2000年12月18日 報告者 西森 未和(a97j113) 差別各論 ハンセン病 0. はじめに 今回で私の法哲学ゼミでの発表は最後です。最後のテーマとしてこの「ハンセン病」を扱うことができたことをとても嬉しく思います。96年3月、高校2年生のとき、私は朝日新聞社のイベントで沖縄にあるハンセン病の療養施設「愛楽園」を訪問しました。そのときの経験は当時の私にとって大きな衝撃でした。そこを訪れるまで、私にはハンセン病に対する知識がほとんどありませんでした。そして私の家族や友人も同様でした。 ハンセン病について知れば知るほど、歴史が隠してきた大きな何かを感じました。時の政府が差別をつくりだし、その差別を担ったのは他でもない、国民なのです。そして差別に大きく力を貸した「らい予防法」の存在。過去の話ではないのです。戦後も含めて89年もの間、96年4月までこの法律は存在していたのです。同情では問題は解決しません。法・差別・優生思想・ファシズム・人権。ハンセン病を題材にできるだけ一般的な問題にもっていけたらよいな、と思っています。 今回のレジュメは医学・歴史的な知識の部分と中心的な論点を4つ挙げてみました。一冊の文献の要約ではなく、様々な情報を参考にしつつできるだけ自分なりにまとめてみたつもりです。 1. ハンセン病(医学的認識) ハンセン病は「らい菌」により主に末梢神経や皮膚が侵される慢性細菌感染症だが、菌の毒性はきわめて弱く、感染しても発病するのはごく稀とされる。発病し症状がすすむと身体に変形が生じ、独特の外見的特徴が現れる。1943年のプロミンにはじまる治療法の発達で確実に治る病気となったが、「らい予防法」により患者は療養所に隔離収容されてきた。 <ポイント> ・遺伝病ではない ・ハンセン病そのものにより死にいたることはほとんど無い ・特効薬がある 2. らい予防法(歴史的認識) 2−1.法律 別紙 2−2.問題点 ・退所規定が無かった →一度入所すると出ることができないのが前提 ・療養所の所長には懲戒検束権があった →患者は正式な裁判を受けることができなかった (例)1938年には群馬県にある国立療養所「栗生楽泉園」に 「特別病室」と称する患者監禁施設がつくられ、全国から、 療養所に反抗的とみなされた患者などが送りこまれた。 1947年に廃止されるまでに、その中で22名が餓死、 凍死、衰弱死、自殺に追い込まれた。 ・「全患者」の隔離を規定 →本人が拒否しても強制的に入所させられる。 1955年までは警察権力を用いてまで行われていた。 3. 強制収容・隔離(論点1) 人間の扱いとして「隔離」をする場合には慎重になるべきではないだろうか。 ハンセン病者は「感染力が弱く」「治る」病気であるにもかかわらず政策として「隔離」された。しかし、そのことを強調するのは危険でもあるように思える。「感染力が高く」「治らない」病気の人間は「隔離されてもしょうがない」という論につながるからである。 明治よりなされてきた日本政府の隔離政策は「治療」を名目としながら、真の意図は別にあったように思えてしまう。 明治以前は、らい病者はかろうじて社会と共存していた。遺伝病や業病だと思われていたために、家系がさげすまれることはあったが、社会から排除しようとする動きはなかった。開国後、欧米に対し「文明国の仲間入り」を果たそうとした日本は、諸外国から「らい病者を救助しないのは文明国とはいえない」との非難を受けた。また、内地雑居がはじまるとフランスやイギリスのキリスト教教会がらい病者のための施設を次々に設立。 そしてこの頃、「感染する」ということが実証される。日露戦争後、アメリカに対しライバル意識を強くしつつあった日本政府は、らい患者を「国辱」とし、その隔離・淘汰をめざす。国家・地方自治体・企業などが協力し国立の療養所の設置・患者の発見→収容→隔離に力を入れる。政府は治療薬を保険の適用からはずし、療養所内でしか実質手に入らないようにしていた。 病者は社会的弱者であり、罪があるわけではない。治療策として「隔離」を選ぶとしてもそれは最大限の注意が払われなければならない。