瀧川ゼミ                    2001・04・16
山田智史

「哀悼をめぐる会話」



歴史主体論争・・・文芸評論家の加藤典洋氏の論文、「敗戦後論」と、それを批判する高橋哲哉氏の論文、「汚辱の記憶をめぐって」をきっかけに巻き起こった論争。現代日本の歴史論争、ナショナリズム論争の焦点の一つとなっている。

1、先か後か、内か外か


¶加藤典洋氏の見解 (「敗戦後論」より)
▼第二次大戦後、日本は「人格分裂」に陥っている。
護憲派:外向きの自己で、外来の普遍である憲法の理念(人権、民主主義)に依拠。
→自国の兵士を無視してアジア2000万の死者を先に立てる。
改憲派:内向きの自己で、祖国、天皇、日本民族の純粋性等の,伝統的諸価値に依拠。
→自国の兵士を靖国神社で英霊化させる。

▼日本が戦争責任を果たすためには、まず人格分裂を解消して、一つの責任主体、国民主体を立ち上げるべきである。
       ↓そのために
まず第一に日本の「汚れて死んだ侵略者」として無意味に死んでいった兵士たちを先に置いて、彼らに深い哀悼を捧げるべきだ。

¶高橋氏による批判 (「汚辱の記憶をめぐって」より)
「われわれ日本人」、「国民主体」を立ち上げないとアジアの死者に向き合えないなどというべきではない。まずはアジアの死者に向き合わなければ「われわれ日本人」を立ち上げることも出来ないと言うべきだ。
→他者との関係ぬきに自己の主体性ないしアイデンティティを構築することの不可能性、あるいは暴力性。

¶加藤による高橋氏の批判に対する批判 (西谷氏との対談にて)
300万人の自国の死者を先にたたせることが2000万人のアジアの死者につながるというのはちょうど密室の鍵を外に向け、どう内側から開けるか、というような問題である。300万人の死を先に埋葬するということよりも、それがアジア2000万人を弔うことの根拠になることを重視すべきである。

¶高橋の意見
「密室の鍵を外に向け、どう内側からあけるか」というとき、「内」が「先」で「外」が「後」という関係がすでに前提とされていることが問題。
→これは、方法論的選択ではなく、「自己中心主義」によるものである。
*「自己中心性」はみとめられても、それを思想のレヴェルで「自己中心主義」として確認することはまた別の問題である。


2、アーレント、同胞意識、土管の中の「ぼく達」


¶同胞意識についての加藤氏の見解1 (「敗戦後論」より)
侵略者である死者をかばいその死者とともに侵略者の烙印を国際社会のなかで受け取ることが実は一個人の人格として国際社会で侵略戦争の担い手たる責任を引き受けることだ。
→「自国のために死んだ」死者、「わたしたちがいまここにことのために死んだ」死者、そう信じていたのに、結果的に「侵略者」になるという無意味な死を遂げた悲劇の死者だから。

¶高橋氏の見解 (「汚辱の記憶をめぐって」より)
「自国の死者」をかばうといった内向きの態度でこれを考えるわけにはいかない。
→戦争責任の問題において、たとえ「同胞」であっても、判断する=裁きという責任を回避できない。(ハンナ・アーレントの例)

¶加藤氏の批判 (西谷氏との対談にて)
「同胞」、にもかかわらず裁くのはアーレントにおけるかたちにおいてのみだ。それは、存在する同胞意識を殺していることになる。当事者が当事者を裁くということになってしまう。

¶高橋氏の批判
判断者=裁きの手のモデルは「注視者」(spectator)であるべきであって、むしろ当事者性の要求を持たない、第三者であるべきだ。
* 注視者であることは、普遍的正義であることとおはちがう。(アーレントにとって重要だったのは普遍性を先立たせる規範的判断ではなく、個別性しか与えられていないところで判断する反省的判断であった)

¶加藤氏の見解2 (「日本人の岬」にて)
「地上に露出した」「直径2メートルほどの土管」を想像し、土管の中と外での「日本人」の虚構性を証明。
→フーコー流の言説(ディスクール)論に依拠して、「日本人」の概念の虚構性、フィクション性を言い当てる議論は「日本人」が「われわれ」という「まとまりの感覚」として生まれた土管内の出来事に、いわば土管の外からチョークで印をつけているにすぎない。歴史性とフィクション性とは、互いに他を排除する、共存不可能な概念であり、真の歴史は土管の内側に、外部からでは必然的に「いい間違ってしまう」ような「内在」の領域として存在する。また、「内在」はフッサール現象学で説明する。つまり、「日本人」という概念も、「われわれ」という集合の「まとまりの感覚」としてみればそれと同じで、それが「内在」として、つまり「実感」として生きられたこと自体を否定することはできないはずである。
▼「われわれ日本人」としての「まとまりの感覚」を再認識し、人格的統一を回復することが第一である。

