第6章 辛い仕事

担当 綿島大地

1 平等と辛さ

ここでいう辛い仕事とは、人々が求めていない仕事、もしも最小限であれ魅力的な別の選択肢 がありさえすれば選ばないであろう仕事で、そうでありながら社会的には必要な仕事、なされる必 要のある仕事を示す。

それではいままでこういった仕事はどの様にして処理されてきたのか?

1.辛い仕事は地位の低い人々に配分されるという単純な等式化
2.「部内の」異邦人に課する
*「部内の」異邦人…ex)インドの不可触賤民、解放後のアメリカの黒人や家庭の婦人といった存在
    ↓
こういったものは負の財のために影の人々がいるという容赦のない考え方によっている
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それでは一体誰がその仕事にふさわしいのか?

…例えば受刑者の場合において考えてみると我々は「罰」について議論することはできるが、彼らが最も抑圧的な種類の仕事が彼らに割り当てられるべきことは明白ではない。
そして、受刑者達でさえも抑圧に耐えることを強制されない仕事であるのならば、他のいかなる人もそれに耐えるべきでないことは明白である。

それならば部外者はどうかという議論になるが、これも彼らに押しつけるべきではない。
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辛い仕事は一つの帰化の過程であり、為す事により共同体の成員となる。

最も一般的な平等主義の議論…「すべての者がそれをすべき」
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これにウォルツァーは反対する →「複合的な考察をすべき」
…負の財は個々人間でのみならず配分諸領域間でも分配されなければならないので、私達の全員がさまざまな仕方でさまざまなばあいに用立てられなければならない。

2 危険な仕事

…ここでは統計上は死傷者の数が似通っている「兵役」と「炭坑労働」の例をとって、危険の種類による分配について議論している。

・兵役と炭坑労働の主な違い
・兵役…(分配の手段) 徴兵
    (危険の種類) 人間による恐怖=公共的な敵によって加えられた危険

・ 炭坑労働…(分配の手段) 徴兵(的手段)によらない
      (危険の種類) 自然による恐怖=公共的な危険によって加えられた危険ではない

……ウォルツァーはこのような区別をつけ、兵役は市民が共有されるべき仕事であるとし、炭坑労働は救済の費用の分配を受けている徴集兵のように扱うべきであると論じている。

つまり客観上、統計上危険の種類が同じに見えてもその性質によって分配の仕方が変わってくることを述べているのだと思う。

へとへとに疲れる仕事

…ここではまず、兵役の例を用いて市民の兵士は専門の兵士や用兵と比べると国内抑圧の道具になる可能性が少ないという議論から始まる
             ↓
兵役を市民全員に共有させることにより、兵役という辛い仕事を引き受ける人間が不当な配分によっていないことになっているのではないかという議論。
兵役は徴用の形が望ましいが、同じ社会的に必要とされている道路建設などには徴用の形はふさわしくないと考えられていることについての議論

ルソー…「もし彼らが自治を行う共同体の市民でありたいのならば、政治と戦争に加わるのと同様に、社会的に必要な仕事にも加わらなければならない」

ウォルツァー…ルソーのは共同体の仕事のうちどれだけが市民達の間で共有されるべきなのかについて語っていないとし、キブツ*の例をとり、ある「辛い仕事」を市民が一つの団体として引き受ける=徴用される)ならば少なくともその仕事がもつ「軽蔑感」は削りとられるとしたが、最終的にはこの軽蔑はなくならないと述べた。

*イスラエルで行われた仕事の共有を通しての仕事の尊厳化。

汚れる仕事

…“卑しい”とされる階級によってなされている様な仕事。不名誉な仕事。
     ↓
誰が汚れた仕事をするのか?
 …少なくとも或る部分では、そして象徴的な意味では、私達みんながそれをしなければならないというものである。

・汚れた仕事が”汚れ”ている理由

・私達は依然として、辛い仕事をしている仲間の市民達に、彼らをある種の囲い地に閉じこめてしまうような行動のパターン、距離を置くというお決まりの方法をとっている。

・慇懃無礼な態度、断定的な命令、承認の拒否といったものによりごみ運搬人が自分がする仕事で汚名を着せられていると感じるとき、この汚名は彼の目の中に現れる。

・「彼の低い自己で私達を汚すことを避けるために彼は私達との共謀に入る」

・私達は汚れた仕事は汚れ、貧弱な支払いしか受けていない人々によってなされるのを見るのに慣れているので、それをするのは卑しいと考え、また汚れた卑しい階級が存在しなければ、それはまったくなされないだろうと考えるようになってしまっている。
     ↓ ↓ ↓  これに対して

バーナード・ショウの論…それ自体は固有の喜びをほとんどもたらさない仕事の報酬を「余暇」あるいは「自由」の形をとる報酬にする。
             辛い仕事を自分の時間を守りたいと思っている人々にとっての一つの機会として確立する。

ウォルツァーの論…辛い仕事の道徳的性格を変えるための再組織化
          (サンフランシスコ市街清掃業者の例などをとって説明)

サンフランシスコ市街清掃者組合(サンセット組合)

理念 「一つの協同組合を形成し運営しようと企てた…そこにおいてはすべてのメンバーは現実に共同の仕事に携わり、すべてのメンバーが仕事を分担し、他のすべてのメンバーに仕事をすることを期待し、共同の収益を増大させるために最善を尽くす」
…この組合では平均以上の労働条件が提供されており、業界内においても平均と比べて事故率が低い。
 成員は半分ほどが血縁関係による

    ↓
 ごみ収集の第一の「不慮の事故」は尊敬の欠如の内面化であり、他の事故がそれに続くのであると考える
とするのならばサンセットの良い数字は共有されている意思決定と(組合の)所有者意識と関係があるのかもしれない。

  ニューヨーク市のごみ収集

…ごみ収集は広く願望されている職業であり、志願者は公務員試験を受け、その仕事の資格をとらねばならない。
 強力な労働組合化されている。

   ↓ ↓ ↓
ウォルツァーはこれらの「辛い仕事」を『共同の理解』として関心を寄せ、考える。
サンセット組合もニューヨーク市のごみ収集も、「ゴミ」を扱うという汚れた仕事を道徳的に価値ある仕事として再組織化している一例とする。


まとめ

・辛い仕事の問題に対しては、容易な、あるいはすっきりした解決方法はない。
・せいぜい「辛い仕事」と「辛い仕事をする者達の社会層」間の配分諸領域をだめにしないような辛い仕事の配分の提案が考えられるくらいである。
・負の優越を許さないこと、これが団体交渉、共同管理、職業上の対立の、すなわち辛い仕事の政治の目的である。


論点

“汚れる仕事”の所でその定義として“卑しい”とされる階級によってなされる仕事、不名誉な仕事、とされバーナード・ショー、ウォルツァーは論じているが、その“汚れる仕事”として「風俗関係」、「性の売買」といったものには当てはまらないのか?
そして、あてはまるとしたら両者の論では論じきれてない部分があるのではないだろうか?


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