瀧川ゼミ                              01/06/11

「過去の克服」(Vergangenheitsbewaltigung)


ヴァイツゼッカ―
                             文責 山田智史

カール・ヤスパースの4つの差異化


1、 刑法上の罪・・・ナチ犯罪への直接的な関与者に対する罪
2、 政治上の罪・・・ナチ体制と支持し、共に参加した罪
3、 道徳上の罪・・・ナチ体制に対する消極的同調者としての罪
4、 形而上的な罪・・・その場に立ち会いながら何もしないままでいたことへの罪

罪の結果


・刑法上の罪:有罪者の法に基づく処罰
→連合国によるニュルンベルク国際軍事裁判
戦勝各国それぞれがナチスの犯罪者を裁く裁判
ドイツの国内裁判でナチスの幹部や犯罪実行者などを裁く裁判
・政治上の罪:補償、ヒトラー・ドイツから攻撃された諸国家との賠償計画と平和条約、更には政治上の権力の制限、喪失。
→ドイツの外国に対する補償:イスラエルとユダヤ人組織への賠償金
ヨーロッパ諸国に対して賠償協定を結び補償
その他、様々な対外補償
総額は約1223億マルク(9兆7840億円)
・道徳上の罪:各人の良心および愛する者たちとの交流を通じて、洞察、悔い改め、刷新
・形而上的な罪:神(包括者)の御前での人間の自己意識の転換

Ω道徳上の罪、形而上的な罪は、ドイツ国民すべてが裁かれるべき対象として何ら公的にその責任を問い得ない。むしろドイツ国民各人の良心の呵責すなわち自己反省と責めを引き受けるという謙虚な改心の意識に懸っている。
Ω処罰や補償契約によっては帳消しにされないし、しかも戦勝者の権力にへつらったり、卑屈な、品位を欠いた罪の認め方によっても拭いきれない。

⇒「各人ひとりひとりが、内面的に批判的な距離を獲得した後に自分自身に関して、法廷を設置することを要請した。」(ヤスパース)
φ「五月八日は、想起の日であります。想起するとは、ある出来事をそれが自分の内面の一部と化すほどの畏敬の念を込めて、かつ純粋な心で、思い起こすことという意味であります。このためには私たちは真率な態度を取ることが大きく要求されてきます。・・・・・・
この犯罪(ナチ犯罪)の実行は、少数者の手に握られており、また、世間一般の眼からは隠蔽されておりましたが、ドイツ人なら誰でも、ユダヤの同胞が苦しみを嘗めざるを得なかったことを、冷たい無関心から始まり隠微な非寛容を経て露骨な憎悪に至るまでの各段階にわたって、共に身を以て体験することができました。」
     ↓にもかかわらず
「己の良心を曲げ、自分の関わり知らぬことであるとし、目を背け、黙して語らぬという態度は数多く存在しました。その後、戦争が終わり、ホロコーストの言語に絶する全真相が明らかになったとき、その責任を逃れるため、果たして、私たちのほとんどすべての者は、何一つ知ってはいなかった、あるいはまた何ひとつ予感することさえなかったということを引き合いに出したのです。
 一民族の罪、あるいは無罪などということは存在しません。罪は、無罪と同様に、集団に関わることではなく、人間ひとりひとりに関わることであります。
・・・・・・あの時代を十分自覚して身を以て体験した人々は、それぞれに今日、自分があの犯罪に巻き込まれたことを、心ひそかに自ら問い糺していただきたいのです。」
↓  戦後40年が経過し、世代は変わったが
φ「私たちすべての者は、罪責のあるなしに関わらず、老幼を問わず、あの過去を我と我が身に引き受けなければなりません。私たちすべての者は、あの過去のもたらす諸々の結果に関わっておりますし、政治的責任を負っているのです。
・・・・・・過去を克服することが問題なのではありません。克服など決してできるわけはありません。過去はもちろん、後になってから変更したり、起らなかったことにすることはできるものではないのです。しかし、いやしくもあの過去に対して眼を閉ざす者は、結局現在に対しても盲目となります。」
                   『1945年5月8日、40年後の日に』


