集合的責任論序説

──戦後世代の戦争責任への視座──

瀧川 裕英

 個人は自己の有責な行為の結果に対してのみ責任を負う。これが、近代個人責任の原則である。個人責任の原則は、個人主義の核心部分を構成すると同時に、自由・平等の理念とも密接な関連を持つ。すなわち、個人は自らの予見可能なことにしか責任を負わないということを保障し、個人が自分の運命をコントロールすることを可能にするという意味では、自由の基盤であり、個人は自分が選択したことのみによって判断されるべきであり、人種・性別などの個人の選択を越えることによって判断されてはならないという意味では、平等の基盤なのである。このような個人責任の原則は、近代法の根幹を構成している。近代においては、個人責任の原則に反する法は、その正統性を疑われ、その正統性を主張するためには、実は個人責任の原則の枠内にあるということを立証しなくてはならない。たしかに、現代の法現象の中には、個人責任の原則では説明が困難であるような現象(監督責任・共謀共同正犯・共同不法行為など)も存在する。が、そのような現象も個人責任の原則の枠内で説明・正当化しようと多くの学者が努力してきた。

 しかし、我々の日常の直感や実践の中には、個人責任の原則では正当化不可能であるように見られるにもかかわらず、それほど問題として意識されていないような事例が存在する。例えば、戦後世代の戦争責任問題である。戦後生まれの者は、いかなる意味においても、戦争に参加することはなかったわけであり、ある国家に帰属することを自ら選んでいるわけではないのであるから、個人責任の原則からすれば、なんら責任を負わないという結論になるだろう。しかしながら、戦後生まれの者は全く戦後補償の責任を負わないと言い切ってしまうことには、ためらいがある。このことはどのように説明すればよいのか。

 このような場合について、その説明図式及び正当化可能性・論拠を考察するのが、集合的責任論である。集合的責任の典型例を定式化すれば、次のようになる。「ある個人aの行為結果に関し、同じ集合体Aに属する個人b・cは、集合体外のdに対し、いかなる責任をどのような理由で負うのか。」(この意味での集合的責任論は、法人の刑事責任問題等にみられる集合体の責任主体性の問題とは一応区別される。)このような集合的責任の正当化可能性を探るためには、次の二つの問題群を考察する必要がある。第一が責任論であり、第二が集合体論である。第一の責任論は、個人がある集合体に帰属するという理由で負うことを一応正当化される責任はどのような種類の責任かという問題に関するものである。例えば、民事責任・刑事責任・道徳的責任などの責任のうち、集合的責任が一応正当化されうる責任は存在するのか、ある種の責任は正当化できるのに他の種の責任は正当化できない場合、その区別はどのように説明できるのかが議論の対象となる。第二の集合体論は、個人がどのような集合体に帰属することが責任の根拠となるかという問題に関するものである。家族・国家・会社・民族・人種などの人間集合体のうち、どのような集合体への帰属が責任の正当化理由となりうるかが議論の対象となる。以下では、具体例としては主に戦後世代の戦争責任を念頭に置いて考察することにする。

 まず、第一の問題である責任論について言えば、通常は民事責任・刑事責任・道徳的責任というような区分がなされるが、様々な要素が混在しているため、分析概念としては不適当である。むしろ、「非難」「補償」という二つの軸で考えるのが適当である。侵害行為があった場合には、正義は、加害者と被害者における不正を矯正することを目指す。その場合に、加害者に関心を向けた概念が非難であり、被害者に関心を向けた概念が補償である。非難は、拒絶するのが不合理であるような基準に従って行為すべきという道徳社会の一員としての期待に違背したことに対するものであり、加害者の他者への態度に一義的に関心を持つ。したがって、そのような態度を表明した者に対してのみ向けられるのであり、非難は属人的性格を持つ。一方、補償は、被害者の被害が原状に回復されることにのみ関心を持つ。したがって、補償すべきは誰かという問題については、一義的な解答を示さない。つまり、非難は加害者に固着し、他者に転嫁されることは不可能であるのに対し、補償は被害者の救済に関心を持つため、加害者自らが償うことを必ずしも要求しないのである。「それをしたのは私ではない」という言い訳は、非難阻却としては有効だが、補償阻却としては必ずしも有効ではない。(このような性質のため、非難は質的だが、補償は量的である。つまり、補償の場合は、誰かがある量を償えば、償われるべき量はその分減るのに対し、非難の場合は、加害者のうち誰かを非難しても、他の加害者への非難の量は減らず、むしろ減らさないことが要請される。)したがって、集合体帰属を理由として負わせることが正当化可能な責任は、補償責任のみであり、非難責任は正当化できない。具体的には、集合的な刑事責任・道徳的責任は正当化不可能である。以上から、戦後世代は非難責任を負わず、戦後世代の人間を非難することは的外れである。しかし、戦後世代の人間の補償責任の正当化可能性は残されている。

 次に、第二の問題である集合体論に関しては、まず、個人の集合体を総和型集合体と集団型集合体に区別する必要がある。総和型集合体とは、個人構成員と独立のアイデンティティーを持たない集合体であり、この場合、集合体の責任記述は、その集合体を構成する個人の責任にすべて還元可能である。他方、集団型集合体とは、個人構成員とは独立のアイデンティティーを持つ集合体であり、この場合、集合体の責任記述は、その集合体を構成する個人の責任にすべて還元することは不可能である。ここから、総和型集合体の場合には、ある個人はどのような理由に基づいて、同じ集合体に帰属する他の個人の行為の結果に対して責任を負うかという問題になるのに対し、集団型集合体の場合には、ある個人はどのような理由に基づいて、同じ集合体に帰属する他の個人の行為によって集合体が負う責任を分有するのかという問題になる。このように、両類型は問題の立て方が異なるので、別個に扱わねばならない。以下で述べるように、戦後世代の補償責任は集団型集合体の問題であるので、以下で扱わねばならない問題は、ある個人がコントロール可能性がないにもかかわらず集団の責任を負うことは、いかなる理由によって正当化されうるのか、となる。

