日本法哲学会編『<公私>の再構成 法哲学年報(2000)』, pp. 23-40.
(有斐閣、2001年)

公開性としての公共性

―情報公開と説明責任の理論的意義―

瀧川 裕英


はじめに

 本稿で私は、公共性を徹底的に「公開性」として捉えるべきであると主張する。そのためにまず、公共性に関して問われるべき問題を設定する(一)。次に、その問題に対して従来有力に主張されてきた二つの理論、すなわち、公共性を「公共的理由」として捉える理論と、公共性を「公共圏」として捉える理論を批判的に検討する(二、三)。その批判的検討において得られた知見をもとに、公共性を「公開性」として捉える理論を提出する(四)。最後に、このように公共性を公開性として捉える理論がいかなる実践的含意を持つかという点について、情報公開と説明責任の理論的意義を明らかにすることで、その課題に応える(五)。

一 問題設定

1 いかなる問題なのか?

 現代社会においては公と私の関係が曖昧になっており、その関係を再編成する必要があると言われるとき、それはどのような意味で言われているのであろうか。そこで問われている問題を、例えば、公的主体を国家、私的主体を個人・家族と前提とした上で、教育・介護といった問題をどのように役割分担していくのか、という問題であると捉えるのであるならば、問題を正確に把握しているとはいえないだろう。なぜなら、現在問われている問題は、国家=公的主体、個人・家族=私的主体といった図式に再考を迫るような問題であり、国家が公的であり個人・家族が私的であると、どのような場合にいかなる意味で言えるのか、という問題こそが問われねばならない問題だからである。
 したがって、問われるべき問いは、そもそも「公的であるとは何か」、「私的であるとは何か」という二つの問いである。本稿では、前者の問い「公共性とは何か」という問いを中心的な問いとする。すなわち、まずは「公共性」について徹底的に問い、公共性には汲み尽くすことのできない余剰として「私性」を浮かび上がらせることにしたい。

2 公共性の現代的問題

 夙に言われるように、公共性概念は非常に多義的である。それは、公共性にまつわる問題が非常に多様であることに起因する。そこで、公共性に関連する現代的問題の一端を、2000年度日本法哲学会統一テーマとの関連で、家族・市場・ネットワークに即して簡潔にみておきたい。
 まず、家族との関連で言えば、第一に、育児と介護の問題がある。介護保険制度は、介護を家族化(=私化)しないで、社会化(=公化)するための制度である。しかし、介護する家族への現金給付をめぐる議論に見られるように、介護をどの程度公的問題とし私的問題とするかをめぐっては様々な意見がある。また、家族だけでは遂行困難な介護を社会全体で支え合うという発想を育児にも適用すれば、「育児の社会化」を語ることになる。育児が女性の社会進出に障害となっていることや児童虐待の現状からすれば、それは不可避の要請であるが、育児の社会化ということでどのような制度を構想するかについては介護以上の意見の対立があるだろう。第二に、「法は家庭に入らず」の見直しがある。民事不介入原則ならびに「法は家庭に入らず」の原則は、近代的な公私二分論を基礎にしているが、家庭内暴力(DV)や児童虐待の問題によって、原則の見直し少なくとも原則の再解釈が要請されている。ここでは、従来私的問題とされたことが公的問題となっている。

 次に、市場との関連で言えば、従来「私企業」と呼ばれ、私的主体として捉えられてきた企業が、「社会的責任」を担うべく要請されていることを挙げることができる。すなわち、企業は単なる私的主体ではなく、公的主体でもあるといえるが、それはどのような理由でどの程度そうなのか。

 さらに、ネットワークとの関連で言えば、ネットワークの形態をとるボランティア活動をめぐる問題がある。2000年夏に教育改革国民会議が「奉仕活動の義務化」を打ち出したが、それに対しては様々な批判がある。その場合、奉仕活動が「滅私奉公」であり「動員型社会」につながる危険性があるから問題なのか、「奉公」自体は望ましいことだが義務化だから問題なのかは、重要な分岐点である。また、その場合「公」をどのようなものと捉えるかをめぐっても意見の相違がある。

