Kazuo Ishiguroさんが、2017年度ノーベル文学賞を受賞されました。おめでとうございます。

An Artist of the Floating World (1986) とA Story of Floating Weeds

邦題は「浮き世の画家」です。私には最初に読んだThe Remains of the Day(1989)と似たテーマに思えました。その時代で一生懸命努力して自分では一流だと思っていたら、時代が過ぎたらだれも評価してくれない。かえってさげすまされている、というテーマです。A Story of Floating Weeds「浮き草物語」は、無声映画。小津安二郎の作品です。
私の解釈が合っているかどうかは分かりません。Ishiguroさんが、fictionとはnovelsとは何か、なぜ書くのか、なぜ読むのか、という話をしていてそれが参考になると思いますので、ネットで見てください。 Kazuo Ishiguro

On Writing and Literature


日本生まれですが。英国民として帰化しており、小説も英語で書いていますから、英国の作家としての受賞です。でも、作品の中には、日本を題材にした作品もありますので、おじいさんから送ってもらっていた漫画なども読んでいて、家ではご両親と日本語環境のようでしたから、日本の文化にも影響されながら育っている人ですので、英国人ではありますが、 日本人にとっても嬉しいことです。外国の人がKazuoの発音がうまくできなくて、「Kazuyo」などと言っているのも面白いと思いました。Kaにアクセントをおけば問題なく発音できるでしょうが、そうすると少し日本語の感覚からずれます。An Artist of the Floating World(1986)という題名が日本語の直訳的で面白いと思いました。

浮き世というのは、「かりそめの移ろう世界」という意味と「通俗的な世間」という意味がありますが、Ishiguroさんは前者の意味で使っていると思います。和英辞典で浮き世を見ると、the fleeting worldとあります。The floating worldという直訳的表現の語源は,戦前から、あるいは明治大正時代から使われていたのでしょうか。いつごろからこの表現が使われ始めたのか不明ですが、Ishiguroさんが好きな映画はと聞かれて、小津安二郎をあげていますし、その作品のひとつに「浮き草物語」(1934)があり、それがA Story of Floating Weeds です。また、浮き草(Floating Weeds)(1959)もありますので、つながっているのかもしれません。1980年代になってビデオで映画を見ることができるようになりましたから、そのころIshiguroさんも見ていたのではないかと思うのですが。

私の本の中でも、Isiguroさんの小説は大きな示唆を与えてくれています。時々難しい表現もありますが、日本人の思考に合っているのかどうか分かりませんが、読みやすいですし、英語表現の慣用句的なものがそのまま日本語の文語的表現を思い浮かべさせてくれるという経験が何度もありましたので、もしかして、日英の語彙を増やすために英和/和英辞典を使っていたこともあるのではと思っては読んだことを思い出します。IshiguroさんとKingさんの小説を読まなかったら、私のこの本を書くことはなかったように思います。

1989年に私が立教大学で教え始めたその年に「The Remains of the Day」が出版されています。それを一週間に一度ずつですが、四、五人の学生達と一緒に研究室で読み始めたのが、1993年でしたでしょうか。読書会の時に、当時のIshiguroさんの写真入りの雑誌の記事を見せると、女子学生が「わあ〜、ハンサム!」と一斉に叫んだことを思い出します。邦題は何かということで、「日の名残り」と言ったら、それにも「わあ〜、かっこいい〜!」(複数名詞:greens, remainsなど)

英語で日常的なことやニュースについて話し合った後で数ページずつ読み続けたのですが、その翌年に映画化されて、この読書会の学生数人と一緒に池袋の映画館で見たのが1994年の夏だったのか冬だったかのか記憶が定かではありませんが、(どこかの医師が妻子を殺したというニュースを学生が英語で話してくれました。私はなぜかそのことを知らなかったことを思い出します。この事件発覚が1994年11月3日なのでその前後かも。この医師は当時29歳。floating worldは本人を置き去りにしてどんどん時間の流れに浮き沈みしながら流されて行きます。)

原作を読んでいる途中で、その原作に基づいた映画を見るというよい経験でした。当時はVHSと呼ばれるビデオテープはありましたから、ビデオ視聴はできたのですが、この映画はまだビデオ化されていたのかどうか。(映画化されたのが1994年ですからたぶんまだだったのでしょう。)CDやDVDはまだありません。「映画を見た後から、読みやすくなった」という感想を学生が述べましたが、確かに、背景的知識が分かっていると英語がとても分かりやすくなりました。英語が分かるというよりも、英語の場面を映画の場面と照らし合わせながら解釈できたのだと思います。

また、この学生達とは「コンパ」と称してパーティを学期末にしたものです。まだセクハラということばがない頃のことで、先生と学生たちはよくコンパを開いたものです。今は、学生だけでなく、特に男性教師側も(が?)危ない状況に陥ることがありますので、廃れてしまいました。コンパということばは、合コンなどでまだ生き残っているようですが、1990年後半生まれの学生さんからコンパってなんですかと聞かれたことがあります。We are living in the fleeting and floating world.です。

