ロナルド=ドゥオーキン『ライフズ・ドミニオン』

第七章 生と死の狭間 − 末期医療と尊厳死

死と生
◆死−生の最終段階
死に対する恐怖は無の始まりであり全てのものの終末だからである(p322)
どのように死ぬかということ(尊厳を持って死ぬこと)=望んだ生き方と死に方との合致
死はどのような意味を持っているか→生について考えなくてはならない
その人の過去を無視して彼の人生の最終局面を考えることはできない(P323L5~10)

◆生の意味−いかなる人生がよい人生か?
いままで様々な人々によって思索されてきた・・・何が人生をよいものとし、またわるいものとするか?→懐疑論者たちはその議論自体を殊勝げで無意味なものとするが?

・大抵の人々にとって、物質的満足や業績などがよい人生にとって重要だとしている
→意味のあることに貢献することなど

・また、経験がよい人生の重要な要素だとする人々もいる

◆よい人生に関する人々の確信−決定的に重要なもの
よい人生に関する様々な考えの大部分は、人々が直観的にかつその背景に持っているもの(P325L2)

◆経験的利益
ひとによって、何が経験としてよいものとなるかは変わってくる
・・・自分がすることが好きなものが「経験的利益」
経験として悪いものもあるが、それによって人生がひどいものとなることはない

◆批判的利益
人々の人生を真により満足なものにする利益であり、仮にそれを人々が理解しないならば、彼らは誤りを犯し、真により悪い人生を送ることになるものである(L18)

彼らが妥当なものと考える人生の一般的な形を意識することによってしばしば自らの人生が導かれているのである(P328L1~2)

◆経験的利益と批判的利益の区別の必要性
(筆者は、どちらがより深淵であるとかいうことは言おうとはしていない・・・「批判的利益」より)
人がどのように扱われるべきか、また、人生においてのある種の悲劇を理解するために区別が必要である

◆イワン・リッチの独白
自らの人生を人生の終わりに近づいたときに振り返り、それが無意味で誇りとするものがなにもないことを見いだしたときの悲劇
・・・精神の苦しみが彼の苦しみの中心を占めていた、ということ

◆人々は経験的利益のみを有するのか?
人々が経験的利益のみを有するならば、イワン・リッチの様な後悔は説明できない
人が経験的利益を求めるのは、生物的に自然なことである。

では何故それと同時に批判的利益に関心を持つのか?
・・・功利的哲学者たちは経験的利益以外のことに関して人々が関心を持つことを、そも そも否定するが?
           ↓
人々が今までの自分の人生について後悔するのは、よい時間を過ごしたことは、彼らが考えていたほど重要なものではないと感じるからである。
(批判的利益=それ自体が重要なもの、と考えるからである。)

◆批判的利益を説明することは可能か?
知的な説明が必要なのであり、それによって、我々は人々の信念を内側から一層よく理解できるようになり、それによって何故人間の生命が本来的価値を持っているかを内省的に理解できるようになる、としている(P331L3~6)

◆人生の岐路における重大な選択
・自らが決めるべき重要な判断に直面している場合を考える・・・
ひとは、その選択によってもたらされる快楽を予測して決めるのではない
→そのような決定を通してひとは自らの同一性を発見する(P332L4~5)
・・・ひとは「よりよい人生」を送るためになやみ、ためらう

◆インティグリティの独立した重要性−批判的利益の二面性の結合
一般に全体としてその人生をみれば、インテグリティのあるものであることが重要だと考えられる・・・インテグリティは生きる方策でなく実質的な確信を前提とする

インテグリティの独立した重要性の承認=批判的利益の理解に役立つもの
批判的利益はその人自身の人間性・個性に多く依存していると思われているが、他方我々が同時に抱くより根本的な信念との調和が難しい

有る一定の人生が正しいものであると信じることをどのように受け止めるのか

◆内在的懐疑論の危険性
懐疑論は客観性も同じくその基礎を持っていない


 死の意味

◆死において、経験的利益のみで考えるならば、尊厳死をする事の決定は容易である。
・経験的利益が得られない→生きていても仕方がない

◆ブランド事件
法的に経験利益のみが問題となりうる、と言う前提に貴族院判決は立脚している
→アンソニー・ブランドの生命維持装置の撤去が彼の利益に反するものでもどちらでもないと認定することは容易であった
・マスティール卿の主張

◆死に関する批判的な利益−時期と方法
人は、リビング・ウィルを決定するときに批判的利益をよりどころとしている
・問題提起−いかに死ぬかということの人生においての重大性
→死の時期の重要性−年老いて死ぬ場合には避けられないことだから
→死の方法の重要性−どのように死ぬかということに関することだから

