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フィリピンの基礎共同体の活動

− カトリック信徒指導者の養成に着目して −



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 新しいカトリックの運動である基礎共同体は住民の参加を特徴とし,活動への参加を通じて住民の内に社会的な意識を育成することで,地域社会にインパクトを与えてきた。筆者はフィリピンにおいて事例調査を5年間に渡り行った。そこでは教会所有のラジオ局の番組を通じて基礎共同体が形成されていた。住民は各地で集まって聖書を解説する番組を聴き,その後に地域や自分達の問題について話合う。さらに近年,稲作農業,沿岸漁業や母親など分野ごとの組織が形成され始め,地域の政治的,経済的な問題へのより具体的な取組が目指されている。これらの活動に一貫しているのが,住民の内から指導者としての資質のあるものを見出して養成するという方策(信徒指導者の養成)であり,養成された指導者を核とすることで住民の活動への参加が実現される。指導者のための研修会も行われるが,実際に活動において役割を担わせることが養成の主要な方法となっている。


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   I.基礎共同体と住民参加

   II.調査の概要
      1.調査の経緯
      2.調査地と教会の活動

   III.ラジオ学校による基礎共同体の形成
      1.ラジオ学校(1976年〜)
      2.タガパグウグナイの養成

   IV.分野ごとの組織の形成 −母親の組織の例を中心に−
      1.栄養プログラム(1986年〜)
         1)プログラムの概要
         2)コーディネーターの養成
      2.ブクロッド・イナ(1987年7月18日〜)
         1)構成と活動
         2)リーダー・オーガナイザー(1988年6月〜)
     おわりに


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I.基礎共同体と住民参加

 地域社会の経済的,社会的な諸条件を改善するための活動に,その地域の住民自身を参加させることが,近年になり提唱されてきた。その根拠の1つは,住民自身の創意と努力とを導入することによって,活動の成果が住民の要請により適切に対応したものになるということであるが,これに加えて住民の活動への参加が,住民の公共意識,責任感,自立心,協力心,連帯意識などを育てるという教育的な効果をもつことも忘れてはならない。活動において役割を担い,目標の実現に貢献する体験が,地域の住民の内に社会的な意識を育成するということには,看過できない重要性がある。
 本稿で紹介していく基礎共同体(base community)( 1)が注目されるのは,それが今まで自己実現や社会参加の機会に恵まれなかった第三世界の貧困層に対して,活動への参加の場を提供することで,このような社会的な意識の向上を促していると考えられるからである。基礎共同体とは,貧困をはじめとする地域の問題に,地域の住民自身を担い手として取り組むという,従来の教会活動にみられない特徴をもった新しいカトリックの運動である。司祭や修道者でなく一般の信徒が主体になるという,これまでの教会の運動と異なる形態が,地域の住民の参加を促進するものとなり,その社会的な意識の形成につながったのである。1950年代にブラジルで始まりその後急速に増加し,70年代半ばまでにカトリック信徒が多数を占める殆ど総ての農村地域でみられるようになった基礎共同体の総数は,全世界で20万近くに上ると推計されている。( 2)
 従来の教会の形態と基礎共同体が最も大きく異なる点の1つは,基礎共同体における教会構造の脱中央集権化である。伝統的に一握りの聖職者が引き受けてきた教会の責務が一般の信徒に託され,専ら町の中心にある聖堂で執り行われてきた宗教行事が周辺の集落でも催されるようになるのである。教会の構造のこのような再組織化は,定期的に集まって聖書を学ぶ小規模なグループ(Bible study group)を各地に形成することで推進される。これらの聖書研究グループでは指導者が選出され,宗教行事もグループで自主的に行う。このように信徒の主体的な活動の場となるグループの一つひとつが基礎共同体と呼ばれるのである。その活動の領域は宗教のみに限定されず,政治的,経済的なものも含めた地域社会の問題にも対応するようになる。フィリピンで基礎共同体を推進してきたラバイエン(Julio Labayen) は次のように記している。

  基礎共同体は,村落かスラムの一角にある小さなグループである。その小ささゆえ に,構成員は他の構成員に個人的な関心をもつことができる。私達はこのような共同体の意識の向上と組織化とを助け,共同体が政治的な力をもち,経済的に向上し,生活の他の総ての側面で善と美と自由とを追求するのを助けなければならない。(3)

東南アジア諸国の内で唯一基礎共同体が興隆しいるのがこのフィリピンであるが,筆者はそこで1つの事例を対象に,住民参加とそれによる住民の意識の向上とに特に注目して調査を行ってきた。以下でその過程と結果とを報告し,基礎共同体の活動の実態を紹介したい。( 4)


II.調査の概要

 1.調査の経緯

 基礎共同体は司祭のイニシアチブによって,小教区単位で始められるのが一般的であるが,その成否は司祭を監督する司教の支援が得られるかどうかに左右される。( 1)そこで筆者は前述のラバイエンが司教を務める教区を選び,13ある小教区の内の1つカトゥハ (katha)を調査地に定めた。( 2)最初は教会関係者との面識を得るために,カトゥハの司祭が日本の青年を招いた交流会に加わって1984年に現地を訪問した。10日の滞在期間中に,活動の概要を把握すると同時に,司祭や教会ワーカー,( 3)基礎共同体を構成する信徒達と接触し,調査を円滑に行うことのできる人間関係を築いた。その後は数日から数十日の個人的な訪問を繰り返して,活動の推移を5年間にわたり追跡した。( 4)
 幸い教会が外部からの調査や取材を積極的に受け容れる方針を採っており,筆者と教会関係者との間の個人的な親交も深まったため,活動の観察や関係者とのインタビュー,記録文書の閲覧などの調査活動には全く制約を課されなかった。また滞在中は教会施設内の1室を宿泊用に提供された。このため,教会が活動の記録を十分にはしておらず,内部資料の保存も不完全であったにもかかわらず,十分な情報が収集でき,活動の全体像を把握することができた。( 5)特に1985年頃からは新しい試みが開始され,定着していくのを記録することができた。(IV節参照)

