『法律時報』2003年7月号, pp.13-19
(日本評論社、2003年)

集合行為と集合責任の相剋

―群馬司法書士会事件における公共性と強制性―

瀧川 裕英


この論文には、長谷部恭男教授(東京大学・憲法学)と西原博史(早稲田大学教授・憲法学)からコメントをいただいています。

◇長谷部恭男「法哲学の襲来―全般的コメント」
 『法律時報』2003.7(特に、pp. 43-44)
◇西原博史「裁判における『公共性』の位相―瀧川論文へのコメント」
 『法律時報』2003.7(pp. 49-50)

判例解説を書くのも初めてだし、『法律時報』が出版されるまでコメントの内容も分からなかったので、期待と不安がないまぜになっていたのですが、いずれのコメントも、私の論文の意義を承認した上で批判するという、願ってもないコメントになっています(自分に都合よく捉えすぎ?)。

何の面識もない(長谷部教授に対してはこちらから一方的な面識を持っているけれども)若手研究者の論文に対して、貴重なコメントを書いて下さったことに多大な謝意を示しつつ、両コメントに対する私の意見を記しておきます。


長谷部コメントに対して:

長谷部教授のコメントは、私の論文に対して概ね好意的な評価をしつつも、強制加入団体問題の処理の仕方について批判を行うものである。その批判は次の2点にまとめることができる。

第1点:

「強制加入団体であるか否かは、決議に対する協力義務の存否を考える際の決定的論点ではないと瀧川は主張している。その主張の論拠として瀧川が提示しているのは、強制加入の程度が強い国家でも、法律が議会の多数決で成立すれば国民には法律への協力義務が生じるという点である。しかし、議会の多数決によって成立した法律であっても、基本的人権を侵害するような法律は違憲無効であり、国民は遵法義務を負わないはずである。その理由は、国家は強制加入団体としての性格が極めて強いからである。したがって、強制加入団体か否かは、構成員の協力義務の決定的論点である。」

しかし、このコメントは、単純な誤解に基づいているのではないか。

論文で明示しているように、私はいわゆる二段階説を採用している。つまり、「ある団体活動が当該団体の目的の範囲内であるか」を第一段階として検討し、それが肯定される場合に、第二段階として「当該活動に対して構成員は協力義務を負うか」を検討する。
これを国家に当てはめれば、第一段階では、ある国家活動が目的の範囲内であるか、すなわち「憲法に適合するか」を検討し、それが肯定されると、第二段階の検討に移ることになる。つまり第二段階の検討は、憲法適合性の審査を一応クリアして初めてなされるのである。
したがって、この段階では「違憲無効であれば遵法義務を負わない」という論点は、論理的には出てこない。真の論点は、「合憲の法律に反対する少数派は遵法義務を負うのか」という論点である。この論点に対して一般的に肯定的な回答が与えられている以上、強制加入団体であることは協力義務を否定する決定的論拠にはならない、というのが私の議論であった。

第2点:

「瀧川の主張によれば、『目的の範囲』の問題は全員一致の限界の問題であり、構成員の協力義務の問題は多数決の限界の問題である。この主張は理論的には正しいが、実際上はそれほど意味がない。なぜなら、全員一致の限界の問題は、国家の場合も国法に基づく強制加入団体の場合も、実際上は問題にならないからである。たとえば司法書士会が全員一致の議決を行えば、その法的効力を争うことは考えにくい。」

しかし、このコメントも、首肯しがたい。

論文で明示しているように、「目的の範囲」の問題は、少数者の保護の問題ではなく、公益性の保護の問題である。つまり、「目的の範囲」の問題とは、全員一致で決議を行っても、その外部の他者がその決議の公共性に疑義を唱えることができるという問題である。例えば、司法書士会が全員一致で高額の着手金協定を議決した場合には、その決議の公共性を外部の他者が問題化できるはずである。したがって、全員一致の限界の問題は、実際上も問題になりうるし、問題にすべきなのである。


西原教授のコメントに対して:

西原教授のコメントは、私の判例解説よりも「法哲学的」である。私の法哲学的位置と西原教授の法哲学的位置の対比が明確に指摘されており、自分の位置を確認できた点で、私にとって非常に有益なコメントであった。
私と西原教授の差異は、裁判所の公共性判断に対する評価の違いである。私が、裁判所の公共性判断に期待するのに対し、西原教授は、裁判所の公共性判断の恣意性に警戒する。
ここでは、「批判の機能」という観点から、次のように主張しておこう。

私的自治を前提とすることについて、私も異論を唱えるつもりはない。
しかし、当事者の意見が対立し「私的自治」が不可能になったときに、それでも団体の自治を喧伝することが妥当であるとは思われない。むしろ、恣意性の問題を考慮に入れつつも、裁判所の公共性判断に訴える方が望ましい。なぜなら、「団体の自治」では、そこで批判過程が終結してしまうのに対して、「裁判所の判断」では、さらにそれに対する批判過程が継続するからである。批判を超越した権力は、可能な限り定立すべきではない。
裁判所の判断に対しては、多様な形態の批判過程が存在しうる。裁判の公開や、国民審査、法律家集団による批判などである。裁判所の「公共性」判断に対しては、法律家集団があるべき「公共性」基準を定立し、その基準に反する判断に対しては批判を行えばよい。そのような批判は実効的には無意味であると言われるかもしれない。しかし、そうであるとすれば、およそ判例評釈などというものは無意味になるだろう。
言論に対する期待を込めて書かれたのが、私の論文であった。


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