 他にも、公共事業や公益法人はいかなる意味で公共的であるのか、また公共的であるべきなのかなど、公共性をめぐる現代的問題は様々あるが、いずれにも共通するのは、「公私の相互浸透」にともなう公私の弁別の困難性である。この「公私の弁別問題」こそが公共性をめぐる根本問題である。そして、この弁別問題には、@「主題(問題)(ある主題が公的問題か私的問題か)」、A「「理由(ある理由が公的理由か私的理由か)」、B「空間(ある空間が公的空間か私的空間か)」、C「利益(ある利益が公益か私益か)」、D「主体(ある主体が公的主体か私的主体か)」の五つの問題がある。

3 公共性の要請

 このような公私の弁別問題に回答を与え、ひいては「公共性とは何か」という問いに答えるためには、そもそも「なぜ公共性が必要なのか」を考察しなければならない。なぜなら、問いを問う理由が、問いに対する答えの方向性を規定するからである。この点に関して、本稿では、「公共性が要請されるのは、共生すべき異質な他者が存在するからである」という前提から出発する。これを多元主義の前提と呼ぶことができる。この問題意識は、政治的権力の行使が正当であるためには公共的理由が必要であると考えるロールズの議論や、「公共性の哲学」としてリベラリズムを構想する井上達夫の議論に通底するものである。

 このように公共性が要請される状況を、現代日本社会が抱える問題との関連で言えば、「透明性の欠如」・「共同性の跋扈」である。すなわち、公共性でなく共同性が支配する空間においては、密室・馴れ合い・談合などの言葉で言い表されるような透明性を欠いた決定過程で、異質な他者を排除した共同体内部の身内にのみ通用する理由をもとにした決定がなされてしまう。したがって、結論を先取りして言えば、透明性を確保すること、すなわち第三者の到来によって、共同性に還元されない公共性を確保することが喫緊の課題なのである。

 このような意味で要請される公共性を、どのように捉えるかという問題に対して、従来大きくいって二つの理論がある。第一は、ロールズに代表されるように、公共性を公共的理由の観点から捉える理論である。第二は、ハーバーマスに代表されるように、公共性を公共圏の観点から捉える理論である。以下では、それぞれの議論を順に批判的に検討する。

二 公共的理由(Public Reason)

1 ロールズの公共的理由論(Rawls 1996, Rawls 1999)

 ロールズの問題関心にとって、公共性が要請されるのは、政治的権力の行使の正当性が問題になる場合である。政治的権力行使の正当化に際して援用可能な理由が公共的理由であり、このことを、政治権力の正当化実践において援用可能な理由には、公共的理由の制約が課されると表現することができる。

 全ての理由が公共的理由であるわけではなく、公共的理由は、非公共的理由と対比される[*1]。まず、非公共的理由とは、教会・大学・科学者集団・専門家集団内部の議論で援用される理由である。こうした集団内部での理由付けは、その構成員にとっては公共的であるが、政治社会・市民にとっては非公共的である。こうした集団は複数あるのに対し、政治社会は単一であるので、非公共的理由(の集合)は複数あるのに対し、公共的理由(の集合)は単一である。

 この非公共的理由との対比すると、公共的理由は、次の三つの限定によって性格づけることができる。
 第一が、主体の限定である。公共的理由は公衆(the public)の理由である。すなわち、公共的理由の制約は、公共の場における政治的議論に参加する場合の市民(政党員・候補者を含む)、および公職保有者(立法者・行政官・裁判官)に課されるのであり、個人的な熟慮や教会・大学などの組織には課されない。
 第二が、内容の限定である。公共的理由の内容は正義の政治的構想によって与えられるが、それには@基本的権利・自由のリスト、Aそれらの権利の一般善に対する優先性、B自由を実質化するための手段の保障の三つが含まれる。
 第三が、主題の限定である。公共的理由の制約は、全ての政治問題に課されるわけではなく、憲法の本質と基本的正義の問題のみに課される。したがって、例えば、誰に投票権が与えられるかという問題については公共的理由の制約が課されるが、芸術振興にどの程度税金を投入するかという問題については公共的理由の制約は課されない。

