瀧川ゼミ                   2001・5・7
担当:松木謙茂

政治的責任の二つの位相
  ―集合的責任と普遍的責任―

斎藤純一

1 オブスキュリティの時間

本文の目的・・・私たち日本人の「アテンションのエコノミー」を問い質す声を受け止めながら、戦後世代が負うべき政治的責任を、「集合的責任」および「普遍的責任」という二つの相違において再考すること。
 戦後世代が集合的責任を負う理由を再検討した上で、普遍的責任をもう一つの政治的責任としてとらえ返すこと。


戦後、戦争の被害者たちの苦難は「暗闇(オブスキュリティ)」に沈められてきた。これらの苦難は、被害の当事者や遺族にとっては「過去の一時期の不幸」ではなく、堪えがたい「不正義」であり、「過去の一時期」に属するのではない。

→私たちの多くはこれらを「不正義」として受け止められず、また、現在まで継続するものとしての問題感覚が欠如
 →(能動的な)アテンション(=注目・傾聴)の端的な不在
受け手である私たちに一定の能動的なアテンションがないと「不正義」が黙殺されやすい。

「アテンションの分配=配置」(=アテンションのエコノミー)
 ……これによって私たちの「不正義の感覚」は制約されている。

戦争被害者の現れによって問われているのは
私たちの「アテンションのエコノミー」がいかに歪んだ仕方で編成されてきたか、「国民的アテンション」とでもいうべき特徴(ex.戦争責任の問題はすでに解決したという傾聴、自虐史観の思潮)をいかに色濃く帯びているか。
ということ。


2 集合的責任としての政治的責任

集合的責任を負う二つの条件
@)私は私が行っていないことに対して責任があると見なさなければならない。
A)私に責任がある理由は、私のどのような自発的行動によっても解消しない仕方で、私がある集団に成員として属していることでなければならない。
つまり……
 集合的責任は、「私たちが行っていない事柄に対する代理責任」として生じる。

なぜ、国家の法的責任ではなく国民の集合的(政治的)責任が問われるのか?
→日本国が、国家間条約、協定等で責任は果たされていると主張し、被害者個々人に対する公式の謝罪、補償を拒否しているという条件下で、日本国民が結局責任をうやむやにしたまま時が過ぎるのを待っていると問責されているため。

→こうした問責の声の下で「われわれ日本人」を帰責主体として立ち上げねばならないという主張がでてくる。
 =集合的責任を自ら引き受ける日本国民(デモス)としての自覚


3 政治文化の継承

加害責任のない世代も戦争責任を免れないのはなぜか?
→戦後世代には「政治文化」が継承されているからという見方。

ヤスパース、ハーバーマスは「精神的条件」、「生活様式」という言葉を用いて政治文化の継承を集合的責任の理由として挙げている。

エトノス(この場合、「ドイツ人」)の文化の確証ではなく、デモス(「ドイツ国民」)の文化への反省がいまだ果たされざる歴史的責任として提起。
→こうした反省が不徹底である限り、後続する世代といえども「アウシュビッツを可能にした生活様式への歴史的責任」を自分たちから免責することはできない。

上記のことを「アテンションの配分=配置」という視点から見ると・・
政治文化の問い直しが、国民自身の「内省」として行われうるかのように半ば了解されているという問題がある。
私たちが自ら自分自身を点検し、その難点を剔出し、克服していくという能動的な自己反省は、内向きのアテンションを持つ国民的主体のモノローグの構造を免れえていない。

日本ではどうか?
戦後の日本社会においても、「精神的条件」、「生活様式」の次元に焦点を合わせながら、「超国家主義」を惹き起こした政治文化を反省してきた。

Ex)丸山眞男は日本の政治文化を「無責任の体系」と特徴づけ、国家の権力行動を制御しうる力量をそなえた責任主体の形成を説いた。

しかしながら・・
丸山氏らの関心は国民を能動的な責任主体へと形成する方向に傾斜し、国民の定義から排除された日本内外に住む旧植民地の人々には注意が向けられていない。

加藤氏の主張も、歴史的責任への問いを国民的主体の先行的確立に方向づける点で、丸山氏と同型の問題を反復しているように思える。


4 「日本人」としての名指し

徐京植の主張
 植民地支配や侵略戦争の被害者が私たちを「日本人」として名指すとき、そうした名指しを受け入れなければならない。

何故か?
他者による名指しを私が拒否することが、他者が私に加える以上の暴力を他者に対して遂行的に行使することにならざるを得ない関係性が、私を「日本人」と名指す他者との間に存在しているから。

⇒戦後世代が集合的責任を負うべき理由は、私たちが、数多くの不正義を刻んだ歴史的関係性を先行する世代から継承し、私たち自身もそうした関係性をすでに生きてしまっているという事実にある。

また、「どのような自発的行動によっても解消し得ない」のは国家への帰属そのものではなく、被害者との間にある歴史的関係性である。


5 普遍的責任としての政治的責任

集合的責任は、過去に植民地支配や侵略戦争によって加害を及ぼしたところに責任の範囲は閉じられている。→限定性を持つ責任

自らの属する国家がもたらしたのではない不正義については、政治的な責任はまったく生じないのか。
       ↓
アーレントが普遍的責任を提起
「人類という理念は、人間は人間によってなされたあらゆる罪に対して何らかの仕方で責任を負わなければならない、すべての国民は他のあらゆる国民によってなされた悪の責めを分かち合わなければなら
ない」=普遍的責任
       ↓
「人間の権利」を「国民の権利」に還元する国民国家システムのもとでは国民的アテンションの外に締め出され、「オブスキュリティ」の領域が不断に産出される。
→「人類」の理念だけが、「いかなる人々も排除されない」唯一の保障となる。

普遍的責任は、「われわれの感知するところではない」という「オブスキュリティ」の領域をつくらない、誰かを「見捨てられた境遇」に放置しないというアテンションのあり方を求める。

また、普遍的責任は私たちのアテンションを繰り返し脱−領域化することを試みる。→政治性を帯びる。

(筆者の意見)
普遍的責任に言及したのは、集合的責任を引き受けることの緊要さを説く言説の多くが、他者にではなく「われわれ」に方向づけられた関心を遂行的に再生産しているように思えるから。(→「国民的自負(ナ
ショナルプライド)」の集合的ナルシシズム)

私たちに呼びかけられたのは、「日本人」としての誇りを回復することではなく、「国民の他者」の苦難に目を閉ざさないことによって信頼を形成することである。


◆論点

・ 日本とアジア諸国との関係において、戦後世代にはどのような普遍的責任があるだろうか。

・ たとえ、筆者の言う「アテンション」が「我々」に向いていたとしても、歴史的関係性が存在することで戦後世代は集合的責任を負うのであるから「国民的自負」というものは発生し得ないのではないか。

・ 「能動的な自己反省」は戦争被害者を意識して行われているものではないだろうか。そうであるなら、「能動的な自己反省」は内向きのアテンションだけでなく、外向きのアテンションも持ち合わせているのではないだろうか。


瀧川からのコメント:戦時中に生きて戦争に加担し戦後帰化した朝鮮人より、戦後生まれた日本人のほうが集合的責任を負うとする筆者の主張に何か根拠はあるのか?デモスとエトノスを区別しておきながら、なぜそこでエトノスを密輸入するのか?


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