physician extraordinaryとextraordinaryの発音 [ixtrɔ:(r)dneri]
昨日(2017年10月28日)に発音のセミナーがありました。ご自分の専門を極めた大学の先生で、とても興味を掻き立ててくれる素晴らしい講義でした。IPA(International Phonetic Alphabet)を中心にしての講義でした。

最後に聴衆から「アメリカ人は百円という発音が難しいのでは」という質問がありました。講師の方は、「その通りです。ひゃくというつながりの発音が英語にないからです。日本語のローマ字方式は日本語用で、英語話者はその表記では予想されている発音をしてくれないことがある。ですから。。。」と言って、黒板にhear-coo-enと書きました。

なるほどと思いました。

それから、電車でどこかに行きたがって地図をみていた外国人がいてどうも困っているようなので、どこにいくかと話しかけたら、「ゆーのう」と言われたとのこと。私は、You know.とでも言われたかと思いましたが、講師の人は、「湯ノ湖」(ここはよく聞き取れませんでした。とにかく別のところ)かなと思って、地図を確認したら、Uenoのことだったということも話してくれました。これもなるほどと思いました。

これとは直接関係ないのですが、この日は、ある語の発音についてひとつ学びました。セミナーは午後5時に終わり、夜家に帰って、たまたま見いだしたpasteurizationの発音がむずかしいななど、辞書をいろいろと見ていますと、physician extraordinaryという語句がありました。

extraordinaryはpostpositive(後置修飾)に使われる場合があって、extraordinary ambassador とも言いますが、ambassador extraordinary(特命/特任大使)などの後置語句があります。

physician extraordinaryは英国で、特任王室医師のことです。

さて、extraordinaryの発音ですが、私自身はextra-ordinaryという発音しか知りませんでした。ところが、発音記号をみると、[ixtrɔ:(r)dneri] のように、extraのaの部分の発音がないのが一番最初に揚げられており、はじめてこういう発音が主であったのかと、どちらが正しいという問題ではないものの、これまでは綴りどおりのものしか知りませんでしたので驚きでした。これも、自然に言われているのを聞けば、自分の聞きたいように聞いてしまって、aの脱落など気がつかないことです。

しかし、英語話者の多くの人が、aを入れるのは不自然だとコメントしています。(That extra a is only something I hear foreigners say, as if they are reading it and have not learnt that most people do not say it as it was two words. If you are putting a lot of emphasis on it I guess it could be two words, but not really in normal conversation that I am familiar with.)
でもMerriam-Websterの辞書にはふたつの発音が載せてあるとのこと。

昨日の講義でも、自分の言語にない音は聞こえないし、聞こうとしない、また発音できないと講師の方が言っていましたが、(もちろんそうではない言語聴覚的に優秀な方がたくさんいます。会場でも講師の方が発音した語あるいは音を見極める難しい発音クイズを聞いて、全問正解の人が60人中何人かいました。私はいっぱい間違えましたので、そんな驚異的な人がいてびっくり!)例は少しちがいますが、まさに、学習上の思い込み(言語の場合は育つ言語社会での刷り込み(imprinting)ということで、自分では無意識に周りのひとの発音をまねて覚えてしまっているだけですから指摘されるまではどこがおかしいのかも分かりません。しかしextraordinaryは発音見本が周りになかったわけですから、extraとordinaryの合成語であろうという類推学習によって覚えたものです。それでずっとだれもそうは発音しないと指摘はありませんし、英語教育の中の一般常識にもなっていませんでしたからいわゆる言語修得的に化石化してしまいました。でもまだ間に合うかもしれません。

ずっと昔、テレビで外国人の人が日本語と英語を駆使しながら英作文を教えていたことがありましたが、その人は動作だったか造作だったかをどうさく、ぞうさくと言っていました。
日々の生活の中で周りの人から自然に反復練習しながら学ぶのも学習ですし、さらに学校教育で読み書きを習う過程でそれまで自然学習したまちがいを修正しながら強制的、矯正的に学ぶのも学習です。さらにその上に自分で自分を教えるという段階が続きます。いずれの段階でも、正しい見本を見落としたり、間違いを訂正する人がいないと、間違いをそのまま持ち続けることもありえます。