 こうした公共的理由の範例が最高裁判所である。公共的理由のみが、裁判所が援用可能な理由だからである。そのため、自らが公共的理由に従っているかを判断する方法として、「最高裁の意見の形式で提示された場合に筋の通った議論となるように述べよ」という「最高裁の命法」を考えることができる。

2 公共的理由論の意義

 このように公共性を公共的理由の観点から捉える議論は、次の二つの点で重要な意義を持つ。
 第一は、公益との関係である。既に述べたように、何が公益で何が私益かを巡る「利益の弁別問題」は公共性論の根本問題であり、さしあたり利益の公共性は理由の公共性を構成するということができる。すなわち、ある行為が公共的に利益をもたらすのであれば、その行為を行う公共的理由が存在するということができる。このような規定において重要なのは、公益がいわゆる「公共の福祉」に還元できないという点である。公共の福祉は一般に個人権と対比して語られるが、公共的理由の内容として基本的権利・自由のリストがあげられていることから明らかなように、個人権を守ることは私益のみならず公益でもあり、公共的理由を構成する(Raz 1986)。例えば、私有財産を保護する諸制度の存在は公益である。公共性を公共的理由の観点から捉える議論は、ある制度が一次的にある個人の利益となることを越えて、一次的利益にならなくともある制度を維持することが公共的理由を構成することの洞察を与えてくれる。
 第二は、公的主体の関係である。何が公的主体で何が私的主体かを巡る「主体の弁別問題」に関して、公共性を公共的理由の観点から捉える議論からすれば、公的主体とは、公共的理由を援用すべき主体・援用できる主体である。反対に、公共的理由を援用できない主体は、公的主体とは見なされない。 すなわち、公共的理由を援用しない場合には、国家といえども公的主体ではないのであり、国家=「官」と「公」を同一視する理由は存在しない。したがって、国家のみを、公的問題の解決を独占する公共性の担い手と捉える必要はないのであり、家族・会社・地域社会なども公共性の担い手となりうる。

3 公共的理由論の問題点

 しかし、こうした公共的理由論、特にロールズの提示する公共的理由論に対しては、公共的理由の三つの規定(主体・内容・主題)に対応して、次の三つの問題点を指摘することができる。

 第一の問題点として、主体の狭隘性がある。ロールズは、公職保有者及び政治的議論に参加する市民に対してのみ公共的理由の制約が課されるとし、教会・大学などの組織内部では公共的理由の制約は課されないとする。しかし、企業・大学などの組織内部における公的問題に関する議論が公共的理由の制約に服さなくてよいと考えるべき理由は何ら存在しない。むしろ、中間集団内部の議論慣行が、個人を抑圧したり普遍化不可能な理由に依拠している場合には、公共的理由の制約を課すべき重要な理由が存在していると言える[*2]。

 第二の問題点として、内容の不確定性がある。公共的理由の内容としては、端的に言えば、人権規定及びそれを具体化するための制度規定としての憲法が想定されている。そのため、憲法解釈がそうであるように、「何が公共的理由であるか」も複数の解釈に開かれている。したがって、公共的理由の内容を確定するためには、結局は公共圏における討議に委ねざるをえない。

 第三の問題点として、主題の曖昧性がある。これは、何が公的問題で何が私的問題であるかを巡る「主題(問題)の弁別問題」に該当する。一般に、公共的理由が必要とされるのは、公的問題に対してである。すなわち、ある主題が私的問題ではなく公的問題であるがゆえに、公共的理由が必要とされるのである。しかし、公的問題と私的問題の自然でアプリオリな境界は存在しない。例えば、家庭内暴力(DV)・児童虐待などの問題は、以前は「法は家庭に入らず」のイデオロギーにより私的問題であったが、今や公的問題として捉えられている。介護の問題・犯罪被害者の心のケアの問題も同様である。

