障害児と家族をめぐる差別と共生の視角担当 綿島一 はじめに1975「母よ!殺すな」(横塚晃一)出版→障害者への非人間的扱いを許している現代社会告発の書 <内容> ・いまある障害者差別の現場がほかでもない身近な「家族」という場にあるということ※EX) ・「親は「本来あってはならない存在」をつくり出した責任を感じてか、→この横塚の主張は「親であることの意味」「親の愛情とは何か?」という問を提起する。 二 親たちの葛藤と障害児をとりまく差別の仕組み・障害を産んだ親の葛藤1.父親も母親もほとんど例外なくショックを受け、我が子の存在を否定したいという欲求。 2.1のあとやっとの思いで障害児の生を受けとめることができても、次ぎにくる 「我が子の障害を周囲の人々にうち明ける※」という課題を前にして再び大きな葛藤を示す。 ※「うち明け」の場面における差別の仕組み ・まず前提として社会には「常識」となっている否定的な障害者観が生み出す 言説空間によって構成された「障害者への差別的枠組み」 <障害児をとりまく人々の差別のメカニズム>障害児の存在(出生) ↓ 第一局面 自分が差別されるかどうか ↓ 第二局面 「差別される可能性」が高い ↓ 第三局面 差別される側に自分は居たくない ↓@ ↓A ↓ ↓ ↓@身元かくし(差別される側にいる) →↓ ↓ ↓A距離化(遠ざけ)〜差別する側にいる〜 ←↓ ↓ ↓ 障害者差別の枠組み ↓ 突破 ・障害者差別の枠組みを問うことなく、心理的葛藤を起こさずにすむ状況をあえて 探すとするならば、自らのうちに差別的言説を受け入れ、 「自分の置かれた立場を嘆き悲しむこと」で障害児・者から心理的に遠ざかるという 差別する側に転ずる行為しかない(「身元隠し」から「距離化」への移行) ・「うち明け」きれない親が自分の姿が情けない、と語る親が居る。それは我が子の 立場に立ちきれない親としての無力な、勇気のない自分の姿を表現している。 →このようなアンビバレントな状況から抜け出るには枠組みを破る 「積極的なうち明け」が必要とされる。 二のまとめ …差別される障害児の側にいながら、差別されることを拒否する。 そのような積極的意味を「積極的うち明け」はもっている。 また、親自身にとっては、その「積極的うち明け」行為が人間としての尊厳を取り戻す契機 となっており、そこに立ってはじめて親の「悲しみ」は「希望」に向かう方向性を持つ。 そうした差別的枠組みを「突破」した親子関係から肯定的障害者観は生み出されるだろう。 三 「国家のエージェント」としての親性から「子供の代理人」としての親性へ・ 日本は近代国家を形成する過程で、意図的に否定的障害者観を形成ex)1940 「優生保護法」 …「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」もの。・ 現在の否定的障害者観 …国が企業に代わりこそすれ、生産力に貢献する人間とそうでない人間を〜国家の機関としての家族〜 明治政府は「家」制度を考案し、「家」に治安維持機能と生活保障機能を期待していた、 現在においても戸籍の存在や社会政策における家族自助原則は、戦前と大差ない現実 、つまり家族の中で障害者差別を顕在化させてしまう「閉鎖的家族主義」※を生み出している。 ※「閉鎖的家族主義」 …現在においても家族自助原則をとる日本の社会福祉システムのもとでは↓ これが破綻 「施設」(もう一つの差別の場) 〜国家の機関としての家族〜 上記の様な背景から親は「障害者の親」として"適切にふるまう"ことによってアイデンティティを 達成しようとする親の問題が発生する。 ↓ つまり「差別される側にいたくない」と障害児と心理的距離をはかった結果、社会から期待される 障害児の親というアイデンティティを求めてしまうということ(=国家のエージェントとしての親化) 〜障害者が求める親像〜(三まとめ) ・社会から賞賛される「国家のエージェント」としての親の行為とは、障害児から見れば、 自らが家族に囲い込まれて自由を束縛され、一人前としての人間として育てられずに 親の管理下におかれる行為にほかならない。障害者が求める親像というものは 「社会の迷惑にならないよう」障害児をそだてる親ではなく一市民として「自立できるよう」 障害児をそだてる親、我が子のゆずれない生きる権利を主張する「子の代理人としての親」 四 親子の情愛近代日本の母親→「国家のエージェント」としての親。