 この問題に対しては、政治的責務(political obligation)論がいくつかの考え方を提供してくれる。
 まず第一に考えられる論拠として挙げられるのが、政治的責務論における合意論に対応する議論、すなわち、集団加入行為にその論拠を求める議論である。つまり、集団加入時点である種の責任を負うということを知りつつ、その集団に加入したことに責任の根拠を求める議論である。任意集団の個人の責任はこの論拠によって正当化されうるように見えるが、国家にはこのような意味での加入の任意性は存在しない。国籍離脱の自由が認められている場合でも、離脱自由と加入の自由を同列に論じることはできない。さらに、一般に集団帰属の任意性は、集団帰属の任意性がなければ責任を正当化できないという意味で消極的理由とはなるが、それだけで責任を積極的に正当化できるわけではない。注意すべきは、集団帰属の任意性の原理的不存在と事実的不存在との区別である。任意性が原理的に存在しない民族集団・性集団などは、いかなる意味でも個人責任の原則と折り合わせることは可能でなく、このような集団への帰属を理由として個人に責任を負わせることは正当化不可能である。それに対し、任意性が事実的に存在しない国家・家族などの場合には、そのような正当化不可能性はない。したがって、集団加入の任意性の原理的存在可能性は、集合的責任の必要条件ではあるとは言えるが、十分条件ではないのであり、集団帰属の任意性の原理的不存在は責任阻却事由を構成するにすぎないのである。

 次に考えられる論拠として挙げられるのが、政治的責務論におけるフェアプレイ論から派生する、利益あるところ損失ありという報償責任の議論である。例えば、株式会社の不法行為責任に関して、自ら不法行為を行っていないにもかかわらず、最終的な経済的不利益を負うという意味での責任を株主が負うのは、この議論によって正当化できる。では、戦後世代の補償責任に関してはどうか。戦後世代の国民は国家から利益を受けているのであり、国家が負う戦争責任を戦後世代の国民も果たすべきだと言えるだろうか。確かに、国民は、安全・社会保障・その他の利益を国家から受けている。しかし、このような経済的利益をただ受けているだけでは十分な正当化理由とはならないというのが政治的責務をめぐる議論蓄積が示すところであるし、損失が利益を上回るようなときは、報償責任のような考え方は急速に説得力を失う。したがって、国民が国家から受ける利益としては、むしろ、人格的自律存在として平等取り扱いを受けるという点に求めるべきであろう。このような意味での利益は、集合的責任の正当化にとって、一つの必要条件を構成していると言ってよい。

 しかしながら、問題の出発点に戻って考えるならば、この論拠も重要な直感を見逃している。それは、集団外部の責任問責者の視点の重要性である。そして、この視点を考慮に入れた第三の論拠が、「国家は筋の通った存在であるべし」という要請である。国民の政治的責務を正当化するためには、その国家が、国内における利害対立の場当たり的な妥協に基づいて行動するのではなく、ある原理にコミットしつつ一本筋の通った行動をする存在として構成される必要がある。その際、国家が筋の通った存在であると言うためには、国家が単なる人間の集合ではなく、国民の総和的集合とは独立のアイデンティティーを持つ道徳的主体であることが、その前提として要請される。ところで、ある害を加えた個人が、後に反省し、あたかも「人が変わった」ようになったとしても、責任は依然としてその加害者に帰属する。(情状酌量は、責任帰属が認定された後において、責任問責者(被害者・第三者)のみが用いることのできる「許し」の論理であり、責任の帰属可能性とは別の問題である。また、非難でなく補償が問題となっている場合には、加害者の内的な変化は、責任の程度問題にも影響しない。)これと同様に、国家内部の構成員の変化や、体制(憲法)の変更といった基本原理の変更は、国家の以前の行為の結果に対する責任を否定する正当化理由とはならない。なぜなら、国家の内的な変化を理由として責任を否定することは、国民集合から独立した国家のアイデンティティーを否定することになる。しかし、これは、国家が筋の通った存在であるべきという要請の前提を否定することを意味し、それは、政治的責務の正当化を困難にし、共生の条件としての国家の政治的正統性が否定されることになるからである。また、いわゆる「戦後補償」責任には非難及び非難と密接な関係を持つ謝罪という要素が含まれるので(この意味で、戦後「補償」という語はミスリーディングである)、戦後補償責任は、その責任を負う国家自らが果たさなければ、その意味は半減してしまう。責任応答が人間存在の基底を構成しており、責任は完全に果たされるべきである以上、戦後世代の国民も、その戦後補償責任の「補償的部分」を負わねばならない。

 以上からして、戦後世代が前の世代が行った戦争の補償責任を負うのは、民族の一体性・連続性といった理由に基づくものでは決してないし、文化的遺産の相続を理由とするものでもない。むしろ、それは、他の国家における人間を配慮しつつ、ある国家という政治社会の内部において生きる人間が、国内の他の人間との共生のために、一定の正統な強制力の必要性を承認する場合に支払うべき対価なのである。

 以上は、集合的責任の重要な一事例を構成する戦後世代の戦争責任問題に対する、戦後生まれの私の立場表明である。そして、このような問題について考えることが、戦後世代の責任なのだろう。

(たきかわ ひろひで  東京大学法学部助手 法哲学専攻)


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