 2.調査地と教会の活動

 カトゥハは,シエラマドレ山脈(Sierra Madre)を北東に抜けて太平洋へ流れ出るアゴス河(Agos)の最下流地域である沖積層平野に位置し,山脈と海岸線とで周囲を囲まれている。(図1参照)砂利敷の国道が山脈を越えてマニラまで続いており,所要6時間のバスが1日約5本と,ジプニーとが運行している。この国道は外界への唯一の通路であるが,雨期には土砂崩れによって時折寸断される。またカトゥハには電話回線が引かれていない。このような交通・通信手段の制約により,外界との交流は限られている。住民の主な交通手段は徒歩とトライシクルである。
 小教区カトゥハはケソン州 (Quezon Province)に位置し,その範囲は同名の市域と一致している。市は36のバランガイ(barangay−地方行政組織の基本単位−)で構成され,そのうちの3つが市街地を構成する。1986年の人口は2万9434人,戸数は5208で,人口の半数以上(1万5046人)を20歳未満が占めた。この内で市街地居住者は12.7%(3737人)にすぎず,大部分の人々は周囲に広がる水田の各地に散在する集落に居住している。殆どの人はタガログを母語とする。
 民家の殆どは,屋根をニッパ椰子の葉で葺き,竹や椰子の葉を編むか木材を用いた壁に,割り竹の高床式である。水は井戸や川から得ている。カトゥハの全域は1982年から電化されたが,殆どの家庭の電化製品は電灯とラジオに限られる。( 6)産業の中心は農業,漁業及び林業である。( 7)
 人口の98%をカトリックが占めるカトゥハでは,2名の司祭と常勤および非常勤の教会ワーカー達により様々な活動が行われる。教会所有の農場では,野菜やカカオなど,これまで作られなかった作物の栽培を実演し,農民に導入を促している。また信用組合の設立を奨励し,運営のための助言や指導を行っている。教会はハイスクール(生徒数 846,教員数28)も運営しているが,その3階建ての校舎はカトゥハで最大の建物であり,教室や講堂は,市の行政を含む地域の行事や集会のために無料で提供される。
 こうした教会の活動の中心で,地域の住民に普遍的な影響を与えているのが基礎共同体である。III節でみるように,カトゥハの基礎共同体は教会が運営するラジオ局の番組を通じて,1976年から形成されてきた。さらにこの基礎共同体を基盤として,1985年頃からは分野ごとの組織の形成が始められ,地域の政治的,経済的な問題へのより具体的な取組が目指されている。IV節では8つの分野の1つである母親の組織を取り上げて,その形成過程と活動とをみていくことにする。
 これらの活動に一貫してみられたのが,一般の信徒の内からリーダーとしての資質のあるものを見出して養成するという方策である。この方策をとる理由の1つは,限られた人数の司祭と教会ワーカーのみで把握するには小教区の信徒の人数が多過ぎ,また居住地も広範に散在するため,各地で信徒達を把握し,その代表として教会ワーカーとの間のパイプの役を務める者が必要なことである。さらにこの方策は,養成された指導者を基礎共同体の核とすることをねらいとしており,信徒達が自ら意志決定をして行動するグループになっていく際に,これらの指導者がその中心とされる。IV節2項でみるように母親の組織では,指導者の養成がすすめられた結果,1989年に4名の母親が,司祭や教会ワーカーと対等の関係で仕事ができるだけの能力と意識をもつと認められるまでになった。信徒指導者の養成(lay-leadershipformation)と呼ばれるこの方策は,フィリピンの他の基礎共同体の事例報告においてもしばしば言及される。( 8)


III.ラジオ学校(Radio School)による基礎共同体の形成

 1.ラジオ学校(1976年〜)

 1968年に教会は,通信手段の確保のためにラジオ局を開設した。事務所と10=程のスタジオが聖堂に付設され,常勤者4人と非常勤者6人,無給の奉仕者25人による1日15時間の番組が720kHz出力5KWの信号にのせて送られ,カトゥハを遥かに越える範囲で最も強力な信号として受信される。ラジオ局が1979年に行った調査によると,小教区のラジオを持つ家庭で教会からの放送を最も好んで聴いていたのは全体の79%であった。ラジオ局は地域へかなりの影響力をもつと推定される。運営費は広告収入で賄われる。週日の番組編成はニュース(130分)伝言サービス(215分)( 1)生活情報(150分)音楽その他の娯楽(390分)および祈祷や聖書朗読(15分)である。
 日常の放送内容は,この番組編成にみられるように宗教的な色合いが薄いが,そのなかで重要な番組が,教区設立25周年を契機として1976年から始められた「ラジオ学校」(Ra-dio School) で,カトゥハの基礎共同体はこのラジオ学校を通じて形成されてきた。金曜夜7時半から8時まで放送される番組は,司祭とラジオ局の担当者との対話形式で進行し,聖書の1つの箇所を取り上げて解説し,地域社会やフィリピンの状況と関連させた解釈をしてから話し合いのための課題を提供する。信徒達は各地で集まって放送を聴き,そのまま引き続き1時間程の話し合いを行う。この聖書研究のグループの一つひとつが基礎共同体を形づくり,1987年にその数は,教区内で85に達していた。それぞれの基礎共同体には平均15人の参加があり,地元の信徒の内から選ばれた,タガパグウグナイ(Tagapag-ugnay−仲介者−)と呼ばれる司会進行係を中心として,週1回各地で自主的に聖書研究を行っている。
 筆者はバランガイ・トゥドトゥラン(Tudturan)でタガパグウグナイを務める43歳の主婦の家に招かれて宿泊していた際に,1986年8月8日の聖書研究に立ち合うことができた。その時の様子は以下のようであった。

