少し時差が解消され始めたのだろうか。ともあれ日記を書き、入浴。7時に朝食に1Fに降りる。ロビーで疇谷さんが大学に提出する書類のお仕事をされていたので、暫く賑やかしをして一緒にレストランに入る。先に佐々木さんが食事を始めていたほか、中国人、日本人の家族と思わしきグループが食事をしていた。朝食は標準的なバイキング。スペインらしさはハモンセラーノがあることぐらいか。あとはハム、ソーセージ、チーズ、スクランブルエッグ、炒めたマッシュルーム、トマト、パプリカなど。冷えたワインもあったが、温めたコーヒーと牛乳を別々にポットに入れて持って来てくれるのが嬉しい。やがて土田さん、清水さん、貴堂さん、弘末さん、石川さんが姿を見せた。貴堂さんはブリティッシュエアウェイズでロンドン・マドリッドを経由し、昨日夜0時過ぎにホテルに着いたとのこと。また、土田さんの顔色は良くなっていたし、目の下の隈が薄らいで疲れは消えていた。昨日はあれから寝ていたらしい。部屋に戻ったらルームキーが反応しなかったので、フロントに戻ってキーを換えて貰った。英語のできない私にとって小さなトラブルでも焦る。

快晴、9:20ロビー集合、バスでアルハンブラ宮殿のチケット売り場まで連れて行かれる。そこから宮殿の東南の城壁外の糸杉の間を歩いて裁きの門まで行く。ところどころスプリンクラーで散水している。裁きの門の下側面にはカルロス5世の噴水がある。1040過ぎ、裁きの門をくぐってコラレータを通るとカルロス5世宮殿の前に出る。この宮殿はアルハンブラ宮殿とは関係なく、カルロス1世(神聖ローマ帝国ではカール5世)によって1526年に建設が開始されたものであった。中は円形の庭になっており二階建ての円柱が周囲を囲む。カルロス5世宮殿を一瞥した後、アルカサバを見る。ここが宮殿で最も古い城塞跡であり、ナスル朝以前の要塞の土台を基礎としている。馬小屋、牢や騎士の居住跡が広がっている。その先は宮殿の最西端でアルマス(武器)の門をくぐってベラの塔まで行く。ここからはアルバイシン地区の四合院(まるで北京の四合院を思わせる住居構造がよく分かる)やグラナダ市街が一望できる。昨日立ったサン・ニコラス広場もよく見える。そののち、東南城壁の内側をアルヒベの広場を通ってアルカサバを出る。遠くにシエラネバダ山脈が見える。稜線には未だ積雪が見て取れる。グラナダの豊かさはこの山脈からもたらされる豊富な伏流水によって支えられている。最後までイスラムの拠点が維持された理由がよく分かる。王宮に入る前に休憩があり、土産物売り場で日本語と中国語のアルハンブラのガイドブックを買う。近くに猫が3匹ほどいた。この旅程に出て以来、猫には初遭遇。一息ついて、マチュカの庭園横の門からメスアール宮に向かう。メスアールの祈祷室、メスアールの間、中庭、黄金の間を見る。天井の木組みや中庭の水盤、壁面の細かい細工が印象的だった。続いてコマレス宮に移り、中庭の巨大な水鏡で有名なアラヤネスの中庭を見る。遂に来た、という感慨に囚われる。この長方形の水鏡の北東側のコマレスの塔に行き、バルカの間(祝福の間)、大使の間(コマレスの間)を見る。大使の間はかのコロンブスとカスティリャ女王イザベラが会談した場であり、「新大陸発見」の出発点だったとか。続いてライオン宮に移り、ライオンの中庭を見る。ただライオンの中庭は幌が被せられて修復中で、ライオンたちも移動させられていた。ここで私のデジカメは電源切れとなり石川さんのスペアのデジカメを借りる。石川さんは昨年のイスタンブール踏査の際、黒海クルーズの船上でデジカメを紛失して貴重なデータを失った経験から、今年はデジカメ2台を持参されたそうだ。大いに助かる。それにしても一番の見せ場で電源が落ちるとは不覚。のちに土田さんからマーフィーの法則だとか言われた。アベンセラーヘスの間、諸王の間、二姉妹の間などを見て、リンダラハの庭を眺めつつ、王の居室とワシントン・アービングの間、貴婦人の塔に至って、王宮の内部見学は終わりとなった。その後、パルタル、セカーノにある土産物屋とポリナリオの浴場を見、途中でホテル・アメリカ、高橋さんがクリスマスを過ごされたパラドール・デ・グラナダの前を通り、午後1時、ヘネラリフェ庭園に入る。相変わらず強烈な陽光である。庭園に必要な水ははるばるダーロ川上流から取水され、園の中央に水路が切られ、噴水が涼しさを演出している。バラの花は萎れかけていたが、水路の蓮の花が陽光に負けず強さを競い、黄色のオレンジの実が印象に残った。やがて糸杉の並木道を通ってチケット売り場へ戻る。チケット売り場からだらだら歩いて降りていくと宿泊のホテルへ戻れるが、疲れている人もいたのでツアーのバスに乗って市内に戻る。午後215、ビブランブラ広場のレストラン「MANOLO」で昼食となる。土田さんは涼しい店内で食べたいと希望したが、あいにく店内に充分なスペースがなく、広場に面したテントの下の座席となる。

給仕のお兄さんがビールのグラスをツリーのように積み重ねて運んで来た。さすがのバランス感覚である。パン、ハモンセラーノ&メロン、蛸のオリーブオイル焼き、サラダ、メインは魚介のパエリア。パエリアには厚切りのレモン添え。食後にリモンチェーロを飲む。高橋さんが嬉しそう。パンくずを鳩に投げていたらどんどん集まって来て吃驚。午後4時にお昼を終え、石川さんと高橋さんはバス乗り場まで明日のバスチケットを買いに行く。残りの皆はカテドラルを見て廻るが、貴堂さんはカテドラルを出たところで時差との闘いに破れて座り込んでいた。イスラムの息吹を残すカルデレリア・ヌエバ通りを北上したところで弘末さんと土田さんはホテルに戻り、残った皆とヌエバ広場、アンタ・アナ広場まで歩く。ここはアルバイシン地区への登り口であり、道理で先ほどの通りで沢山水キセルが売られていたし、水キセルの喫茶店?があった。昨夜のアルバイシン地区でも水キセルのお店を見かけたことを思い出した。崖の上はアルハンブラ宮殿のアルカサバである。炙るような炎熱の中、ホテルへ戻ることにしてレシェス・カトリコス通りで高橋さんが土産物屋に立ち寄った機に、私もスペインTシャツまとめ買いをして同僚への義理を果たし、午後6時過ぎにホテルに戻る。それから一息ついて、1時間ほどホテルの廻りのショップを見て回り、夜8時の集合時間にホテルのロビーに戻ると弘末さんはじめ皆さんが集まり始めていた。石川さんは先にアルハンブラのチケット売り場で待っているとのこと。また、貴堂さんはついにギブアップということで、やっと起きてきた清水さんと皆さんでタクシー2台に分乗してアルハンブラ宮殿に向かう。ただ、認識不足でカルロス5世宮殿前のタクシー乗り場まで登ってしまった。てっきりそのあたりにチケット売り場があると思ってサンタ・マリア教会やホテルアメリカのあたりまで見て廻ったが見あたらないので、やっと麓にチケット売り場があったことを思い出して皆で坂道を降りて行くと石川さんが延々と待っていてくれた。全く申し訳ないことだった。それから売り場斜め向かいのレストラン「Barbacaa」で夜間ツアーの夜10時過ぎまで軽く軽食を取った。ここで出て来るビールのラベルにはアルハンブラとあり、決してレストラン専属ではなかろうが猫2匹が従業員の隙を狙って客の間を廻っていた。テーブルはほぼ満席だったが、客の大半はアルハンブラ夜間ツアーを待っていたのか夜10時頃には次々と立って行って閑散として来たので、私たちもカルロス5世宮殿へと登って行った。夜間の見学は王宮に限られているので、5世宮殿の西側をぐるりと回り込んで午前に入場したのとは違う5世宮殿裏のメスアール宮殿の入口から中に入り、メスアール宮殿、コマレス宮殿、ライオン宮殿と順に見て廻り、またメスアール宮殿を通って外に出て、5世宮殿の西側に戻って5世宮殿の二階に登って円形の中庭を見渡した後、夜1150頃、タクシー溜まりで2台つかまえてホテルに戻った。それから弘末さんと近くのアイスクリーム屋まで水を買いに行って、午前0時過ぎに就寝した。歩数16120歩。

826日(木)

グラナダ・メリアグラナダ、朝630起床、夜明け前。入浴。旅行中日記を書くことを断念。後はメモのみを残す。朝7時過ぎ、1Fに降りて朝食。朝750、荷物をまとめて1Fに降りてチェックアウト。朝8時集合。タクシーに分乗し、朝825、バスターミナル着。すでにバスが入線していたので一旦荷物を積み込むものの、行き先変更があって慌てて荷物を積み直す。この間、かなりどたばたした。朝9時、発車。一路、アルヘシラスへ向かう。斜め前の座席に座っていた疇谷さんが自分の荷物をこの車に積み替えたか覚えているかと問われる。彼は現地行動の大半を引き受けているので、咄嗟の時は我が身を振り返る余裕がないのである。途中、午前1030、マラガで30分の休憩。トイレに行き、水、KitKatを買う。疇谷さんの荷物は結局、あった。自分で積み替えたことを忘れていたという。無理もない。グリコのMIKADOというポッキーがあった。ここは大きな町である。午前11時、マラガ出発。スペインの高速道は最低50キロ、最高120キロの道路標示である。車窓にはオリーブ畑の青みが増し、松が目立つようになり、地中海が近くなったことを感じる。背の高い葉はサトウキビだろうか。ナツメヤシも目に付く。午前1147、高速を降り、1245、車窓からジブラルタロックが見えるようになる。午後1時、アルヘシラスのバスターミナルで降り、タクシー2台で船着き場へ向かい、セウタジェットのチケットを買いに行く。FRSの売り場を探し、午後130発の便となる。出航まで数分しかなく大急ぎで2Fの乗り場に向かう。桟橋からのタラップを渡ったのが定時だった。この度はこういうことが多い。乗船と同時に出航となり、左手にジブラルタロックを見ながら海峡へと出る。案内図にはセウタまでの所要時間は35分とある。午後250、着岸。港のスペイン国旗が半旗になっていたので、スペインで何かあったらしい。タクシー2台でホテルへ向かい、午後310、ホテル着、チェックイン。ラ・ムララ・ナショナル・パラドール(la Muralla National Parador)泊。ロビーは木がふんだんに使われており、木製のガラス扉が古さを印象づけ、またタイルのブルーの色調が落ち着いたうきうき感を醸し出している。ルームキーもPの文字が浮き彫りになっている重々しい丸い取っ手の鍵である。取りあえず荷物を自室(316)に置き、午後330、プールサイドの食堂まで昼食を食べに行く。パン、袋入り乾パン、オリーブ、カナッペ、白菜とホワイトアスパラとモッツアレラチーズとクルミのサラダ、魚介の唐揚げ、スパニッシュオムレツ、白身魚のトマトソース、骨付きラム、デザート2品、ビール、水。背の高い椰子の木に囲まれたプールではリゾート客が水浴びと日光浴に興じていた。抜群のスタイルの美女、イケメンがトドの群れに混じっている、リゾートのよくある光景であった。食堂の床を雀の群れがパンくずを追っかけていた。ここのパラドールの一部の部屋は16世紀にポルトガル人が築いたサン・フェリペ堀の城跡を利用している。昼食を終えて部屋に戻ったのは午後5時過ぎであった。一休みして午後6時の集合時間にロビーに降りると、弘末さんと疇谷さんを除いて皆さん集まって来ていた。暫く疇谷さんを待ったが来る気配がないので、恐らく集合時間が間違って伝わっているのかもしれないということになり、タクシー2台を呼んでアチョ山(Monte Acho)に向かった。タクシーの運転手は土田さんがスペイン語を話せると見るや、片言のスペイン語からどんどん早口になって、彼女は目を白黒させながら懸命に通訳していた。運ちゃんはしきりにガイドしてやると持ちかけるが、山腹の見晴台で待っていて貰ってホテルまでの帰りも運転してもらうことにした。いくら降りとはいえ、厳しい陽光の中を歩いて帰るのは無謀に思われた。運ちゃんは駐車場の周辺の眺めをあれこれ説明していた。ジブラルタル海峡とセウタの街並みがきれいに見渡せ、また谷向こうの山頂のかつてポルトガル人が築いた城壁がよく見えたが、山頂は軍事施設になっているので近づけなかった。駐車場の裏に白い漆喰に黄色のアクセントのサン・アントニオ教会があった。運ちゃんの話ではセウタには4つの宗教があるとか何とか、フランコ将軍の時の話などよく分からなかった。ホテルに戻り、タクシーを降りるとき、運ちゃんとのやりとりがまごまごしていて、それを見た清水さんがすわ、ボリタク運ちゃんかと怒鳴りかかる。運ちゃんも激しくスペイン語でやり返していたが、この迫力なくしてイスラム研究はないことを思い知る。それから、私は小一時間ほどホテル周辺のポルトガル人の城址を見て廻った。お堀のところに猫が二匹いた。暑いので浜辺の売店で水を1本買って午後8時にホテルに戻ると疇谷さんもロビーに戻って来たところだったので、これまでの経緯を説明した。疇谷さんのメモではホテル集合は午後630となっていた。彼は彼でアチョ山に行ったとのことで、モロッコ側の風景も撮って来たということであった。アチョ山から見たモロッコの風景は見てみたかった。午後9時、全員ロビーに集合して、疇谷さんが見つけた城址内のレストラン「ガジェール」に行く。ホテルから海岸線に出て歩いて10分少々のところにあった。夕日が沈んだ後の薄暮の中、ナツメヤシが城壁をバックに下からライトアップされていた。レストランは広い城址の石畳の一角にパラソルを立てて席を並べていた。誰かがガスパッチョを頼んだら、ニンニクとトマトとタマネギでできた強烈に濃厚なスープが氷を浮かべてやって来た。これまた誰かがまるで親父の飲みそうなスタミナ飲料のようだねと言った。強烈にニンニクが効いていて、確かに夜は元気になりそうだ。ほかにエビのフリット、イカのリング揚げ、エビとたまねぎとトマトのサラダ、カニかまサラダ?、豚肉の照り焼き、ウサギ肉の骨付きステーキ、オリーブの実、パン、ビール、ワイン、リキュール、水。クロネコがテーブル間を周回していた。昼間、城址に猫がいた理由がこれでやっと分かった。食後、腹ごなしに城壁の上まで登って夜景を見て廻り、ホテルに戻った。疇谷さんと弘末さんがホテルのカウンターで明日のタンジェ行きのレンタカーの交渉をする。疇谷さんが直接電話で交渉されて、350ユーロとなった。夜1130就寝。歩数21261歩。

