第4章 貨幣と商品

2001・11・5
担当:松木謙茂

普遍性のある取りもち役(パンダ)

貨幣が現実にどのくらい重要なのか?
「金銭は全てのことに応ずる」・・・普遍的取りもち役として矛盾するものの間を取りもち「相容れないものを受け入れさせる」。貨幣は交換の普遍的手段であり、非常に便利である。

貨幣の本性は?

価値を表すもの・・・あらゆる価値あるもの、あらゆる社会的財が貨幣の観点で表せる。
しかしものの価値に関心を向けると、容易に値をつけられない、値をつけることを望まないものもある。
→貨幣の抽象的普遍性は削り落とされ、抑えこまれる。

貨幣が買えないもの

貨幣の領域の境界線はどこまでか?

<1863年の徴兵制度>
1863年の入隊・徴兵法のネガティブな慣例・・・抽選で当たり名前がある者でも、代わりの者に300ドル出すなら兵役を免除。
→軍事的奉仕を公共的なものから私的な処理へと変える。
→多数の市民たちの抵抗と憤慨・・・「貧しいものは生命を放棄すべきだと考えているのだろうか」

売ることのできることとできないこととの間の線引きがなされた。

<差し止められている交換> 貨幣の使用を禁じるところではどこでも、「この特別な財は貨幣を使用せずに配分されるべきだ」という権利を確立する。差し止められた交換は富の領土に限定を課する。

差し止められた交換のリスト
1、人間は売ったり買ったりできない。
2、政治的な権力とや影響力は売り買いできない。
3、刑事裁判は売り物ではない。
4、言論、出版、信教、集会の自由は金銭の支払いを必要としない。
5、結婚と出産の権利は売り物ではない。
6、政治的共同体を去る権利は売り物にできない。
7、軍務からの免除、陪審への参加義務からの免除、共同参加になっている他の形の仕事からの免除も、政府によって売られることはできず、市民によって買われる
こともできない。
8、政治的な公職は買うことはできない。
9、警備上の保護や初等・中等教育といった基本的な福祉サービスの購入は欄外においてのみ可能であるにすぎない。
10、「最後の手段での取引」といった絶望的な交換は禁止されている。
11、多種の、公的私的な賞と名誉は購入して手に入れるものではない。
12、神の恵みは買うことができない。
13、愛と友情は買うことができない。
14、一連の犯罪は売買を許されていない。

貨幣が買うことができるもの

貨幣は何を買えるのか?どのような社会的財が公正な形で市場向きなのか?
貨幣は等価の手続きであり、同時に交換の手段である。貨幣がその働きをする、一定の道徳的理解を反映している市場の場が基準となる。

リー・レインウォーターが唱える答え・・・「貨幣は食料、衣服などを買うだけではない。これらの商品の購入が「平均的アメリカ人」としての存在証明の達成と日常生活を可能にする。」それは私たちが「所属性(ビロンギングネス)」と呼ぶものを必要としているからである。
しかし、経済的失敗によって法的、社会的な意味で、市民性の価値を低下させるべきではない。もし低下する結果になるならば、救済しなければならない。
→貨幣の再配分、仕事と収入の再配分によって市場の毒は薄められる。

市場

市場は功績(デザート)を認めない。しかし、市場が提供がする報酬(レワォード)は、提供されるとき、お金を稼ぐための努力に適している。

企業家の勝利は、成功した時に@市場から富を抜き取り、さらに市場から信望と影響力を抜き取る点、A市場の中での権力の展開という点、の二つの問題をはらんでいる。

<世界で最も大きな百貨店>
民主的国家における市場での成功者は貨幣を味方につけており、その成功者が無情で利己的な企業家である可能性がある以上、貨幣の蓄積を制限するある種の方法を必要とさせる。

<洗濯機、テレビ、靴、車>
売り手側の寡占、独占によって、買い手側は無力になりやすく、市場での買い手の要求は届きにくい。
→民主的政治によって市場を制限し、自由交換の名において国家によって市場権力を正しく差し止めるべき。
また、私的な財が勢いを増すと貧しい人々の生活はますます圧迫される。
→再配分の必要性

以上のようなことは市場の決定よりも政治的決定であるべきで、それを行う市民は平等でなければならない。市民の関心は政治的過程の中で表現されねばならない。

賃金の決定

人々が手に入れる値段は労働の有用性と特定商品への需要に依存している。
市場が完全になればなるほど、収入の不平等は少なくなり、失敗も少なくなる。しかし実際の不平等は地位の階層制、組織構造、権力関係に由来している。

階層制、組織、権力が除去されていないで、平等によって中和され、その結果、市場の特別の不平等が目に付くという場合を想像してみると・・・
→民主的な意思決定とその一般的な気風を仮定すれば、収入の格差は大きくならないと期待できる。

再配分

徹底した自由放任の経済では差し止められた交換は維持されず、他の全ての配分過程を支配しようとする。・・・市場帝国主義
→市場配分が適切な限度内に収まらないときには、私たちは政治的な再配分の可能性に目を向けなければならない。この場合の再配分は福祉国家を財政的に管理する際の再配分についてではない。
市場帝国主義の再配分は一種の道徳的な失地回復主義、境界修正の過程と考えることもできる。
再配分の三つの種類
・・・@市場権力に関わる再配分、A税体系を通しての直接の貨幣の再配分、B所有権と所有に必然的に伴う事柄に関する再配分。
           ↓
三つの再配分は全て政治と経済の間での線の引き直しであり、政治の領域を強める仕方で行われる。

贈与と相続

贈与は品物・商品によってなされる。私が物を所有していて、他の何かと(貨幣と商品の領域内で)交換できるなら、私はそれを私の好きな人に与えることができる。

<西太平洋の贈物交換>
トリブタン島の住人達の間での交換関係・・・島の住人達は交易(ギムワリ)と贈物の交換(クラ)との間に鋭い線を引く。贈物交換における悪しき振る舞いを批判するとき「それはギムワリのようになされた」というが、ギムワリにおける成功はクラの場合のその人の地位を強化させる。
島の住民の間では、「得る」自由が「使う」という高度に慣例化された道徳的に強制力のある形に従う。

<ナポレオン法典における贈与>
富は個人だけに属しているのではなく、富の所有者の家族に属する。
→贈与は商品のルールに従っていない。それは親族関係の領域であり相互性と義務の原理に統治されている。ここでの境界線は他のところと同様に引くのが難しい。
  ↓
与える権利と受ける権利は貨幣と商品の社会的意味からでてくる。この二つの権利が相互的でない贈与は、私たち自身の社会で形成されてきたように、貨幣と商品の領域に独特な現象である。
→政治的権威が踏み込んできて、完全に除外はされないが、厳しい制限を受ける。


◆論点

・貨幣が買えない範囲はどのようにして決まるのだろうか。道徳的な要因だけで決まるだろうか。
・贈与と相続は自己の行い、また、市場の原理に関係なく「受ける」ものであるが、自己責任という点からみるとおかしいのではないか。


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