   参加者は,近隣にある大きめの民家の,25平方メートル程の広さの居間に集まった。人数は母親に連れられた幼児を除いて11人で,ハイスクール以下の4人の他は主婦層が多く男性は1人だけであった。ラジオがルカ福音書12章32〜48節(「目を覚ましている召使」として知られる箇所)について「特別な時でなく毎日の生活の中で,神の望みに従うことが求められている」と解説し「多くの人が生活に追われて忙しいが,私達はどのようにして毎日の生活の中で神の望みに応えていくのか。またどのような時に神の前での責任を果たすことが難しいか」という課題を出した。参加者の内で3人がメモをとっていたが,残りは床や虚空を見つめるか,幼児をあやしながら聴いていた。
   番組の終了の後に短い祈りを唱えてから,タガパグウグナイの司会で話し合いに入った。最初は短い発言が多いが徐々に1人の話が長くなり,途中に横からの口出しが入るようになって活発な話し合いとなる。寡黙な参加者には適宜タガパグウグナイが発言を求める。話の内容が逸脱したり混乱するとタガパグウグナイが聖書を再読して説明を加える。冗談の含まれた発言が多く,皆よく笑う。幼児が泣きだすと母親は懸命に泣き止ませようとするが,他の人は殆ど気に留めない。雰囲気は寛いでいたが,全体の注意が散漫になることはなかった。散会の前に全員で短い祈りを唱えた。( 2)

 ラジオの解説も話し合いも総てタガロク語で行われた。( 3)参加者の主な発言の内容は以下のようであった。

 −常に神に忠実でなければならない。神は私達が忠実であるかどうかを,いつも見ていて知っているからである。
 −皆に自分のものを分け与えていれば,神は見ていて,困った時には助けてくれる。
 −ただ勉強するだけでなく,それを皆の役に立つように用いなければならない。そうしなければ神の前では意味がない。(生徒の発言)
 −教員が生徒のためでなく給料のために働いたために,生徒が授業を理解できないならば,それは神の望みに反する。(教員の発言)
 −兵隊の隊長には特に良い行いが求められる。隊長が良ければ,兵隊も良くなる。
 −神の前に正しい行いをするためには,自分の良心をよく見つめて,夫として,妻としてあるいは仕事において神に忠実である方法を見出し,自分の過ちを見つけていかなければならない。
 −出勤簿に記入しても働かずに出ていってしまうのは,神の国の人ではない。
 −外出ばかりしないで家事をして,子どもの世話をするのは家族に対する義務である。子どもに料理をさせているようでは,母親の義務を果たしていない。(主婦の発言)
 −夫がサウジアラビアに出稼ぎしている留守に,妻が夫に忠実でいるのは難しい。
 −聖書を読み,日曜にはミサに参列し,そして神の目からみて良いことを行わなければならない。
 −富は神が与えてくれるものであるから,皆で分けなければならない。そうすることで,天の国に富をもつことができる。利己的に分け合わないと,天の国に富をもつことができない。

 話し合いの水準は高くはないが,毎日の生活現実に具体的に関わる内容がみられる。こうして,人々の日々の行動に変化を与えるような聖書の解釈がなされていることが注目される。ラジオ局は番組開始から2年後の1978年に,ラジオ学校が人々に与えたインパクトを評価して次のようにまとめた。
 1)より多くの人が聖書を手にし,祈祷と賛美歌を学んだ。ミサの参列者が増えた。
 2)ラジオとタガパグウグナイとによって,遠方とのコミュニケーションが容易になっ   た。
 3)各地で地域の指導者としての資質のある者を見つけることができた。
 4)近隣での集会と祈祷の機会になった。
 5)近隣の人々がお互いをより身近に感じるようになった。盗みが減った。
 6)家庭や親族内の問題,地域の問題の解決に役立った。
 7)祭の準備や教会の活動に積極的に参加する人々が増え,実行が容易になった。( 4)
7)は,信徒が活動の主体的な担い手となるという,基礎共同体の特徴が実現されてきたことを示すものとみることができる。そしてそのために3)にあるように,指導者としての資質のある者を発掘し,タガパグウグナイとして養成して,信徒自身による意志決定や計画,実行の中心とすることが行われてきた。無給の奉仕職であるタガパグウグナイは,意識が高く積極的に役割を引き受ける信徒達に担われ,基礎共同体の展開のために欠くことのできないものとなっている。このタガパグウグナイが,指導者としてどのように養成されているのかを,次にみていく。

