帰納(induction)-->演繹(deduction)-->帰納-->…の循環学習(circulating learning)
induce(in=内へ、duce=導く) 帰納する
たくさんの例、実物、データから法則、仮定を導く。これらを総称してAと呼ぶ,というように一般化の概念に近い。

cf. A hypothesis can be induced from these data.
ある仮説がこれらのデータから導き出される。


deduce(de=離れて/〜から、duce=導く)演繹する
ある法則/原理からその論理に従って、個々の例を推定判断する。これはこの法則によってAに分類される、こっちはBだ、というように原則を基にした個別的識別方法。演は展開、引き延ばす。繹は糸口を引き出し、尋ねる意味。

cf. You can deduce what will happen from the theory.
その理論から何が起るか推定できる。

 
de-という接頭辞(prefix)について、私の本の中で「外に」と説明してしまいましたが、間違いです。すみません。denoteのように、あるマークを別の所に離して置く、書くのように、意味的にはそれほど間違いではないと思いますが、deがdetouchなどのように「離れる」という意味です。あるいはdescentのように下にという意味です。
deduceはlead downとかlead awayのように、何かの原理がだんだん下方あるいは別のところに導かれるというのが正確な意味です。(cf. The path leads down to the sea.その道はだんだんと海へと続いている。)謝罪とともに訂正いたします。

しかし、論理学、言語学以外での英語の用例としては、deduceもinduceのように使われている。
cf. You can deduce a theory from these happenings.
これらの出来事からある理論が推測できる。

辞書によっては、deduceがどちらの意味にもとれそうな記述となっていますが、原則的な意味は、ある原理から個別のものの判断につながるということです。次の説明を見てください。

To use the knowledge and information you have in order to understand something or form an opinion about it.(Longman Dictionary of Contemporary English)(自分のもっている知識や情報を何かあるいはそれについて意見を形成するために使うこと。)

If you deduce something or deduce that something is true,you reach that conclusion because of oother things you know to be true.(Collins Cobuild Advanced Dictionary of English)(何かを演繹する、あるいは何かが真だと演繹するということは、真であると知っている他のものからそういう結論に至るということ。)

Oxford Advanced Learner’s Dictionaryは分かりやすいと思います。
To form an opinion about something based on the information or evidence that is available.)(利用できる情報や証拠に基づいて何かについて意見を形成すること。)


個々の経験、事象の観察から抽象化、法則化へ(帰納)。そして、その抽象化、法則化されたものが法則、規則、あたりまえのこと、と見なされ、その抽象化された規則、法則によって個々の経験、事象が検証され(演繹)、正しく理解されます。

検証によって規則に合わない場合は、ふたたび個々の経験、事象を集めて観察します。帰納-->演繹-->帰納-->…と循環しています。

言語の学習もこの循環です。あの表現、単語がここで使える。ここでも使える。あれ、じゃ、どうしてここで使えないのか?。。。ここで使うべき単語や表現はなに?そういう事例が多すぎて、なかなか覚えられないから難しいのです。

でもやっていることは単語や表現、語法をたくさん覚えて、それを類型化して、抽象化して単純な覚えやすい規則を作って、それをもとにさらにもっと単語や表現を増やして行く。。。するとまた新たな類型化と抽象化が必要になる。。。

理屈と実践、実践から理屈へ、理屈から実践への繰り返しです。両方必要です。It’s easier said than done.的なことを繰り返してすみません。まずは、実践への努力が必要です。しかしながら、母語ではなく外国語学習の場合は、理屈(理論、文法)が実践を助けます。さらにしかしながら、場面にあった実践と練習が足りなくて瞬間的に使えないのです。しかも、文法を使って文を作っても、普通はそういう言い方をしない表現を作り出す可能性もあります。文法的だけれどそういう言い方をしない、ということです。でも、文法にかなっていると変な表現だけど意味はある。あたかも新しい比喩的表現のように。その比喩が伝える意味が日本語と英語である程度重なると理解されます。一致しない場合は理解されません。

果たして、日本語的比喩が通じるかどうかはひとつひとつ試しながら使わなければいけないのですが、國廣正雄というひとが、sleep like a logに対して、日本語からの直訳のsleep like mudというのを紹介していました。また、鳥飼久美子さんは、山火事というのはa wild fireだけれど、日本語ではa mountain fireと言うのだと説明して使えばよいのだと書いています。

英語を使うためには、時間をかけて問題を解く、紙の上での知識のテストから、その知識を使った瞬発的な技能の練習と学習が必要です。武道における実践から抽象、類型化された型の練習のような学習を何百回、何千回もするような方法が必要です。それでもなお忘れることがあり、間違えたりします。気持ちが動揺していたり、悩み事があったりすると日本語でもうまく考えることができなくなります。人間の悲しくも面白いところでしょう。