脱線してしまいました。素晴らしい物語を紡ぎ出してくれるIshiguroさんのような偉大な作家の作品のおかげで毎日毎日が楽しく過ごせることがすばらしい。英語と日本語の小説をいっぱい買い込んでいますので、同時に三つくらいを読んでいることがあります。電車の中ではこれ、寝る前はこれ、というふうに。でも、話が佳境に入ると最後まで読みたくなります。Isiguroさんの小説は読み始めるとカフカの「城」のようにどんどん不思議な世界に引き込まれていってしまいます。主人公はなにか狂気じみた性格を持っているからでしょうか。The unconsoled (1995)は特にそんな印象をもちながら読みました。受賞後にお父さんの経歴も知りましたが、なんとなくIshiguroさんのお父さんをモデルにしたのではなかろうかという気がしました。城の内部のような町をぐるぐる行ったり来たりする描写と、When we were orphans(2000)の地下要塞を歩き回る描写を思い出します。どうしてああいう場面を創造できるのかと感嘆します。映画の映像を見ているかのようです。頭の中でその場所に一緒にいるという錯覚を持ってしまいます。
漫画家のつげ義春の作品にも、ある場所と別の場所がねじれた空間のように循環してつながっている場面がありましたが、ああいう漫画も読んだのでしょうか。

私もようやく英語でもこういうおもしろい本が読めるようになりましたが、いつまでたっても知らない単語や表現がいっぱいです。英語学や英文法を広く深く教えるためにも、できるだけ大きな言語データを持っていて、段階的にさまざまな学習レベルで例をあげることが必要ですので、そういう単語をきちんと調べなくてはいけないのですが、面白いと筋だけをどんどん追っていってしまいます。面白すぎて、ノーベル賞とは結びつけられなかった、読んで映画を見るだけで楽しいと思っていてこういう賞のことが話題になったことがありません。昨年2016年の受賞者もジャンルが違っていて驚きましたが、イシグロ氏はファンが多く、尊敬されているのに、ノーベル賞など本人もまったく意識していなかったようですから不思議な作家です。安部公房は受賞できませんでしたが、すごく期待していたようです。文学の専門家の分析を待ちます。

私自身こんな偉大な作家なのにノーベル賞と関連づけることがなかったのはなぜかと考えても分からないのですが、村上春樹さんよりも読者数が少なかったせいでしょうか。原作が英語で世界中で読まれたのに、日本語訳は目立たなかったのでしょうか。でも、Never Let Me Go(「私を離さないで」)は、日本でもたくさんの人に読まれたのではないでしょうか。ノーベル賞の選考委員会は素晴らしい作家を選んでくれました。
私の本の巻末にあげたIshiguroさんの本をもう一度読み直してハイライトされた語句から和英辞典的な表現を抜き出してみたいと考えています。

ひとつ思い出しました。trystという単語がThe Remains of the Dayに出て来て、学生達もすぐ覚えました。rendezvousも「逢瀬」「逢い引き」の意味ですが、trystより新しい感じです。rendevousは宇宙船同士のdockingのためのことばとして何十年も前に使われ始め、日本語で逢い引きの代わりにも使われました。今でも使われるようですが、少し古くなって来ているように私には思われます。 This lunchtime rendezvous, after all, is tantamount to a date. rendezvousの複数形はそのまま単複同形で発音は[-vu:z]。1960年代では、逢い引きは「アベック」でした。子供たちは大人の男女が一緒だと「アベックしてた」とひそひそ声で話したり、あるいは大きな声ではやしたてたものです。乳母車(perambulator)や国鉄(Japanese National Railways)などはWords of the floating world.の一部です。英語もPerambulatorからstroller/pram/carrycotからpushchairへ、そしてbuggyとかbaby carriageに変わってきているようです。

日本語でも「逢引き」という単語は照れ隠しだったり、冗談っぽく、またからかう時に使うかもしれませんが、tryst[trist/traist]もそのような語感ではないかと思われます。assignationという単語も使われていたような気もしますが、もう一度読み返したいと思います。今だったら、dateです。trystは秘密のデートというところです。tryst=逢引きです。字面には「忍び逢い」や「密会」のような秘密を表す文字はありませんが、時代劇でしたら「逢い引き」は「この二人は何度も逢い引きを重ねておったが。。。」と話し言葉で使われそうです. 現代では「これから逢い引きです」というと、少し冗談めかした響きになります。「これからデートです」ももちろん冗談めかすことになることもありますが、普通に使われます。口語と文語の違いがあるのが分かります。Ishiguroさんの頭の中にもこの二つあるいは三つの単語(trystと逢い引きそしてassignation)が和英辞典のように並んでいたのでしょうか。それとも英語は英語の文脈の中で自然に、また英語類語辞典などで学んだのでしょうか。日本語はお父さんかお母さんに、語彙によっては日本語で何?と聞いたでしょうか。あるいはtrystのような語は、ご自分で英和辞書で調べたでしょうか。


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