◆死の時期−生き続ける希望と生き続けない希望
・あることを成し遂げるまでは死ぬことは出来ないという意志
・生き続けて尊厳を失いたくないという希望
→二つはそれぞれ等しく強い理由を持つ

尊厳死の場合にも、生き続けることを選択する場合にも「批判的利益」が重要な理由となるということであり、人生に生きる価値が存在していないということではないが、完全な従属状態はそれ自体非常に悪いことであるということは一見もっともらしいことのように見える

◆死の時期に関するインテグリティの意識
患者に意識がある場合、自らの人生に対するインテグリティと一貫性の意識は、生活し続けることが自らの最前の利益なのか否かということに関する彼らの判断に決定的な影響を与える(P341L8~9)

それまで彼らの人生を形成してきた自己概念にあまりにもそぐわない場合、人は「尊厳が失われている」と考える→インテグリティの意識

◆死の方法
大多数の人々は死の方法を特別で象徴的な価値を持ったものと考えている
→自らの死が人生の最も重要な価値を表現し強烈に確認されることを望んでいる
→方法だけでなく、死ぬ時期についても最善を選ぼうとする(いつまで生きたいか、死ぬまでに成しておくことはあるか、など)

◆死の方法におけるインテグリティの意識
多くの人々が、残された人生全てが無意識または植物状態になる場合には、同様の理由で死を望む(P343L15)
「もはや誇りをもって生きることが出来ない場合、私は誇りをもって死ぬ」(ニーチェ)我々は誰も自らの人生を、自らの性格に合致しない形で終えたいとは思っていないのである(P345L5~6)

◆法は何故最善の利益を要求するか?
人生はその人特有のものに深く依存しているため、集団的決定では(それがいかに統一されていたとしても)各個人にまともに奉仕することはできない
→自立性と受益性を同時に根拠とする理由となる
・よって法律では見解を押しつけるのではなく個人の人生の未来に対する懸命に備えるべきでありまたリビング・ウィルのない場合彼の人生を親族や親しい人々の判断に任せるべきであることの根拠となり、そうすることによってより健全なものとなる可能性を持つ

 生命の不可侵と自己の利益

◆人々の直感−生命の不可侵性
尊厳死は人々の最善の利益でなく悪とされる場合があるのだろうか?
保守的見解によると「尊厳死は生命に対する最大の侮辱である」ということになる

意図的な死はたとえそれが患者の利益とされる場合であっても、生命の本質的価値に対する最大の侮辱となるものであるという直感は、尊厳死に対して保守的な態度の人々が抱く嫌悪感のなかでも、最も深く最も重要な部分なのである(P347L4~6)

◆生命の不可侵性という考えの複雑性・抽象性
「生命の維持は『善い人生(goood life)』を送ることに優越するものなのである」
(P347L20~P348L1)
人間の生命は神聖・不可侵であるという考えはより複雑で様々な競合する考えを受け入れやすいものなので尊厳死に対する進歩的な考えや解釈をとることも可能である

◆最善の利益と生命の不可侵性との関連
尊厳死は、時には生命の尊厳という価値を支えることがある→
・生命に対する自然的貢献の優越の否定
・生命に対する人間的貢献の重要性(自然的貢献の価値=人間的貢献の価値)
尊厳死によって、人生を意味有るものにしようとすることで自分の人生に対する価値を
不可侵で神聖なものにしようとすることもできる

◆「慎みある社会」は強制と責任のどちらを選択すべきか?
生命の不可侵性を訴えるとき政治上、憲法上で問題になること−強制か、責任か??

延命治療が人生をより悪くすると考える人は、それを回避することで人生の尊厳を守ろうとし、周りにもそうしてほしいと願っている
→生命の不可侵性のために自分の利益を犠牲にすべきであるという主張は分別のあるものとはいえない

◆二つの誤解
尊厳死に対する医師の決定に関する法的枠組みに対する議論は、二つの誤解によって深刻な危機にさらされてきた

◆第一の誤解−人が生き続けることに重要な損害はあり得ないのか?
人がいつどのようにして死ぬかということに関して持つ利益の性質についての混乱
多くの主張・生存し続けることによってこうむる重大な損害はあり得ないという前提
→親族による死の要請の証明基準の厳格さ、「滑り坂」論の主張の基礎

・・・人々の死にたいする関心の理由がわかればこれらの主張の危険性などが見えてくる
◆第二の誤解−生命の尊厳は他の価値に譲歩すべきなのか?
・積極的安楽死は生命の尊厳という価値に反する事であるから禁止すべきだという主張
尊厳死とは、生命の尊厳がどのようにしたら理解され尊重されるものとなるかということであり、死の方法を限定しそれを人に強制することは破壊的で忌むべき圧制の形態である



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