2000.5.15 瀧川ゼミ 第4回 担当:武部、松木 ロナルド=ドゥオーキン『ライフズ・ドミニオン』 第3章「神聖さとは何か?」後半「悲劇」の判断基準(p138〜)◆保守派とリベラル派の一致点−−「悲劇」には程度があるのか?(P138)保守派もリベラル派も、人間の生命の破壊の悪性には程度があると考えている。 彼らが論じている問題は、人々が持つべき様々な種類の生きる権利とはどのような権利か、あるいは彼らを殺すことがどの程度相対的に悪なのかに関するものである。 ◆悲劇と正義の違い(p139) 我々は様々な状況でおこる生命の破壊、したがって、生命の不可侵性に対する侮辱をどのように判断し、比較すべきなのだろうか? ◆悲劇に関する二つの判断基準−−「喪失」と「挫折」(p140) 喪失されたという生命の悪を測定するとき、我々は生命の喪失の質を考慮せずに、その期間のみを考慮すべきか?あるいは質も同時に考慮すべきか? ◆生命の「喪失」という単純な考えは、人々の深い信念に矛盾する(p141) 上記の見解は以下の二つの根拠によって受け入れがたくなる。 @生命の破壊を年代的観点のみで測るなら、初期の中絶は後期の中絶よりも人間の生命破壊にとって悪となるが、ほとんどの人の信念はこれとは異なる。同様にこれらの人の信念は生命喪失の質や他者にとっての生命の価値を全く前提としていない。 A生命の破壊は、過去に起こってしまった出来事によってしばしばより大きく、より悲劇的なものになるという重大な真実を無視している。 ◆生命の「挫折」−−より複雑な考え(p143) 人生の過程が挫折させられる(=過去と未来の結びつきがなくなる)時、人生の物語を作り上げている自然と人間の想像的な努力の投資が破壊される。これがどれほど悪なのかは、人生のどの時期に挫折が起こるかによる。 ◆生命の「挫折」−−人々が共有する確信(p144) 妊娠第一期の初期における中絶よりも、妊娠第二期の初期における中絶の法が道徳上一層悪と考えるという確信は、生命喪失の理論では説明できないが、挫折の理論では正当性が付与される。 人間と神(p145〜)◆保守派とリベラル派を分裂させているものは?−−「挫折」に対する二つの理解挫折という考えは、中絶に関して大多数の人々を結び付けているものは説明できるが、同時に人々を分裂させているものを説明できるか? ◆保守派とリベラル派の不一致点−−中絶(早死)は常に生命に対する最悪の「挫折」なのだろうか?(p146) 大部分の人々はいったん開始された人間の生命が挫折させられることは本来的に悪であるという抽象的原理を承認しながらも、「回避可能な早死が常にあるいは不変に、生命に対する最も深刻な挫折を与える可能性をもつものなのか否か?」という問題についての回答は一致していない。 保守的見解は直ちに死ぬことが、死を延期させるいかなる選択よりも不可避的に深刻な挫折であるとしているが、リベラルな見解は正反対の信念を基礎としている。 ◆中絶をめぐる不一致点−−自然と人間の貢献に関する評価の総意(p147) 中絶に関する人々の意見、信念の不一致点のいくつかは、生命に対するモラル上重要な二つの想像投資的形態である「自然」と「人間」の相対的な重要性に関して、意見が分裂していることの反映である。 ◆中絶に対する反対−−自然(神)の投資の挫折(p149) 人々は、胎児はそれ自身生きる権利を有する人であるとは信じていないが、中絶に対する宗教上の反対は、人間の胎児は神によって神聖なものとして創造された物であり、胎児は権利と利益を有し、人間の生命は本来的価値を有しているということを前提としている。この前提により、神聖なものとして創造されたものを意図的に破壊する行為は道徳上悪とされるのである。 ◆中絶の承認−−人間の投資の挫折(p148) 宗教的な人の中にも生命に対する人間の投資を破壊することが本来的な悪であるということを重視する人が多くいる。 ◆中絶をめぐる保守派とリベラル派の相違−−「挫折」の強調点の相違−−自然の投資努力か、人間の投資努力か?(p151) 保守派とリベラル派の意見の違いは、両者が二種類の挫折形態を、それぞれ異なってランク付けしていることによるものである。生命に対する人間の投資を挫折させないことに重要性が置かれるにつれ、よりリベラルな考え方となる。だが、両者とも互いの重視している価値を完全に否定しないという点において両者の意見は一致するのである。 論点・喪失という考え方の方が有効となる場合もあるのではないか。(早死によって喪失した時間にすることができたであろう様々な投資努力の可能性。) |