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盗作者の反論メイル
2013年7月に、この大学教授に対して八王子にある大学ホームページに掲載している論文は私の論文の盗作であるというメイルを送りました。その返事のメイルが来たのが2013年の7月14日です。
これを読んで気の弱い私はすっかりだまされてしまいました。しかし、2013年に最初にこの啓蒙記事を読んだ時の、直感的な思い「あれ、これは私の思考法じゃないか。私の論文だ。私の論文の論旨展開とそっくり!」という驚きはぬぐい去ることはできませんでした。2016年の暮れのある会合でこの人物を見かけ、疑念が再び持ち上がりましたので、もういちど両者の論文を比較してみました。証拠は詳細に比較分析してみて分かりました。=>詳細比較
私の論文は2010年の3月に立教大学から紀要として発行されており、その年の6月にはすでにCiNii(サイニー = Citation Information by National institute of informatics=国立情報学研究所論文情報ナビゲーター)に掲載されており、ネット経由でどなたでも閲覧できます。CiNiiの記事 | My Paper on CiNii これについて、おそらく紙媒体の紀要についてだと思われますが、この人物はしらじらしく次のように言います。この人物が盗作記事を書いたのが2010年の8月だと推測されますが、そのときにはネットで十分アクセス可能な論文でした。

「先生の論文を知らなかったのは不徳の致すところですが、実際のところ、 全国の大学の『紀要』を読むことは不可能ですので、知らなかったという点に関しては、どうぞお許しください。」

紙媒体の紀要ではなく、オンラインデータでしたらだれでもすぐ読めてダウンロードできます。

この人物の反論を読んでみて感じたことは、この人はたぶん自分も同じようなことを誰かにされたのではないかということです。最後の一文はその時に相手から投げられた言葉を私につかったのでしょう。それまでの主張と違って、偉ぶり、優越感を無理に誇示しようとする、とってつけた一文です。

「また、先生の論文には、一般的な(あるいはよく知られた)主張で、私の中で扱ったものと重なるところはあるものの、引用元として示さない と剽窃になるような部分は見当たりません。」

「お前自身の論文には盗用、剽窃個所はないから安心しな」という明らかに侮蔑的、挑戦的でしかも英語文からの翻訳調でトーンが違います。自分の論文に関して同じような状況において何らかの苦情を言った時に当該外国人から送られて来たコメントをここでも盗用したのでしょう。ここに彼自らが受けた心の傷の痕跡を見ることができます。自分が悔しかった経験を人になすり付けて回復をはかったのでしょう。こういうことで醜い傷が修復されることはないのです。以下が相手からの反論メイルです。


相手の反論
(2013年7月14日)------- まず、はっきりさせておく必要がありますと思いますが、私は、今日、はじめて小林先生の論文を手にいたしました。したがって、これまで読んだこと はございません。 先生からご連絡いただいたhttp://coby.u.cnet-ta.ne/eiga/touyou.htmでの先生の御主張に対する私の返答 を申し上げます。

「小林先生の主張」
1. 私が「いくつかの語がぐしゃっとなったかたまり」を漢字の[塊] で表現していますが、この言葉は私が使った物です。

「返答」
私の使った「音の塊」という言葉にある、「塊」ですが、良く使われる言葉だと思います。 「音の塊」だけでも、Google検索したところ、1,390,000件(0.23秒)ヒットしました。 いくつかの語が他の語とつながる現象については一般的によく知られており、とくに、新しい概念ではありません。
ちなみに『改訂版 英語教育用語辞典』(大修館 2009)の p.23にあるassimilationに同様の現象に関する記述がありま す。
(この辞典は、初版は1999年で、この項目の記述は、その時の記述と同じです。よく知られた現象です。)


「小林先生の主張」
2.書き出しを見てください。 字幕なしで映画を楽しむ、という書き出し。学生の夢、という言葉。

「返答」 先生もお書きのように、こういう風に言う学生が多いわけですから、この部分は重なっても仕方がないと思います。


「小林先生の主張」
3.聴解の過程。
リスニングが難しいのは「音が聞き取れない」「単語は聞き取れるけど、文の意味がわからない」「文の意味はわかるけど、何が言いたいのか分か らない」などの場合に分けられます。リスニングという活動が、複数の心理的過程で出来上がっているためです。一般的に「音を単語に置き換える 作業」「単語をつないで文を作る作業」「文の形を意味に置き換える作業」「文の意味を、会話の状況や一般常識と照らし合わせて、何が言いたい のかを理解する作業」が、連続して行われると考えられています。各作業で、単語や文法の知識が迅速かつ正確に、持続的に使用されなければなり ません。 これは、私が論文の最後でまとめた問題点を別の見方で置き換えただけのものです。とても巧妙です。

「返答」
このような、モジュール型の言語処理を主張するときに、一般的に良く引用されるのはLevelt(1989)のモデルです。モジュール型の処 理を前提とするとき、これはいわば常識となっているので、ここでは引用元は書いていません。(Field 2003, 2009やHarley 2004には、より詳しい記述があります。)もし、小林先生が、このような段階的な処理をご自分の主張だとおっしゃられるのであれば、たとえば Levelt(1989)との違いをはっきりさせておく必要があります。

「小林先生の主張」
4. それから、私がこの論文が発表されたのが、2009年の三月ですが、このひとの参考文献には、2010年発行の本が入っていますので、私の論文よりも後で 書かれたことは明白です。

「返答」
私がこの文を書いたのは、2010年だと思います。先生の論文のご発表が2009年であれば、それよりはあとになります。しかし、例えば、1 のassimilationに関する記述は1999年の時点で行われていますし、Leveltの本は1989年に出ていますから、もし引用元 として示す必要があるのであれば、小林先生の論文に書き入れるべきでしょう。