¶高橋氏の批判:フッサールの「内在」、つまり、現象学的究極的基礎づけは日本人の歴史まで基礎付けることはできない。
→ぼくが「内在」として経験できるのは、僕の「内在」のなかにある他者の「まとまりの感覚」についてのぼくの経験だけである。自己の「内在」から他者の「内在」に「内側から」はいりこむことはそもそも不可能である。→「われわれ」を実感するものはない。

3、 レヴィナス、享受、他者、恥


▼エマニュエル・レヴィナス:おのれの無辜を無邪気にも確信する主体は「他者」の顔と眼によってその思いを根底から審問され、自分が無辜であるどころかむしろ簒奪者であり、殺人者でさえあることを初めて発見して自分自身を恥じる。その恥の意識が、倫理的責任の覚醒の第1歩だ。(全体と無限)

¶高橋の見解(「汚辱の記憶をめぐって」より)
長い忘却をへて、歴史の闇の中から姿を現した元慰安婦たち、彼女たち一人一人の顔とまなざしは、「汚辱を捨て栄光を求めて進む」「国民国家」の虚偽、自己欺瞞をもっとも痛烈に告発する「他者」の顔、「異邦人」ないし「寡婦」のまなざしではないだろうか
この汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けることが、この国とこの国の市民としての私たちに、決定的に重要なある倫理的可能性を、さらには政治的可能性をも開くのである。

¶加藤氏の批判(西谷氏との対談より)
*レヴィナスは「顔」という前に「享受」をいう。「享受」する主体としての「自分であるもの」だけが「他者」と出会い、自分を壊す。
*朝鮮人元慰安婦は「他者」じゃなくなっている(?)
*他者に出会うための前提としての主体になることを日本の戦後は避けている。
*レヴィナスの言う「顔」は社会的な関係から現れるものではなく、それを壊して現れるものである。
*罪を犯した人が恥じ入るのは罪の意識で、やっていないわれわれが担うのは、<われわれ>が謝らなければならないという責任感である。

¶高橋氏の加藤氏の批判に対する批判
*「他者」との対面は「社会的関係」といえる。
→通常の社会関係は「第三項」−概念、理想、役割、利害などーに媒介された「合一」としての「われわれ」で、これは「派生的な社会性」に過ぎない。レヴィナスはこれに「なんじ殺すなかれ」という「他者との社会性」を対置し、後者によって前者を批判する。すべての社会的関係を「他者との社会性」を起点として、そこから組みなおそうとする。「他者」の「顔」との対面は、一切の社会性の解体というより、いわば「根源的社会性」による「派生的社会性」の脱構築なのだ。

▼ 「他者はわたしの恥辱を通して欲望される」つまり、他者への責任は「恥辱をとおして」自覚されるが、その責任は「罪状なき責任」だとか「私がしたのではないことに対する責任」といわれる。


4、アジア、天皇、<祖国のために死ぬこと>


¶「われわれ日本人」という主体性について
高橋氏の見解:日本国家という政治的共同体への帰属で十分。
→まず、アジアの死者に向き合わなければ「われわれ日本人」を立ち上げることもできない。
加藤氏の見解:「日本人」としてのアイデンティティを「他者」との関係以前に確保しようという発想。
→まず「われわれ日本人」を立ち上げないとアジアの死者に立ち向かえない。

¶侵略の重みについて
加藤氏の見解:侵略性は薄い?
→侵略された国々の人民にとって悪辣な侵略者に他ならないこの自国の死者を、戦後日本の「外向きの正史」は見殺しにすることを非難。
少なくとも兵士たちの「実感」としては「祖国」を守って死んだ。
しかし、それはフィクションに過ぎないのであるが、それによって兵士たちそのものがフィクションになるわけではない。だから、見殺しにしてはならない。
※ 「土管の中の思考」
→→侵略性を自分の判断として引き受ける姿勢が薄い。


5、比喩と比較――日本、ドイツ、ユダヤ


ドイツと日本の比較
→ドイツでは保守政治家でも、戦争について「時効なき責任」を言う。
→1985年リトブルク事件



■論点■

「哀悼」に関しての基本的な立場(高橋派 OR 加藤派)
「同胞意識」、「われわれ日本人」の定義とは?ナショナリズムなのか?
両者における、法的、政治的解決の具体的な差異は?


参考文献:戦後責任論・高橋哲哉(講談社)


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