『法学セミナー』2001年9月号, pp. 32-35.
(日本評論社、2001年)

「自己決定と自己責任の間―法哲学的考察」

瀧川 裕英

1.事例

Aは、覚醒剤と知らずに使用してしまい、依存症になった。
Bは、覚醒剤と知っていたが、脅されて使用し、依存症になった。
Cは、覚醒剤と知っていたが、使用し、依存症になった。Cは12才である。
Dは、覚醒剤と知っていたが、おもしろ半分で使用し、依存症になった。
Eは、覚醒剤と知りつつ使用し、依存症となり、さらに、まわし打ちによりHIVに感染した。
 A〜Eの人たちは、覚醒剤依存症であり、特にEはHIVにも感染していて、適切な治療を必要としている。社会は、こうした人に対してどのような態度をとればよいだろうか。社会は、これらの人の病気は自己責任であるとして、何の手も差し伸べなくてよいだろうか。

2.問題

 「自己責任」は時代のキーワードである。新聞紙上では、連日のように「自己責任」の文字が踊っている。「自己責任」は、閉塞・停滞した社会を改革する理念として提唱され、医療・年金・金融取引・地方分権などの分野で盛んに主張されている。
 ここで注意したいのは、自己責任が「自己決定」と対となって登場しているという点である。例えば、「自己決定・自己責任」と言われたり、「自己決定=自己責任」原則と言われたりする。ここでは、自己決定と自己責任は連続していて、ほぼ同じ内容の意味を持つ言葉であると理解されている。このように、自己決定と自己責任を連続した同質のものとして捉える考え方が、自己決定と自己責任についての常識的な理解である。
 しかし、哲学は常識を揺さぶる。法哲学もその例外ではない。この稿で私が焦点を当てたいのは、自己決定と自己責任の「連続」ではなく「断絶」であり、自己決定と自己責任の「同質性」ではなく「異質性」である。

 問題を考えるためには、問題を正確に立てる必要がある。そこでまず、概念を簡単に規定しておこう。まず、「自己決定」とは、「自己の事柄に関して、自ら決定すること」である。これに対して、「自己責任」とは、「自己の決定の結果に対して、自ら責任を負うこと」である。このように規定された自己決定と自己責任は、明らかに別の概念であり、概念上は明確に区分される。
 このように、自己決定と自己責任は、概念的には明確に区分されるにもかかわらず、通常連続して捉えられているが、こうした常識的理解の背景にあるのが「自業自得」の観念である。自分のした行為の報いは自分が受けねばならない。自分がまいた種は自分で刈り取らねばならない。自分で決めたことには自分で責任を負わねばならない。こうして、自己決定と自己責任は連続する。

3.二つの断絶

 自己決定と自己責任の断絶には、二つの種類がある。第一が、自己決定していないのに責任を負う場合であり、第二が、自己決定しているのに責任を負わない場合である。

 第一の場合として、集合的責任を挙げることができる。例えば、戦後世代の戦争責任である。戦後世代は、いかなる意味でも侵略戦争の開始を決定していないし、戦争犯罪の遂行についても何ら決定に参加していない。「戦後世代」の定義上、当然のことである。にもかかわらず、戦後世代も戦争責任の一端を担うと理解されている。少なくとも、罪と責任を区分した上で、責任については戦後世代も負うものと考えられている。つまり、戦後世代は、自己決定していないのに責任を負うと考えられているのである。このようなことがどのようにして正当化されるのかという問題は、非常に興味深い問題だろう。

