能力主義を肯定する能力主義の否定の存在可能性について 立岩真也 1問い 「ゆえなく」人を不利に扱うことを差別という。どんな人でもある、できないこと=障害のために、落度がなくとも不利に扱われるのは差別である。能力による差別はすべて障害者差別であると言ってよい(障害者差別の全てが能力による差別だというのではない)。では、差別であるからなくさねばならないのか、という単純な問題でもない。 少なくとも、差別という主題について、捉えられた事実のどこがどう問題なのか言うことが必要である。以下では、差別であるからなくさねばならないのか、という問いについて考える。 2機制 能力にかかわる差別が現れるのはまず交換の場面、市場だとされる。その構造について記す。 @ A(だけ)がある能力を現実化するかどうか、ある行為を行うかどうかを決定できる。これは、能力の由来や、能力発揮の決定権と成果の所有権、とは独立に、A(だけ)が能力・行為に対する制御能をもっているという意味である。そういう意味で、Aに能力がある、ある能力がAの能力だと言われ、ある行為がAの行為だと言われる。 A Aは(部分的に)その能力を獲得することができる。彼は@の意味で彼に属する行為を行い、例えば勉強して、能力を高めることもできる。能力のある部分は彼の努力なしには獲得されない。 同時にAは好悪についての選好をもっている。bの利得とコストを予想しながら、自己にとって 有利になるように、行為aを行い、その対価としてbを取得しようとする。 能力の獲得(の1部)と能力の発揮が委ねられているので、強制以外の手段でそれをAに促すとすれば、Aの好悪の関数に働きかける他ない。そこで、BはAにbを与える。この構造はBの側から見ても同じである。 3批判 もっとも単純な形態としては以上のような場面を、そしてこれがさらに複雑化された場面を、能力主義を批判する者は、次の事を問題にしてきた。 @ ここでA・Bはa・bを自分の目的の獲得のための手段として扱っている →「他者を手段として扱う」ことは問題である。 A aがAのものとされている →aは社会性・共同性の中で獲得されるので、それを個人のものとすることは問題である。 そして以上が、市場、労働力の商品化、分業の形態に起因するとされる。 以下、これらの主張を吟味する。@については、行為の手段性と人のあり方とを分けることを 提起する。Aについては、行為・貢献の個人性自体は否定できず、生産に関わる因果が問題なのではなく、生産物を生産者のものとすることが問題なのだと指摘する。 4手段性の不可避性 使うことは一切の生の条件であり、分配のための条件でもある。使うことを否定するとは、目的・価値がある時、それを実現するもの=手段が不在になるということであり、分配が要請されるなら、その実現のための行為が不在になるということである。 他者のものを使うのがいけないという主張もあるが、分配を要求するとは、私のために他者の行為(例えば納税)を要求することであり、分配の要求が正当なら否定されない。 5個別性の不可避性 能力は確かに、社会的な環境、関係の中で獲得される部分も多いが、全てがそうではない。 第2節で述べた意味で、行為がAの行為であり、能力がAの能力であることは確認可能であり、ゆえに、Aの貢献分を取り出すことは可能である。協働系のもとで「みんな」がつくることは、個別性を否定しない。 手段性も個別性も避けられない以上、これらは変更可能な対象としての「問題」になりえず、これらが確かに差別の存在のための必要条件だとしても、Aが不当に扱われ不利益を被るという契機はこの先にあるのなら、ここまでの部分に差別があるとは言えない。そして問題はaとA(の存在、の価値)が結びつけられることにあると考える。 6配分の変更 aの存否と多寡がAに対する配分が結びつけられると、AはAの手持ち分a、aの譲渡により取得されたbの範囲内でしか生きられない。もしAが自身の能力を自身の努力に比例して得られるなら、労働に応じた配分ということになる。@苦労はそれ相応に報われるべきだと私達が考えるなら、これはこれでよいかもしれない。そして、A私達が行為やその対価を出し惜しみし同時により多く得ようとする限り、この機制は確かに効率的ではある。しかし、能力は当人の力の及ばないところで、多かったり少なかったりする。また、この配分の仕方では、働けないA、能力を持たないAは何も得られず、より少なくしか持たないAは、より少なくしか受け取れない。 