 したがって、何が公的問題であるかは、事前に自明なものとしてリスト化しておくことはできないのであって、公共圏における討議を経ることで事後的に確認されると考えねばならない。ある問題がかつては公的問題でないとしても現在は公的問題であることを他者に説得する機会は、公共圏の存在によって積極的に保障される(Frazer 1990)。例えば、新しい人権を求める訴訟やいわゆる現代型訴訟は、法廷という公共圏で主題の弁別問題を問うていると考えることができる。

 以上の問題点、特に第二・第三の問題点を踏まえれば、公共的理由論は不十分であり、公共的理由・公的主題とも、公共圏において決めざるをえないこととなる。そこで次に、公共性を公共圏の観点から捉える理論を検討する。

三 公共圏

1 空間の公共性

 公共性を公共圏という空間として捉える理論は、アレント・ハーバーマスなどによって提示された理論であり、「公共圏論」と呼ぶことができる。公共圏論における「空間」とは、仕切られた一定の場所・圏域という意味での「物理空間」ではなく、一定のコミュニケーションが流通しているという意味での「コミュニケーション空間」である。すなわち、一方で、通常公共圏の一つと考えられる議会といえども、そこで行われるコミュニケーションによっては私的空間となるし、他方で、通常非公共圏の代表と考えられる家族であっても、そこで行われるコミュニケーションによっては公的空間となる(Rawls 1996)。

 公共圏は通常「親密圏」と対比して用いられるが、この公共圏を規定する方法としては、三つの考え方がある。
 第一が、コミュニケーションの「主題」によって規定する考え方である。この考え方によれば、人々の間にある「共通問題」への関心によって成立するのが公共圏であり、「具体的な他者の生/生命」への配慮・関心によって形成・維持されるのが親密圏である(Habermas 1990,斎藤 2000)。
 第二が、コミュニケーションの「理由」によって規定する考え方である。この考え方によれば、コミュニケーションにおける理由として、普遍性を核心とする「正義(justice)」が援用されるとき、そのコミュニケーション空間は公共圏であり、個別性を核心とする「愛(care/love)」が援用されるとき、そのコミュニケーション空間は親密圏である。
 第三が、コミュニケーションの「公開性」によって規定する考え方である。この考え方によれば、コミュニケーションが公開されている場合に成立するのが公共圏であり、コミュニケーションが集団内部で閉鎖されている場合に成立するのが親密圏である。
 後述するように、第三の考え方を基本に据えるべきである。

2 公共圏論の問題点

 さしあたりこのように規定される公共圏は、近時様々な場面で非常な注目を集めており、「市民社会」論とも呼応して、その存在意義が再評価されている。特に、「東欧革命」は、公共圏論に現実的基礎を提供したし、様々な市民運動・ネットワークの活動は公共圏論と相乗効果をもたらし、新たな公共性を切り開くものとして期待されている。

 しかし、ここでは公共圏論の意義ではなく問題点に着目する。公共圏論の問題点は大きくいって二つに分けることができる(Frazer 1990)。公共圏の外部に対する問題と内部に対する問題である。外部関係の問題を「競合問題」、内部関係の問題を「排除問題」と呼ぶことができるだろう。

 まず、競合問題とは、公共圏とその外部にある空間との競合に関する問題である。問題の側面は二つある。

 第一は、公共圏の「量」の問題である。『公共性の構造転換』におけるハーバーマスや『人間の条件』におけるアレントのように、従来公共圏は一元的で単数であると想定されてきた。そのため、「新しい社会運動」のような新たな公共圏生成の動きを過小評価するという問題点を内在させていた。したがって、「対抗的公共圏counterpublics」を含めた複数の公共圏が協調・競合しつつ存在しているとする「公共圏の複数性」の認識は、適切な現状認識のためだけでなく、より豊かな公共圏の理解のためにも不可欠である。