827日(金)

セウタ、パラドール、朝630起床。入浴。朝7時、朝食。佐々木さん、清水さん、高橋さん、土田さん、貴堂さん、弘末さん、石川さんが前後して来られる。高橋さんのお勧めは鴨のペースト、及びオレンジジュースやフルーツを丁寧に手仕事で作っていること。確かにこの度で一番美味しいオレンジジュースだった。ほかにチューロス(スペインの揚げ菓子)、トルティーリャ・デ・パタタス、パン、ライス、ハム、チーズ、コーヒー&牛乳。高橋さんの話では、グレープフルーツや蜜柑の薄皮は薬品に漬けて溶かすのだそうで、おののきながら聞いた(あとで調べたところでは塩酸と水酸化ナトリウムとフェノールフタレイン)。食事が終わった頃、疇谷さんが外からホテルに戻って来られた。

ところで南欧(ポルトガル・スペイン、また、イタリア、ギリシャもそうらしいが)のホテルのトイレは便器ともう一つ便器のような陶器製のものが並んでいて、どのような仕様のものか分からなかった。石川さんは便利な足洗と言っていたが、結局はビデ洗いであった。まあ、足も洗えるわけだけど。一度、酔っぱらっていて便器と間違えてビデ洗いの蛇口でしたたか尾てい骨を打ってしまった。二つ並んでいると紛らわしくてかなわない。ちなみに跨ぐ方向は逆。また、水洗便器のボタンは、押しボタンとボタンを引き上げるのと二つあった。こういう違いは微妙で最初戸惑う。朝900、チェックアウトして全員ロビーに集合。朝915、チャーターの大きなミニバス2台で出発。ホテル近くのロータリーにエンリケ航海王子の像が見える。この像はポルトガルかスペインの方向を向いて立っている。向きが逆だろうと疇谷さんはしきりに笑っていた。さて、チャーターは運転手2人にオーナー?が乗り込んで朝930、モロッコとの国境検問所に到着。オーナーはここで降りて引き返して行った。モロッコのティトゥアンの人とのこと。検問所ではオーナーと疇谷さんだけがパスポートを集めて降りていった。モロッコ側からは徒歩や車で国境を越えて来る人で長い列ができていた。セウタで生計を立てている人が相当多そうだ。結局、国境は簡略な手続きで越えることができた。また、国境とセウタ市街が意外と近いことが分かった。朝945、モロッコ入国。スペインとモロッコの時差は2時間あるので、モロッコ時間は745である。通関手数料は12ユーロ。検問所で疇谷さんはアメリカとイラクの戦争の話をされたとか言っていた。タンジェに行くためには車の進行方向右側に海を見ながら進むことになるが、私たちのチャーターは左に見ながら進む。つまりタンジェに直行する海岸線のルートを通らず、一度、タンジェと逆のティトゥアンに向かい、内陸をぐるりと大回りしてタンジェに向かった。払う金額は同じなので燃料のロスになる故意の遠回りをするわけはないので、わざとではないルート選択だったようだ。アスファルトの舗装がしっかりしていたことから、こちらの道が良いし、昔からの道なのかもしれない。そもそも沿岸は昔から船で移動していたし、地形が入りくむから道を創りにくいし、都市と都市を結ぶインターシティの道路がローマの軍用道路であったことを考えれば、このルート選択は由緒正しいことになる。

モロッコに入ってからの違いは耕作地がぐんと減って荒れ地が目立つようになったことで、ところどころでホルスタイン、羊、山羊、駱駝が放牧され、また、ホルスタインの廻りには白鷺が戯れていた。2年前のインドでも牛の廻りに白鷺が群れをなしていたことを思い出した。牛と鳥は捕食をめぐり補完関係にあるのだろうか。ロバが荷車を引いたり、人を乗せたりして働いていた。また、山の斜面に住宅街が見える。低地は湿気ってマラリヤ蚊とかいそうで健康に良くないのだろう。糸杉、オリーブ、松、サトウキビ、サボテンが目に入って来る。モロッコは松ヤニの産地である。サボテンは実がたわわである。道のところどころにモロッコの旗が3本ずつ立っている。路線バスや次第にEU以外のプレートの車が増えてくる。金ぴかのモスク風の建物があったので一生懸命シャッターを切ったが、結婚式場だそうだ。馬鹿馬鹿しい。進行左手の車窓から遠く山脈を見るようになる。手前がリフ山脈、奥の高いのがモワイヤン・アトラス山脈かもしれない。オート・アトラス山脈にいたってはもっと見えそうもない。道ばたで果物(黄色いメロン?)や素焼きの水瓶を売っている。日本で流行のタジン鍋と同じ形状のものもある。水瓶は水のきはつを促して冷たさを保つ機能がある。また、きびなど雑穀の容器か。モロッコ時間朝805、途中のAFRIQUIAガスステーションの一つでトイレ休憩。ここでは食品を売っており、軽食も取れる。土田さんがトイレに行き、青くなって帰って来る。巨大な虫の死骸が転がっていたとか。朝925、大きな町に入る。街路沿いにはソテツの並木があり、おしゃれな街灯が目を楽しませる。道路清掃人も目に付く。じきに進行左手に大きな塔のモスク(マスジット)が見える。タンジェである。チャーターの運ちゃんはフェリー乗り場の前までぴったり連れて行った。ここは運行会社のオフィスとは遠いので渋る運ちゃんを説得してオフィス前まで車を戻させて下車する。350ユーロとチップ20ユーロ。朝10時。疇谷さんや清水さんの推測では350ユーロは更にガイドも頼ませるために低く設定した値段で、言い値で高く言ったわけではないのではないか、そのため、ガイドを断った私たちを不便なフェリー乗り場に直付けするようオーナーが嫌がらせをしたのではないかという話。途中の気温表示は25℃から36℃とまちまちで日向と日陰の気温差が大きいことが分かる。ちなみにモロッコの通貨単位はDH(ディルハム)、指名打者ではない。オフィス前は大きな海岸通りになっていて、松の大木の下の木陰で待っている間に、疇谷さんと清水さん、石川さんがFRSのオフィスにチケットの手配に行く。ポルトガル語、スペイン語、アラビア語に精通する人と度胸の人が組みになって行くわけだから最強。海岸沿いは松のほかにソテツ、椰子の木が目立つ。陽光はそれほど激しくはなく、風が吹いて涼しく、潮の香りがする。タクシーの客引きやサングラス売りがうろうろしている。まだ、朝は早い。女性はフードの長い中東イメージの服装で歩き、男性はシャツにジーパンである。木陰で寝ている人も多い。結局、船のチケットはオープンチケットにしたとのことであった。また、FRSのオフィスで荷物を預かってくれた。それから旧市街メディナへ入り、カスバへの道を登る。結構、急な坂である。細い道が入り組んでいて人が多く活気が溢れている。日陰には猫が寝そべっている。旧王宮の一部がカスバ博物館となっており、参観する。その後、迷路を降りていくと城壁の切れ目からジブラルタル海峡を見渡すことができた。午前1150、カスバを出てFRS近くの食堂のパラソルの下で飲み物(ビール、ミントティ、コカコーラ)とサンドイッチを頼む。しかし船の出航時間が迫ったため、清水さんがDHで支払いをして(持ち合わせが微妙に足りなかったので、少しおまけして貰ったとか)サンドイッチをテイクアウトして貰い、FRSのオフィスで荷物を受け取り、紙袋に包んだサンドイッチを握ってフェリー乗り場へと走る。距離は400メートル、炎天下、トランクを引きずって全力で歩いた。その上、パスポートコントロールは2Fになっており、エレベーターもエスカレーターも見あたらないので、重いトランクを持って急階段をよじ登る。パスポートコントロールは結構人が並んでいて、弘末さんのパスポートの出入国記録が問題視されてひっかかる。皆、同じところを通って来たはずなのに不思議なことだった。それから待合いコーナーで若干待った後、再び階段を降りて車の入出口からフェリーに乗り込む。更に狭い鉄製の階段を2Fによじ登ってやっと船室に辿り着いた。私ですら心臓がばくばくいう行程であったので、弘末さんはじめ皆グッタリする。この全ての行程が「タンジェダッシュ」である。狭義にはFRSオフィスからフェリー乗り場入口まで。しかし、その後のトランクの上げ下ろしの方が遙かにきつかった。石川さんと閉所恐怖症の土田さんは見晴らしの良い上層に登って行ったが、ほかは下層の売店で飲み物(私は水とコーラ)を買ってあのタンジェ製のサンドイッチを食べた。午後105出航。サンドイッチはフランスパンに香辛料の香り高いケフタ(ハンバーグ)、トマト、タマネギと野菜が挟み込まれていて、めちゃくちゃ美味しかった。この旅程NO.1である。少し落ち着いて甲板から離れ行くカスバを写真に収めた。これで某短大の女子学生が憧れたsex and city2の舞台、モロッコともお別れである。ただ、本当の舞台、砂漠には行かなかったが。スペイン本土タリファ(Tarifa)入港はスペイン時間午後4時、わずか55分の船旅であった。またぞろ、大荷物を車の入出口まで引きずり下ろし港を出る。ここはイベリア半島最南端の地である。パスポートコントロールの後、疇谷さんはバス時間を確認するために一足先にバス停に移動。その後、私たちもタクシー2台に分乗してバス停に向かう。私たちが乗るセビーリャ行は午後5時発。24分前にタクシーはバス停に着いた。バス停からも遠くに海が見える。道向こうは3Fの屋根がオレンジで壁が白い家々がずっと並んでいる。隣はガソリンスタンドREPSOLで、ガードの付いた自販機が置いてあった。バス停は木陰になっていて、空調があるが狭いバス待合いのボックスより凌ぎやすい。地元の若者が数人たむろして大声でしゃべっていた。バスは定時にやって来た。出発するとすぐに丘にずらりと風車が並んでいた。白いプロペラ状の大型風車は今や世界中のどこでも見られるが、スペインでもモロッコでも見た。また、ところどころ馬が放牧されていた。すぐに前の席のおばちゃんがバス酔いで盛大にエチケット袋にぶちまけていた。バスは行く先々の町に停車して行ったが、可愛い藁屋根の停車場が印象に残った。結局、ずっと石川さん相手に学務の話をしていた。一生懸命聞いてあげたよと後で言われた。やれやれ。道中、ところどころ丘の上に巨大な牛のシルエットが現れる。シェリーメーカー、オズボーン社の巨大広告である。午後640頃、カディス周辺を通過する。かの逢坂剛の『カディスの赤い星』(第96回直木賞受賞作品、1986年、講談社)の舞台であり、私がスペインを初めて身近に感じた作品だったので、胸がざわついた。日本の作家でスペイン通と言ったらこの人をおいてはない。午後750、セビーリャ、プラド・デ・サン・セバスティアンのバスターミナルに到着。タクシーに分乗してヌエバ広場のホテル・イングラテラにチェックイン。午後9時、ロビーに集合。歩いてレストラン・バー「Las escobas」に行く。ツナサラダ、イカリング揚げ、ハモンセラーノ、ガスパッチョ(クルトン、刻んだゆで卵、刻んだパプリカ添え。これはあっさり味)、マナガツオのステーキ、雄牛の尾の煮込み、イカ墨パエリア(パエージャという発音は南米系スペイン語の発音)、ワイン、ビール、パン、デザートは米のミルク煮(ARROZ CON LECHE)、米のミルク煮を濃厚なアーモンド味にしたようなもの。疇谷さんに珍しいデザートをと無理を言ったら、濃厚な甘さが登場。凄く甘いが美味しかった。それにしても若い日本人の女性二人連れ(学生?)が食事をしていた。円のパワーか?午後11時過ぎにお店を出たが、店外のテーブルはどこも満席状態で大変繁盛していた。この時間でも小さな子供を連れた家族連れが普通に食事をしている。ゆっくり歩いてホテルに戻るが、弘末さんが水を買いたいということなので、便乗して石川さんが水を買っていたお店まで戻って水を買った。若者が英語を話せるかと近づいて来たので無視した。一日、快晴で高温であった。夜1145就寝、歩数12754歩。