 2.タガパグウグナイの養成

 養成の1つの方法は実地に役割を担って経験を積むことである。聖書研究においての司会進行をはじめとする世話役や,参加を促すために昼間に家を1軒ずつ訪問することによる近隣の人々との信頼関係の確立,祭など近隣での行事においても中心となって人望を得ることなどで,タガパグウグナイは指導者としての技量を洗練させてきた。筆者が面談した司祭や教会ワーカーの殆どが,こうして経験を積ませることが信徒の指導者を養成する最も効果的な方法であると認識していた。
 このような経験を踏むことによる養成を補うために,毎月第1土曜に小教区全体からタガパグウグナイが集まっての研修会が開かれる。前述のハイスクールの教室で開かれる研修会では,話し合いにおける司会進行の技術や聖書についての知識が与えられる。1986年8月2日に観察した研修会の様子は以下のようであった。

   参加者は35人で,全員が女性で主婦層が多く,子供を連れてきている母親も4人いた。進行はハイスクールの宗教の教員をしているタガパグウグナイが行なった。朝9時から始められ,最初に短い祈りを唱え,歌の練習を3曲してから,出席者が自己紹介をし,自分の担当する聖書研究グループの近況を報告した。その後,研修を受けてきた期間の長い者と短い者とで2つの教室に分かれた。筆者は後者を観察したが,そこでは宗教の教員により話し合いの進め方についての講義がされた。講義の内容は良い話し合いと悪い話し合いについてで「良い話し合いでは全員が満遍なく発言し,1人が発言している時は他の全員が聴いているが,悪い話し合いでは複数の人が同時に発言し,また発言者が全員に向かって話さず1人を相手に話す」と説明された。
   その後,司祭から聖書についての講義が行なわれた。司祭はマタイ福音書16章13〜20節(「ペトロの信仰告白」として知られる箇所)を朗読した後「キリストは何者か」と発問し,出席者の考えを自由に発言させて板書した。「救い主」「神の子」「力ある者」「真の師」が挙げられ,それぞれに司祭が注釈を加えた。「神の子」についてはキリストの2面性(神性と人間性)を説明し,「真の師」についてはキリストが最初のタガパグウグナイであったと述べた。( 5)出席者の姿勢が積極的なため,終始集中した講義となったが,冗談の絶えない和やかな雰囲気はラジオ学校の時と同様であった。その後,全員が集まって短い祈りを唱え,正午に散会した。

 講義のために呼ばれてくるまで司祭は出席しておらず,総てタガパグウグナイ達自身の手で進められた。出席者数が35人とて少ないのは,タガパグウグナイの意識が低いためでなく,主な理由は子育てや仕事で時間的余裕が十分にない人が多いことにあると司祭や教会ワーカーは解釈している。( 6)研修会は指導者としての聖書の知識と司会進行のための技術とを習得する場であると同時に,このように多忙な者が多いタガパグウグナイ同士が交流することのできる数少ない機会でもあり,タガパグウグナイの間に横の繋がりを形成している。
 以上みてきたように,調査地ではラジオ学校による聖書研究を通じて基礎共同体が形成され,その核となる各地の指導者としてタガパグウグナイが養成されてきた。以前は教会の活動はこの基礎共同体の形成のみを中心としていたが,1985年頃から,宗教的,精神的な側面が強調され過ぎたという反省と,人々の政治的,経済的な問題により具体的に関わることが必要であるという認識とにより,分野ごとに小教区全体の人々を組織化する試みが始められた。


IV.分野ごとの組織の形成 −母親の組織の例を中心に−

 基礎共同体における一般信徒の参加の姿勢を基盤として,分野ごとの人々の組織化が推進され始めたのは1985年頃からであった。( 1)同じ分野の人々は共通の問題を抱えているので,それらの人々により構成される組織では具体的な協力が可能であり,団結して対処し問題を解決することもできるので,活動がより人々の生活現実と深く関わるものになると期待されたのである。現在までに稲作農業,ココ椰子農業,沿岸漁業,淡水漁業,市場商業および行商の6つに,母親と学校外青年を加えた8つの組織が形成されてきた。( 2)1987年8月には各組織の代表が集まって民衆会議 (People's Congress)が結成された。 ( 3)これらの組織の内で稲作農業,沿岸漁業と並んで活動の盛んな母親の組織であるブクロッド・イナ(Buklod Ina −母親の団結−)をとりあげ,その形成の過程を見ていくことにする。ブクロッド・イナの設立に至る母親達の組織化は,母親を対象とした教会の栄養プログラム(Nutrition Program)を通じてなされてきた。

 1.栄養プログラム(1986年〜)