 第二は、公共圏の「質」の問題である。これは、公共圏の複数性を前提とした上で、いかなる質が公共圏に要求されるかという問題である。先に挙げた「主題」によって公共圏を規定する考え方によれば、人々の間にある「共通問題」への関心によって公共圏は成立するので、共通の問題を抱く個人が自発的に結合すれば公共圏であることになる。しかしこれでは、人種差別的・極右的ネットワークやカルト教団なども公共圏であることになってしまう。したがって、公共圏を規定する際には、対抗的公共圏を排除しないような緩みを持たせつつ、公共圏に一定の質を要求する理論構成が必要となる。その方法としては、「公開」によって規定する考え方が有効である。

 次に、排除問題とは、公共圏内部における排除に関する問題である。問題の側面は二つある。

 第一は、「主体」の排除である。公共圏は、公開性・接近可能性を理念とするにもかかわらず、多くの人々を排除しており、その排除は単なる歴史的偶然でなく公共圏の本質的構成要素をなしてきた。ハーバーマスが記述するように、市民的公共圏の萌芽たる文芸的公共圏は、「教養と財産がある限り」を参加のための条件としていたし、文芸的公共圏の典型とされる「コーヒーハウス」は基本的に女性が排除されていた(Habermas 1990:93)[*3]。排除の中心を構成してきたのは主としてジェンダーであるが、それ以外にも国籍・コミュニケーション能力・特定の言語能力・財産・余暇・情報リテラシーなどによって、公共圏から排除されることがありうる。

 第二は、「主題」の排除である。いわゆる「公私二元論」は公共圏における討議主題から私的主題を排除し公的主題に限定する。問題は、何が私的主題とされ何が公的主題とされるかである。例えば、「主体の排除」が解消されて女性も公共圏での討議に参加可能となったとしても、介護が家庭内問題であり私的主題であって公的主題ではないとする「主題の排除」がなされる場合には、介護負担を現に担っている女性は実質的に公共圏から排除されることになる。したがって、主題の排除は、主体の排除が解消された後も重大な問題となる。同様の問題は、正義と善を前もって区別し、公共圏における討議の主題を正義の問題に限定するタイプのリベラリズム論にも存在する。こうした問題に対しては、公と私、正義と善の区別は事前に存在するのではなく、いかなる主題に対しても開かれている公共圏における討議を経て、事後的に現出してくると考えねばならない。

 要するに、主体の排除に対しては主体の公開性が、主題の排除に対しては主題の公開性が要請されると言える。
 以上のような公共圏についての批判的考察が示しているのは、公開性こそが公共性の中核的理念であるということである。

四 公開性

1 公共性と公開性

 公開性が公共性の中核的理念であることは、既に予想されていたことである。現実レベルで言えば、例えば、1989年の東欧革命においては、グラスノスチ=情報公開が決定的な役割を果たしたことは夙に指摘されている。これは情報公開によって公共圏が成立したと考えることができる。同様に、2000年のユーゴにおけるミロシェビッチ政権崩壊において、インターネットやラジオ放送が重要な役割を果たした。また、語源レベルで言えば、「Oeffentlichkeit(公共性)」は「offen(公開する)」から派生している。

 思想史上、公開性の理念を明確に規定したのはカントである。カントは『永遠平和のために』において「公法の超越論的公式[*4]」を提示した(Kant 1795)。その否定定式は、「他人の権利に関する行為で、その格率が公開性と一致しないものは、全て不正である」であり、肯定定式は「公開性を必要とする全ての格率は、法と政治の両方に合致する」である。これとの関連で、「正義は、ただ公に知られるものとしてのみ考えられうる」、あるいは「正義は単に行われねばならないだけではなく、目に見える形で行われなければならない」という法諺を想起することもできるだろう。