828日(土)

セビーリャ、イングラテラ、朝630起床、入浴。朝740、朝食。疇谷さん以外は全て食堂で見かけた。朝930、ロビー集合。歩いてカテドラル(ヒラルダの塔)を見に行く。気温42℃。LRTLight Rail Transit)の横腹には日本語でセビリア、中国語で塞維利亜(seweilia)、英語、その他の言語でセビーリャを強調している。広場には観光用の馬車がたむろしている。カテドラルは朝のミサの最中でタイミング良く扉が開いていたので、しっかり見学することができた。本来、観光用には午前11時からであったので、タダで早い時間に見ることができて幸運だった。遅れて来た日本人の団体は扉が閉まった後で、諦めて引き返していた。カテドラルはイスラム時代の大モスクを基礎にして建てられたゴシックとルネサンスの混合様式で、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂と並ぶ世界三大カテドラル。堂々たるものであった。コロンブスの墓の記念像は大変大きい。カテドラル向かいの両替所で皆両替したので、私も日本円を両替する。この後、別行動をする石川さん、高橋さん、休養する土田さんと別れて、タクシー2台に分乗して駅に向かう。途中でチームカーを背に疾走するロードレーサーの一団を見かけ、異変を感じる。あれはUCIプロのチーム・カチューシャの一団であり、この世界トップクラスのチームが出て来るレースは一つしかない。同乗する疇谷さんが今日はブエルタ・ア・エスパーニャ(Vuelta a Espana)があるとホテルのフロントが言っていたと教えてくれた。あまりの不意打ちに絶句するとともにおろおろする。午前11時に駅に着くと、疇谷さんはコルドバ行きのチケットを買いに窓口に向かう。乗車する列車はAVE02111Sevilla Santa Justa1145発、コルドバ1227着。スペイン国鉄renfeRed Nacional de los Ferrocarriles Espanoles)が誇る新幹線AVEである。出発まで時間があったので、素早く駅の売店まで行って、今日のスポーツ紙2紙、サイクルスポーツ専門雑誌3誌を各3部づつ(ないのは2部)買う。リュックがグッと重くなる。どうせ今日のステージレースはすぐスタートしてどこか遠くの町まで行ってしまうので、見られなかった記念に自転車仲間の分も買った。それから友人にメールして、皆と乗車、早速疇谷さんに新聞の該当部分を読んで貰った。ところがその結果、セビーリャ市内の交通規制は夕方7時過ぎから行われ、レースは午後10時過ぎからであることが判明。つまり、今日は一ステージレースではなく、プロローグであるらしいことが朧気ながら判明してきた。どうやら開幕式典を昨日行って、今日、セビーリャでプロローグをすると見てよいらしい。ロードレースを見るようになって15年、このような日が来ることを想像したことはなかった。佐々木さんにもうコルドバなんかどうでもよいと口走り呆れられた。すでにどうしようもない興奮状態である。さて、1227、コルドバ着、皆席を立って扉の前まで来たがすぐに扉は開かなかった。佐々木さんは押しボタンを押して扉を開けるものと判断したのか、扉の横のボタンを押した。ところがそれはトイレの扉ボタンで、半円形の扉とその横の新幹線の扉が同時に開いて、大笑いとなった。トイレの中が大変広いということも分かった。佐々木さんは押しボタンで開ける列車もあると必死に言い訳していたが、どこの国の新幹線が手動で開くものか。ともあれ、AVEは振動一つせず滑らかな乗り心地、素晴らしい。コルドバ駅からはタクシーでメスキータへ向かう。メスキータ参観の後はグアダルキビール川に架かるローマ橋まで行く。ローマ橋とその周辺は綺麗に作り替える工事が進められていて、些か興を削がれた。厳しい陽光に耐えきれず、ローマ橋は渡ることなく旧ユダヤ人街に向かう。昼食は旧ユダヤ人街の「TABERNA EL PATIO ANDALUZ」。パン、オリーブの酢漬け、魚介(エビ・イカ・貝)サラダ、ツナサラダ、ガスパッチョ(刻みタマネギ、パプリカ別添え)、肉団子ワインソース、ラム2種、サングリア、ビールなど。それから路地を巡ってシナゴーグを見に行った。途中で皮細工師の店を冷やかす。なかなか素晴らしい出来映えのバッグなどが並んでいて心が揺れたが、お値段もそれなり。迷っているうちに時間が過ぎてしまった。疇谷さんは奥様へのお土産のバッグを買っていた。あれはなかなか素晴らしい。疇谷さんの奥様は幸せだ。機会があったら又寄りたいお店であった。それからアルカサールへと向かったが午後350、午後の閉館時間で中に入ることは出来なかった。ここはカトリック両王がコロンブスと会見した城ではあるが。とにかく焼け付くような日差しなのでタクシー2台に分乗してさっさとコルドバ駅に向かう。午後4時前にコルドバ駅に着き、セビーリャ行きのチケットを疇谷さんがまとめて買ってホームに向かうが、疇谷さんは登りエスカレーターに突入してはじき返される。彼の疲れも相当なものだろう。各駅停車に乗る。午後435発、午後555着。車内表示で最高時速は158キロだった。AVEと違い、がたがた揺れる。気温も41℃と表示される。そう言えばスペイン国内で気温48℃を記録したところがあったとか。この日の気温は42℃だったが、どうも夕方に高くなる傾向がある。空気が暖まるせいだろうか。これまでの私は天津での41℃が人生最高体感気温だったが、めでたく更新。列車の扉近くには専用の自転車置き場が設置されていた。日本でもこれからこういうものをどんどん取り入れるべきだろう。簡単な装置である。セビーリャ駅からはまたタクシーでホテルに戻った。疇谷さんはすぐにフロントでブエルタのことを聞いてくれ、ネットで関係する打ち出しを取ってくれた。また、ロビーにいた石川さんは皆の予想通り、ブエルタ見物に付き合ってくれるという。有難いことだ。早速、ホテルから歩いて10分足らずのところにある闘牛場の前までコース設置を見に行く。ここがスタート地点であり、その裏がゴール地点となる。今日はセビーリャ周回コースなのである。早くもコーナーには警官隊がたむろし、騎馬警官やレース先導の白バイ隊が縦列で走っていた。凄い数である。また、チームバス、チームカーが並び、見物客で溢れている。皆、お目当てのチームカーの前で記念写真を撮っている。アトラクションの舞台劇やフォードのブースが出て、様々な自転車が展示されていた。また、長く白いキリンの絵のある箱が無料で配られていて、それを使うと人垣の後ろから中の鏡の反射でレースが見られるという優れ物?だった。また、二階建てのバスがゆっくり走っていて、上では役者が海賊物の演劇を披露していた。子供が喜んで見ていた。沿道ではブエルタセットが1セット10ユーロで売られていた。ブエルタのロゴがプリントされた赤い袋の中は、記念プレート、携帯入・携帯ストラップ、キャップ(赤と青二種類のどちらか)、Tシャッツ、サングラス、腕輪と勿論赤い袋で7セット10ユーロである。即5セット買った。ちっちゃな女の子がお父さんに買ってもらった赤い袋をリュックとして背中にしょって嬉しそうに歩いていく。素晴らしい光景である。シマノのオフィシャルカーが通り、表彰台やスタート台の設置も着々進んでいる。コース沿いのホテルは予約で大変だったろう。勿論、コース側の部屋だけれど。私たちのホテルはヌエバ広場だから、そのコースからは外れている。下見の帰りに北京城大酒家というこてこてに中華の装飾に溢れた店を見かけた。セビーリャの中華はいかに。夜9時、ロビーに集合して夕食を食べに行く。「BAR GONZALO」というお店である。席は2Fとなった。空調の効きの微妙な部屋だった。ガスパッチョ、メロンとハモンセラーノ、各種ハムとチーズの盛り合わせ、チーズ、焼きラム、蛸の薄切り焼、エビの塩焼、パエリア、ツナサラダ、ビール、ワイン。夜945、途中で抜け出してレースを見に行く。石川さん、貴堂さんが一緒。弘末さんと疇谷さんも夕方にスタート地点を見に行かれたとのこと。疇谷さんも後日、あのときは行きたかったが立場上、行けなかったとのこと。全く申し訳ない。レストランはカテドラルの横だったので、スタート地点まで歩いて10分ぐらいのところ。貴堂さんと石川さんにはなぜ、日本でこのレースをチェックしなかったのかと冷やかされた。しかし、驚くぐらい考えてもいなかったのだ。貴堂さんはスペインサッカーのリーグ戦をチェックし、石川さんは闘牛をチェックして旅行計画を考えたという。しかし、大幸運は私に降って来たのだ。疇谷さんからは弘大でスペイン史を採用したから、スペインの神が幸運をもたらしたと言ってくれた。私たちがスタート地点に着くと、すでに観客がコース左右に鈴なりになっていた。やがて、チーム順にタイムトライアルが始まった。1チーム9人編成で棒状一列になって速さを競う。スタート地点からすぐの地点でデジカメに撮ろうとしたが、あまりの速さに線でしか写らない。そこでイサベル2世橋に曲がる交差点まで移動してビデオ機能で撮ることにした。石川さんが身体で人混みを押しのけて撮影ポイントを作ってくれた。それからチームバスや選手がごった返している控えのゾーンを通ってゴール側に移る途中で、グッズ売り場に2人を案内した。ご両者とも息子さんへのお土産として1セットずつ買う。私ももう1セット買った。再び撮影に挑んだがやはり速すぎた。2チーム分のゴールを見届けて、夜11時頃、レストランにとって返した。その頃には皆酔っぱらってへろへろになっていた。残りのごはんをあさった後、皆でホテルに戻った。頭上を中継のヘリコプターが3機ほど飛んでいた。夜12時頃、部屋のテレビをつけると丁度、表彰式やインタビューが流れていた。初日の勝利は周回13㎞を1406秒(時速553㎞)で走ったチームHTC・コロンビア、総合トップはマーク・カベンディッシュ(イギリス)であった。夜130就寝も興奮でなかなか寝付けず、歩数20383歩。

  ブエルタ・ア・エスパーニャ:ジロ・ディタリア(Giro d´Italia、イタリア一周レース、1909年から93回開催、5月から6月)、ツール・ド・フランス(Le Tour de France、フランス一周レース、1903年から97回開催、7月)と並ぶ三大自転車レース(グランツール)でUCIプロツールの一つ。1935年から今年で65回目(大会創設75回目)の開催で、8月下旬から9月中旬に開かれるスペイン一周レース。