  1)プログラムの概要
 教会が1985年に小教区全体の75%の戸数を調査したところ,生後6〜60ヶ月の乳幼児の31.6%が,体重が標準の75%以下の栄養失調であった。この状態の最大の原因は住民の貧困にあるが,教会はこれに加えて母親の知識の欠如も原因の1つであると分析した。すなわち保育や栄養,保健衛生に関する知識が十分でないことから,家庭での食生活や育児,環境整備に支障をきたしていると分析したのである。これに対応するための健康省 (Min-istry of Health)による保健衛生指導や医療も十分に浸透していない。( 4)このような状況に対して教会は,これまで脱脂粉乳(non-fat dry milk)と粉豆乳(soybean milk)とを必要な家庭に供与していたが,1986年から母親の教育と組織化に重点を置いた栄養プログラムを開始したのである。( 5)
 栄養士の資格をもつ教会ワーカーが担当するプログラムは,栄養失調の児童をもつ母親を対象とし,参加者として1986年の開始時に 764人が登録した。年内にさらに 260人が加わり,89年現在は約1700人にまで増加している。日常のプログラムの軸となるのは各バランガイで1〜2ヶ月に1度開かれる会合である。そこでは脱脂粉乳と粉豆乳の4ポンドずつの配給や,乳幼児の体重計測,健康と栄養に関する学習会などが行なわれる。場所は公立小学校の教室やバランガイ・ホール(市有の集会施設)を借りるか,または参加者の自宅が利用される。1986年に行なわれた学習会のテーマは,第1回から順に「導入」「健康や生活と栄養との関係」「含まれる栄養分による食物の分類」「栄養のある食物の経済的な摂取(低価格で栄養のある献立)」「妊娠・授乳と栄養」「乳幼児のための栄養」であった。表1に,登録した母親の人数と,1986年3〜11月の会合の日程と出席者数とを27のバランガイについてまとめた。
 聖書研究グループのタガパグウグナイのように,栄養プログラムにおいても各バランガイで指導者となる母親が1〜3人選ばれており,コーディネーターと呼ばれる。その人数は1986年は40人であったが,参加者数の増加に伴い89年には72人になった。コーディネーターも無給の奉仕職であり,タガパグウグナイが兼任していることもある。コーディネーターの内から特に17人が教育委員(Education Committee Member)として選ばれ,訓練を受けて,栄養に関する学習会の司会進行の役割を引き受けている。図2−aにこれらの役職の関係を示す。
 筆者は会合に立ち合う教会ワーカーに同行して,会合を13回観察した。1986年7月25日にバランガイ・バロボ(Balobo)で観察した様子は以下のようであった。

   会合は午後3時からバランガイ・ホールで開かれた。トタンの廂がつくる50平方メートル程の陰に長椅子が並べられ,黒板が掛けられた。この時のバロボの登録者数は11人だったが,それ以外の主婦も出席したため,遅刻を含めた出席者数は15人で,殆どが乳幼児を連れて来ていた。3人のコーディネーターの内の1人が教育委員で,司会進行を行なった。
   連れてきた乳幼児の体重を計測した後,学習会が始められた。(写真1)テーマは「健康や生活と栄養との関係」であった。教育委員が発問し,出席者が自発的にそれに答える問答形式で進められた。教育委員は発問とそれに対する出席者の発言とを板書した。(その内容を表2に記す。)これらの母親達の発言の内に,食物のみでなく貧困など背景にある社会的な事柄にまで言及するものが含まれることを,教会ワーカーは特に高く評価する。( 6)
   教育委員はバラバラに発言される出席者の答を,そのまま板書することもあれば,解説や意見を加えたり内容を問い質すこともある。司会と発言者との間の会話の他に,出席者の間でも小声で意見交換がされ,ざわついてはいるが,全体として出席者の注意は司会を中心とした学習会の方を向いていた。冗談が混じり,幼児が騒ぐのも,聖書研究の時と同様であった。学習会が終わると脱脂粉乳と粉豆乳が配給され,受け取った母親から順に帰り始め,5時頃散会した。教会ワーカーは立ち合っていたが殆ど介入せず,教育委員を中心にコーディネーター達の手で運営がなされた。

  2)コーディネーターの養成
 栄養プログラムは母親の教育と組織化とを主要な目標としてきた。コーディネーターは,この母親の組織が形成されていく際の核となることを期待され,タガパグウグナイと同様に,指導者として養成されてきた。役割を担って実地に経験を積むことが,最も効果的な養成の方法であると考えられてきたことも,タガパグウグナイの場合と同様である。バランガイでの会合の世話や学習会の司会を務める教育委員,乳幼児の体重計測,脱脂粉乳と粉豆乳の管理と配給,会合の日時伝達や招集,教会ワーカーとの連絡などを経験することがそれである。
 このような,役割を担う経験を通じての養成に加えて,研修会も開かれる。コーディネーターの内から投票で選ばれた教育委員のためには,栄養に関する知識や司会進行の技術を与えるための研修会が行なわれる。プログラムが開始された当初は集中的に,1986年5月30日,31日,6月13日,7月5日,6日,12日,26日に研修会が行なわれた。( 7)またコーディネーター全員が毎月1度集まって,担当の教会ワーカーから組織運営の技術や最近の国内情勢などについての講義を受けてきた。  担当の教会ワーカーはこうした養成の成果を評価して「プログラムの進行につれてコーディネーターの参加がより積極的になった」と語った。筆者がみたところでも,プログラムが開始された1986年の1年間は特に成長が顕著で,3月に会合を観察した時には母親達の招集もおぼつかなかった教育委員が,8月や12月にみた時は手際よく会合を進め,教会ワーカーの手助けが必要なくなっていたのが印象的であった。

 2.ブクロッド・イナ(1987年7月18日〜)