 アレントは、『カントの政治哲学講義』において、カントの洞察を活かしつつ公共性と公開性の連関についての考察を深めた。アレントによれば、「公共圏は、行為者や制作者ではなく、批評家や観察者によって構成される」(Arendt 1982)。すなわち、公共性は、当事者の営為が第三者に公開されることによって立ち上がってくる。逆に言えば、第三者に公開されていない閉鎖的な領域においては、いかに当事者が公共性を標榜した実践を営んでいても、公共性は現出しない。

 何が公的問題であり、何が公共的理由であるかを最終的に決定するのは、問題当事者ではなく、第三者である。当事者は、問題の公共性ならびにその問題に援用可能な公共的理由についての自らの主張を、相手方当事者のみならず、いやむしろ第三者に対して訴えかけ公共的に受容されるよう行為する。例えば、現代型訴訟の外部効果とは、こうした事態を指し示している。
 以上のことを端的に言えば、公共圏とは第三者のいる空間である。このような公共性を共同性と対比すれば、次のように言うことができるだろう。「共同性は二人から始まり、公共性は三人から始まる」と。

 こうした第三者への公開は、通常次の二つの効果を生む。
 第一は、内部効果である。公開なき当事者間のみの議論はよどみを生じるし、一方当事者に偏在する権力が跋扈することになる。議論を第三者に公開することは、こうした弊害を除去し、援用可能な理由を制約することで、議論の質を向上させうる。
 第二は、外部効果である。議論当事者はたとえ相手方当事者を説得できなくても、議論が公開されていることで、聴衆である第三者に対して影響を与えることが可能となる。また逆に、外部からのフィードバックも期待できる。

2 第三者

 以上の考察から明らかになるのは、公開性が公共性の基本理念であり、当事者ではない第三者への公開が公共性生成のための不可避の条件であるということである。この公開性論にとって決定的に重要なのは、「第三者とは誰のことか」という問いである。

 このように第三者への公開に着目する理論は、公開性の程度によって公共性の程度を計測することを可能にする。すなわち、公共性の程度Pは、誰xに対して公開Oされているかによって決定される(P=O(x))のであり、たとえば収入・地位・性・国籍・時代などのどのような属性の者に公開されているかによって計測することができる。

 歴史は、国家の意思決定に関していえば、収入・地位・性などの属性への公開性は増したことを教えてくれる[*5]。このように公共性の程度が通時的に変化するということは、逆に言えば、現在の公共性が、次の瞬間には共同性に転化する危険性を孕んでいるということである。このことに注意を促しているのが、カントの公共性論である。

 『啓蒙とは何か』において、カントは理性の私的使用と公的使用を区別している(Kant 1783)。理性の私的使用とは、公民としての立場で、あるいは公職者は公職の立場で自らの理性を使用することである。教会の伝道者が、教区の信者たちを前にして自らの理性を使用するのは、教会の会衆がいくら大勢であっても所詮は内輪の集まりに過ぎないから私的使用である。これに対し、理性の公的使用とは、学者として読者世界の全公衆の前で自らの理性を使用することである。換言すれば、世界市民的社会の一員として自らの理性を使用した場合にのみ、公的使用となる。このカントの議論を本稿の立場から解釈すれば、たとえ公的な立場で議論したとしても、それはあくまで理性の私的使用に過ぎないのであり、理性の公的使用といえるためには、内輪の集まりでない全ての公衆の前で議論しなければならないということである。すなわち、完全なる公共性のためには、「最も遠い第三者」への公開が不可欠であり、この「第三者の理念性」をカントは示唆している。

五 情報公開と説明責任

1 公開性の位相

 公共性を公開性として捉える理論が指し示すのは、いわば音(=声)ではなく光によって実践を変革する可能性である。ここでは、情報公開と説明責任に焦点を絞る。

 まず基本的な事項として、公共性を公開性として捉える理論からすれば、公共的なものだから情報公開するのではなく、情報公開によって初めて公共性が生まれたと考えねばならない。すなわち、さしあたり公開性なき公共性は存在しないと理解しなければならない。したがって、公共性を確保するためにいかに公開性を確保するか、その公開性をいかなるものとして理解するかが極めて重要な問題となる。