  UCIプロツール:UCI(国際自転車競技連合)主催のプロツールは資格のあるプロ自転車チームしか出られないとともに、有資格チームは必ず出る義務を負う。

  プロツールの見方:1チームは9名で編成され、各ステージレースの個人タイムの合計が一番少ない選手が総合優勝となる。ブエルタは全21ステージなので、21ステージの合計タイムが一番少ない選手(つまり一番速い選手)が総合優勝となる。個人タイムレースなのにチームごとに9名ずつ出場する理由は、1人で闘い続けることが困難だからであり、チームごとに助け合って、自分のチームのエースを勝たせて、その賞金を全員で分け合うという闘い方をする。この賞金はいろいろな形で設定される。山岳の峠を通過した順番を合計して一番稼いだ人は山岳賞、平坦なコースのポイントとゴールを通過した順番を合計して一番稼いだ人はポイント賞、ステージごとの優勝、その他いろいろある。また、チームタイムトライアルはチームごとに集団で走って前から5番目の選手のタイム、個人タイムトライアルは1人ずつ走ってそのタイムがそれぞれ個人の成績に加算される。チームを編成する理由にはもう一つあり、自転車選手には体重の軽い選手は登りが得意、体重の重い選手は平地と降りが得意、どちらでもないが登りも降りも平地もバランスよく強い選手がいるので、これらの選手を組み合わせて、場面場面で賞金が獲得でき、最終的にエースを勝たせる戦略を監督が立てるわけである。

  今回のブエルタ:828日から919日まで、休息日2日を挟み、全21ステージ、合計34249㎞、今年は記念大会で、総合トップはマイヨ・ロホ(赤シャツ、今回から色が変わった)を着る。総合トップは毎回、タイムの合計で入れ替わり、最終ステージのマドリッドのゴール後に着た選手が総合優勝となる。今回は全22チーム、198人出場。

CERVELO TEST TEAM スイス サーヴェロ(自転車メーカー)

AG2R-MONDIALE フランス 保健年金共済組合

ANDALUCIA-CAJASUR スペイン アンダルシア自治体・カハスール銀行

ASTANA カザフスタン 同国の出資団体

BBOX BOUYGUES TELECOM フランス 電話通信会社

CAISSE D´EPARGNE スペイン フランスの銀行

COFIDIS LE CREDIT EN LIGNE フランス コフィディス(信販会社)

EUSKALTEL-EUSKADI スペイン エウスカルテル(通信会社)

・エウスカディ(バイク自転車基金)

FOOTON-SERVETTO スペイン フートン(靴中敷メーカー)・セルヴェット(ハンガーメーカー)・フジ(自転車メーカー)

FRANCAISE DES JEUX フランス フランス宝くじ公社

GARMIN-TRANSITIONS アメリカ ガーミン(GPSメーカー)

・トランジションズ(レンズメーカー)

LAMPRE-FARNESE VINI イタリア ランプレ(金属加工会社)

・ファルネーゼヴィーニ(ワインメーカー)

LIQUIGAS-DOIMO イタリア リクイガス(ガス会社)・ドイモ(家具会社)

OMEGA PHARMA-LOTTO ベルギー オメガファルマ(製薬会社)

・ロット(ベルギー宝くじ公社)

QUICK STEP ベルギー 床材メーカー

RABOBANK オランダ 銀行

SKY PROFESSIONAL CYCKING TEAM イギリス スカイ(衛星放送局)

TEAM HTC-COLUMBIA アメリカ HTC(携帯電話メーカー)

・コロンビア(アウトドアウェアブランド)

TEAM KATUSHA ロシア スポーツマネージメント会社

TEAM MIRAM ドイツ 乳製品メーカー

TEAM SAXO BANK デンマーク 外貨信託銀行

XACOBEO GALICIA スペイン シャコベオ(ヤコブ大祭事務局)

・ガリシオ(地方自治体)

829日(日)

セビーリャ、イングラテラ、朝7時起床、入浴。朝8時、朝食。弘末さん、石川さん、土田さん、貴堂さんがおられた。朝9時、ロビー集合、チェックアウト。荷物をホテルに預けてまずセビーリャ大学法学部を見に行く。ここは佐々木さんの熱烈な希望。18世紀に建てられた旧王立煙草工場で、メリメのカルメンの舞台となった。煙草工場の女工でジプシーのカルメンと工場内の衛兵ホセの物語。次のアルカーサルを見る。これもイスラム時代の王宮がキリスト教王の王宮に改築された建物。昨日のメスキータの造作をあらゆるところに見ることができた。石川さんはここをもっとゆっくり見たいということで、ほかは先にインディアス図書館に行く。丁度、海のテーマとする展示をしていた。アメリカ関係の展示が多かった。あと、フィリピン関係。先に出て、図書館の石段で旅行のメモをとっていると石川さんが現れて、のんびり入館して行った。その後、物もらいが現れてすぐ近くでうろうろしているので、はす向かいのスターバックスでフラペチーノ・コーヒー抜きを頼んで涼む。それから皆でホテルに戻るが、途中で弘末さんがそろそろラーメンが食べたいねとおっしゃる。私もさすがに連日のオリーブオイル漬けで徐々に体型が増殖しつつあったので、そろそろ口直しをしたいと思った。ホテルからタクシー3台に分乗してアルマス広場のバスターミナルに1210着。ステーションのカフェで疇谷さんが適当に水とパニーニなど軽食を取ってくれた。問題はトイレで20セント入れると扉が開くという代物。3度チャレンジしてやっとあいた。頭に来たから60セント分、ふんだんにトイレットペーパーを使う。どでかい便器でこういう時はでかい尻の有難みが分かる。バスは午後130発。ポルトガル・ラゴス行きでファロで途中下車する。途中はずっと農村風景で枯れた向日葵畑が広がる。ほかはオリーブ、松、サトウキビなど。ところどころ白馬が草をはむのが見られた。午後325、グアディアナ川の巨大な吊り橋を渡ってポルトガル入国。ここから時差が8時間に変わる。ポルトガル時間午後225。パスポートコントロールも何もない。EU圏内の移動がかくなるものかと思う。午後340(スペイン時間午後440)、ファロバスセンターに到着。ホテル・エヴァ(EVA)はバスセンター隣。午後450チェックイン。ロビーの真っ白で無機質な感じが強烈。丁度マリーナに面していて、隣はバスターミナル、裏はファロ駅。部屋に荷物を置いて、午後430、ロビー集合。ファロ旧城内を散策し、ファロ市立博物館を見学。16世紀の修道院を補修して使っている。一時はコルク工場になっていた。ローマ遺跡のモザイク、フェニキア人、カルタゴ人の遺物など展示。博物館の前の広場にはアルフォンソ3世の像が立っていて、ロータリーの花壇にはオレンジや黄色の小手毬が咲き乱れていた。ここのガーゴイルは独特だと高橋さんの指摘。それかカテドラルを横目にしつつ海側の城門から出てマリーナまで戻り、城壁の外側を廻ってサント・アントニオ通りまで行ってカフェテリア「WELWITSCHIA」で一休み。パフェを食べる。午後6時であった。犬は見かけるが猫が少ない。カフェを出て少し歩き、通りの遠華商場という華人の店で石川さんが中華のお店の情報を聞き出して来る。2軒向かい合わせで中華のお店があるが、あまり食べたくはないという注釈付であった。近くに「寿司屋」と書かれたライトバンが止まっていた。それから件のお店を探して暫く右往左往し、やっと探し当てた。「Rio das Perolas」と「Familia Feliz」であったが、前者は閉まっていて、偶然やって来た店主らしき老女はこれから出かけるらしきそぶりだった。後者は中華と和食の店とある。必然的にこちらに入ることになった。店内にまだあまり人はいなかったが、奥にはバイキング用のテーブルに料理が並んでいた。取りあえず、快活そうな親父が出てきたので、メニューを頼んだら随分年季の入った菜単が出て来た。弘末さんはチャプスイを食べたいとおっしゃる。私はそれを知らなかったが、石川さんのおっしゃるところでは李鴻章にも関係するという。元来、広東料理の炒雑砕という豚肉や鶏肉、タマネギ、モヤシなどを炒めてスープで煮、水溶き片栗粉でとろみを付けた八宝菜のようなもの。李鴻章が渡米した時に、料理が口に合わず、全て細かく刻んで煮込んだごった煮が美味しかったので、李鴻章雑砕と呼ぶとか。サラダ、春巻、水餃子、北京ダック、エビチリ、肉野菜炒め、野菜炒め、炒飯、ライス、水、ビール、ワイン。計算を誤って、テーブル中、野菜炒めの大軍で占められることになってしまった。しかもどれもたっぷりモヤシが入っていて、エビチリはエビの姿はどこへやら、殆ど角切り野菜のチリソース炒めであった。ただ、久しぶりで違う料理を食べたという満足感があった。とても食べきれず、中国以来、豪勢に残して帰った。マリーナに隣接するホテル前の広場ではコンサートをやっていて、翌日、石川さんが煩かったと嘆いていた。部屋がマリーナ側ではない私は影響なし。帰りに水を買おうとうろついたが、明いている売店がなかったので、疇谷さんがホテル1Fのバーに聞いたところ、瓶詰めの水を売ってくれた。ついでに疇谷さん、石川さん、清水さんとポルトワイン、カクテルなどを飲む。ポルトワインにいろいろ種類があることや地酒(コンサニージャ)があることを知る。夜1030就寝、歩数23246歩。

830日(月)

ファロ、エヴァ、朝6時起床、入浴、朝715、朝食。土田さん、清水さん、弘末さんはじめ、ぽつぽつ起きて来られる。食堂の窓はオーシャンビューでマリーナとファロ旧市街が見渡せる。隣のテーブルは金沢工業大学の名誉教授が奥さんを連れて全16日の退職旅行中ということで、ポルトガルからセビーリャ、コルドバ、グラナダに行かれるとか。私たちとは逆コースである。朝9時、ロビー集合、歩いてファロ駅に行き、疇谷さんが切符を買ってホームに入る。ラゴス行きは6番線からである。ジュラルミンのボディで2両編成。乗客もぽつぽつである。ステップが高くて些かよじ登るように乗り込む。朝930発車、途中ででっぷりした車掌さんが検札に来る。午前1123、ラゴス駅到着。木とステンレスでできた瀟洒な駅だった。ここはエンリケ航海王子が居を構えた大航海時代の拠点の一つ。今は立派なリゾートで、ヨットハーバーにサーフボード、女性はセパレート水着、男性は上半身裸が普通。その間をリュック背負った日本人の一団が棒状一列で通り過ぎて行く光景は些か漫画。ヨットクルージングや水上ジェットの呼び込みが声を掛けてくる。駅を出て目の前のベンサフリン川を渡り、川沿いのデスコブリメントス大通りを海辺の方に歩き、425日通りをレプブリカ広場に歩き、エンリケ航海王子の銅像の前で疇谷さんを待つ。彼はバスターミナルに寄ってからすぐ来た。銅像の後ろは旧奴隷市場である。銅像の前で記念写真を撮るとレストランを探す。このようなところにもDYNASTYという名の中華屋など2軒の中華の店を見つけた。私たちはレストラン、ドン・エンリケに入る。なかなか現代風のお店であるが一向に料理が出て来ない。高橋さんによると扇子を使うのは女性というのがこのあたりの常識なのだそうで、どきりとする。清水さんは開き直っていた。ホッとする。サグレスに行くバスの時間もあるので、皆のイライラハラハラが頂点に達した頃に、エビと野菜のサラダ、焼いたサーモンにポテトと人参とズッキーニ、フグの雑炊、鶏肉ソテー野菜添えと魚ソテー?が一時に出てきた。パン、水、ビール、ワイン。おしゃれな盛りつけ。ということで、食べ終わるや、大急ぎでバスターミナルに向かう。間一髪で間に合う。午後140発車。疇谷さんが定時に発車したことを、盛んに信じられないと繰り返す。午後240、サグレス、コマンダンテ・マトソ通りで下車。陽光がきらめく。ここにもエンリケ航海王子の像。取りあえずレプブリカ広場の喫茶店でお手洗いを借りつつ、水分を補給する。エッグタルトがあったので人生初エッグタルトに挑戦。巨大なおばちゃんがまた巨大なケーキをゲットしていた。道理でこうも巨大化するわけだ。一息ついてサグレス要塞に向かう。エンリケ航海王子が15世紀初頭にここに世界初の航海学校を創設したと言われ、司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、ここに立って航海学校の存在を実感したと感想を述べているとか。要塞の先のヨーロッパ最西南端サン・ヴィセンテ岬はここから北に6キロ行かないとだめなので、要塞の南側のサグレス岬に立つ。ここサグレスは沢木耕太郎が『ミッドナイト・エクスプレス』の中で、彼のあの旅を終える決断をした地である。ともあれ、入り江も何もない波濤が押し寄せるこの岬に航海学校を作ること自体、不可能なことである。ここにはエンリケ航海王子の残照が残っているような気がした。石川さん、貴堂さん、清水さん、土田さん、疇谷さんと岬で記念写真を撮る。さて、ラゴス行きのバスの時間が迫って来たので、フォルタレザ通りをバス停に急ぐ。疇谷さんの話だと地元の人は30分頃にバスは来ると言っているということだったが、ニューポルトガルでは時間厳守かもしれないと思った。そしてほぼ定時にバスは現れた。午後420、無事、全員バスに乗り込んでラゴスを目指す。行きのバスと違い、空調の効かない路線バスで、村々に停車していく。午後515、出発点、ラゴスのバスターミナルに着いた。すると、目の前にファロ行きのバスが待機しているのを目ざとく見つけた疇谷さんは一目散に走る。私たちも急いで降りたが、座席に地球の歩き方が陳列してあるのを見つけて、誰のものか分からないが掴んで降りた。そしてラゴスから乗って来たバスは待機場へ移動をはじめた。と、佐々木さんと清水さんがアンブレラ~と全力でそのバスを追いかけはじめた。佐々木さんが日傘を忘れたらしい。ファロ行きのバスのところに行くと、疇谷さんは全員分のチケットを買って、バスの出発を押しとどめているところであった。先ほどの9人かと売り場の職員も覚えてくれていたらしい。咄嗟に高橋さんが待機場にダッシュ、佐々木さんたちを呼び返しに行く。午後520、ファロ行きバスは発車。佐々木さんの傘は見つかり、地球の歩き方(兼迷い方)は疇谷さんのであった。今度のバスは空調付きで、先ほどの日差しに喘ぐバスとは大違い。疇谷さんの話だと、本当はこのファロ行きバスには間に合わないはずだったとのこと。恐らく、路線バスが時間に正確に走ったため、間に合ったのかもしれない。この度の奇跡の一つ。午後730、ファロバスターミナル着。午後8時、ロビーに集合して夕ご飯を食べに行く。疇谷さんが楽しみにしていた「モーロ人の食卓」というレストランが旧市街のカテドラルのある広場の南側にあるはずであったが、その痕跡はどこにもなかった。仕方がないので旧市街を出て、新市街の「SOL E JARDIM」に行く。海鮮を得意とするレストランだそうだ。新鮮な魚が入口にディスプレイされている。炒めたエビ、野菜サラダ、チーズオムレツ、焼いた鰯、アサリと豚肉の炒め物、メインは海鮮カタプラーナ鍋(エビ・蟹・アサリなどのワイン蒸し)、ビール、ワイン、オリーブ、パン。鍋は運ぶ時に思い切り海鮮のスープをこぼしていた。あれで50ユーロは返して欲しいところ。このスープは絶品!蟹を解体する道具が登場した。デザートはプディング。レストランの塀の上を猫が歩いていた。帰りにハローキティのお店があった。ショーウィンドーから見えたキティのひとつはそれらしく見えなかった。夜11時、また昨日のバーで水を買いがてら、疇谷さん、高橋さん、弘末さん、清水さんと2杯ほど飲む。夜030就寝、歩数13445歩。

