地方公務員(県職員)の失礼な言動

2018年2月9日(金)の午前9時半ごろ、担当職員に電話しました。その電話での対応です。
私:。。。というのが今回の事情ですが、お分かりになりましたでしょうか。

県職員:分かりません。。。。ひとつ忠告しましょう。あなたは自分でしたことに責任を持たなくてはいけない。自分でしたことは自分であると分かれば、そのようなことに惑わされず、気持ちが楽な生き方ができます。もう私に電話しないでください。


私の覚えている範囲ですので、相手の言い分も必要ですが、とにかく公務員らしからぬ発言に腹が立ちました。これだけのことで腹を立てるのがおかしい、と思われる人もいることでしょう。しかし、人生相談をしたのではないのです。行政に関わる問題です。だからこそ、この担当者はなんとか私がいけなかったのだと認めさせ、責任を私にかぶせ、自らの責任からは逃げようとしています。「私が責任がある」という彼のことばは、つまりこの人物自身の責任ではないと主張して、逃げをうっているのです。私にはこの人物が専門家として似たような事例をいくつも扱っているであろう経験、そして私の畑のある公図を見て、すぐに「馬入れ」という語を使ったところから、彼がこの問題に関する事実だけでなくどういう状況で何がどのように行われたか、どういう操作が書類上で行われたかという真実を知っていることを示唆している発言だと思われます。
この問題の発端を思い出すのに私には14年以上の歳月が必要でしたが、この公務員が何気なく使ったことばから一番大事な事実をひとつひとつ思い出しました。その意味では、この公務員が2月8日に使った「馬入れ」ということばと、2月9日の電話で私の行動をもう一度思い起こさせた失礼な言動には感謝すべきなのかもしれませんが、許容できることではありません。詳しい記述は後ほどしたいと思います。昨年から問題になっているある学園の土地の払い下げ文書がすでに処分されているために、どういういきさつだったかがあやふやなまま時が流れて行きますが、それと同じことが起らないとも限りません。


自分の行動については自分で責任を取れ。
親にでも言われ続けられたたことばなのでしょう。「そうすれば楽な気持ちで生きられる」というのは、彼の生きて来た経験の中から身に付いた人生哲学でしょう。それは楽な生き方を勧める哲学です。似非さとりで、自分の真のさとりではありません。本心には嫉妬と慢心がごちゃごちゃに混ざり合っています。こうした歪んだ優越感をもった心の底には深い劣等感が隠されています。また、「そうすれば、楽な気持ちで生きられる」というのは、この問題を追及するのはやめろという脅しです。自分も楽をしたいのです。「私に電話するな」というのは、公務員としての義務を放棄した発言です。国民のために仕事をするのが公務員の義務です。自分のことは自分でやれ、とも言っていない。もう止めろと言っている。その理由は、私自身の行動の結果だというだけだ。私の取った行動の結果がすべてであってそれを受け入れろ、と言っている。そういうこと相談に行ったのではない。なぜ、このような問題が起きたのかを追求しなくてはいけない。私はなぜそのような行動をしたのか。その結果、最初どのような事態が生まれ、それが次の段階での私の土地の問題にどうしてなったのか、突き詰めなければいけない。
本当に自分の取った行動の結果なのか。その行動は何によってもたらされたのか。そしてその結果としての現状を受け入れられないから相談に行ったのだ。
そして、その原因がようやく分かった、ということを2月9日の電話で話したのだ。最初から彼は私にその原因に気がついて欲しくなかったのだ。そうすればすべて私の責任にすることができる、という訳だ。

この人物は農地整備の専門家ですから、私の畑が14年以上も置かれて来た状況を私よりも早く理解していたのだと思います。

この二日前、2018年2月7日(水)の午後4時半ころ、合同庁舎のこの課を訪れて、話を聞いてもらって、説明を求めた時に聞いた「馬入れ」ということばから、その晩、私もどうしてこのような状況が生まれたのかを15年ぶりに思い出すことができました。

彼は言っても大丈夫だという事実だけを述べて、なぜか真実味のない響きと表情をしていましたので、不信感で顔を見ることはしませんでした。嘘は言っていないが、本当のことを隠している。そういう響きです。

なぜそんな大きな声でみんなに聞こえるように話すのだろう。課のひとたちに聞いてもらいたいのだろう。そして課長に認めてもらって昇進したいのだろうか。
名札を見ると、それを手で隠すのです。そんなの隠さなくても合同庁舎の入口にちゃんと名前が出ています。なぜ私は彼が私を丸め込もうとしたと直感したのでしょう。そうした仕草とから分かったのでしょう。

しかし、彼の語った事実の断片がヒントになって、その夜、すなわち2018年2月7日の夜、私の陥ったいきさつが15年ぶりに思い出されてきました。それまでは、公図と現場だけしか見ていなかったのです。現場だけ見ていても何かおかしいことが起こっているのかどのように証明したらよいか分かりませんでした。仕事も忙しい。2017年9月頃、市役所に行って相談した所、まず、登記所に行って登記簿を見て面積を確認したらというアドバイスを受けました。登記簿を取ることによってようやく具体的な数字が現れてきたのです。それについては後ほど詳述したいと思います。

「馬入れ」こそなかったのですが、北側から私の畑に入ることができるから、改良区対象としなくてもよいので、現況のまま残すという事情があったことを思い出し、うれしくなってこの担当者に電話したのですが、真実を見せなくしようとする敵に情報を与えてしまったのです。結果的には、私の畑は最初はそういう事情で現況のままに残されたのですが、ある時点で、改良事業に加わると今の形の悪い畑を使いやすく整備できるから、改良事業に加わったらという話と新子田団地に土地の一部を売却するという話に納得して、ハンコを押しました。