 理論的には広義の公開性・情報公開は、事実=情報の解釈権者の区別によって三つのレベルに分けることができる。
第一は、情報提供である。これは情報提供者によって事実が解釈される場合である。具体的には、情報提供制度・情報公表義務制度がこれに該当する。
 第二は、情報公開(狭義)である。これは生の事実が開示される場合である。具体的には、情報公開請求権に基づく情報公開制度がこれに該当する。
 第三は、説明責任にいう説明である。これは問責者によって事実が解釈される場合である。説明責任が果たされたと言えるのは、問責者の解釈枠組みにおいて情報が整序された場合である[*6]。

 情報公開と説明責任は通常その関係が曖昧に用いられており、ほぼ同等の内容として考えている論者も多い。しかし、理論的には以上のように区別することができるのであり、このことは重要な含意を持つ。
 第一に、一方的な情報提供は説明責任の遂行を意味しない。なぜなら、情報量の増加は知識・理解の増加を意味せず、むしろ過剰な情報は知識・理解を減少させるからである。適切な理解のためには、情報を提供された者の解釈枠組みにおいて情報が整序される必要がある。したがって、情報提供者の解釈枠組みに依拠した情報提供を行ったとしても、説明責任を遂行したことにはならない。
 第二に、情報公開も説明責任の遂行を意味しない。情報公開とは、情報提供者・情報請求者のいずれの解釈も受けていない生の事実が開示されることであり、情報の開示が情報の請求によって行われているとしても、問責者の解釈枠組みにおいて情報が整序されることを要求する説明責任にいう説明とは異なる。説明責任では、相互コミュニケーションによって相互の解釈枠組みの調整が行われるのに対し、情報公開ではそのようなコミュニケーションは存在しないからである。

 このような情報提供・情報公開と説明責任の乖離を典型的に示すのが、インターネットである。非対面性・匿名性を特徴とするインターネットは、全ての人にとってアクセス可能であるという点で公開性を持つが、非対面性・匿名性ゆえに説明責任は弱まる。通常情報公開が説明責任につながるのは、両者を媒介するものとして、誰かに問われたならば応答せねばならないという「根源的責任」が想定されているからであるが、インターネットの非対面性・匿名性は、根源的責任を曖昧化するのである[*7]。

2 公共性の制度化

 このような「公開性としての公共性」の重要性の認識は、公共性を担保するための様々な公開制度を創出してきた。司法の公共性を確保するための裁判の公開、立法の公共性を確保するための議会の公開(さらには委員会・審議会の公開)が典型であり、それぞれ興味深い論点を含むが、ここでは行政の公共性を確保するための情報公開法(2001年4月施行)について、二点だけ指摘しておきたい。

 第一は、国民主権と公共性の関係である。情報公開を国民主権原理(国民の自己決定)から説明する見解がある(参照、情報公開法第一条)。しかし、外国に住む外国人も情報公開請求権を持つことからすれば(情報公開法第三条は請求権者を「国民は」でなく「何人も」と規定する)、国民主権原理ではなく、公共性の確保の観点から説明されねばならない。すなわち、今日の国家行政においては、単に国民に対してのみならず外国人に対しても一定の公共性が要請されることが示されていると捉えるべきである。国民主権原理からは、理論的には、情報公開請求権を持つのは国民だけであるということになるはずである[*8]。

 第二は、不開示情報に関するものである。情報公開法第五条は、公開の例外として、@個人情報、A法人情報、B国の安全情報、C公共の安全情報、D審議・検討などに関する情報、E事務・事業に関する情報の六項目を列挙する。公共性を公開性として捉える理論からすれば、公開の例外とは公共性と対立する価値を意味するので、そのような価値とは何でありどのように正当化されるのか、法律に規定された六項目は価値論的にはどのように位置づけられるのかが、極めて重要な関心事となる。ここでは、そのような価値として二つ指摘しておきたい。
 第一は、「私的なるもの」である。これは、公共圏=「光」への参加を育む「闇」である。公共圏へ参加すべく成長するためには、安全な隠れ場所が必要であり(Arendt 1968:186)、個人のプライバシー・準備段階の調査研究などがこれに当たる。
 第二は、「政治的なるもの」である。これは、ある公共圏を侵害する可能性のある「敵」に対して公共圏=「友」を守るための「壁」である。国家機密・公安情報・監査情報などがこれに当たる。

