2000、5、29
担当 西野、竹中

ロナルド=ドゥオーキン『ライフズ・ドミニオン』

第5章 憲法のドラマ

「原則としての憲法」と「ディティールとしての憲法」

◆2つの異なる憲法 P191ーP193
ロウ対ウェイド判決が覆されるべきと考える際に、法律家が主張する2つの点
1 アメリカ憲法は中絶の権利について言及していない。
2 憲法を起草した政治家の誰一人としてこのような権利を付与しようと意図しなかった。

アメリカ憲法は中絶の権利に言及し、憲法の作者は中絶の権利を創案しようと意図した。

権利章典の諸条項は2つの異なる解釈が可能であり、その諸条項から2つの異なる憲法を組み立てることができる。
1 アメリカ政府は自由及び政治的良識という最も基本的な諸原則を尊重し、全ての市民を平等な配慮と尊重を持って扱わなければならないという抽象的な命令として権利章典を解釈
→政府が尊重しなければならない一般的かつ包括的な道徳上の規範を定めたうえで、その規範が具体的な状況の下で何を意味するのか、の決定は政治家及び裁判官に委ねるような「原則としての憲法」
2 権利章典を書いてそれに投票した特定の政治家達が持っていた、詳細かつ具体的な期待だけを表現したものとして権利章典を解釈
→巨大な統一性、あるいは完全な一貫性すら持てそうもないような、歴史上実在する別個の諸見解及び諸意見からなるコレクションである「ディティールとしての憲法」

◆「原則としての憲法」 P193ーP195
「原則としての憲法」の難点
権利章典の概念は抽象的なので、その抽象概念が本当に意味するものは何かということが議論の的になる。
→・扱いにくく理解の難しい問題に、裁判官が答えなければならない
・裁判官の多数派の公式見解を、それと違う意見を持つ者が受け入れなければならない。
したがって、アメリカでは、最も重要な政治的決定のいくつかは選挙で選ばれた代表者によってというよりは、裁判官によって決定されてきた。

◆「ディティールとしての憲法」 P195ーP197
多くのアメリカ人にとって裁判官がこの種の権限を持つことは悪いことであり、危険なことに見える。彼らは、裁判官が権利章典を詳細な一連の諸規定として扱うことを好むであろう。
権利章典についてのこの説明は、より民主的で安全に見えるかもしれないが、その文書を相互に関連のない別個の詳細な諸規定からなる単なるコレクションにしてしまう。

◆民主主義の必須要件 P197ーP199
このような非常に異なる憲法のうちどちらを有することを目指すべきか?
どちらの種類の憲法を有しているのか?(権利章典の条項に通常の法解釈の方法を適用すれば、どちらのビジョンがあらわれるのか?) 多くの法律家の主張 厳密な法的分析の結果として、アメリカ憲法は実のところディティールとしての憲法である。
→政治的に成功
しかし、その成功の原因は、最高裁が「原則にもとづいた憲法観」に依拠して到達した諸判決に対する一般の人々の不満とその憲法観が大きな権限を与える裁判官に対する不信であって、法律家の法的主張が原因ではない。
→1つ目の問題
原則としての憲法が、独立した裁判官によって実現されるなら、それは非民主的なものではない。政府が個々の市民を平等に扱うように命じられること、及び、ここの市民の基本的自由及び尊厳を尊重するようにと命じられことは正当な民主主義の1つの必須条件なのである。

◆裁判官の権限に対する本物の制約 P199ーP200
もちろん、裁判官に対する制約は必要である。「原則にもとづいた観念」が明白に述べていることを主張することによってはじめて、本物の制約を確保することができる。裁判官たちは、原則及びインテグリティという論拠によって自らの判決を正当化しなければならないのであり、それによってはじめて、法律の専門家はその論拠を批判することができるのであり、一般の人々は、良識をもってその論拠を評価できるのである。

◆単一争点の憲法理論という危険 P200ーP201
非常に多くのアメリカ人はいかなる種類の憲法を望むのかについて、いかなる種類の憲法が中絶に関する自らの陣営のためになるのかを問うことによって決定してきた。
我々はむしろ逆に論じるべきである。正しい社会の憲法とは個人の自由及び尊厳をどのように擁護するのかを決定した後ではじめて、アメリカ憲法が中絶について何といって言るのか決定しなければならないのである。
憲法を書きかえる

◆「原則にもとづいた憲法観」は知的な力を持つ P201ーP203
「原則にもとづいた憲法観」は知的で感動的な力をもっている。指名されたときは保守的であると思われていた裁判官の多くですら、いったん最高裁の一員になると、原則にもとづいた憲法観及びそのような憲法観が支持する諸判決に引き込まれた。

◆「原則としての憲法」は危険な捏造なのか? P203ーP206
「原則としての憲法」を危険な捏造であると非難する裁判官たちの見解の検討
権利章典の条文を注意深く調べることから始める。
後に大変重要であることが分かることになる諸権利はきわめて抽象的な言葉で書かれている。
修正11条は、連邦議会は言論の自由を侵害してはならない、信教の自由を制限してはならない、いかなる国境も樹立してはならないと規定している。
修正5条、14条は、政府が法のデュープロセスによらづして生命、自由もしくは財産を奪うことを禁止している。
最も自然な方法で読めば、権利章典の言葉は抽象的な「原則にもとづいた憲法を作りだす。権利章典の言葉は、政府はその統治下にあるあらゆる人を、平等な配慮と尊重をもって取り扱うように、また、政府は彼らの最も基本的な諸自由を侵害しないようにと命じているということにほかならない。
しかし、保守的な法律家の見解によれば、言論の自由及び平等という命令は、ただ単に言論の自由農地ある具体的な諸形態だけを保護し、あるきわめて具体的な点ないしは次元においてだけ平等を要求するということになる。