一番最初の段階だけですと子供の言語を話し続けるかもしれません。二番目の段階では、自然な個々の音や音の連続が聞き取れないまま大人の言語を学ぶかもしれません。どちらの学習が欠けても不自然さが残ります。それを補うのが第三の段階ですが、これは人の環境と努力によって差がでます。

外国語は母語のような刷り込みがない場合は、学校教育で、そしてさらには自分で反復練習をしながら無理矢理刷り込んでいかなければいけないところがあります。もし子供の頃の刷り込み過程があれば幸運ですのでそれをさらに育てて成長させ大人にしていくとよいと思います。

卒論指導をした学生の何人かは帰国子女だということを卒業間際に学生自身から私に打ち明けてくれましたが、それまで「隠れ帰国子女」として私の英語力を計っていたのかもしれません。文法や、大人としての英語に自信が持てなくて隠し続けていた学生もいたかもしれません。
そのうちのひとりが、「子供の頃アメリカに住んでいて、その英語でずっとここまでなんとか来てしまったので、その基盤となる英語力からさらにもっと育てることをしなかった。もったいないことをしました。」と述べていましたが、確かに私にはない聞き取り能力を持つ人たちですからたくさん本を読んで語彙や表現を増やせば純ジャパ英語学習者のお手本にもなれます。もったいないことですし、また、子供の頃の刷り込み(言語で言えば、発音と聞き取り能力)というのは限定的ではあっても、その言語が外国語である別の国の学校教育の中での授業ではなんとかなってしまいます。それほど強力な自然に獲得された刷り込み的母語的能力だということです。もちろんそれは育ててやらないと外国で学習した分しか使えませんし、やがて退化します。

そういう意味では日本語を母語とする人は、日本語能力を刷り込み学習と義務教育によって培って来ていることだけでもすごいことなのです。日本人は日本語についてはすごい人の集団なのです。皆が自由に使っていますからすごいという実感はないのですが、大げさに言えば日本語を使えない人からみれば刷り込み学習と学校教育をうけた日本人は言語の天才ばかりなのです。もちろんそういう意味では世界中の多くの人が天才ということになります。

これも何十年も前になにかで読んだことですが、なにかの作文集みたいなものだったかもしれません。自分が子供であった頃、コタツで本を読んでいると、なにか手仕事をしているお母さんが言うのです。「おまえはいいね。本が読めて。私は字が読めないからちっとも楽しみがない。」

このお母さんはなんらかの理由で学校教育を受けていないですから、日本語は話せても読むことはできない。読み書き、そしてそれに基づく数学などの一般的知識と能力は学校と本人が協力して習わなくては自分の能力になりません。幼児期の話し言葉から読み言葉・書き言葉をつなぐ学習期間を逃してしまうと、後からはなかなか取り返しがつきません。

話し言葉の幼少期における刷り込み期間とその後の学校教育の両方を持てることが母国語を育てます。日本語教育(母国語の読み書き)は知識獲得の手段としてもっとも大切なものです。この世で生きて行く上でも必要不可欠です。

そして母語の読み書きそれに基づく知識の修得には、私たちはあまり自覚していませんが、多くの時間と努力を必要とします。生きる目的に対しては無自覚の努力を強いられるのが、日本語で行われる学校教育です。なんでこんなことをしなくてはいけないのかと考える子供もいますが、たいていは学校の勉強はしなくてはいけないものとして、日本語を介して他の科目も無自覚に学ぶのです。その過程で日本語も知識獲得の手段として育って行きます。国語の時間に教科書を朗読するのがとても大切なことが分かります。日本語の本が読めるようになるということです。

でも、日本語があれば十分だといって外国語教育を否定することはできません。外国語を学ぶことによって、たとえそれがコミュニケーションの道具として不十分なレベルであっても人間にとっての言語、すなわち母国語と外国語の存在とそのりょうほうの大きな価値を知ることができるからです。その価値が分かるからこそ外国語に必死になったり、劣等感を持ったり、うらんだりします。上に述べた、子供が無自覚のまま修得した日本語の読み書きをうらやむ母親はその価値をよく知っています。