 ここで重要なことは、二点ある。
 第一に、公共性=公開性の例外は、公共性への参加醸成(=私的なるもの)・公共性の防壁形成(=政治的なるもの)いずれにしても、公共性に資するものとして位置づけられているという点である。公共性の例外は、公共性と完全に独立した価値なのではない。
 第二に、公共性=公開性の例外は、公共的にすなわち公開の討議において決定されねばならないという点である。公共性の例外を、非公共的に決定することは許されない。この二つの意味で、「公共性の例外は公共的である」という逆説を語ることができる。

おわりに

 以上、公共性をさしあたり徹底的に公開性として捉えるべきであるという主張を提出した。結局、「開かれた社会」か「閉じられた社会」かいずれを選択するかという問題であり、私が提示したのは、前者を選択すべき論拠とその含意である。


<主要参考文献>

(翻訳のあるものは、適宜参照させていただいたが、紙幅の制約から省略した。)
Arendt, Hannah, 1958, The Human Condition, The University of Chicago Press.
Arendt, Hannah, 1968, Between Past and Future, Viking Press.
Arendt, Hannah, 1982, Lectures on Kant's Political Philosophy, The University of Chicago Press.
Benhabib, Seyla, 1992, Situating the Self, Routledge.
Calhoun, Craig(ed.), 1992, Habermas and the Public Sphere, The MIT Press.
Frazer, Nancy, 1997, Justice Interruptus, Routledge.
Habermas, Jurgen, 1990, Strukturwandel der Offentlichkeit, Suhrkamp.
Kant, Immanuel, 1783, Beantwortung der Frage: Was Ist Aufklarung (Immanuel Kant Werkausgabe XI, Suhrkamp,1996)
Kant, Immanuel, 1795, Zum Ewigen Frieden (Immanuel Kant Werkausgabe XI, Suhrkamp,1996)
Rawls, John, 1996, Political Liberalism, Columbia University Press.
Rawls, John, 1999, Collected Papers, edited by Samuel Freeman, Harvard Univesity Press.
Raz, Joseph, 1986, The Morality of Freedom, Oxford University Press.
斎藤純一, 2000, 『公共性』, 岩波書店.


[*1] これに対して、私的理由は存在しない(Rawls 1996:220)。
[*2] ここでいう中間集団には、家族・企業・学校・政党・組合・宗教団体・協同組合・NGO・NPOなどが含まれる。特に、国家の機能を代替・監視することが期待されているNGO・NPOなどの市民団体に対しては、その役割を十全に果たすためにこそ情報の公開が要求される。
[*3] ハーバーマス自身、1962年の『公共性の構造転換』公刊時でそのような記述をしているにもかかわらず、フェミニストなどからの批判を受けるまでそれを問題化できなかったところに限界がある。
[*4] もちろんここにいう「公法」は、規範の対象による区分である今日の意味での公法ではなく、規範定立者による区分である。
[*5] もっとも、国籍・時代(将来世代)などの属性への公開性はあまり変わっていない。
[*6] もっとも、問責者の解釈枠組みを所与と考える必要はなく、むしろコミュニケーションの過程で変化しうることが規範的に要請される。
[*7] これに対し、初期のインターネットは、個人の実名性が確保され、責任の所在が明らかにされていた。
[*8] 外国人にも請求権を与えたのは単に政策的配慮であるとの説明もあるが、国民・外国人を含めて公共性の確保の観点から統一的に説明すべきである。


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