◆リビジョニストの努力は法的に成功しているのか? P206ーP207
リビジョニストはきわめて抽象的な権利章典の諸条項を、限定的なディティールを重視した方法で解釈することを支持するような、妥当な法的主張を提供しているのか検討しなければならない。
リビジョニストはディティールを重視したどのような解釈が、抽象的な言葉の下に生め込まれているのか、そのことを決定できるようにするために、いかなる方法でこのきわめて抽象的な憲法の語句を解読するのかを言わなければならない。 →原意主義、列挙されている諸権利。
[列挙されている諸権利および列挙されていない諸権利]

◆リビジョニストの主張 P207ーP208
リビジョニストは、最高裁が過去において認め、実現した2種類の諸権利の間の区別を主張する。その諸権利のあるものは、憲法典の中で言及されているが、ほかのものは言及されていない。

◆区別に意味がある場合 P208ーP209
列挙されている諸権利と列挙されていない諸権利の区別を平等保護条項等のアメリカ憲法の抽象的諸条項に適用しても意味をなさない。
区別が意味をなすのは、列挙されているかどうかが言語学上の規則で決まる場合だけである。

◆権利章典の諸原則の適用範囲は道徳上の意味によって決まる。
権利章典は、政治道徳に関する適用範囲の広い抽象的な諸原則から成り立っており、これらの諸原則の正しい適用範囲は道徳上の意味によって決まる。したがって、特定の列挙されている諸権利と列挙されていない諸権利との間の区別は全く見当違いである。この点について、1グループの法的主張を検討することによって理解することができる。

1 修正14条の平等保護条項は、平等な配慮と尊重という憲法上の権利を作りだす。
そこから当然に、ジェンダーに基づく差別は、重大な州の諸利益によって必要とされる場合でないかぎり、女性はジェンダーに基づくいくつかの差別に対抗する権利を有することになる。
2 修正1条は、政府が言論の自由を縮減することを禁ずるものであるが、同条は、象徴を用いた抗議の権利を付与している。そこから当然に、個人はアメリカ国旗を焼却する権利を有することになる。
3 修正14条のデュープロセス条項は、「秩序内にある自由」の、まさにその概念にとって重要な基本的諸自由を擁護している。そこから当然に、女性は憲法上の権利として中絶の権利の権利を有することになる。
もしこの3つの主張のどれであれ説得力があるとしたら、その語句の意味ではなく、それが仮定する実体的な道徳上の理論が興味をそそるからである。

論点

・憲法の解釈によって、新しい権利を導き出すことができるか?
・できるとすれはどのような権利か?
・憲法24条「両性」は同性愛者を差別しているのではないか?
・押しつけ憲法論に意味はあるか?
・死刑は36条の残虐な刑罰に当たらないのか?
・裁判官が価値判断をしても良いのか?

ブラウン対教育委員会事件


<事実の概要>
黒人の児童たちが彼らの属するコミュニティの公立学校に黒人と白人とを分離することなく入学できるよう、裁判所の助力を求めた。
・原審判決
黒人学校と白人学校が校舎・交通・課程・教員の資格につき実質的に平等であるという理由で請求を棄却した。「別々ではあるが平等」(Separate but Equal)理論←Plessy v. ferguson(1896)

<判旨>
ウォーレン首席裁判官による最高裁判所裁判官の全員一致の意見

1、原意主義に関して
この問題に接近してゆくにあたっては我々は修正14条が採択された1868年へ、または、プレッシー対ファーガスン事件判決が書かれた1896年へすら、時計の針を戻すことはできない。修正14条をめぐる状況、すなわち連邦会議に置けるその修正箇条の考慮、諸州によるその追認、人種隔離について当時存在した慣行、同修正箇条を擁護するものと、これに反対するものとの見解は、この問題を解決するには十分ではない。なぜなら、当時の公的教育の状態からして、第14修正箇条の沿革の中には、公的教育に対する、それの意図された効果に関するものは非常に少ししか無いのである。我々は、公的教育を、その全発展と全国を通じてのアメリカ生活に置けるその現在の位置とに照らして考察しなければならないのである。

2、公的教育の現在の位置
公的教育は民主社会の基礎として、また、個人の成功のために重要である。したがって、教育の機会は平等の立場で、全ての者にとって援用できるものとされなければならないところの一つの権利である。

3、「別々ではあるが平等」理論に関して
物理的施設その他の有形的要素が平等であっても、黒人の児童を、人種を理由として、類似した年齢、資格の他の児童から隔離することは、共同社会における彼らの地位についての一つの劣等感を生ぜしめ、かれらの心情と精神に対して消し去ることのできない影響を与える。それゆえ、公立学校における人種隔離は少数グループの児童から、平等な教育上の機会を剥奪するものである。

4、公立学校における人種隔離は修正第14条によって保障された、法律の平等な保護を剥奪している。

<その後の経過>
最高裁は別学解消から人種統合へ力点をうつしていった。
生徒の自由選択制度は不十分。
白人と黒人の居住区の隔離という現実→強制バス通学制度


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