  1)構成と活動
 栄養プログラムは小教区における栄養状態を改善するだけでなく,プログラムを通じて母親達の内に組織を形成し,司祭や教会ワーカーから自立させていくことをめざしていたが,1987年7月18日に前述の民衆会議が結成されたのに合わせてブクロッド・イナが設立された。ブクロッド・イナは栄養プログラムと異なり,栄養失調の子どもをもつ母親のみに対象を限定してはいないので,より多くの母親により構成され,その数は1989年8月現在で2000人にのぼる。栄養プログラムのみが行なわれていた時と同様に,構成員は各バランガイで会合をもつ。また毎年12月の第1日曜に前述のハイスクールで構成員の全体総会が開かれ,会長1人を含む15人の理事が選出される。理事の任期は1年で,毎月第1日曜の午後に理事会をもつ。こうして組織構成が固められたブクロッド・イナは,1988年11月16日に証券取引委員会(Securities and Exchange Commission)に登録された。
 栄養プログラムのコーディネーターと同様に,各バランガイで4人の指導者が選ばれ,パムヌアン (pamunuan−役員−)と呼ばれる。パムヌアンの半数はコーディネーターが兼任しているが,その導入によって,より多くの母親が指導的な役割をもって活動に参加する機会をもつことになった。全部で 144人のパムヌアンが偶数月の最終土曜に前述のハイスクールで会合をもち,各地の現状報告と以降2ヶ月間の計画とを行ない,加えて司祭や外部から招いた講師による様々な分野の講義を受ける。図2−bにパムヌアンと他の役職との関係を示す。
 ブクロッド・イナによる新しい活動に養豚プロジェクトがある。母親に家庭での豚の飼育を奨励し,食用に供して栄養源とすることや,成育した豚を売却して生計を補助することで栄養不良の背景にある貧困の問題に対応することが,プロジェクトのねらいである。農業担当の教会ワーカーによる養豚の技術指導が5グループ,20人を対象に1988年7月から行なわれてきた。89年8月には生後4ヶ月の雌豚13匹が初めて購入され,1匹ずつ理事の母親の家で飼育され始めた。(写真2)1匹3000ペソの購入費用は教会からの年率2%の融資によるもので,次に生まれる子豚を他の母親に売却して返済する。このプロジェクトは,参加者の日常の負担と責任が大きく,活動に積極的な母親が多数いたことで実現が可能となったといえる。
 またブクロッド・イナは,他の信徒の組織と提携した活動を,前述の民衆会議を通じて行なっている。( 8)分野ごとの8つの組織からの代表が毎月第2日曜の午前に会合をもち,小教区全体の問題を協議し,各組織が協力しての対応が図られる。ブクロッド・イナからも4人の理事が代表として会合に出席している。( 9)

  2)リーダー・オルガナイザー(1988年6月〜)
 1988年6月からは,担当の教会ワーカーがパムヌアンの内から特に選んだ4人が,無給ではあるが,それぞれの分担の地域で,教会ワーカーが行なってきた役割を総て任されるようになった。能力と意識が特に高いと評価されたこの4人はリーダー・オルガナイザー(略称L.O.)と呼ばれ,毎週月曜の午前中に開かれる教会ワーカーの会議にも参加するようになった。リーダー・オルガナイザーという名称は,この4人が,母親達の指導者としての役割(リーダー)に加えて,これまで教会ワーカーが専ら担ってきた母親達の組織化という役割(オルガナイザー)も併せて担うことを示している。このL.O.の起用は,司祭や教会ワーカーが,彼女達の職務遂行能力が自分達の代行をできる水準に達し,対等の関係で仕事が進められるようになったと判断したことを意味する。このL.O.は,信徒の指導者を養成するという基礎共同体における方策の1つの到達点とみることができる。(10)図2−cにL.O.と他の役職との関係を示す。
 1989年6月に担当のワーカーとL.O.は,ブクロッド・イナが動員することのできる構成員数を知るために,会合や活動へ参加している者を28のバランガイについて列挙して整理した。それによると常に参加している者が 269人おり,その内で97人が特に積極的であると評価された。36のバランガイ全体では常に参加している母親の数は 300人を越えるものと推定される。栄養プログラムから続けられた母親の組織化は,小教区の母親達にある程度のインパクトを与えてきたということができる。

おわりに

 以上みてきたようにカトゥハの基礎共同体は,ラジオ学校の聖書研究を通じて形成されてきた。さらに1985年頃から,参加者の問題により具体的に対応するために分野ごとの8つの組織が新たに形成された。この展開において一貫してみられたのが信徒指導者の養成であり,養成された指導者を中心にして住民の参加が実現されてきた。母親の組織においては,養成された指導者の内の4人が,司祭や教会ワーカーと対等の関係で仕事を遂行することができると認められるまでになり,活動に常に動員することのできる母親の人数も 300人を越えると推計されるまでになった。本稿では8つの組織の内からこの母親の組織を例として取り上げたが,他の組織の場合でも,信徒指導者の養成が重視されているのは同様である。( 1)
 こうして基礎共同体は,養成された指導者を中心として住民を活動に参加させることによって,その意識の向上を促し,地域社会に一定のインパクトを与えている。初めに記したように,カトゥハの基礎共同体は司教の支援という恵まれた条件の下で興隆したのであり,フィリピンの他の地域の基礎共同体と同列に並べることはできない。( 2)しかし人口の84%をカトリック信徒が占めるフィリピンでは,その影響力は看過することはできないのである。