831日(火)

ファロ・エヴァ、朝730起床、入浴、メール。朝810、朝食。食堂のテラスに弘末さんと石川さんがいたので、そこで朝食を食べる。薄曇り。マリーナの景色がよく見える。朝850、ロビー集合、チェックアウト。トランクを引っ張ってファロ駅まで移動。朝920発車、一路、リスボンを目指す。途中でコルクの木が見える。幹の皮の剥がされた部分が茶色く見える。コルクはポルトガルの名産である。コルクは皮を剥がされても再生するのだろうが、白樺だったら一巻の終わりである。午後1時、テージョ川を渡ってリスボン市内に入る。午後120、リスボン・セテリオス駅着、タクシー3台に分乗してボンバル侯爵広場近くのホテル・フロリダにチェックイン。ここはアメリカに毒されたようなホテルで、部屋ごとに映画スターの名前が冠されている。私の部屋はブルース・リーの間。燃えよ、ドラゴンのでかいポスターが飾ってある。それにしてもバス・トイレから凄まじい消毒液(クレゾール?)のにおいがして堪らない。午後215、ロビー集合、タクシーで国立古美術館に行き、まず館内レストランで昼食。キッシュ、サーモンサラダ、クロケート、プディング、鶏卵素麺の元祖、パパイヤ、ワイン、ビール、水。それから自由に館内を見て歩く。丁度、大航海時代の特別展示をしていた。また、中国陶磁の展示も多いが時間が限られていたため殆ど見ることはできなかった。売店に中国明朝時代の陶磁器の図録があったので、ポルトガル語だが致し方なく買う。収録作品はポルトガル人収集家のもので、国立古美術館の収集品ではないことが分かった。午後5時、ここを出てテージョ川沿いでLRTに乗り、フィゲイラ広場に行く。途中、コメルシオ広場を通る。ここはもと奴隷市場があったところとか。フィゲイラ広場には騎馬に跨るポンバル侯爵の像があった。ここからタクシーでサン・ジョルジェ城に登る。急な坂である。広場にはアフォンス・エンリケスの銅像がある。見晴らしは素晴らしく、テージョ川が美しい。また、ポンバル侯爵によるリスボン再建の造作をよく観察することができた。ところどころに火災の延焼を防ぐ防火壁を見て取る事が出来た。城内にはなにゆえかクジャクが沢山いた。猫も多かった。城内をひとしきり見てから徒歩で坂を下りる。途中で高橋さんが鳩の糞の直撃を食らう。彼は今回の旅ではデジカメを落としてカバーが破損、ホテルでは部屋がないなど、不運続き。サンタ・ルジア展望台近くの土産物屋で代替えのシャツを買って着替えていた。黒いシャツだったので全身黒づくめになってしまったので、サングラスをすると細身の中国マフィアの頭領といった趣で、皆面白がって写真を撮っていた。それから坂を下りてアルファマのファド博物館、軍事博物館の前を通ってサンタ・アポローニア駅からサンタ・エングラシア教会の前まで歩いて、そこでタクシー3台に分乗してカイス・ド・ソドレ駅の船着き場に行く。1台は駅の方に行ってしまい、疇谷さんが待ち人を探し回る。午後730、ここから渡し船でテージョ川を渡りアルマダ地区に上陸。丁度、夕日が沈んでいくところ。渡し場近くのレストラン「MARISQUEIRA CABRINHA CACILHAS(雌山羊ちゃん)」で夕食。疇谷さんが蟹にあたって二度と食べられない身体になってしまった思い出のレストラン。ショーウィンドーにずらりと蟹とロブスター、エビが並ぶ。壮観と言ってよい。蟹やロブスターをたたき割るハンマーと叩き台、身をほじり出す道具が一人一人に運ばれてくる。また、ロブスターの絵が入った前掛けが配られる。蒸しロブスター、蟹みそ、野菜スープ、蟹スープ?、蟹爪、大ぶりの生オイスター、フグのリゾット、ワイン、ビール、バターを塗ったパン、メロン、エスプレッソ、駱駝のよだれという名のプリン、チーズ。帰りはタクシー3台に分乗して425日橋を渡ってホテルに戻った。フロント脇のバーで水を買いがてら疇谷さん、清水さん、弘末さんとポルトワイン、ビールなどを飲む。私はチョコレートミルク。夜1220就寝、歩数10762歩。

91日(水)

リスボン・ホテルフロリダ、朝6時起床、入浴、朝720、朝食。佐々木さん、高橋さん、疇谷さん、弘末さん、清水さん、貴堂さん、土田さんが見えていた。エッグタルト3個食べる。朝9時、ロビー集合。タクシー3台に分乗してベレンの塔に行くが、まだ閉まっていた。それから発見のモニュメントを見てジェロニモス修道院に行く。入口のエンリケ航海王子の像が本物に近いらしい。ここの建物も素晴らしい。中庭も風情がある。バッタのガーゴイルをはじめとして不思議な文様に溢れていた。修道院を出たところにEU加盟のプレートがあった。それから隣の海洋博物館に行く。ここはポルトガル海軍の展示が主であるが、大航海時代の帆船や王室の船、初期の飛行機などが展示されていた。また、エンリケ航海王子の彫刻もあった。売店で土産物のまとめ買いをする。英語が通じなかった。それから再びジェロニモス修道院に戻ってコロンブスとカモンエスの墓に祈りを捧げ、その足でパステイス・デ・ベレンに行き、本場のエッグタルトとエスプレッソを味わう。焼きたてはあっさりとしてぱりぱりで何個でも食べられそう。隣の売店で買うと延々待たされるということだが、喫茶で食べるとすぐ出て来ると疇谷さんは笑っていた。気温23℃。1240、ベレン駅から電車で1度乗り換えてカスカイス駅に行く。午後118着。ここでタクシー3台に分乗してロカ岬に行く。途中は立派なリゾートだった。午後150、ロカ岬着。十字架の塔のプレートの「ここに地果て、海始まる」のルイス・デ・カモンエス『ウズ・ルジアダス』の一節を見て大満足。記念撮影をして、10ユーロで到達証明書を作ってもらう。日本人も結構多い。それから待たせてあったタクシーで駅に戻る。往復30ユーロあまり。駅近くのレストラン「ECONOMICA」で昼食。ビール、イカフライ、豚肉のシチュー(肉を煮込んだものをごはんにかける)、焼き鰯、巨大ソーセージをフライにしたようなもの。午後4時過ぎ、駅から電車でカイス・ド・ソドレ駅に戻る。午後450着。駅前のLRTの乗り場の線路のところで若い女の子が倒れる。連れの女の子が2人いるが手をこまねいている。ヴォッカの空瓶を持っていたので明らかに急性アルコール中毒。見るに見かねて周りの大人が歩道に横たえる。ゲエゲエ吐いている。さて、私たちはLRTに乗ってフィゲイラ広場に向かう。昨日のLRT内で弘末さんにスリを働こうとした人がいたとかで、一応、皆注意する。狭い車内が混むと不逞を働く奴が出る。貴堂さんが広場の一角の両替所で両替して、皆お買い物タイム。幾つか土産物屋を見て、私は鍋敷き、チーズ切りなど買う。それから金細工の店に寄り、高橋さんは銅版画の店に虜となり、疇谷さん、弘末さん、私は古本屋、書店を廻る。最後に寄った古本屋の向かいにサン・ロケ教会があった。ここは1584年に天正遣欧少年使節団が1ヶ月ほど滞在した、イエズス会のリスボンでの拠点だったと言われる。佐々木さん、土田さん、石川さんを除き、タクシー2台に分乗してホテルに帰る。その後、私はアモレイラス・ショッピングセンターまでホテルからの急坂を登って行ったが、充分時間はなくホテルに引き返す。午後8時、ロビーに集合して、向かいのレストラン「XENU」で夕食を取る。佐々木さんと土田さんは買い物から歩いて帰って来たと言っていたが、30分かかったとこぼしていた。ガスパッチョ、フグ雑炊、ツナ野菜サラダ、インゲン・人参・ほうれん草・マッシュルームの温野菜、ホワイトアスパラサラダ、鶏肉と栗・ポテトの煮込み、ラムとポテトの煮込み、ウサギ肉のロースト、タルト、ライスプディング、パン、バター、ワイン、ビール。食後、これからファド聞きに行こうかと石川さんに誘われて、激しく迷うが、翌日早朝発のため、お断りする。夜1130就寝、歩数12732歩。

92日(木)

