集団の責任

ハンナ・アーレント

1.罪と責任の区別

「集団の責任は代理責任の特殊例である。だが、他人の代わりの罪なるものはあり得ない」(ジョエル・ファインバーグ)
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自分が行っていない事柄に対する責任はあるし、そのことについては責任を負わされうるしかし自ら積極的に関与せずに起こった事柄について罪があったり罪悪感を抱いたりすることはない

→歴史上間違って抱かれる感情
「私達全員に罪がある」という言葉が、現実には実際に罪がある人をかなりの程度無罪放免にする効果しかなかった
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全員に罪があるなら誰にも罪はないのである。

罪は、責任と違って、常に選り抜く。


2.罪が言及するもの

罪が言及するのは、ある行いであって、意図や潜在能力ではない
→「私達が父祖や人民や人類が犯した罪業(sin)、つまり私達が行っていない行為に対して自責の念を感ずるというのは隠喩的な意味でのことでしかない」
・・・とはいえ、出来事の経過からすると、私達はそうした行為に対して罰を受けてしかるべきなのではあるが

自責の感情、罪悪感、つまり疚しさ、不正を行っているという意識は私達の法律上及び道徳上の判断において、そのような重要な役割をはたしているのだから文字通りに受け取れば、リアルな争点を全て曖昧にするインチキな感傷にしか行き着かない、そのような隠喩的な言明は差し控えたほうが懸命と言うことになろう


3.「集団の責任」という言葉のいみ

この語がふくみもつ問題が有している重要性と一般的な関心は法や道徳からは区別された意味での政治的な苦境に負うものである

(法律上の判断の場合)
もし当該の人が組織的な犯罪に巻き込まれたとして、裁かれるべきはこの集団でなくこの人自身である
この場合、集団のメンバーであることが果たす役割は、その事実によって彼が犯罪を犯したことがより確かなものになるというかぎりでしかない
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裁判所の訴訟手続きによって組織の歯車ですら人としてふたたび人になれる
(道徳上の判断の場合)
私に残された唯一の選択肢があるとすればそれは自殺する事だったであろう、という言い訳
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法律上の訴訟の場合のようには拘束力を持たない
・・・責任の事例ではなく罪の事例である

「集団の責任」が必要とする条件
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・私は私が行っていないことに対して責任があるとみなされること
・私に責任がある理由は、私にどんな自発的な行動によっても解消できない仕方で、私がある集団(集合体)に成員として属していること
・・・この種の責任は常に政治的である、つまり共同体全体がその成員が行ったことに対して責任がある事を引き受ける場合であれ、あるいはコミュニティがとうのコミュニティの名の下で行われた事に対して責任を負わされるのであれ常に政治的である
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この事例はよかれあしかれ一切の政治共同体に当てはまり、単に代議政体だけに当てはまるものではない

この意味で、私達は、私達の父祖がもたらす報償を手に入れると同時に、彼らの罪業にたいする責任を負わされるのである
・・・当然だが道徳的・法律的に私達に罪もないし彼らの功績を自分のものとすることは出来ない

こうした政治的な、厳密な意味での集団的な責任を免れうるのは、政治的にはなにも負わされ得ない亡命者や国家亡き人々になることであるが、この政治的に無垢であることによって人類全体の外部に属することになる
→しかし「集団の責任」は重荷であるように見えるが、集団の無責任(政治的に無垢であること)に対してはらわれる対価はかなり高いものであることが示されうる


4.政治的な責任(集団の責任)と道徳的/法的な罪の分割線

・・・道徳的な考察と政治的な考察、道徳的な行動準則と政治的な行動準則とがコンフリクトを起こす事例について
キリスト教の勃興とともに道徳の意味が変化してきたこと
・・・「世界への配慮とそれに結びついた義務」から「魂への配慮とその救済」への変化
道徳は私達の「諸価値」の位階制のなかでのこうした高い地位を宗教的な起源に追っているということ
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人間の振る舞いの道徳的な考察の中心には自己があり、振る舞いの政治的考察の中心には世界がある。ここでの前提条件は私は他者たちと共に生きているだけではなく、私の自己とも共に生きており、そしてこのように私が私自身と共にあることがいわば、すべての他者の上位にたっていると言うことである
・・・宗教の言語が魂について語るとすれば、世俗の言葉は自己について語るのである。
・政治的な行動基準と道徳的な行動基準とが互いに抗争に陥るのには数多くのあり方があるが、政治理論においては、通常、そうした争いは、国家理性の教義といわゆる道徳の二重基準との関連で扱われている

自由国家において認められた「政治からの自由」・・・この抵抗は政策の変更をもたらすであろうと言う希望が存在する限りでは本質的に政治的である
→ここで考察の中心にあるのは自己ではなくネイションの運命と、世界の中の他の諸々のネイションに向けての当のネイションの行動なのである
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世界の政治的な情勢に関与しないことは無責任であるとの非難への論駁には道徳的な理由では決して成功しない
(確かなこととして言えるのは、関与しなかったものは抵抗しなかったし、かれらは自らの態度が何らかの政治的帰結をもたらすとはついぞ思わなかったと言うことである)

良心の自由(不正を行うよりもむしろ不正を蒙るほうがましである、という考え方)・・その不正を行わないことが世界が順境になるだろう、ということでなく不正を行ったもの(私自身)と生きていく気のなさ
(このような議論が納得されるのは腹蔵なく自分自身と生きる事になれている人だけに限られるが)
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最も厳密な意味での政治的な観点からは論駁できない
そして法学はこのような良心を正気の人ならばだれでもがもたねばならないものとして訴えかける、法学はいわばそういった先入見をもっている


5.締め

道徳的な、いわば個人的かつパーソナルな行動基準は、私達が「集団の責任」から免除する口実にはけっしてなりえないだろう。この「代理責任」は、自らの生を自らの同胞のあいだで生きており、行為の力(それはなんといっても優れて政治的な力である)は数多くの多様な人間共同体のうちのひとつにおいてしか現勢化されえないという事実に対して、私達が支払う対価なのである。


瀧川からのコメント:アレントがここで論じているのは、日本国民・日本人といった集団の責任ではなく、個人が日本国に帰属することで負う個人の責任である。それゆえ、Collective Responsibilityを「集団の責任」と訳すのは問題である。


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