瀧川ゼミ 01/06/18

二つの現代史━歴史の転換点に立って

担当 奥間 達

はじめに

 わが国とドイツの歴史的発展には、惨めな敗戦国から出発し、「経済大国」化の局面を経たのち、再び国際政治の中心舞台での役割を求め、かつ求められているという共通性がある。他方、両国の間には違いもある。ドイツは一方で過去の清算への真摯さが誉めそやされながら、他方では統一後の動きについて、突出や傲慢さが問題とされ始めている。それに対し、わが国は過去の清算をだらだらと持ち越し、国際社会では、金があっても顔がなく友人もないフリーライダーであることが問題視されつづけている。

1.戦争責任・戦後責任・未来責任

 【持ち越された戦後責任】
 戦後これほどの歳月を経たのに、かつての戦争の責任問題が未だに解決されていないというのは、単なる指導者の責任の問題ではなくて、戦後を生きてきた日本の民衆一般の問題ではないのかという問題認識(=民衆側の戦後責任)を核心とするものであった。

 【過去は未来の一次元】
第2次大戦後の責任問題は今や基本的には、我々はいかにして戦争と他民族侵略(軍事的ばかりでなく経済的にも)と人権抑圧のない世界を築きうるかという「未来責任」問題の一環として扱うほかはない時代に否応無しに突入してしまっている。
 具体的には…
@これからの戦争責任論は戦後責任論がなお拘束されていたナショナリズムの論理から解放され、国境や国籍を超えた「人間としての権利」という理論に依拠するほかはなくなると考えられる。 
A「未来責任」論は過去の責任問題を棚上げにしたり、「洗い流し」たりして曖昧にする為の口実となってはならない。
B時とともに過去の責任の追及と贖罪よりは、過去から何を学び、それを未来に向かってどう生かすか、という問題提起の側面の方が確実に重要性を高めることになる。
 【「ドイツ人不変論」でも「日本人ダメ論」でもなく】

2.ドイツの戦後と日本の戦後―戦争責任問題を中心として

 第2次大戦後の戦争責任問題に関する日本人自身の手による追及が戦後日本で弱かったことの背景としては、次の4つの歴史的な事情があったと考えている。

@戦後の広範な日本人を捕らえた「被害者」意識
Aアメリカの占領政策と冷戦の影響
B高度経済成長の成功を背景として’70年代以降の日本社会に生まれた3つの事態
 @)日本の先進国入りが生んだ脱亜入欧意識の一層の強化
 A)私生活中心主義―中年層以上の生活保守主義と若者のミーイズム
 B)保守的な日本文化論の台頭
C自由民主党の一党優位体制(=政権交代のないデモクラシー)持続

@について
a)基本的な要因としては、明治の絶対主義からの昭和の軍部ファシズムを経て45年の敗戦に至るまでの日本においては、国民は主権者ではなく常に支配の対象であり、その意味で国家政策に関する主体的な責任意識が育ちにくかったという日本独特の事情がある。

b)第2次大戦と日本との関わりの基本的性格に関する理解の曖昧さが絡んでいるものと思われる。
(1) 先の戦争を基本的に肯定する保守ないし右翼の立場から意識的に強調されることの多い「大東亜戦争」
(2) この戦争における日本の立場を厳しく裁く観点からアメリカ占領軍によって提起され、戦後左翼の歴史学を代表する歴史学研究会によっても「次善の」呼称として用いられて広く普及した「太平洋戦争」という呼称
(3) 前記2つの呼称では、この戦争をアメリカに対する戦争としてのみとらえる結果になり兼ねないという理由で、日本のとくにアジア諸国に対する戦争責任を明確にする立場をこめて用いられる「15年戦争」

c)敗戦後一挙に台頭した戦前・戦時の体制への告発において最も重要な理論的支柱としてマルクス主義のファシズム論がある。そこでは、「天皇制」や「軍閥」や「独占資本家」の責任のみが追及されて一般国民の荷担を無視する指導者責任論が圧倒的であった事情がある。

