bullying and school education
何十年も前になにかで読んだことですが、女の子が書いていました。なにかの作文集みたいなものだったかもしれません。子供であった頃、コタツで本を読んでいると、なにか手仕事をしているお母さんが言うのです。「おまえはいいね。本が読めて。私は字が読めないからちっとも楽しみがない。」

このお母さんはなんらかの理由で学校教育を受けていないですから、日本語は話せても読むことはできない。読み書き、そしてそれに基づく数学などの一般的知識と能力は学校と本人が協力して習わなくては自分の能力になりません。幼児期の話し言葉から読み言葉・書き言葉をつなぐ学習期間を逃してしまうと、後からはなかなか取り返しがつきません。

話し言葉の幼少期における刷り込み期間とその後の学校教育の両方を持てることが母国語を育てます。日本語教育(母国語の読み書き)は知識獲得の手段としてもっとも大切なものです。この世で生きて行く上でも必要不可欠です。

そして母語の読み書きそれに基づく知識の修得には、私たちはあまり自覚していませんが、多くの時間と努力を必要とします。「なぜ学校に行かなきゃいけないの」「なぜ勉強しなきゃ行けないの」という疑問を抱かない、そして生きる目的に対しては無自覚の状態である子供のうちから学習という努力を強いられるのが、言語(日本人は日本語)で行われる学校教育です。なんでこんなことをしなくてはいけないのかと考える子供もいますが、たいていは学校の勉強はしなくてはいけないものとして、日本語を介して他の科目もその目的に無自覚に、あるいは目的など教えられないまま学ぶのです。

その過程で日本語も知識獲得の手段として育って行きます。国語の時間に教科書を朗読するのがとても大切なことが分かります。日本語の本が読めるようになるということです。いじめなどの理由によって学校へ行けなくなってしまった人は自分で勉強しなくてはいけませんから、強い意志と克己の気持ちがないと無自覚の子供が学校教育で強制的に教えられることを習得できない場合がありますから、先に書いた文盲のお母さんのようにいざ社会に出た時にとても不利な状況におかれます。学校教育は生きるために必要なのです。いじめはそうした生きるための基本的手段を与えないことによって、ひとりでも競争者を減らそうとする汚らしい行為です。もちろん、学校に行かなくても家庭で学習は可能ですが、カリキュラムを自分で考えなくてはいけませんから、学校教育で段階的に教えられるべきすべての科目を一通り習うことはとても難しいことです。それが学校と先生の必要な理由なのですが、多くの先生が科目を教えるだけで、生きるための手段を教えているという自覚がない場合には、子供たちも生きるための勉強ということを考えずに言われたことをするのです。それでも言われたとおりに勉強を続ける子供たちはそういう目的を無自覚に学習をして社会に順応し、母国語を頼りに知識や技能を獲得して生活できるようになります。

でも、母国語(日本語)があれば十分だといって外国語教育を否定することはできません。外国語を学ぶことによって、たとえそれがコミュニケーションの道具として不十分なレベルであっても人間にとっての言語、すなわち母国語と外国語の存在とその両方の大きな価値を知ることができるからです。翻訳されていない外国語の本から日本語の本では学べない知識を得る場合もあります。広い概念では情報です。秘術としての情報は独占していればいつも他の人に抜きん出ることができます。そうした価値が分かるからこそ外国語に必死になったり、劣等感を持ったり、うらんだりします。あるいはいじめは人がそういう情報を得られないように徒党を組んだりして陰湿な妨害工作をするのです。上に述べた、子供が無自覚のまま修得した日本語の読み書きをうらやむ文盲の母親はその価値をよく知っています。

知識獲得のための別の手段を持つことが大きな価値を持っている。母国語だけ勉強していても、上に書いた文字を読めないお母さんのように、言語を客観視できるようになる(価値が分かる)のはふたつの言語の存在があるのに似た状況です。もちろん、そうした手段は他にもあります。読み書きそろばんと言われるように現代ではコンピュータやその関連機器を操れることも必要です。

現代の日本で外国語特に英語の存在におびやかされていない人はいません。日本では中学校の学業を終えた成人(線引きはどのあたりか明確な根拠はありませんが)のほぼ100%の人が言語についてのなんらかの問題意識(うらみつらみを含めて)を持っていると断言してもよいでしょう。