第 I 節
(注1)他にもさまざまな名称がある。フィリピンにおいても,Basic Christian Commu-nity, Basic Ecclesial Community などど呼ばれる。本稿ではこれらを総じて基礎共同体と仮称する。
(注2)Cox,Harvey, Religion in the Secular City, ニューヨーク,Simon and Schu- ster, 1984年,159ページ(大島かおり訳『世俗都市の宗教』新教出版 1986年) 。同書は解放の神学が形成される土壌となった中南米の基礎共同体をはじめ,広く各地の基礎共同体について言及している。他に世界の基礎共同体を概観したものに "Basic Communities in the Church," Pro Mundi Vita Bulletin,第62巻, 1976年9月/"Basic Communities inthe Church,"Pro Mundi Vita Bulletin,第81巻, 1980年4月/"Basic Christian Communi-ties,"Christianity and Crisis,第41巻第21号, 1981年9月21日/ "BasicCommunities inAfrica and Latin America,"World Mission Magazine, 1989年7月(いずれも雑誌の特集号)などがある。
(注3)Labayen,J.,"Preaching the Gospel in the Social Context," International Congress on Mission 編 Towards a New Age in Mission, マニラ,Theological Confer-ence Office, 1981 年,130ページ。
(注4)フィリピンの基礎共同体に関する研究には Opalalic,Agustin ,"The Ordained Minister in Basic Ecclesial Communities: A Study on the Role of the Priest Ac- cording to Church Doctrine and the Experience of Lay Ministers from Three BEC's in the Philippines,"修士論文, Ateneo de Manila University,1982年/ Gaspar,Karl, "The Local Church and Militant Lay Participation:The MSPC Experience,"Pro Mundi Vita: Asia-Australasia Dossier, 第34号, 1985年6月/ Bishops-Businessmen's Con- ference, Basic Christian Communities :A Threat or a Challenge ?, マニラ, Book- works,1986年/ BEC Service Office, Inter-BEC Consultations: How Far Have We Gone ?,マニラ,BEC Service Office,1988年 などがある。これらの内では Gaspar,前掲論文が,活動の実態を比較的詳しく記述している。

第 II 節
(注1)カトリック教会は司牧のために地域を教区に区分し,各教区を司教が管轄する。教区はさらにいくつかの小教区に分けられ,各小教区が1〜2名の司祭に委ねられ,教区が雇うワーカー(注3参照)がこれを補佐する。フィリピンには67の教区があり,2127の小教区に区分される。de Ach tegui,Pedro, "The Catholic Church in the Philippines : A Statistical Overview,"Philippine Studies, 第32巻第1季,1984年,82ページ。
(注2)ラバイエンは著作のなかで次のように記している。「私は今まで10年以上,基礎共同体の成長を推進してきたが,そこで金の鉱脈を掘り当てたと思っている。人々の信仰が深まり,お互いへの関わりが増し,心が開かれ,祈りが強くなり,共同体が形成されるのを私は見てきた。・・・基礎共同体は,他のいかなる過去のプログラムよりも遥かに深く人々の心にふれてきた。」Labayen,J., To Be the Church of the Poor, マニラ, Com-munication Foundation for Asia, 1986年, 47ページ。なお調査地名は仮名である。
(注3)司教や司祭を補佐して教会のために働く。学歴はハイスクール卒業以上の者が多い。複数の小教区を同時に担当する者もいる。調査期間中に主にカトゥハで働いていた者は約30人であった。
(注4)調査日程は1984年8月18〜27日,85年3月11〜14日,86年3月6〜9日,7月20日〜8月23日,12月22〜25日,87年3月25日〜4月9日,89年3月6〜9日,8月24〜26日の8回で,のべ 100日であった。この期間以外にも,マニラで司祭や教会ワーカーに会い,インタビューを行なった。また教会ワーカーからの手紙を通じて活動についての情報を定期的に得てきた。
(注5)教会に保存されていた資料の内で製本されたものは,ラジオ局(III節参照)について記した Bayanihan〔助け合い〕Broadcasting Corporation, 10th Anniversary: 1968−1978, 1979年のみで,他は謄写板印刷物かタイプされた文書であった。またインタビューは司祭,教会ワーカー,信徒の参加者および健康省の看護婦に対して行なった。
(注6)これに対して市街地ではコンクリート床でブロック建の家が多くなり,商店には2階を住居としたものもある。上水道施設も配備されている。
(注7)米,椰子,バナナが主な農産物である。近海と沿岸で鯵,飛魚,鯖,鰯,マンボウ,ニシンが,河からは泥鰌,鰻,鯉,蟹が捕獲される。林業の主な材種はラワンである。
(注8)Gaspar, 前掲論文はミンダナオ島での信徒指導者の養成に言及している。

第 III 節
(注1)伝言サービスは地域への無料奉仕として行なわれるもので,捜索願い,政府機関や教会からの公報,会合の通知,災害その他の緊急連絡,発送・到着の通知,公開討論,訃報などの内容が,依頼に応じて放送される。
(注2)3つのグループの聖書研究を合計4回観察したが,様子はほぼ同じであった。なお1986年8月1日の観察の記録を拙稿「フィリピンの基礎共同体(base community)−地域教会の教育活動−」(『比較教育学』第15号 1989年)で報告した。
(注3)ラジオ学校に限らず,カトゥハでの会合における話し合いや講義,ラジオの番組などは,総てタガログ語で行なわれた。
(注4)Bayanihan Broadcasting Corporation, 前掲書,55-56ページ。
(注5)研修期間の長いタガパグウグナイ達は隣の教室で歌の練習を続けた後,別の司祭から「十戒」をテーマにした講義を受けた。毎月の講義内容はいずれも継続性がある。
(注6)1988年10月に台風による洪水と暴風で,この地域が家屋や農産物などに1500万ペソ(教会の集計)の被害を受けた際,教会ワーカー側は11月5日の研修会を延期しようとしたが,タガパグウグナイ達の側からの要望により予定通りに行なわれた。これらのことから,司祭や教会ワーカーはその意識の高さを評価している。