人がそれぞれに生きていられること、そのために必要なものを得られることが承認されるべきとする。そうすると、以上は正当性を得られない事態であり、ここに生ずる不利益は、いわれのない不利益である。そしてこれは、他のあり方を構想し、実現することができるという意味で、社会規範上の問題である。これを否定する。Aが何かを持つ(持たない)ことと独立に、Aが暮らしていけるような(そして@・Aが考慮されるべきだとすれば、それを考慮した)配分の方法が採用されるべきである。 市場はまさに以上のようなことが起こる場である。では廃棄するべきなのか。 だが、行為・労働を選別し、評価する、価格をつけること事体には問題はない。市場、価格メカニズムは、手段を配置し、流通させるには有効な場であり、メディアである。ゆえに、廃棄するよりむしろ保持すべきである。 同意にもとづいた流通の場としての市場自体が、個々人の選考のあり方を特定しているわけではない。例えば、BがAのa以外の事情を考慮し、aを購入することは、そしてaがなくてもただ支払うことも可能である。これを難しくしているのは、市場において、とりわけ生産・流通過程の複雑化によって、Aの存在が不可視化されることである。しかし、商品aの背後にあるものを可視化する装置を作り出すのは不可能ではない。また、市場の外側に市場に乗らない自発的な関係を作っていくことはできる。 この方法では、必要とする人々の捕捉と個々人の自発性に依拠することの限界が問題となる。そこで、人々がその生を生きられるためにすべての者が義務を負うべきなら、強制力を背景に負担可能な者すべてに拠出を求めることになる。つまり、政治的分配が指示される。労働はいったん個別に評価されるが、個々人が使える資源は別の基準で分配される。 ここで一切の選別は必要なく、欲しい人には渡してしまえばよいという主張もある。これは、@について、労働・努力に応じた配分を認める必要はない、Aについて、人間は意外とサボらないという楽観主義、(サボることによる)生産性・生産量の低下は必ずしも悪くない、あるいは生産はすでに十分な水準に達しているという立場に立つ。だがそう考えないなら、例えば、単にサボっている人を除外する配分を行う。 行為が評価されること、労働に価格がつくことに問題はない。しかし、その労働の価格=その労働者が使える額とは言えない。この立場からは、市場における価格機構と政治的再分配の併用は必要かつ十分な方法である。 これにしても現実にどこまで機能するか、予めの保障などない。だからといって、これに対する市場を廃棄せよという主張に妥当性はなく、これを否定する。十分な配分を現実に確実に保障する方法はない。ただ、その実現を促がす方途、実現を阻害する要因を除去する方途はいくつかある。 7価値の変更 「競争に追い立てられる」、「能力だけで人間の価値が判断される」等々、できることの方ができないことよりもよいという価値観が問題にされることが多い。 よいということが「役に立つ」ことを指し、役に立つのがそれ自体としてよいことなら、それはそれだけである。問題は、役に立つかどうかが、「人」の価値に結びつくことである。これを否定する。 私の評価如何と別に他者があることを承認する。 市場では、Aがaによって表示されるというAとaの繋がりが必然的ではない。人を商品として見るのではなく、そもそも人を見ない。このことは、市場と 以上述べた価値に関わる立場の両立可能性を示す。 Aとaの繋がりは、より低いコストでより多くの労働を得るのに、労働・生産物を取得しようとする者にとって有用なものではある。しかし、それがなくとも、市場は成り立つのである。 8結論 Aが「ある」ためにはAが「もつ」ことが必要であり、そのためには「できる」ことが必要だが、その「できる」人はAでなくてもよい。Aが「する」「できる」ことを、Aが「ある」(ために「もつ」)ことの要件としたり、Aの存在(の価値)を示すものとすることを否定する。 「価値」の問題は市場には含まれない。そして、市場は、手段を配置し、流通させるのに有効なメディアであり場である。市場の基本的な問題は、生産物が「私」だけに帰着することを構造的に除去できないことにある。そこで、加えて「配分」のシステムがあるべきである。 論点 まったく「もたない」者と、あまり「もたない」者と、「もたない」ふりをする者とを区別する必要ないのか? |