リスボン、ホテルフロリダ、朝440起床、入浴。昨日、モーニングコールを朝4時に頼んでいたはずだが、なぜかこの時間。朝5時過ぎにロビーに降りると、もう1日滞在する石川さんを除き、すでに全員集合。チェックアウトしてタクシー3台に分乗してリスボン空港へ。荷物を預ける段になって4㎏オーバーだから荷物を出すか追加料金を払うか迫られる。土田さんに助けて貰って話を聞き取ったところ、100ユーロだと言う。半分をここの航空会社カウンターで払い、また、スキポールでまた払えという話だった。そこでエールフランスカウンターに行くと55ユーロ払わされた。セキュリティーチェック、パスポートコントロールを受けて25ゲートに向かう。KL1692、ボーディングタイム朝7時、同750フライト。大体隣り合った座席であった。オランダ時間午前1130、スキポール着。関西方面の清水さん、疇谷さんと別れる。疇谷さんから共同出資のお金を託される。弘末さんの提案でアムステルダム市内に繰り出すことにし、コインロッカーに荷物を預ける。エレベーターをおばあさんが転がり落ちてくる。12時、電車で市内に向かう。1220、アムステルダム中央駅着。この駅は東京駅のモデルになったとか、確かによく似ている。ローキン通りを行く。雨雲が厚くたれこめ、気温15℃。オランダ人は背が高い。北欧の雰囲気で溢れた町は人通りも多かった。LRTやチーズの店、葉巻の店など、どこかしらオレンジ色の町を行く。デ・バイエンコルフ百貨店の前を過ぎ、王宮広場に出る。王宮は修復中で幌がかかっていた。自転車乗りには便利な専用レーンがかっこよくて堪らない。中華街で弘末さんは最初に声を掛けられた龍城酒楼というお店に入る。インドネシア料理と中華料理の専門店。インドネシア料理セット2つ、中華セット2つを頼む。料理を保温するステンレスの保温台が4台運ばれてきてテーブルの中央に置かれた。中華はスープ、サラダ、春巻、肉野菜炒め、中華風卵焼き、炒飯、肉団子、アンニン、お茶、インドネシア料理セットは7品ワンセット、サテアヤムや野菜の甘酢漬、インゲン炒、モヤシ炒、バナナフライ、肉ピーナッツソース炒め、ココナッツ炒めなどなど。水、ビール、ワイン。食べているうちに通り雨が過ぎていった。食後はアウデ・ゼイズ・ヴォルブルフヴァル運河沿いに飾り窓を見て歩く。運河には白鳥と鴨の群れ。旧教会を見学。聖ニコラスを祭るカトリック教会であったが、16世紀にプロテスタントが接収。ステンドグラスとパイプオルガンは見事。レンブラントの妻サスキアの墓がある。床がみな墓というのも何だかなと思う。ここの町の石造りの家はどことなく傾いている。地盤の問題があるのだろう。午後356、アムステルダム中央駅から電車でスキポール空港に戻り、荷物をコインロッカーから出して、また土田さんに付き添って貰ってエアフランスのカウンターに行くが、追加料金はなかった。セキュリティーチェックとパスポートコントロールを受けて、ゲートF03に向かう。途中に土産物コーナーがある。ボーディングタイム午後440KL0861、午後545離陸。座席は弘末さん、高橋さんと窓際が私。後ろが佐々木さんと土田さん。食事が3回、飲み物が3回、アイスかカップラーメンが1回。映画を2本、「プリンス オブ ペルシャ~時間の砂~」「ロビンフッド(ラッセルクロー主演、日本では今年12月封切)」を見て、あとはゲーム。殆ど寝ず、歩数21167歩。

93日(金)

午前1050、東京成田空港着。パスポートコントロール、税関で所定の申請用紙を書かされる。申請するものはないのだが。2年前から必ず書いてもらってますと言われる。解散。スターバックスでフラペチーノを食していると事務長から呼び出し。臨時学部運営会議を開くとのこと。地中海の夢が空港を出る前に冷めるとは。1216N´EXで東京駅、午後114着。お昼はカレーライス。午後156発の東北新幹線はやて21号で盛岡午後422着、午後540発の高速バスヨーデル号で弘前へ夜750着。とにかく腰の圧迫感と冷や汗が流れる。夜9時に事務職員と飲み会。帰宅。歩数9137歩。

その後、日曜から高熱にうなされる。終わり。

 

                  シンポジウム・プログラム

 

919(場所:12号館第3会議室)

    1400 シンポジウム開始(弘末が趣旨説明)

    1420 ①報告(高橋さん)

    1450 ②報告(清水さん)

    152030 休憩

    1530 ③報告(荷見さん)

    1600 ④報告(唐澤さん)

    163040 休憩

    1640 ⑤報告(弘末)

    1710 ⑥報告(石川さん)

    174050 休憩

    1750 ⑦鈴木さんの構想の代読

    18001900   総合討論

    終了後 懇親会(イタリア料理の文流にて)

 

920

    1000 ⑧報告(疇谷さん)

    1030 ⑨報告(大石さん)

    11001110 休憩

    1110 ⑩報告(貴堂さん)

    1140 ⑪報告(土田さん)

    121020 休憩

1220 ⑫佐々木さんの構想の代読

    12301330 総合討論

    1330ごろ閉会(会場は17時まで予約)

    ベトナム料理店で昼食

 

 

 

1日目:919

 

古代地中海世界における奴隷

高橋  秀樹

 

  本報告は、しばしば「奴隷制社会」といわれるギリシア・ローマ世界における奴隷について、どのような特性が注意されなければならないか、示していく。

  「奴隷制社会」だったと言われるヨーロッパの古代世界の奴隷について、アリストテレスは、『政治学』において「奴隷はものを言う道具である」と定義する。そして、明らかであることとして「一方にとって奴隷であることが、他方にとっては主人であることが有益であり、また正しくさえある場合」があるとしている。彼ら奴隷は、鉱山労働や農園労働において大量に使役されていた。前者については、ギリシアでは紀元前5世紀前半にアテネ南東部のラウリオン鉱山で1万人以上の奴隷が働き、ローマではスペインの大銀山では4万人もの奴隷が使役されていた。また後者にかんしては、ギリシアのスパルタやメッセニア地方で、侵略してきたドーリア人が元の住人に耕作させて貢納物を納めさせる「奴隷」の組織的使役をいわば国家体制として行い、ローマでも共和政後半期に大土地所有者が大量の奴隷を投入して農園経営を行っていた。古代地中海世界における「奴隷」と自由人の比率については、人口統計の検討が非常に困難であるなか唯一紀元前4世紀後半のアテネについて導き出すことができる。それによれば、当時の自由人の総数が約12万人に対して「奴隷」の総数が約2万人、このうち1万人が家内「奴隷」で残りの1万人が家の外で鉱業や農業に従事する「奴隷」であったと考えられる。そして、当時の一般の自由人成人男子のうち奴隷を持つことができた者は3人に1人程度だったと推定される。しかし、その中には、鉱山経営者のように1人で1000人もの「奴隷」を所有する者も存在していた。戦争が耐えることのなかったギリシアと共和政期のローマでは、これら「奴隷」の多くに戦争捕虜が充てられた。その後、大規模な戦争が無くなり戦争捕虜による「奴隷」供給が困難となった帝政期には、「奴隷」の子供や「奴隷」と同棲した自由人の女やその子供を「奴隷」にしたり、捨て子を育てて「奴隷」とする事例が見られる。しかしながら、いずれも子供の養育費や「奴隷」の妻の生活費のコスト、子供が商品となる前に死んでしまうリスクが非常に高かった。このため「奴隷」の値段は自ずと高くなり、農場では「奴隷」ではなく自由人を小作人として雇うことが優勢となっていった。これらから、当時の裕福でない一般の自由人にとって「奴隷」は決して単なる使い捨ての道具ではなかったといえる。また、自由民と「奴隷」は、身分的に固定されていなかった。紀元前6世紀はじめのアテネでは、借財を返済できない中傷農民の多くが自ら「奴隷」となったという。また逆に、「奴隷」が主人の意向により解放されて自由人になったり、「奴隷」のままで自由人に指示・命令する立場になることもあった。

  古代ギリシア・ローマ世界は、確かに「奴隷制社会」だった。しかし、「奴隷」を組織的かつ大量に投下して産業を行うことが常態ではなく、その供給状況や価格により「奴隷」使役の状況は大きく変動しうるものであった。また、「奴隷」といってもそのあり方は多様で、自由人と「奴隷」の身分は流動的であったといえよう。

 

「イスラーム世界の奴隷」  

清水 和裕

 

 一口に「奴隷」と言っても、その内実は多種多様であり、「奴隷とは何か」を定義することは極めて難しい。誰が「奴隷」であるかは、時代、地域、社会によって、また語り手によって異なっており、奴隷研究においては厳密な分析概念を形成することはひとまず放棄した方が建設的である。

 奴隷の機能は多岐にわたり、一般的にイメージされる肉体労働の奴隷ばかりでなく、宦官のような家内奴隷、妾やハレムのような性的奴隷、イニチェリに代表される軍事奴隷など様々である。奴隷と主人との間には一方的な隷従関係は存在しない場合が多く、家族の一員として扱われる事例さえあった。また、奴隷の生産の在り方についても一様ではなく、少なくとも社会内部で生産されるもの(債務、貧困等による人身売買などによる)と、社会の外部から導入されるもの(戦争捕虜、略奪等による人身売買などによる)ものがあった。イスラーム世界における奴隷は、後者の典型的事例と言える。

 イスラーム法(シャリーア)は、奴隷制度の存在を前提としており、そこでは奴隷は「モノ」として分類され、それ故に自らのために行動する法的能力を喪失している。しかしながら、その人間性は保持しているとされ、一定の法的保護を得ていた。なお、イスラーム法においてはムスリムの奴隷化を禁止していたため、イスラーム社会においては奴隷の供給源は必然的に外部に求められることになる。

 イスラーム社会における奴隷は、一種の威信財としての機能を果たしていた。奴隷の所有が富と権力、社会的ステータスを象徴するものだったのである。主人との関係については、絶対的服従を前提としながらも、その「許可」次第でいくらでも法的主体となり得た。奴隷が主人と私的なつながりを形成し、その重要な腹心として要職に就く事例がある一方、主人の没落の影響を被って悲惨な境遇に陥る事例もあった。このような状況を考慮すると、奴隷が権力を掌握することはイスラーム社会においては必ずしも不自然なことではなかったと考えるべきである。

一方、奴隷がイスラーム社会外部から供給されたことは、奴隷制が異民族供給回路としての役割を果たしたことを意味した。こうした奴隷のほとんどは家内奴隷か宮廷奴隷であったが、主人の地位の上昇によってその社会的地位が上昇し、その過程で「解放」され社会的自由を獲得する事例も少なくなかった。その意味では、イスラーム社会における「奴隷制」は、「異人」を社会に供給し同化させる回路としての役割を果たしたと言えよう。

 

被慮送還と中華秩序~明朝を事例として~

荷見  盛義

 

  本報告は、嘉靖35(1556)に被虜となった後に朝鮮へ漂着した華重慶が、冬至使沈通の一行とともに明朝に送還された際、一行が出立した一日後に送還されたことについて検討する。

  鄭若會『江南経略』巻五、無錫県の条にある「華重慶擄入朝鮮始末附録」によれば、華重慶は以下のようにして被虜となり明朝に帰還する。南直隷無錫の人である彼は、嘉靖35年の倭寇によって被虜となったところ、長江下流で明朝の海防軍による倭寇鎮圧によってちりぢりとなった一団とともに東シナ海を漂流し朝鮮に漂着した。この時期は、所謂、嘉靖の大倭寇と呼ばれる後期倭寇が展開した時期である。朝鮮に漂着した華重慶は、ここでも倭寇討伐に遭って朝鮮軍に拘束されるが、その後朝鮮側の取調べの後、漢陽から遼東に送還された。これに際して、明朝から朝鮮に錦と銀による恩賞が与えられた。しかし銀の恩賞は、沈通源によって横領される。そして彼は、この罪によって冬至使の任を解任されるが、後に復権することになる。

  中国と周辺諸国との間には、宗主国である中国の王朝と周辺の藩属国との間に宗藩関係が存在し、藩属国の支配者が交代した際には宗主国から冊封使が、また藩属国から宗主国へは朝貢使がそれぞれ送られていた。明朝においても、同王朝の成立にともなって朝鮮との間に宗藩関係が構築されている。これと同時に、両王朝における被虜人について相互に送還が行われはじめた。この被慮人送還の実施は、モンゴルをはじめ中国と宗藩関係を持たない国との間では原則行われておらず、宗藩関係と関係したものとして考えることができる。被虜人送還に際しては、当初から恩賞の授与が両者の間で行われており、その量や額は、年々増えていった。

  これらのことから、明朝においては、被慮送還は宗藩関係と相互に補完しあう関係にあるといえる。しかしながら、被虜の送還は宗藩関係に含まれるものではなく、朝貢とは別に行われるものであった。華重慶の送還において、送還が冬至使出立の一日後に行われた理由には、このような事情があるといえる。また、被慮送還に際して授与される恩賞が後の時代に強化された背景には、明代において銀経済が興隆したことがあるといえる。

 

近世イングランドの都市コミュニティと移住者――ノリッジのオランダ人・ワロン人――

唐澤  達之

 