第 IV 節
(注1)1979年には3人だった組織化を担当する教会ワーカーが85,86年に2名ずつ増えて7人になったことに,それはよく示される。教会ワーカーがこのように増強された直接の要因は,この時期までにカトゥハのマングローブで個人所有の養魚池が増え,近隣の住民が自由に魚を採ることのできる場所が減ったという問題であったが,この他に83年のベニグノ・アキノ氏暗殺以後の国内経済の悪化による住民の生活の困窮と,社会的な問題に関するフィリピン・カトリック司教会議(Catholic Bishops'Conference of the Philip- pines)の声明も間接的に影響したと推察される。
(注2)沿岸漁業の組織では,サバヒー(東南アジア海域産の食用魚)の養殖用稚魚の沿岸での捕獲権の市による毎年の競売の時に,零細漁民 700人が組合として卸売業者と対抗し,1985年から3年間権利を獲得し,卸値が業者によって引き下げられるのを防いだ。(この競売制度は1988年から廃止され,現在は沿岸での稚魚捕獲の規制はない)。
(注3)シン枢機卿 (Jaime Sin)が「現世の秩序を変革し,それをより適切で,人間的で,そしてキリスト教的なものにするという,基本的で究極的な役割は信徒のものである。」(Sin,J.,"Position Paper on Evangelization: Justice,Development and Liberation inthe Archdiocese of Manila Today," Boletin Eclesiastico de Filipinas,第51巻第575-576号,1977年,600ページ。)と述べているように,フィリピンの教会指導者層 (hierarchical leadership)は,信徒が社会の変革・刷新の役割を担うという見解をしばしば表明してきた。カトゥハの民衆会議も教会の内で,信徒による社会変革のための手段の1つに位置づけられよう。しかし教会が社会的な活動を行なうことに批判的な聖職者も少なくなく,このような組織の教会内での地位は必ずしも安定していない。Gaspar, 前掲論文を参照。
(注4)カトゥハには健康省から派遣された看護婦1人と助産婦 (midwife)7名が常駐しているが,全員で巡回しても週に1〜2日しか1つのバランガイには滞在できず,さらに事務上の仕事にも忙殺されている。また診療器具や常備薬品が揃っていない。
(注5)この栄養プログラムについての1989年3月までの調査結果を,1989年6月の日本比較教育学会第25回大会における口頭発表「フィリピンの地域教会による教育活動」の内で報告した。
(注6)このことは,母親達の議論がやがては社会変革を含むものにまで展開することを,教会ワーカーが志向していることを示している。しかし筆者との面談で社会変革に関する明確なヴィジョンを聞くことができなかったことから,これまでのところ教会ワーカーの主な関心は,当面の課題である組織の確立と指導者の技術的養成とにあるとみられる。
 (注7)筆者は1986年7月26日の朝9時から午後3時まで前述のハイスクールの教室で開かれた研修会を観察したが,そこではこのハイスクールの副校長を講師に招いての「教育とは何か」という講義や,模擬学習会が行なわれた。模擬学習会は各教育委員が出席者を相手に,用意してきた学習会の司会進行を順番に行なうもので,終了後に互いの長所と短所についての評価を交換するなど,司会進行の技術の向上を図ることがねらいとされている。
(注8)1989年5月23日には民衆会議の代表15人が,アゴス河上流での違法乱伐への対応を当局へ陳情した。これは前年11月の洪水(III節の注5を参照)の際の被害が,この乱伐によって拡大されたという見方があるためで,陳情の後,当局による視察が行なわれた。
(注9)カトゥハ全体の活動や行事への母親の組織の参加は,ブクロッド・イナや民衆組織の結成以前から行なわれてきた。例えば自由選挙全国市民運動(National Citizens Movement for Free Election, 略称 NAMFREL )はカトゥハでは教会が中心となって運営されてきており,1986年10月の新憲法信任投票,87年5月の上院議員選挙などに際し,母親達も他の組織と協力してこの仕事に携わった。またクリスマスや復活祭などの祭儀の準備の時には聖堂の清掃と装飾を母親達が担当してきた。
(注10)1989年3月6日に観察した教会ワーカーの会議では,4人のL.O.が,積極的に発言し,他の常勤のワーカーと対等に,臆せず話し合いに参加していた。

おわりに
(注1)例えば稲作農業に従事する人々の組織では,指導者のための研修会が前述のハイスクールの教室を借りて1989年8月25〜27日に泊まり込みで行なわれ,40名が出席した。
(注2)聖職者との対立が,基礎共同体の展開の障害となっている地域もある。Gaspar, 前掲論文を参照。


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以上は,『 アジア経済 』 第31巻 第9号 (1990年9月) のための最終ドラフトにもとづき,ウェッブ上での掲載のために若干の加筆・修正を行ったものです。刊行された論文とは異なるところがあります。 (また,図表はまだ掲載されておりません。 後日掲載する予定です。 しばらくお待ちください)

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