かといって、パタンプラクティス(pattern practice)のような、ある文の一部を別の単語や句で機械的に置き換える練習だけでは自分の考えや意図を伝えるには不十分です。その文を発話する人が、状況の中で自分の発話意図を持っていないとおうむ返しとなります。パタンプラクティスが全く無意味という意味ではありません。ある文型を使って語彙を増やすことはできます。それから状況を自分で作り出せる文を創造することができれば、意味のある文として練習できるかもしれません。まず、使える語句を増やすこと。

教室での学習では、例えば、動詞を使って同じような文型を練習する場合、動詞部分を何百もの動詞で練習することはしません。動詞とその主語と目的語という文型(法則=induction)を覚えてしまうと分かったということで後は練習問題や個人の学習にまかされて過ぎて行きます。本当は、教室でも何百もの個々の動詞(個別=deduction)を使って練習すべきなのです。

They exploited me.

They nagged at me.

They bit me.

確かに教室で与えられるデータの量が少なすぎます。ところが、では学習すべきデータを増やせばよいという訳にはいきません。生身の人間は人工知能ではありませんから、扱うべき言語の膨大なデータの総体を短時間に一気に全部与えられても、理解、学習し、記憶し使えるようにはなりません。だからこそ、中学校で週に4時間とか5時間の英語の時間があり、できるだけ言語データが多く与えられるように学習指導要領に沿った授業がなされます。その授業時間の中でこれまでは「理解」に偏った英語教育がなされてきました。しかしそれは仕方のないことだったと思います。英語教師自身が「口頭での使用」の練習をして来れなかったからです。

ここで大きな問題は、英語に多くの時間をかければ必然的に他の科目に使える時間が少なくなるということです。英語で内容のあることがらを扱えるまでに費やす時間が多ければ多い程、他の事柄を学ぶことができません。英語を習いながら内容も学べばよいではないか、と簡単にいうことはできません。私を含めて英語を教えている人間は内容よりも言語に注目しています。あるニュースを聞いたり、読んだりしても、新しい単語や言い回しに注目して、伝えるべき内容を自分なりの語彙と文型で人に伝えるという練習が少なくなってしまいます。

文法すなわち単語の性格や語法や文型だけでなく、ある内容を人に伝えるという練習が必要です。

楽しい人生を送るため、また厳しい人生を生き延びるために、日本語で、外国語で、芸術的美的感性と体力と頭と創造力を使って学習、訓練、練習すべきことは他にも山ほどあります。どのような知識や技能の修得には言語が媒介とされます。

特に外国語は生まれたときから自然に習ったことがない場合には、学習初期から少しずつ言語総体(ソシュールの言うlangue)に近づけるように学習を続けなければ、読む、書く、話す、聞くことに満足できるほどは使えるようになりません。

使いこなせない外国語の学習環境の中で他の知識や技能を学ぶことは非効率です。 日本語の読み書きの努力は意識的無意識的に、少なくとも小学校から中学、高校まで続けられているからこそ、日本語を母国語としているひとは自分の日本語にある程度安心して、言語ではなく内容について理解し、語ることができるのです。それまでの努力と莫大な学習時間との日本語との日々のふれあいがあるのです。日本人にとっての母国語である日本語は思考を形成する上でとても大切です。日本語による教育があって日本人は創造できるのです。

もちろん、外国語でも母国語と同じように、知識と技能、技術を獲得できることが国際社会では必要です。外国語学習も日本語ではできない部分において自己形成の一助となります。(日本語にない音を知ること。文型を知ること。「そうは思わない」という日本語ではあまり言わなかった発想の仕方を知ることなどは、日本語だけでは学べない広い知識です。討論=debateについて学ぶこと。loserを作り出さないことを理想とするか、loserにならない気構えをもつことが理想か、などの文化的、道徳的観念の相違などを知ることは、よりよい生活とは何かを模索させ、理想的社会を作り出そうと促してくれます。)
そういう目的のためにも外国語能力をも獲得できる環境が必要です。環境をどのように作っていくか、日本語も外国語もそして他の能力も犠牲にしない環境を作ることなのですが、これもEasier said than done.で、難しいことです。今は運のよい人がそういう環境を与えられます。そしてそういう運のよい人たちはその能力を「得した」と思っているでしょうか。日本全体が義務教育の中で必要最低限の外国語教育が行われようとしていますが、それ以上の環境を持てる人は幸運です。義務教育での外国語教育のレベルをあげることができることを願います。でも、他の事柄が犠牲になってしまえば、中身のない英語教育になります。