戦前においては「家」自己利益のために 「個人」は犠牲を強いられ、結果的に、母親の「利他的愛」は無批判なまま 世間に従うという価値観を内面化させた一方、母親の利己的愛は 国家エージェントとしての役割をはたす ・現代に生きる母親 →やはり虐げられている社会に従う「国家のエージェント」としての役割をになう傾向にある。 「家」が「親個人」にかわったものの、老後の生活のためという親の 自己利益のための子育てとなっていることにはかわりがない。 ↓なぜか? 「差別を受けたくない心理的メカニズム」「障害児を産んだことの罪悪感」 <背景>健全な子でなければ愛せないという親の「愛情のあり方」に問題。 現代社会では「人間(いのち)をはぐくむ」育児というものではなく、 「優秀な子を育てる」育児になっていることの反映といえ、このような価値観が 親に対して障害児を産んだことへの罪悪感を持たしている。 ↓四まとめ 戦前においても現在においても日本親の一般的な姿は、世間(社会)に迎合する姿 として現れている。あくまでも社会あっての人間であり、人間が第一となることがなかった。 したがって日本社会では大きな潮流として、人間のための社会を建設するという視点も その契機も生まれてこなかった。 五 親のライフスタイルの変更「この側にたつため」に「子の代理人」としての親性に近づくためには父親、母親のそれぞれが自分の主体的に生きることが必要 →そのためにライフスタイルを変更 ・近代資本主義社会としての戦後の日本社会は効率社会のツケを女性、 障害者など社会的弱者に負わせることとなった。 →このような背景から、日本社会の障害者問題は、障害者本人と障害者の 母親として特化して現れる。とりわけ障害児をめぐる母と父との亀裂は顕著であり、 それは社会の性別役割分担が母親責任説を導き、また父親の家族員への関わりの 希薄さがそれを補強するからである。 まとめ ・親が「子の代理人」としての親性※を手に入れるとき、それを手に入れる営み によってこそ人間を疎外し差別し排除する社会に対して 異議申し立てをすることのできる人格を形成することが出来るのではないだろうか。 ※「子の代理人としての親性」 親たちが障害を持つ子供の存在を否定している企業中心社会の歯車としての 生活を立ち止まり、ふりかえることから始まるもの。子の行動を社会の基準にあうように 監視するのではなく、子が自尊心を持つことのできる、子のあるがままを受け入れた、 子の自立のための子育てへと向かうもの。 六 おわりに横塚の否定する「愛」(=家族)…国家のエージェントとなることを賞賛するもの。障害をもつ子供を犠牲にする「愛」 ↓横塚の主張する「愛」 親が障害をもつ子の側にたち子の生きる権利を主張する「子の代理人」としての 親に成長してゆく、家族、子と親とがお互いに傷つけあうことなく共に生きることが出来る家族。 →しかしながら、現代社会では一般的でない、このような新しい家族の建設や 人間(いのち)を育む子育て実践には、さまざまな困難がつきまとう。 ↓そこで求められるのが 「親たちに支えあいネットワーク」※ ※「障害児を恥じる自分を恥じる」親になるために、そして障害を持つ子の側につきそう 決意をして積極的うち明けをするために、さらに子の自発性を育んで子を社会的に自立させる 子育てをするために、また、世間や専門家に無批判に依存せず、 体験を積み重ねて肯定的障害者観を手に入れた経験者の姿をまなびつつ 自らが実践していくための、親たちの支え合いネットワーク。 →差別に立ち向かう社会を構築することが可能となる要員である。 担当者からの論点) ・筆者の言う肯定的障害者観は、軽度の障害者に対してのものであって。 その障害者観自体が障害者のさらなるカテゴリー化をおこなっており、 差別を助長することになっていまいか? …ここでいっている「障害者観」を持ち込むには、1.それなりの経済力 2.その障害者の能力的になんらかの形で自己実現の場、能力があること。 が条件となっている様に感じた。 ・身体障害者と健常者とのあるべき関係とはどのようなものなのか? |
Copyright (C) 2000-2010 大阪市立大学法哲学ゼミ
http://www42.tok2.com/home/takizemi/
2000年度スケジュールに戻る