なお、私の文には、先生の論文には出てこない考え方(例えば、「単語数」「持久力」)もいくつか登場しますし、全く違うことを主張していま す。
先生の論文の目的はは、p.15にあるように「・・・聞き取りで困難な 点とその理由について分析し論考」することであり、私の方は「こういう風に難しいのだから、それを自覚してしっかり勉強しなさい」という啓蒙 です。

ご指摘の点に対する回答は以上の通りです。
なお、繰り返しになりますが、私自身はこの拙文は、「啓蒙」のために書 いたものです。引用しているデータも、一般的に良く知られたものであり、参考文献2つ載せれば、そこからたどっていける程度のものです。
したがって、先生の「単に人の論文を読んで自分の都合の良いように まとめるという研究は本当の研究ではありません」というご批判は、少し的外れな気がします。 私自身が2009年ごろにしていた研究は、たと えば、
に代表されるような、第二言語習得の研究です。
先生の論文を知らなかったのは不徳の致すところですが、実際のところ、 全国の大学の『紀要』を読むことは不可能ですので、知らなかったという点に関しては、どうぞお許しください。
したがって、先生の呼びかけである「Y教授、恥ずかしいと思いませんか。」については、「恥ずかしい ことはしておりません」とお答えいたします。
また、先生の論文には、一般的な(あるいはよく知られた)主張で、私の中で扱ったものと重なるところはあるものの、引用元として示さない と剽窃になるような部分は見当たりません。

したがって、この文が「氏の巧妙な剽窃例です」というのは誤解です。

以上、お答え申し上げました。もし、まだ、ご不 明な点があれば、メールいただければと思います。(XY教授より)

2013年7月14日のこの自信たっぷりの反論にすなおにだまされてしまい、私の勘違いであると逆にあやまってしまいました。木だけを見て森を見なかったことが原因ですが、私も甘かった。一流の大学教授が盗用というのはおお事ですから、そう簡単に自分がまねをしたなんて認める訳はないのです。盗用なんて重くて下手をすれば裁判沙汰です。ましてや大学の業績のある立派な学者として通っている人間がそういう誹りを受けたら、どうなるでしょうか。そこに比較されるふたつの作品があり、もしそれが盗用だということになれば、いくら証拠をねつ造しても剽窃だというそしりを免れることはできません。どのように対処するでしょうか。自分の息のかかった第三者に偽証してもらうのでしょうか。証拠をでっちあげるのでしょうか。この方は何をすればよいのでしょうか。道徳心と倫理観がしっかりしていればどういう行動が適切であるか分かるはずです。
次のように、聞き取れない英語教師として自分もそうだ、というところさえまねています。しかも、論文の展開の順序が同じですから、おなじ場所で同じことを言葉を変えて言うのです。さすがは、言語学をやっているひとですから、言い換えが巧みです。(上記対照表のコラム7及び8参照)

次のふたつの表現を較べてみてください。こういうへりくだった感想的表現も偶然だと思いますか。私の明らかには書いていない「自分を含めて」という行間の意味さえも補っています。さすがは言語研究者です。巧みです。そして本文でその表現が出現する箇所の前後を見てください。流れが同じです。それが証拠です。もちろん、この箇所だけではなく、全体の流れのいたるところに巧妙に表現と語句を変えてわたしのアイディアを同じ箇所で書いています。

「長年学習を続け、何百本もの映画を字幕無しで見てきた 英語教師でさえも聞き取れない箇所を分析することは、」(小林)

「私を含め、何年も留学し、英語を使って不自由なく日常生活を営める人であっても、初めて見た映画を、字幕なしで、まるで日本語で映画を見ているように理解できる人はほとんどいないと思います。」(XY教授)

言葉は悪いですが、「ここまでよくやるよ!」と叫びたい心境です。

人はねたみ、うらやむものです。盗用の動機は、このアイディアいいな、自分のものにしたいな、自分だってこのくらいできたのに、こいつの言ってることは自分はとうに知っているのに、という優越感とねたみ嫉妬。あるいは心の奥に隠されている劣等感を優越感に変えたいというところから始まるのかもしれません。「こいつのはオレの言ってることと同じだ。盗っても構わない。アイディアはただだ。取っちゃえ。盗っちゃえ!」確かに人が作ったものを利用した方が早く簡単にできてしまいます。なぞればよいのですから。アイディアはコロンブスの卵です。そこまでに至る苦労と新しさは無視されてしまいます。でも悪いということを知っているから偽証工作をするのです。「音の塊」について検索で何万階ヒットしようが、文脈の位置で比較しなければいけません。このことばも見事同じ順番で出現します。具体的な映画からの推考ではなくて人の文献から上手に似た言葉を探し出して私の考えをまとめるのです。当時、私はそういうところまで気がつきませんでした。なにせ相手は専門家です。独創性には欠けていても、引用する文献にはこと欠きません。言語研究者とはいうものの人のアイディアを利用することに長けた専門家です。
わたしは自分のこの論文を書くにあたって2009年の夏休みに何本もの映画視聴に150時間は費やしています。一本120分の映画でしたら、何度も繰り返して聞き取りをするとその三倍の時間が必要です。私が具体的な映画資料から導き出したアイディアをざくっとまとめる語彙を使うのがこの人物は得意ですが、そのことばのひとつを使うと「持久力」が必要です。この人物は、自分でそういう第一次資料を集めることが大変だと知っているかもしれませんが、こと映画視聴に関してはそのような過酷な経験をしたことがないから、お気楽に、人の論文を利用してちょこちょこと書いたものを「啓蒙記事」として掲載する。
他人の論文の要約をして自分のものとして紹介する。あきれたかぎりです。私の論文


本:英語の名詞をきわめる

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八王子の私立大学教授による盗作例

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