罪責の対象


ヤスパースによる4つの罪責のうち、道義上の罪、形而上的な罪、つまり本来なすべきであったがなすことがなかった行為、いわゆる不作為の罪(Unterlassungssunde)に重点がおかれている。


罪責の担い方


☆罪と責任をわけて考えるやり方☆
1、個人の罪と責任の次元を確保。(集団的な罪の否定)
 →「集団の罪とか集団の無罪というようなものは、存在していない。罪という概念は、ただ個人的に適用されるときに限り、意味のあるものである。」(ハンナアーレント)
    ↓なぜか?
・集団の罪という概念は、罪という人間的な概念を集団に内在する性格に帰せしめよう、転嫁しようとする思想に結びつきかねない。
→ナチによる反ユダヤイデオロギーと同じ。
→よって集団的な罪の存在を、その道義的な混乱のゆえに否定
  (例:ヴァ―ツラフ・ハヴァルによるズデーテンドイツ人追放の自己批判)
・集団をもとにする考え方は、常に類型概念と普遍概念を混同して、類型的な把握は、いかなる個人も普遍的な正確づけを通じて、把握したと思わせる。

2、一方で、大量虐殺が可能となった精神的にして文化的な文脈に対する集団的な政治的責任(Haftung)という類を認める。
※ 政治的責任(Haftung):単なる補償、政治権力や政治権利の喪失といった次元にとどまることなく、もう一つの次元へと昇華されて、様々な結果に対する責任という場合に、つまり「深刻な遺産」に対する責任が問題になる場合に用いられる概念。
◇「Verantwortung」と「Haftung」

1+2、政治的責任を人間ひとりひとりが負うことによって初めてナチズム体制との正面からの取り組みと「過去の克服」の課題が誕生する。
◇過去の克服:ここでは、過去を経験として真剣に血肉化して消化し、明瞭な意識を通じて過去の束縛を断ち切るという意味


戦後世代の罪責問題

 歴史的責任論に立脚・・・罪はなくとも責任あり。

負うべき集団の責任

φ「罪は、無罪と同様に、集団に関わることではなく、人間ひとりひとりに関わることであるます。一国民全体の罪、あるいは無罪などということは存在しません。 
  それにもかかわらず、歴史の重荷は人間ひとりひとりへの関わりを越えたものであります。私たちすべてが、この歴史の重荷を担っております。戦争と苦難の時代に生まれてもいなかった若い世代は、何らかの犯罪にも加担したわけではありませんが、しかし、歴史の中の様々な結果に対しては責任を負っております。まさにそれゆえに、若い世代はあの過去を知らねばならず、あの過去を我が身に引き受けなければならず、あの記憶を活き活きと保ち続けなければなりません。過去を克服することが問題なのではありません。過去は、そうでなくとも起こらなかったとすることはできないのです。しかし、あの過去を想起しようとしないものは、自分が今日どこに、なぜ存在しているのかわからないでしょうし、今日の自己の課題と可能性に対して依然として盲目のままであるでしょう。あの過去を否認する者は、これを再び繰り返す危険をおかすことになります。」           『政治における赦し』

☆結果責任という点において、「政治的責任」が課せられる。

「歴史的な責任を負う」=「想起すること」を通じて歴史を等身大で「人間的なもの」に、また、「政治的なもの」に転じる。
       ↓
歴史認識を継承、形成し、かつその責任を「個人」の次元で担い、問う営みが生まれる可能性をみる。

☆論点☆


・ ナチによって引き起こされた、様々な非人道的行為の責任を個人の罪の問題に還元して追及し続けることは、はたして正しいのか。集団の罪を否定することは、ドイツ国民の免罪、免責に通じるのではないか。「想起すること」で「過去を克服する」という精神的なものに責任を依存してしまうことはあまりに危険ではないか。かりに集団の罪を認めた場合、その集団的処罰の方法はいかなるものなのか。

・ 道徳上の罪は集団としての全員、つまり、ドイツ民族全員が負わなければならないのか、具体的に発信されるべき政治的責任とはなにか。

・ 日本における「過去の克服」について。


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