Aについて
 ニュルンベルク裁判(’45.11〜’46.10)は冷戦に左右されずにそれなりに首尾一貫したものになったのに対して、東京裁判(’46.11〜’48.11)はその期間中に始まった米ソ冷戦(’47.3)の影響が加わって、その内部矛盾を一層深めることとなった。

【60年代以降の転換の明暗】
学生運動について
 ドイツ…「保守的共和制」を告発し、戦争責任問題についてもこれを正面から受け止めようとする新しい世代を生み、この世代の知識層がその後のドイツ社会において着実に影響力を広げた。
 日本…日本の「過去」をあまり追及せず、不毛な内ゲバにエネルギーを浪費した。
政権について
 ドイツ…保守政権から社会民主党のブラントを首相とする革新中道政権の誕生。
 日本…革新政党である社会党が100議席を割り長期衰退へ。
侵略国への政策
 ドイツ…東方政策を展開し、東西の緊張緩和に大きく寄与し、ドイツとポーランド間の歴史と地理の教科書交流のスタート。
 日本…日中国交回復するも、過去の明確な清算なしに経済援助の絡みもあって日本の戦争責任問題に進展がなかった。

【日本軍部ファシズムの特質と戦争責任問題】
@日本は国家や軍部の最高指導者といえども、官僚機構や軍部などの既成の組織の内部で出世の階段を登ってきて定められた任期の間だけ組織の頂点にいるという基本的には官僚的な人々であった。
A個人の確立が弱く、所属集団内部の秩序への同調を基本とするという意味での共同体的な組織運営を常とする日本では侵略戦争の出発点となった重要な共同謀議の存在を証明する諸会議を特定できても、その会議への出席者に本人自身の決断に基づく謀議への参加とそのことへの責任意識を求めることは困難であった。

以上のことが丸山のいう「無責任の体系」であり、そこから日本において特定の個人に焦点を絞った戦争責任の追及が困難になるという事情があった。

【責任問題をあいまいにした日本文化論ブーム】
 70年代日本で台頭した「日本文化」論は、日本文化の優秀性を、その高度経済成長への寄与という側面からのみ一面的に強調し、しかも、日本文化の本来様々の外来文化を貪欲に摂取して築き上げてきた雑食性にこそその真髄があるのに、逆に「日本文化の純粋性」まで主張する気配を見せたのである。こうした日本文化論者の主張の中心部分に、「日本の戦争は西欧帝国主義からのアジアを解放した」という「歴史の逆説」を悪用した論理を使ってかつての戦争の肯定と、日本の戦争責任を指摘する立場は「左翼」であるとの論難があった。


おわりに

 筆者は「戦後責任」論から「未来責任」論への転換を主張しつつ、戦後日本において戦争責任問題が正面から取り組まれてこなかった原因を説明する客観的・外在的要因を強調してきた。しかし、われわれが未来に向けてどう取り組むか、ということを考えるときに中心的課題として浮かび上がるのは、やはり我々を拘束する主体的・文化的要因とする。

 80年代ドイツでは新しい国民的アイデンティティの模索を背景として有名な「歴史家論争」が展開された。この中で保守派の主張の要点は、ナチスの残虐はこれまでの主張とは違いソヴィエトの先例に対応するものであったとする消極的な弁明を内容としていて、かつてのドイツによる侵略戦争自体の評価の転換ではなかった。
 一方、日本の場合は日本文化論の主張者たちの言動には「経済の奇跡」を生んだ日本文化の優秀性がかつての戦争で軍事的に敗北した日本に経済的勝利をもたらしたという、より積極的なナショナリズムの主張があったのではないかと考えられる。

 このように見ると日本における戦後責任問題の経緯を見ると、日本文化論レベルの問題点があるのではないかといえる。

【論点】


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