  本報告は、近世ノリッジにおいて、オランダ人・ワロン人がホスト社会にどのように受容されたのかについて、彼らの外部ネットワークとの関わりにも留意しながら検討する。

  近世イングランドにおける外国からの移住者流入には、2つの波がある。1つ目は、本報告が対象とする、約50000人が流入した16世紀後半のオランダ人・ワロン人による移住。2つ目は、4000050000人が流入した168090年代のユグノーによる移住である。彼らは、主にイングランド南東部の都市に移住し、ユグノーは西南部にも移住した。本報告の対象となるノリッジでは、1565年には330人だった移住者人口が1583年には4679人と急増し、1571年には総人口の約4割を占めた。移住の背景には、ネーデルラントにおける宗教的迫害や戦渦からの脱出、ウステッド工業の復興に伴う現地の都市支配層による移住者受け入れ政策や国家による奨励が挙げられる。移住者の殆どは、現地でウステッド工業に従事し、毛織物工業で高い技術を持つ彼らの移住は、ノリッジの新種毛織物New Draperies導入やウステッド工業の復興に寄与し、都市全体の職業構造の変化や人口流入による需要創出といった効果をもたらす。その一方で移民は、1598年まで市民権を取得できず、営業権がなく、同職組合craft guildにも所属せず、小売取引の禁止、取引所での検査・流通の規制や取引税の課税、染色業の禁止など差別的な営業規制を受けた。また彼らは、税制上でも、16世紀後半・17世紀初頭の臨時税subsidyをイギリス人の約2倍課税され、救貧法の税負担が強制された一方で救済対象とはならない等の差別を受けた。構成員に対してピューリタニズムの浸透と社会統制を意図する現地都市政府は、オランダ人8名・ワロン人4名で構成される委員会Politic Menを作り、これを通して移住者の自治を認めつつ彼らの生活を管理する。また、現地では移民に貸し出された教会が移民にとってのアイデンティティ形成や福祉、規律・訓練の核となった。ノリッジに移民が流入した時期は、イングランドの宗教改革と宗派対立の時期にあたるが、1570年にカトリック暴動と関連した移民排斥運動の動きがあった以外は、彼らに対して「事実上の」寛容政策がとられる。このなかでノリッジの移民は、現地に定着し、婚姻関係や遺言書の執行、地区教会との関わりを通じてイギリス人と関係を持ちつつ、手紙や遺言書のやりとりなど出身地との関係も継続していた。彼らのなかには都市役人になった人物もまれに存在したが、市民権を取得し市政に関与した者は少数であり、彼らは、地域社会に統合はされているが同化はしない独自の存在であった。そして、このようなノリッジへの移民は、都市社会の多元性を示すものといえる。

  主権国家の形成期は教会=国家体制の形成期にあたり、宗教的迫害を生み出す必然性があった。しかしヨーロッパ全体では、権力分散・勢力均衡のなかで迫害者が受け入れられる場所があり、彼らが移出先で大きな貢献をし、ヨーロッパ的規模でのネットワーク形成に寄与するケースが存在する。また、広域ネットワーク-主権国家-地域コミュニティ-地域コミュニティの多元性とアイデンティティが複層となるなか、地域コミュニティであるとしという場における受容のあり方が極めて重要な意味を持つ。本報告で取り上げたノリッジへの移住者のケースは、これを示すケースといえる。

 

20世紀前半期のインドネシアにおける現地人妻妾(ニャイ)をめぐるイメージ

弘末  雅士

 

  オランダ領東インドにおいて、191020年代にヨーロッパ人や華人の「現地妻」が人々の話題になったが、これは「現地妻」の慣習の後退や男女関係に民族的差異をもたらしたのか。従来の研究ではコロニアリズムによる影響や混血者ネットワークの力強さから検討が行われてきたこの問題に対して、本研究では、新聞や小説で男女関係をめぐる話題の登場と恋愛至上主義の台頭との関連から考察を行う。

  東南アジア各地では、前近代から現地妻の慣行が存在しており、19世紀の終わりまで、現地の人々は、外来者の現地妻にさほど関心を払っていなかった。しかし、1870年代からのヨーロッパにおける性モラル向上運動が展開するなか、正式な結婚ではないヨーロッパ人の現地人女性との同棲が問題となった。また19世紀終わりから、東インドにおいてニャイが小説や演劇で盛んに取り上げられ、現地人の間でニャイが注目され始めた。20世紀に入った1912年の初頭、辛亥革命の成功に高揚したジャワの華人系住民の商業拡大を警戒した現地人ムスリムとアラブ系住民が、相互扶助団体のイスラーム同盟を結成する。1913年半ばには30万人の会員を抱えたイスラーム同盟では、同盟がオランダ政庁を凌ぐかもしれないという期待が出始めたことで、内部で「原住民」意識が共有されはじめる。そして、機関紙や集会では、ヨーロッパ人や華人がニャイを有することが非難され、原住民女性が外国人女性のニャイにならないように、女子教育の重要性が唱えられた。一方、同じ時期に欧亞混血者が発行していた新聞では、イスラーム指導者とニャイ(正確には、投稿者のニャイと編者)との論争が展開され、欧亞混血者のニャイに対する擁護も行われていた。1920年代に入り、原住民とヨーロッパ人や華人との差異が強調されるにつれて、異なる民族同士の男女関係や婚姻が注目されて新聞記事にしばしば登場し、記事の中では「本当の愛」が頻繁に語られる。このことから、この時期に恋愛至上主義が台頭してきたとみられる。このようななか、1920年代における東インド在住のヨーロッパ人と華人系住民も含んだ被ヨーロッパ人との婚姻率は、共産党蜂起が起こるまで20%前半から後半へとコンスタントに上昇していった。

  以上のことから、当該時代において、ニャイの慣行は後退しているが現地人女性とヨーロッパ人との同棲や婚姻は減少していないことや、その背景には混血者文化の根強さとともに新たな恋愛観が影響していること、人種主義をはじめとする民族主義とともにプリントキャピタリズムは新たな男女観も作り出したことが推定される。そのうえで、恋愛至上主義の台頭は植民地期インドネシアだけの減少なのか検討する必要があるといえる。

 

近代東アジアにおける「奴隷」と解放

石川  禎浩

 

  奴隷は、中国では古くから存在していたことが記述されている。唐代には小説「崑崙奴伝」など黒人奴隷の存在を示す記録がある。ここにあらわれる「崑崙」南洋(南中国-東南アジア)からインド洋世界一帯を広く指す語で、そこからやってきた「崑崙奴」は特に素潜りや船漕ぎなど水回りにおいて精神的・肉体的に常人とは異なる様々な能力を持つとされていた。その後、明代後期以降にはマカオにポルトガル人の連れてきた黒人奴隷の記録が現れ、清代の乾隆年間には同地に1000名ほどの「黒奴」がいたとの説がある。その一方で、古漢語でも典籍において「奴隷」や「奴僕」、「奴虜」、「奴婢」などの語で多くの用例が存在している。

  日本においては、1603年の日葡辞書に「奴隷=nurei」の語があり、ポルトガル語の説明では「奴隷、身分の低い奉公人」とされている。また「崑崙奴」についても記述があり、18世紀1708年の新井白石「西洋紀聞」では、中国の崑崙奴を指していた。しかし、19世紀の高野長英「戊戌夢物語」「知彼一助」、佐久間象山「幕府宛上書」、福沢諭吉『西洋事情』といった各書物では、「奴隷」「崑崙奴」がともに欧米やその植民地における奴隷や召使いを指し、日本における奴隷や身分の低い奉公人はその中に入らなくなるといった、語義の変化が見られる。さらに19世紀末の1875年に著された福沢諭吉『文明論之概略』などでは、「奴隷」の語が、身分呼称から精神的従属性の意味に転じ、民族の精神的覚醒・自立のために解放されるべきものとして使われている。

  中国では、19世紀以降、外国の奴隷を指す語として「黒奴」や「奴」が用いられる。そしてこれらの語は、中国人は、現在欧米列強の奴隷になっているという文脈や、そうなってはならないとの文脈でしばしば使われていた。その後19世紀末以降、変法派の梁啓超や革命派の毛沢東らが、専制国家では皇帝や帝室以外の者は皆「奴隷」であるとの論を展開した。更に20世紀に入ると、麥孟華、黄群、魯迅らが、独立、自由、自治の精神なき全ての者を「奴隷」とし、それらの精神がある者を「国民」とする対立概念を明示していく。そして同じ時期から、鄒容らによる、「奴隷」を「国民」にするには「革命」が必要である、との主張も現れてくるのである。

 

2日目:9月20日

ポルトガル海洋帝国における奴隷(1618世紀) 

疇谷 憲洋

 

 ポルトガル海洋帝国の特徴を一言で言えば「拡散」と表現しうる。17世紀初頭で本国の人口はわずか150万であったにもかかわらず、ブラジルから日本に至る広大な地域に拠点を形成していた。必然的にその支配は拠点としての「港市」の連続体という形態をとった。その拠点間交易の商品として重要だったのが「奴隷」であった。一般的には、ポルトガル海洋帝国においては人種混淆と「寛容」を前提とした議論がなされがちであるが、実際には新キリスト教徒、混血者差別などの不寛容が存在したことが史料から明白になる。

 そもそもポルトガルの海外進出は、「レコンキスタ」の延長線上にあると言いうる。それ故、略奪を目的とした戦争とそれに伴う捕虜・奴隷が出現するのは必然的だった。エンリケ期の大西洋・アフリカ西岸航海によってアフリカ人奴隷の大量流入が始まった。当時奴隷取引が行われていたのはラゴスにおいてであったが、15世紀末、ジョアン2世のもと、王権主導による海外進出が本格化すると、奴隷取引所はリスボンに移された。このことは王権による奴隷取引への統制と課税が実施されたことを意味したが、これによってアフリカ人奴隷の流入はますます盛んになり、当時のポルトガル社会には少なくとも1万人の奴隷が存在したとされる。

 ポルトガル国外において重要なのはアジア海洋帝国とブラジルを中心とした大西洋帝国である。前者においては、環インド洋世界において一般的だった奴隷交易にポルトガル人も参入しようとした。その際の奴隷の供給地は、当初は日本・中国やベンガル湾沿岸であったが、こうしたポルトガル人の活動は現地勢力との軋轢を生じ、また宣教師による現地人奴隷化反対の圧力もあって順調には進まなかった。その結果、有力な奴隷供給地となったのがモザンビークを中心としたアフリカ東岸部であり、モザンビークからディウ、ダマンを経由し、ゴアに至る奴隷供給の流れが形成された。

 奴隷交易がより重要であったのは、大西洋帝国においてである。大西洋帝国の発展に伴い、プランテーション開発が盛んになった。その労働力となったのが奴隷であった。初期においてはブラジル先住民を使役していたが、大西洋帝国の発展に伴って数的な不足が深刻になり、アフリカ系奴隷が大量に流入することになった。中心的な産業としては、1617世紀は北東部を中心とした砂糖であったが、17世紀末以降は金が中心となり、奴隷労働の中心もその拠点である南部内陸部へ移動した。

 18世紀半ば、ポルトガル本国においてボンパル宰相による改革(ボンパル改革)が実施されると、ポルトガルは大西洋帝国の開発に乗り出した。具体的にはアマゾン川開発や砂糖生産地域の再建が挙げられるが、これによって大西洋帝国は大きな経済発展を遂げた。この開発は奴隷労働の存在を前提としたものであり、ブラジルに奴隷を供給する側であるアフリカにおける拠点の整備が進められた。

 その一方で、ボンパル改革は啓蒙思想を背景として実施されたものであったから、その中には「反奴隷制」言説が存在していた。1750年代後半から60年代前半にかけてそうした言説を背景とした「反奴隷制」政策が相次いで実施されたが、これがブラジル奴隷制社会にどの程度の影響を与えたかについては今後の課題である。

 

南部アフリカ/インド洋西部地域のインド系移住者 

大石 高志

 

 19世紀前半、英帝国内において一つの大きな変化が生じていた。すなわち、労働力源が奴隷から年季契約労働者へとシフトするようになったのである。中でもその先鞭をつけたのがモーリシャス、南アフリカを中心とした、南部アフリカ、インド洋西部地域だった。

 その特徴としては、農園主と労働者の間で年限と賃金、労働内容に関する契約が結ばれたことにある。具体的には年限を3~5年と区切って更新することを制度化し、奴隷制に存在した労働強制性を緩めたことなどが挙げられる。また、漸次女性を増加させることで家族単位での労働構成の形成を事実上支援し、次世代労働者の差生産を目指した。