知識獲得のための別の手段を持つことが大きな価値を持っている。母国語だけ勉強していても、上に書いた文字を読めないお母さんのように、言語を客観視できるようになる(価値が分かる)のはふたつの言語の存在があるの似た状況です。もちろん、そうした手段は他にもあります。読み書きそろばんと言われるように現代ではコンピュータやその関連機器を操れることも必要です。

現代の日本で外国語特に英語の存在におびやかされていない人はいません。日本では中学校の学業を終えた成人(線引きはどのあたりか明確な根拠はありませんが)のほぼ100%の人が言語についてのなんらかの問題意識(うらみつらみを含めて)を持っていると断言してもよいでしょう。

これも卒論ゼミのある女子学生でしたが、「絶対に英語を母国語とする人と結婚するんだ」と言っていたこともあります。言語に対する自分の問題に対して自分なりの解答を得ようとしているのです。

これからの日本人がバイリンガルになるかどうか、なれるかどうかは、刷り込みと学校教育にかかっています。刷り込みというのは生まれてからの家庭の生活内での修得です。それは環境によりますが、ほとんどの日本人は外国語に関してはそういう刷り込み環境がありませんから学校教育(塾も含みます)に頼らなければいけません。その刷り込み期間を逃したら、学校教育期間中あるいはそれ以後その刷り込み期間同等以上の努力を自分に課する必要があります。海外語学研修は擬似的刷り込みですが、これも有効な学習手段です。外国人による外国語による授業も50年前までは、いや1980年代の30年前までも限られた場所でしか可能ではありませんでした。

(しかし1989年に赴任した時にびっくりしたことは立教大学ではすでに一年生全員が必ず必修英語の一科目が外国人教師だったことです。もちろんクラスサイズは大きくて55人前後でしたから、その効果はそれほどでもなかったと思いますが、多くの大学で外国人講師がせいぜい一クラスか二クラスくらいを教えている時代にとても進んでいるところだと思いました。さすがに英語の立教という伝統のあるところです。往年の俳優で立教英文科出身の池部良さんとかESSクラブにいた野際陽子さんが英語が達者であったということも聞きました。そしてその後、2010年くらいからどの英語クラスも20人が最大限になりました。現在は、それに加えて一年生全員が必修の一週間に一度のディスカッションクラスは学生8人ですから、とても高価な英語教育が行われています。これは大きな効果を産み出しています。)

そのころ1980年代はバブルと呼ばれた時代で、大きな会社は将来を見据えてか、あるいはバブルの余剰金を使うためかわかりませんが、若手社員を海外の語学研修にさかんに送り込んでいました。大学の中にはアメリカの大学を買ってしまったところもあります。アメリカの大学が何校か日本に分校を開きました。そのうちのいくつかは今も運営されていますが、撤退したところもあります。
もちろん、外国人による授業がすべてよいかどうかは断定できません。しかし、外国語による知識の獲得は、日本語によるものとは異なります。概念自体が外国語とともに伝えられます。直接受け取れるか、あるいは翻訳的かどうかは別問題としても。こうした外国系の大学は英語教員が日本で博士号を取得する上で便利な存在となっていますので、外国まで行けない人は日本で挑戦するとよいでしょう。

昨日のセミナーは、音声、発音の講義でしたが、いろんなことを考えさせてくれる大変有意義なセミナーでした。

extraordinaryのシラブルは次のように5つに別れます。

ex-traor-di-nar-y

-traor-のところが一つのシラブルですから一気に発音するとaとo の部分がくっつきます。でも発音が先にあってシラブルができたのでしょうか。最初は、extraとordinaryの二つの単語が結びついた発音であり、音節的にも分かれていたであろうと推測できます。 いずれにしろ、天国でもextra-ordinaryと発音して何も気がつかないところでした。そうだとしても外国人なまりとして許容され意味は通じますからよしとしましょうか。

これで思い出す発音にdiaperがあります。このaを発音しない人もいます。

それから、diamondの発音も気になります。マリリンモンローはどのように発音しているでしょうか。


All rights reserved by Etsuo Kobayasi: October 29th, 2017
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