「日本人として」謝罪する論理

1. 「歴史主体論争」の厄介さ

ナショナリズムという問題の扱いにくさに起因している。
    ↓
どういうことか?

・・・ナショナリズムの克服のために、ナショナリズムをもってしまうという逆説的な情況になってしまうということ。
ex.加藤と高橋の対立の構図

加藤・・・敗戦後の日本人が背負っている「ねじれ」を超えることなしにはアジア二千万の死者に対して本当の謝罪や哀悼を行うことはできない。
→「自己中心的主義」なナショナリズムであると批判される(高橋)。
高橋・・・日本のナショナリズムを自己中心主義だと批判する高橋が被抑圧的民族のナショナリズムについては肯定的に語り、被抑圧的民族が示す「抵抗するナショナリズム」をも同じくナショナリズムだといって切り捨てることはできないと言う。
    ↓
・加藤と高橋(後述)の例をとってみても、両者ともに意図としてはナショナリズムの克服を目指しているようなのだが、それぞれ 対極的な方法をとりながら、同じくなんらかのナショナリズムを引き受けざるをえなくなっている。

2.「後に生まれた」日本人の不幸

ここでひとまず、ナショナリズムという問題を正面から扱うことは避けて・・・
それでは
戦後生まれの日本人の若者が戦争責任問題を介してナショナリズム問題と直面させられた時、どう対処すべきなのか?
、を考えることとする。

ex. ・・・日本の若い世代は、この過去の歴史を正しく教えられていないので、軍隊性奴隷制度の真実をしらないかもしれません。1994年ジョージタウンで日本の二十代の法学部の学生に会ったとき、「知らなかった」と涙を流していました。( ICJ 1996:101)
    ↓
「日本人」と彼個人を同一化する無意識の感情と相まって、「知らなかった」 と涙を流したのだろうと作者は分析する。
    ↓
はたしてそれでいいのだろうか?

・上野千鶴子の議論

・・・フェミニズムの成果にたって議論する。
「国家と個人の同一化を避けよ!」

上野は、あらゆるカテゴリーの絶対化・本質化に反対することがフェミニズム(上野のとる立場)の核心だとしており、<日本民族・国家が犯した罪を無媒介に謝罪する日本人>といった形で、民族や国家カテゴリーの復活につながる可能性があるとして批判する。
    ↓
「共同体的な」民族言説にとらわれ危険性の主張
「証言する被害者のリアリティーに忠実にありつづけるべき」
問題がナショナリズムや民族言説にとりこまれてしまうと、問題そのものが「客体化」されてしまうこととなる。
「被害者が思い切って口を開いた時、その被害者の圧倒的な「現実(リアリティー)から出発するほかない」

3.「日本人」であることの重荷

それでは、上野の議論を踏まえたうえでの日本人のとるべき態度とはいかなるものか?
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上野の議論からすると・・・
・日本の軍隊と日本の国家が過去に行った犯罪を告発する個人の「リアリティ」に対して、普遍的な「人間性」や「倫理観」の立場から共感と義憤を感じる「日本人」という振舞い方になる。
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「われわれ」日本人は、ひとりの「人間」として普遍的な倫理性の観点から義憤と責任を感じることで充分なのであろうか?

(作者の意見)

「日本人としての私」に対して突きつけられているのは、一人の「世界市民」としての私がどういう態度をとるかという次元ではない。むしろ私は普遍的な倫理性が私に要求する責任以上のものを「日本人」として感じること・自覚することを迫られている と思われる。

4.「全体性」批判から「恥」の概念へ

現在問われている日本の「戦争責任」問題の核心は、被害者の「証言」を通して突きつけられている「現実」に対して応答可能な「われわれ日本人」の物語をどのようにつくってゆけるのかにかかっている。
民族やナショナリズムを超越した立場で語ること
・・・かつて民族意識やナショナリズムによって排除され抑圧された人々の告発にたいして誠実に答えることにはならない。
  ↓そうではなく
われわれのナショナリズムをどれだけ反省的なもの、他者に対して開かれたものにしてゆく誠実性の基準になる。
・・・ナショナリズムは拒否の対象ではなく変容の対象なのである。

(高橋の論)
ナショナリズムという公的な物語への拒否と同時に、一つの新しい「開かれた」物語への希求を読み取ることができる。
「客観化すること」の暴力性に対する批判
ここから導かれることは
→個としての他者が行う告発の声にこだわりつづけることであるはず
しかしながら
→先に述べたように、この個別者の声を抑圧された民族のナショナリズムの声と重ねあわせ、それを肯定することになるのか?
・高橋は「日本人として恥ずかしい」という「恥」の概念を手がかりとして「われわれ日本人」をアジアに対する共同体的責任主体として構成することが可能だと考えている。
→ここで、加藤が「敗戦後論」などで本来問題にしてきたのもまさに、恥の自覚を通して自負しうる「われわれ」を立ち上げる問題であった。

5.「はじ」と「ねじれ」

・加藤のいう「戦後的思考」
「反省的」アイデンティティの確立。それは「よごれ」や「ねじれ」の自覚が不可欠であるもの。戦後生まれの日本人が過去の戦争犯罪を自分の「罪」として謝罪することは論理的に不可能であるから、「罪」を「恥」から自覚的に区別し、謝罪可能な主体を形成していくべきである。
これがないと
→・「罪」と「謝罪」の両項を放棄して無批判な慣習的アイデンティティに逃避
 ・それとも両項を第三者的な立場から「罪」と「断罪」として結びつけるだけとなる。
これらでは、「日本人の謝罪」としては受け入れられないだろう。
(日本人として謝罪する論理の不在「加藤」)

6.「日本人として」謝罪する論理

高橋・加藤の主張する問題は本質的には同じである(反省的アイデンティティの確立)。
加藤の論)
「日本人としての羞恥」の原点が、自国の死者を切り捨てることで戦後の平和日本が成り立っているという「羞恥」にある。そしてここに「日本人として謝罪する論理」のを見出すための手がかりがあると提案。
     ||
死者への裏切りの自覚が、理念からすれば完全に断絶している戦前と戦後の共同体にかろうじて連続性を作り出す。

・・・理念の次元では戦前の日本人と戦後の日本人との連続性を言うことは不可能である。それゆえ、死者への裏切りという恥の意識に媒介された「断絶を含んだ連続性」は、共同体アイデンティティではなく、「個人の個別的な生の注視」から生まれる「われわれ日本人」という意識である。

7.おわりに(作者の主張)

「われわれ日本人」を確立するためには、間違った戦争に敗北して死んだ者たち、これら国内の「異質な他者」への弔いの困難さに直面することが是非とも必要である。
     ||
「断絶をふくんだ連続体」でしか「われわれ日本人」はあり得ない。
「反省的アイデンティティの確立」


担当者からの論点:


作者のいう「われわれ日本人」を確立してくために作者は加藤や高橋が結局は求めているものが同じだという。
「反省的アイデンティティの確立」は「日本人」のもつべきスタンスだとして、それは具体的に「行動」としてはどんな形で現れるものなのか?
ともすれば単に「心情的」な日本人として「あるべき姿」だと思うに留まり、それこそ自己欺瞞に陥るものなのではないかと思った。

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