社会から排除するのではなく、社会が受け入れ、共生していく形でなければならないのではないか。 4. 断種(論点2) 療養所の中では、所内で結婚(あくまで内縁が多かった)するための条件として「断種手術」が義務付けられた。これは男性の輸精管を切り、性行為能力を維持したまま生殖能力を無くす手術である。ときには医師以外の職員の手によって行われた手術は、必ずしも安全ではなく、性行為不能に陥る例や妊娠させてしまう例も多くあったようだ。妊娠した女性に対しては法律により人口妊娠中絶が多く行われた。 ここにはハンセン病患者には子孫をつくることを許さないという国家の意志がある。優生思想の強い表れである。 元厚生省医務局長の証言(「旧らい予防法」(1931制定)に関して) 「医学的理由ではなく民族浄化などの国策で隔離が必要という考えが浸透した」 <法律> 別紙参照 「資料1」(別紙)より <問題点>研究がすすみ「母子感染」の可能性が無いことが明らかになっても人口妊娠中絶や断種手術が行われていたのは何故なのだろうか? 5. 社会復帰・療養所のこれから(論点3) 5−1.社会復帰 1996年4月、「らい予防法」が廃止されたが、現在全国の国立の療養所には約四千五百人の元患者が暮らしている。法律の廃止後に社会復帰できたのはわずか「13名」である。これはいったいどうしてなのか。(2000年9月) <原因> ・入所者の高齢化・後遺症→平均年齢約七十四歳・就職できない ・断種により身寄りがいない→帰るところが無い ・今なお残る社会の偏見や差別→入院拒否・嫌がらせ・親戚の婚姻拒否 ・長期にわたる隔離生活→社会に適応できるかどうかという不安 「らい予防法の廃止に関する法律」の付帯決議には、「社会復帰が円滑に行われ、今後の社会生活に不安が無いよう、その支援策の充実を図る」と明記されている。しかし、住居や食事、医療費などの心配が無い療養所に比べ、退所すれば最高ニ百五十万円の支援金と障害年金だけがたよりだ。しかも、請求は領収書が必要で事前の支給はない。技能習得や就労を対象とした面もあり、高齢者は支援金を減額されかねない。 5−2.療養所のこれから 前項で見たとおり、大半の人が法律の廃止後も療養所で暮らしている。療養所にいる限り、医療・衣食住は保証されている。本来は法律の廃止に伴い、全ての入所者が社会復帰を果たすことが理想であろう。あまりにも廃止が遅すぎたとしか思えない。 しかし、入所者の高齢化が進んでいるために近年は年間約200人の人が亡くなっている。入所者の減少に伴ない療養所の統廃合が検討されているが、名前を捨て、家族を捨てて入所した人々にとって長年暮らしてきた療養所は第二の故郷である。それを管理する側の都合で統廃合を進めて良いのだろうか? 6. 国家賠償請求訴訟(論点4) らい予防法などに基づく国の強制隔離政策で苦痛を受けつづけたとして、国立ハンセン病療養所の入所者が国家賠償を求め係争中。 「社会から隔離され断種・堕胎を強要されるなど人生を奪われた」 人々の名誉の回復をかけた闘いである。 <請求の内容> ・新聞紙上への謝罪文の掲載 ・テレビ・ラジオの政府公報番組で謝罪文を読み上げること ・原告一人につき一億千五百万円の損害賠償金を支払うこと <問題点> ハンセン病患者にたいする「責任」は「誰に」「誰が」「どのように」「どこまで」とるべきなのだろうか? 7. おわりに(個人的感想) 今回は自分が学んだもの、感じたことを文字にすることに苦労しました。一番強く感じているのは、法律が廃止されたことによってこの問題を過去の問題にしてはならないということです。HIVやO−157、未発見の病原菌など他の感染する病気に対して、同じ過ちを繰り返さないためにもハンセン病問題は重要であると思います。 8. 参考文献 佐賀新聞検索データベース(95〜00年までの記事86件) 「ハンセン病と人権」(ハンセン病と人権を考える会 1997) 「ハンセン病・隔絶40年」(伊奈 教勝 1994) 「『隔離』という病 近代日本の医療空間」(武田 徹 1997) |