5月14日 瀧川ゼミレジュメ              担当  黒田 郁子

わたしの自由とわれわれの責任

1、 二つの亡霊


 ・奥野国土庁長官(当時)の発言(『朝日新聞』一九八八年四月二二日)
 “戦後四三年たったのだから、もう占領軍の亡霊に振り回されることはやめたい。”
 ↓
  筆者の思い出したエピソード
  韓国人男性との対話・在日韓国人である友人との対話
  →「うんざり」した経験
 *なぜ思い出したか?
 奥野氏の「亡霊」という言葉が、筆者自身の内面にとりつく「亡霊」(=うんざりさせるもの)を思い起こさせたから。→「過去」と「国民」と言う亡霊

2 、歴史における自由と責任

 “もう占領軍の亡霊に振り回されることはやめたい”(奥野氏発言)
 「国家国民は汚辱を捨て栄光を求めて進む」(1985年中曽根首相演説表題)
 ↓
 いつまで過去にとらわれているのだ
 過去と手を切り未来へ歩まねばならないのだ
 ↓
 自由と責任について考える契機

<決定論>われわれの行動がすべて過去との因果関係やわれわれの本性に含まれる目的によって決定されている。→人間の自由意思と責任に関連

思想史上の論争
 バーリンによる分析・・・目的論と機械論の歴史認識に関する共通した特徴
  @ある事象を説明するときに、個々の人間の意図、動機は排除する非個人的な理論であること
  A個人は「抽象的」であり、ただ歴史を動かす主要因のみが「実在的」で「具体的」であるとみなされていること
  B「個人の責任という観念がひとつの幻想である」という見解に加担していること
バーリンの主張
決定論を信じることは、自由の領域を捨てることである。
そして、わたしたちにとっては制御不能でその目的さえ分からない「大きな実在─戦争、集団主義、運命(wars,collectivism,monolithic whole)─」に身を預けてしまうことを意味する。
*過去と現在の自分を決定論的に関係づけること(=わたしの自由意志を否定すること)で、わたしはあらゆる責任を免れることができる
 ↓ところが
亡霊は、「自由でないから責任もない」逆にいえば「自由だから責任をとる」という議論の成立を脅かす

3、 過去からの呼び声としての責任

筆者のエピソード
韓国人の語る過去に応える責任があるから求められていたのに、そのように自分が日本の過去に直結されるのを不自由に感じた。自分の意志で対話を続けたのに、不自由だと感じていた。→決定論によれば、自由がなければ責任もないはず

バーリン……決定論により無責任であろうとするために自由を犠牲にするような態度を批判したが、決定論と前提を共有している。
    →自由であることが必ず責任を引き受けることに先立っているという前提
      ↓
 しかし、過去が「わたし」に先立ち存在している事実にわたしの「自由」が脅かされている

 「何者にも先立つ主体の自由」という前提を受け入れていた。自由は何者にも先立ち保証されているという思いこみ。だから不自由を感じた→理由(1)

4 、わたしとわれわれ

 「自由」と「責任」との間に先後関係を決定することは不可能ではないか
→自分を何者にも先立つ主体たるもの・自由なものとしたかったから
 認める事ができず、"自由がなければ責任もない"といって過去の「亡霊」を振り払おうとした。

筆者のエピソード─国民という「亡霊」
 日本「国民」であるわたし

 結社(association)
 自分の自由意思で帰属→過去の行為においても責任を負う
自分の意思を越えた帰属→自分の行為にしか責任なし
↓ところが
「国民」という亡霊はこの論理を覆してしまう
“どの政府も前任者の功績や犯罪に対して責任を負い、どのネイションも過去の功績や犯罪に対して責任を負う。このことは、前任者がはじめた契約上の合意を否認することもある革命政府についても言えることである。・・・
 わたしたちは、わたしたちの父祖の功績がもたらす報償を手に入れると同時にかれらの罪業に対する責任を負わされるのである。”(H・アーレント)

 「国民」がわたしの中に存在していたこと・それを否定できないことから、不自由さを感じた→理由(2)

5、 国民の物語

 アーレントは「ネイション」の持続性・同一性がどのように維持されているかの考察を加えていない。
 ↓
 同一性がいかにして作り上げられ、どのように維持されているのか

 デリダによる「合衆国独立宣言」の解釈
 ・真の署名者は、「自由かつ独立」した「善良なる市民」
 →宣言に先立ち「自由で独立」しているのか、宣言によってはじめて「自由で独立」かという決定不可能性・・・権利設定に不可欠な要素

・署名のための同一性(アイデンティティ)を自らに与えるために「合衆国独立宣言」は「神」、「自然法」を持ち出した。
 →署名する権利は神がわたしに与え、あるいは、自然法によってわたしに認められてる
 が「ゆえに」わたしは署名する権利をもつとした。
 →行為遂行的発話があたかも事実遂行的発話であったかのように現前し、「われわれ」は自分たちが同一性を持った主体としてあらかじめ存在したかのように思い込む。

 『侍女の物語』(Atwood 1985)
 合衆国をクーデターにより転覆したギレアデ政府において、クーデター前の生活を記憶しているために現在(クーデター後)の国民に同一化することができない侍女の物語 。

 →今、国民として同一性があると思っているのは、思いこみに過ぎないのではないか?
 いったい何故わたしが「われわれ」であるかを考え始めると、「われわれ」でないものがわたしの中に存在し始める。
 →初めから存在していない同一性を守るために思考を停止する。

6 、亡霊とともに

 当初、「過去」と「国民」という亡霊を振り払うことによって、自己同一性(アイデンティティ)に支えられた自分の自由を確認しようとしていた
 ↓結果としてわかったこと
 「うんざり」と感じたことは、わたしが自分(アイデンティティ)を守ろうとした過剰反応であった

 「われわれの責任」を問うことにより「何者にも先立つ自由な主体」という自己規定により見えなくなっている「わたしの自由」を追い求めうる

論点

@戦争当事者でないわれわれにも責任はあるのか?これから先の国民にもあるのか?
A個人としての私に責任はあるのか?


瀧川からのコメント:なぜ過去にうんざりしてはいけないのか?例えば、部落民としての過去・黒人としての過去をなぜ引き受けなければならないのか?うんざりしていいのではないか、うんざりすべきなのではないか?


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