 しかし、ここで考えてみたいのは、第二の場合、つまり自己決定しているのに責任を負わない場合である。このように自己決定しているのに責任を負わないような条件は、法律によってもいくつか規定されている。例えば、@自己決定に基づく行為であるとしても、故意又は過失がない場合には責任を負わない(民法709条など)。また、A詐欺・強迫による自己決定の場合にも責任を負わない(民法96条)。さらに、B責任無能力者は、自己決定したとしても責任を負わない(刑法39条・41条)。
 こうした考え方からすると、事例A・B・Cは、それぞれ@ABに該当するので、自己責任を問うのは妥当でなく、社会が支援の手を差し伸べるべきだということになる。こうした事例を説明する理由として、A・B・Cとも自己責任を問うのに十分な自己決定をしていないと主張することも可能である。つまり、A・B・Cは、自己決定があるのに責任を負わないのではなく、(十分な)自己決定がないから責任を負わないと考えるのである。このように考えれば、自己決定と自己責任を連続させる常識的発想は変える必要がないように見える。
 しかし、事例D・Eは、十全な意味での自己決定をしていると言える。そうだとすると、自業自得の観念に基けば、社会はこれらの人には手を差し伸べる必要はないという結論になるが、それは妥当だろうか。この問題を考えるためには、自己責任にはどのような意義があるのかという問題を考えなくてはならない。

4.自己責任の意義

 自己責任の意義として、さしあたり三つ挙げることができる。自由・平等・効率である。
 第一に、自己責任の原則によれば、責任を負う範囲は、自らが決定した結果に限定される。そのため、自らの意思によらずに責任を負わされるということがなくなり、自らの運命をコントロールすることが可能となる。この意味で、自己責任の原則は「自由」を保障する。
 第二に、自己責任の原則によれば、責任を負う範囲は、自らが決定した結果に限定される。裏を返せば、選択の余地のない属性、例えば人種・性別などの属性を理由として責任を帰属されることが否定される。端的に言えば、人種・性別などに基づく差別的取り扱いが禁止されることになる。この意味で、自己責任の原則は「平等」を保障する。
 第三に、自己責任の原則によれば、自らが決定した結果に対して責任が負わされる。通常、ある人のことを最もよく知りその人の利害に最も関心を持つのは、その人本人である。そのため、それぞれの人の幸福のためには、その決定を本人に委ねることが望ましい。自己責任の原則に依拠した制度では、各人は自らをより幸福にしようと努力するため、社会的に望ましい結果がもたらされる。この意味で、自己責任の原則は「効率」を促進する。
 このように、自己責任は、自由・平等・効率という重要な価値に内在的に連関している。したがって、自己責任が時代のキーワードとなり、改革の理念となるのも理由がないことではない。しかし、ここではやはり、自己責任と自由・平等との「連続」ではなく「断絶」に着目する。

5.自由と自己責任

 まず問題となるのが、自由と自己責任の関係である。自己責任の社会では、本当に自らの運命をコントロールすることが可能になるだろうか。
 ここでまず念頭に置かねばならないのは、現代社会が「リスク社会」と呼ばれる社会であるということである。リスク社会において、社会が複雑化・流動化・高度化しているため、行為の結果を予見できず、行為の結果も甚大なものとなりうる。例えば、原子力関連施設の場合、些細なミスでも大事故につながりうる。その場合に発生する被害は、およそ個人では引き受けることが不可能なほど甚大なものである。
 このように、予見の不可能性と被害の甚大性を特徴とする社会にあっては、自己責任の原則によって、自らの運命をコントロールできるという意味で自由であるとは言えないことになる。したがって、現代社会において、自己責任が自由を保障するとは必ずしも言えない。

6.平等と自己責任

 次に問題となるのが、平等と自己責任の関係である。自己責任の社会では、本当に差別が禁止されることになるだろうか。
 まず、「差別」とは、ある個体を、あるカテゴリーに属するという理由で、制度的・構造的に、そのカテゴリーに属しない個体より不利益に扱うことである。この場合のカテゴリーとしては、性別・身分・病気・障害・人種・民族・国籍・宗教・非婚などが挙げられる。
 ここで指摘しなければならないのは、「差別が問題であるのは、個人に選択できない生まれつきの属性によって不利益に取り扱うからである」というしばしばなされる主張は、間違っているということである。差別として問題となるカテゴリーとは、生まれつきの属性で本人に選択できないカテゴリーだけではない。本人が原理的に選択可能なカテゴリーであっても差別として問題となる。先の例示で言えば、国籍・宗教・非婚・(一部の)病気などの選択可能なカテゴリーであっても、それに基づく不利益取り扱いは差別である。さもないと、国籍差別・宗教差別・非婚差別などを批判できないことになる。
 例えば、エイズを巡る差別を例に取ろう。いわゆる「薬害エイズ」の問題を考える場合に、血友病患者は何の過失・落ち度もないにもかかわらずHIVに感染したのだから、差別してはならないという論理は、事例Eのように覚醒剤を使用した結果としてHIVに感染した人に対する差別を助長することになってしまう。つまり、過失がないから差別が不当だという論理は、自己責任の論理の正確な裏返しであり、覚醒剤を使用するような人が差別されるのは自業自得だという論理に直結しているのである。(同様のことが「不純な」性交渉によりHIVに感染した人に対する差別にも言える。)
 ここに見られるように、自己責任=自業自得の論理は、差別を批判する論理としては妥当でなく、自己責任が差別を禁止し、平等を保障するわけではない。むしろ、自己責任が差別を助長することさえある。差別を批判するためには、個体としての個人をカテゴリーとして不利益に扱うこと自体を問題としなければならない。