このことは最初思い出していなくて、私は改良事業から除外されているはずだと主張していましたので、わたしの間違いです。

この点については、嘘を言ったつもりはないのですが、その時点では、「新子田団地に売却などしていない」と強く言いましたので、これについては、わたしの間違いです。

私は正直に生きたいといつも思っています。正直に生きることは時に本当のことを言い続けなければいけないので、気持ちが楽にならないことがあります。特に自分の主張と相手の主張が違う場合はとても苦労をします。相手だって自分が間違っているなどとたやすく認めたくないからです。

相手にも正直を求めることが正しいと言っても、それが相手にとって不利なことなら、素直に認めないでしょう。

もちろん、私は嘘をつかない、とは言えない。義務でない集まりに行きたくない時に、体調不良だとか、急用ができたなどの嘘をつきます。行きたくないから行かないと言えない場合もあります。それはまた別のお話です。
自分の行動に責任をもつ、自分の取った行動が結果に関わる、というのは一面的な考えです。その自分の取った行動は本当に自分だけの判断だったのか。もしそうなら世間に詐欺事件などない。
自分の行動とその結果について責任を持つというこの人物は「泣き寝入り」を人に強いて来たのでしょう。
自分自身を納得させることは必要です。納得できないこともあるからこの世には裁判があるのです。自分をごまかして納得することはこの人物には楽なのでしょう。そうやって生きてきたから真実などどうでもよいのでしょう。誰かに言われたことをあたかもすぐれた哲学的考えだと思って、難しい仕事を避けてきた結果の公務員なのでしょう。かれは面倒な仕事がしたくないのです。ひとの悩みなど、その人に責任を取らせるようにしむけて、自分にいやな役目が回って来ないようにしさえすればどうでもよいのです。黒沢明の「生きる」を見るとよいでしょう。

自分の行動や選択が嘘の情報に基づくこともあります。さまざまな条件によって、自身の行動の結果が本当に自身の責任と結びつくのかどうかが問われることをいつも頭に置かなくてはいけない。極端な例を言いましょう。道を歩いていた子供が金槌で頭を殴られて殺された事件が昔ありました。この子供の死は自己責任なのか。お前がその道を通ったから殺されたと言えるのか。言える訳はない。しっかりした判断ができない子供でなくて一人前の大人だったらそういえるのか。駅でいきなり刺された大人もいます。すべて結果というのは自分の行動のために起きたのだろうか。原因結果には本人だけでなく、他者が関わるという事実を落としている似非哲学だ。
また、この人物の発言には事実を隠蔽しようとする本当の目的が隠されています。専門家が正義を忘れた例です。公務員が自己保存を企んでいます。いやな仕事から逃げようとしています。

この件に関する「各筆換地等証明書」という書類は私の分は手に入れたのですが、となりの畑の人のものは証拠隠滅のために処分してしまうかもしれません。処分はできないかもしれませんが、隠して公表しないでしょう。この人ならやりかねない。


このページが英語学や英語教育と何の関係があるかと思われる人もいることでしょう。そこを狙って挙足を取る人も絶えません。学問はすべて人間教育に関わることだと考えてのことだと理解していただきたい。世の中が平和でないと人間教育も役に立ちません。人間教育が役に立たないと世の中は平和になりません。
私は、学問を志して、教育関係に進んだ人は、私を含めて世間的にはばかになりやすいのではないかと思っています。英語教育でも英語学や音声学や文法だけを教えるのではなく、時には人間の生き方を語らなければいけません。人が語れるのは自らの経験からです。もちろん本を読んだりして、人からの経験を伝えられ、それが自分の中で深く理解されれば、自らの経験であるかのように語ることも可能です。
私のばかな経験が伝えられることによって、理不尽な経験をするひとが少なくなって欲しいと思います。真理と智慧はどのような学問をやっている人でもその学問とともに伝えられなければいけません。そうした意識がなければ学問は世界を平和にできません。
私自身は知識を伝えるだけであまりそういう智慧を伝えてきませんでした。そこを反省して私の失敗経験を書いておきます。若い人達が私の苦い経験から何か=特に正義=を学んで欲しいと思います。だからと言って 他人の生き方をどこかで聞いた風な浅薄な人生哲学でけなすような人間になってはいけない。また専門的知識を持つ人、特に政治や行政や教育に携わる人はそういう態度で人に接してはだめです。それは無知な人を心の底で笑い者にして、自分の劣等感に根付いて育て上げた優越感を満足させ、ひけらかすためだからです。困った問題を抱えて来た住民をいかに手玉にとるかを同僚に聞こえるように大声でしゃべりまくる公務員。彼が前日に示した行動によって、今回の電話発言の失礼さが増幅されました。しかもそこには事実を隠蔽しようとする本当の目的が隠されています。専門家が正義を忘れた例です。

正直に生きることは自己満足になりがちで、ひとりよがりで、バカ正直な人はだまされますから、けして楽な生き方ではありません。でも、正直者が馬鹿を見る世の中を作らないようにしましょう。そうでないと子供たちはどのように育ってしまうでしょうか。といっても、悪と犯罪と不公平はなくなることはないとは思いますが、防いだり、守ったり、少なくすることができるのではないかと信じます。


All rights reserved by Etsuo Kobyashi: since Feburary 11h, 2018
[total] [yesterday] [today]

八王子の私立大学教授による盗作例

春風社
Home | 補遺 1 | 補遺 2

Amazon