 こうした制度が確立する直接の契機となったのは、第一に英帝国内での奴隷貿易・制度が廃止されたことで、奴隷に代わる新たな労働力が求められたこと、第二に、1825年にイギリス本国にて砂糖産地別輸入関税が平等化されたことがある。特に後者によってモーリシャスにおける砂糖生産への意欲が急速に高まり、1834年、インド人労働力の移入という形でこの制度が最初に導入されることとなる。

 その特徴としては、農園主と労働者の間で年限と賃金、労働内容に関する契約が結ばれたことにある。具体的には年限を3~5年と区切って更新することを制度化し、奴隷制に存在した労働強制性を緩めたことなどが挙げられる。また、漸次女性を増加させることで家族単位での労働構成の形成を事実上支援し、次世代労働者の差生産を目指した。

 こうした制度が確立する直接の契機となったのは、第一に英帝国内での奴隷貿易・制度が廃止されたことで、奴隷に代わる新たな労働力が求められたこと、第二に、1825年にイギリス本国にて砂糖産地別輸入関税が平等化されたことがある。特に後者によってモーリシャスにおける砂糖生産への意欲が急速に高まり、1834年、インド人労働力の移入という形でこの制度が最初に導入されることとなる。

 しかし、こうした制度が確立するためには、いくつもの課題を克服しなければならなかった。具体的には、一方ではサトウキビプランテーションそのものを形成するための課題であり、他方では獲得した労働力をいかに保持するかという課題であった。

 前者については、栽培種としてのサトウキビ自体の確立、資本と機械の導入、労働力そのものの確保、国際市場競争における地位の確立、英帝国内における砂糖消費の確保・喚起などが挙げられる。後者については、労働者のための食糧及び移動手段の確保、さらには支配する側のイギリス、労働力を供給するインド双方の道徳面での折り合いをうまく付けることなどがあった。

 こうした諸点を踏まえつつ、隷従=奴隷制、自由=年季契約労働者、といった単純な二元論を再考することが、今後の課題になろう。

 

アメリカにおける奴隷解放と人種論   

貴堂 嘉之

 

 「近代」とは、制度的国家機構及び国際関係(外交、領土確定、国境管理)の確立、国民意識の形成がなされた時代である。同時に、近代に入って奴隷解放がなされたことを以て、隷属の否定=近代という図式が固定化された。しかしながら、この図式は再考されなければならない。この時代にも、自由意思に基づかない人の移動(人身売買、拉致・誘拐、強制連行)が見られ、近代に入って以降、むしろ差別が固定化された側面も指摘できるからである。

 アメリカ史における研究史上の欠点として、黒人研究と移民研究が乖離していることが挙げられる。黒人奴隷も一面では「移民」の一形態であるとも言え、両者をつなぐ研究が必要とされる。

 ここで注目すべきは、南北戦争を画期として、アメリカの社会秩序がどのような変化を遂げたかということである。南北戦争以前においては、秩序の基軸となっていたのは自由人対奴隷であった。すなわち、一般の労働者は、奴隷状態から自己を差別化することに強い願望を有していた。一方、南北戦争後になると、建前上「奴隷解放」がなされた故に、自由人対奴隷という従来の秩序基軸が崩壊し、人種面の差異を強調する人種主義が台頭するようになる。社会秩序の基軸は白人対非白人へと変化し、アメリカ人であること=白人であること、と定義されるようになっていく。

 この結果、植民地時代以来存在した異人種間結婚を禁止する法体系が形成されていく。Miscegenetion(異人種間混交、雑婚)という言葉が誕生したのが奴隷解放後の1864年であったことはその象徴的事例と言える。

 このような人種を基準とした社会・法秩序が形成されていく中で、黒人のみならずそれまで問題にされなかったアジア系移民についても、白人であるか否かが厳しく問われることとなっていく。アジア系移民側は、自らが「黒人ではない=白人である」ことを主張し、正統なアメリカ市民であることを主張した。しかし、1882年の排華移民法によって中国系移民が非白人=帰化不能外国人の烙印を押されると、それは全てのアジア系移民に適用され、アジア系移民は二級市民の扱いに甘んじることとなるのである。

 

アメリカ合衆国における移民の「アメリカ性」主張と奴隷制の影  

土田 映子

 

 19世紀にアメリカ合衆国に流入したヨーロッパ諸国・諸地域からの数々の移民集団は、移住時期や文化背景が異なるにも関わらず、彼らがアメリカにおける自集団の存在の正統性を主張するための論理は極めて似通っていた。それは①北米大陸における歴史の長さ、②合衆国への貢献、③自民族と合衆国とのイデオロギー的共通性、の3点である。

 また、こうした正当・正統なアメリカ国民という概念の一部は、奴隷制及びその下にある黒人(アフリカ系アメリカ人)をアンチイメージとして成立した。その主な内容は、①資本主義社会における自由労働者と奴隷制下の奴隷の境遇の比較、②望ましいアメリカ人像の反転としての黒人イメージの2点である。

理想的アメリカ国民のイメージの根本には、イギリス系の住民が主体であったアメリカ植民地時代から建国期にかけて形成された思想・倫理の体系(独立独歩、勤勉、民主主義、ピューリタニズム)があった。アメリカが農業社会から産業社会に転換していった19世紀にヨーロッパから流入した移民集団は、この経済的変動のもとで互いに競い合いながら、合衆国の歴史と社会の中で正当な位置づけを要求し続けた。彼らがアメリカ社会の支配的なイデオロギーに合わせて自らの歴史・文化や価値観を解釈しなおしたり変形させたりすることによって、望ましい国民イメージは時代の潮流に合った形に修正され、強化されていった。

 しかし、この望ましい国民イメージの中からは、黒人(アフリカ系アメリカ人)、アメリカ先住民、女性、アジア系移民は排除されていた。特に黒人は「正当・正統なアメリカ人」とは対照的な存在とされることで、アメリカ人=白人というイメージの確立がなされた。したがって、このイメージの根底には、奴隷制をその大きな形成要因としたアメリカの人種主義があると考えられる。

 なお、後になると、こうした議論は排除の対象であったアジア系移民同士の中でも現れることになる。日系移民は中国系移民を望ましからざる「他者」として捉え、中国系と日系の差異を強調し、日系人の方がアメリカ国民としてふさわしいという議論を展開している。これは、中国系移民が黒人と同様の存在として排斥の対象になったことを反映したものであると同時に、アメリカの人種主義が移民同士の関係の中で再生産された事例と考えられよう。

 

周辺地域からトリエステへの移住者―イタリア・イレデンティズムとの関わり―

佐々木 洋子

 

 トリエステはイストリア半島のキュステンラント州の中心的な都市である。その歴史はローマ時代までさかのぼるが、1382年にハプスブルク帝国に編入される。18世紀に入ると帝国はトリエステを自由港とすると同時に、首都ウィーンとを結ぶ街道の整備を進め、トリエステは帝国の「海への出口」としての役割を期待されるようになった。19世紀には汽船会社の設立、ウィーンとを結ぶ南鉄道の開通があったが、帝国の経済政策がトリエステに直接及ぶことはなく、その経済発展は限定的なものであった。

 1848年の3月革命、さらには1878年にハプスブルク帝国がオーストリア・ハンガリー二重帝国となり「諸民族の平等」がイデオロギーとして確立したことで、トリエステ周辺でも各民族の民族意識が形成・強化されるようになった。イタリア人については、トリエステの経済発展に伴って、一定規模でイタリア人ブルジョワジーが存在していたが、すでにイタリア王国が成立していたこともあり、彼らの民族意識は明白であった。それは特に教育面で顕著であり、彼らは自らの子弟のためのイタリア語を授業語とする学校の設置を求めるようになった。

 一方、当時のトリエステにおいてイタリア人と並んで有力だったのがスロヴェニア人だった。彼らはそのほとんどが周辺地域の農村からの移住者であった。もともとこの地域は農業に適さず、彼らは生産性の低い土地で自給自足の生活を送っていたのであるが、トリエステの発展とともに、次第にその商品経済圏、労働力供給権に取り込まれていった。

スロヴェニア人は、イタリア人との対抗関係の中でその民族意識を形成していった。その方向性はリベラルを志向したイタリア人とは対照的であり、カトリック・王室派の傾向が強かった。また、農村文化を維持し、その協会の活動は地区ごとの小規模なものにとどまっていた。しかし1907年に男子普通選挙が導入されると、スロヴェニア住民の数的優位が明らかになり、彼らは不公平の是正を州知事に求める請願を提出するようになる。

1910年を過ぎるころから、トリエステ市内でイタリア・ナショナリズムが目に見えて影響力を強めるようになり、「国民社会」とも呼べる生活環境が作られるに至った。その一方でこうしたイタリア・ナショナリズムに対する反感もかなりの程度高まっており、スロヴェニア系住民との路上での民族対立騒ぎも頻発するようになった。

 

2010年度第三回科研研究会

 

2011122日午前10時~12時  神戸市立博物館(元横浜正銀の建物)訪問調査

特別展 ワイドビューの幕末絵師 貞秀(浮世絵師:パリ万博へ作品出品)

 

・横浜のものが多い。また歴史上の有名な合戦を描いたものあり。

横浜の外国人居留区は、今の山下公園あたり。現在に横浜公園あたりに遊郭あり。中華街は、新田という名称。

・アメリカ、イギリス、フランス人らともに、オランダ人の建物が結構多い。女性も多く描いている。横浜異人商館売場之図の使用人のうちに「黒坊」あり。

 

研究発表会     2011122日 午後2~5時半  場所:神戸市立博物館

 

1.       佐々木洋子

「周辺地域からトリエステへの移住者―イタリア・イレデンティズムとの関わり―」

 

出された論点

・ハプスブルク帝国におけるコスモポリタン都市のトリエステが19世紀後半以降、イタリア人とスロヴェニア人のナショナリズムのせめぎ合いの地となる。

・トリエステに周辺地域からの女性労働者の移住者が多かった。1890年代以降、イタリア州とドイツ語地域のケルンテン州・クライン州からの移住者の棲み分けができる。

1910年以降、イタリア・ナショナリズムが急成長するとともに、反イタリア・ナショナリズムも激化し、暴動が頻発し、社会統合が困難さを増す。

・女性が社会統合に果たす役割も、19世紀終わりから20世紀にかけて変容か。 

 

2.       遠藤正之

16世紀~19世紀のカンボジアにおけるマレー人の活動の変遷」

 

出された論点

1619世紀カンボジアにおける、マラッカ海峡域やマレー半島と関係を持つマレー人の重要性。カンボジアは、米の輸出地であるとともに華人商人との出会いの場所となり、胡椒やスズをもたらすマレー人が重要となる。

・カンボジア史において、上記の時期にチャム人の存在の重要性がしばしば語られるが、それはフランス植民地体制下に組み込まれた19世紀中葉以降のカンボジア王国におけるチャム人観に影響された可能性がある。

・フランス植民地支配とともにプレゼンスを増す「チャム人」。フランス東洋学のチャンパー研究の影響か。

 

123日研究会             123日(日)午前 場所:孫文記念館

 

1000 孫文記念館(元神戸華僑呉錦堂の別荘)見学

・孫文も蒋介石もクリスチャン。宋三姉妹の父は、聖書の出版業者。

 

1100~1230

「脱イデオロギーの時代に政治運動史をいかに語るか」討論会

弘末雅士 趣旨説明

石川禎浩『現代中国史③ 革命とナショナリズム』(岩波書店、2010年)をめぐって

総合討論

 

出された論点

・脱イデオロギーの時代においても、革命を志向するかしないのか、あるいはどの政治的方向性をとるか、選択せざるをえない時代(たとえば中国における1920年代・30年代) があったことを考察することの重要性。

・共産党の活動を支えた農村の没落地主層の教育を受けた子弟たちの重要性。またそれを取り巻く多彩な人々の集団。中国の農村の流動性の高さ。

・国民党と共産党との間の人間関係の複数の糸。また日本軍が部分的に瓦解させた国民党支持者の大部分が、共産党支持に流れていく。日本は満州事変以降、中国の侵略に深く関与したが、中国の一部の人々の動向しか把握できていなかった。

・従来革命と呼ばれていた革命像自体が、現在多様に再検討されている。イギリスやポルトガルの例など。

・東南アジア史研究では、国民統合の行き詰まりを反映してか狭間の存在が注目されているが、中国史においても買弁に関心が寄せられるなど、類似した現象がみられる。

・社会史研究はアナル学派によって提起されなど、近年盛んになされている。しかし、事件史や政治史を抜きにして、社会史を前面に据えてどれだけのことが語れるのか。

・パラダイム・チェンジが起こり、次のパラダイムが見えてこない時期は、従来の方法論を再検討しながら、じっくりと史料を読み進めていくことが重要なのでは。