7.自己決定の意義

 以上のように、自己責任と自由・平等との間には断絶がある。では、自己責任と自己決定はどのような関係にあるのか。自己責任と区別された自己決定の意義とは何か。自己決定の意義としては、さしあたり三つ挙げることができる。
 第一に、道具的価値がある。ある人について、最もよく知り最も関心を持っているのは通常本人である。決定を他人や国家に委ねると、十分な知識と関心がないため、誤った決定を下す可能性が高くなる。したがって、本人のことは本人に決定を委ねる自己決定が、各人の幸福を達成するための手段・道具として最も効率的である。
 第二に、成長的価値がある。人は自己決定することによって成長することができる。人任せにせず、自分で考え自分で決定することで成長する。また、自己決定をした場合には、成功したときだけではなく、失敗したときにも成長する。人は自分で失敗して初めて学ぶことがある。自己決定していない場合には、このように自分の過ちから学ぶことはできず、成長もない。
 第三に、象徴的価値がある。他人ではなくその人自身が決定したということが意味を持つ場面がある。例えば、プレゼントである。プレゼントをもらってうれしいのは、その物が手に入ったからだけではなく、その人が私のために選んでくれたからである。たとえつまらないものであっても、その人が選んでくれたことがうれしい。仮にその人が選んでいなかったことが後になって判明したとすると、うれしさも半減する。同様のことが、人生の選択(例えば、職業の選択)にも言える。たとえうまくいかなかったとしても、本人が自分の生き方を決定したということが、結果には還元できない意味を人生に与える。自己決定には、結果には還元できない意義がある。
 以上の自己決定の三つの価値のうち、道具的価値は、自己責任の第三の意義である効率の価値と同一である。したがって、この点では、自己決定と自己責任を連続して捉える常識的理解も理由がないわけではない。

 しかし、成長的価値および象徴的価値は、自己決定に固有の価値であり、自己責任はこの価値を共有していない。自己責任が成長的価値および象徴的価値を持つように見えるとしても、自己責任が自己決定と連続して考えられているがゆえにそのように見えるだけであり、自己責任自体がこれらの価値を持つわけではない。したがって、この点で、自己決定と自己責任の間には断絶がある。
 さらに、自己決定と自己責任が矛盾することすらある。例えば、自己責任の原則を厳格に貫くと、成長の機会を奪うことにつながりうる。過ちから学んで成長するためには、やり直す機会を与えられることが必要であり、過重な自己責任はその機会を奪うことがあるからである。

8.結論

 以上のように、自己責任は、自由の価値とも平等の価値ともつながっていない。自己責任の中心的価値は効率である。効率は、重要な価値ではあるが、唯一の価値であるわけでもなければ、最も重要な価値であるわけでもない。自己責任が魅力的に見えるのは、自己責任を越えた価値内容を持つ自己決定と連続しているように見えるからである。
 しかし、自己決定と自己責任の間には断絶がある。自己決定を尊重する社会が、自己責任社会である必然性はない。「自己責任ブーム」の中で重要なのは、自己決定を尊重しつつ、自己責任の限界を認識することである。
 冒頭の事例について結論を言えば、事例A〜Eの全ての人に対して、社会保障などを通じた支援を行うべきであり、我々の社会はそうしてきたのである。


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