そして、学習期間中はその目的について、テスト以外は無自覚の場合が多いと思いますが、知識や技能を獲得した後に自分の人生で何を実現しますか。楽しく厳しくつらい学習や訓練は自分の身を立てるための手段を手に入れることでした。一人前になったら何をしたいですか。そういう目的を教えてくれる先生はあまりいませんし、そんなことよりもテストのことの方が重要ですから、そのさらなる目的はまだ見えない人が多いことでしょう。また、手段がそのまま目的になることもあります。それはそれで趣味のように自分の生活を豊かにします。さまざまな能力を開花させ、自分のためそしてさらには他の人のために役立てることができれば幸せな人生ではないでしょうか。これもEasier said than done.です。

2017年11月9日(木)の東京新聞朝刊の投書欄にあった中学生(14歳)の投書に感動しました。学校行事で高学歴のお笑いコンビ(a comedy double act)の「田畑藤本」の講演が催され、お笑い芸人に高学歴は必要ないと思っていたが、
「勉強するのは将来の選択肢を増やすため、物事の正解を知らないと(お笑い芸人も)ボケられない」や勉強が自分の人生の幅を広げるのに役に立っているとの話を聞き、勉強は思いもしない形で自分に影響を与えると理解し、机に向かう、とのこと。お笑いコンビさんも立派です。ただし、高学歴を得ることができない環境にいる人もたくさんいます。政治の力によってそういう人が勉強できる機会や環境を整えて欲しいと思います。9人もの自殺希望者を騙して殺して金品を奪う人間もこういう教えと悟りと努力があったなら救われたでしょう。現状を改善しない自堕落な自分に反省です。

政治家(を志すひと)は食料とエネルギー確保(農林漁業支援と安全エネルギー安定供給)、安価で文化的な住環境、教育文化(知育、徳育、芸術と体育スポーツ)、健康(医学と福祉)、産業(ものつくり全般、工業、商業、流通、先端科学産業)を振興し、国民の安全と平和と平等を確保してください。

都市や町では製産的環境であったところにマンションばかり建ってしまって、田畑がなくなり、工場がなくなり、農作業や自動車修理など実際に体を使う労働とは何かが見えなくなりました。そうした労働が海外に移転されていけばいずれ日本はものが作れなくなり、海外に依存することになります。お金でものが変えるうちはよいですが、外国がものを売ってくれない状況になったらおしまいです。体を使わずにマンションや貸しビル収入で生きる人ばかりになったら上に掲げた労働製産をするひとは資産を持たない日本人や外国人に任せるというのでしょうか。それは勝ち組が負け組を巧妙に強制労働させる現代の奴隷制度ではないか。
仕事に恵まれない若い世代は、一代前の遺産で今のところは生きていますが、それを食いつぶしたところで行き倒れ、野垂れ死にです。勝ち組は負け組(弱いもの)を助けながら生きる志を持って欲しい。独り占めしないで、自己犠牲ができる余裕を作り、持ち、人類の幸福に貢献できる生き方をしてほしい。子供たちはそれを見て育つのだから。皆が協力して働き、搾取制度が作られないように、国民全体が幸せだと感じられるように。そうでないと子供たちがこんな世界に生きていたくない、どうとでもなれ、知ったことか、自分だけよければよい、と考えるようになります。
それと、国防です。戦争を本当に避けるためには国をきちんと守らないとだめです。侵略や攻撃のための軍備でなくて、それを抑止するための国防のための軍備です。現在の自衛隊は同盟国が戦争をしたらそれに加担しなくてはいけなくなってしまいましたが、自衛隊を国防軍にして、国民皆兵にして自分の国は自分で守らなければ現在の危険な状況に対処できません。日本人は、自国内での争いについては日本の警察に守られていますが、「警察に言うよ」「おまわりさーん」は、世界警察はありませんから通用しません。いざという時に日本を守るために戦う軍備が必要です。それでも、核を東京に一発落とされれば、新幹線もだめ、政治もだめ、通信もだめで、日本は戦えなくなります。北朝鮮はそれが分かっていて、国防を兼ねて世界を恫喝しています。だからと言って自分に都合の悪い人物を消してしまう独裁体制はいけない。(恫喝はやくざことばだから使うべきでないと言った大学の日本語教育教員がいたことを思い出します。会議の場で辞書を調べていましたから知らなかったのでしょう。本当に日本語を研究している人物なのか疑問です。余計なことを書きましたが、ことばや態度をあげつらって相手の論に反駁するやり方はよく使われる攻撃方法です。相手の論に負けている時に、よく使われます。親に向かってなんという口の聞き方だ。。。)


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八王子の私立大学教授による盗作例

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