これも卒論ゼミのある女子学生でしたが、「絶対に英語を母国語とする人と結婚するんだ」と言っていたこともあります。言語に対する自分の問題に対して自分なりの解答を得ようとしているのです。

これからの日本人がバイリンガルになるかどうか、なれるかどうかは、刷り込みと学校教育にかかっています。刷り込みというのは生まれてからの家庭の生活内での修得です。それは環境によりますが、ほとんどの日本人は外国語に関してはそういう刷り込み環境がありませんから学校教育(塾も含みます)に頼らなければいけません。その刷り込み期間を逃したら、学校教育期間中あるいはそれ以後その刷り込み期間同等以上の努力を自分に課する必要があります。海外語学研修は擬似的刷り込みですが、これも有効な学習手段です。外国人による外国語による授業も50年前までは、いや1980年代の30年前までも限られた場所でしか可能ではありませんでした。

(しかし1989年に赴任した時にびっくりしたことは立教大学ではすでに一年生全員が必ず必修英語の一科目が外国人教師だったことです。もちろんクラスサイズは大きくて55人前後でしたから、その効果はそれほどでもなかったと思いますが、多くの大学で外国人講師がせいぜい一クラスか二クラスくらいを教えている時代にとても進んでいるところだと思いました。さすがに英語の立教という伝統のあるところです。往年の俳優で立教英文科出身の池部良さんとかESSクラブにいた野際陽子さんが英語が達者であったということも聞きました。そしてその後、2010年くらいからどの英語クラスも20人が最大限になりました。現在は、それに加えて一年生全員が必修の一週間に一度のディスカッションクラスは学生8人ですから、とても高価な英語教育が行われています。これは大きな効果を産み出しています。)

そのころ1980年代はバブルと呼ばれた時代で、大きな会社は将来を見据えてか、あるいはバブルの余剰金を使うためかわかりませんが、若手社員を海外の語学研修にさかんに送り込んでいました。大学の中にはアメリカの大学を買ってしまったところもあります。アメリカの大学が何校か日本に分校を開きました。そのうちのいくつかは今も運営されていますが、撤退したところもあります。
もちろん、外国人による授業がすべてよいかどうかは断定できません。言われていることが理解できなければ教室だけの環境でその言葉や表現を覚えることができません。教室外の環境で同じ語彙や表現が場面に応じて繰り返される環境ではありませんから、思い出すのも困難です。復習し、何度も学習し直さない限りその外国語の語彙や表現が定着しません。日本語であるいは状況で意味を確認していかないといけないのです。
(ある父親が子供にやさしい本を読ませて、だんだん興味を持ち始めたのを喜んでいたのですが、知らない単語が出て来たので辞書を引き始めたから、辞書を引かないで読めと指示したとのことですが、これは状況で意味を推測しながら読みなさいという事だとは理解できるのですが、いつも状況から意味が類推することはできません。そして意味は母国語で知っているものは利用した方がよいと思います。もちろん文化的に異なった意味範囲がありますから、誤解することもあることはありますが、私は辞書を引く行為はその語と意味を結びつける行為ですから当然の学習過程だと思います。むしろ、推奨すべきことだと思います。しかも本の内容に興味を持ったから知らない語の意味を知りたかったのでしょう。自発的に読みたがっているのです。意味がわからなければ、「意味わかんない」と言って投げ出してしまうかもしれません。
母国語でも最初は周りのひとが意味を教えてくれますが、小学校のある段階から辞書が必要になります。)しかし、外国語の授業による知識の獲得は、(理解できれば)外国語の語彙もその文脈で覚える訳ですから日本語によるものとは異なります。ああ、ああいう説明でこんな語彙が使われたとか、概念自体が外国語とともにあるいは外国語で書かれた文献で伝えられます。その意味が直接受け取れるか、あるいは翻訳的かどうかは別問題としても。

こうした日本における外国系の大学は英語教員が日本で博士号を取得する上で便利な存在となっていますので、外国まで行けない人は日本で挑戦するとよいでしょう。


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