第7章 自由時間

担当 綿島大地

余暇の意味

・上流階級の余暇:
 ・富と権力の獲得ではなくてその誇示のため。
 ・「時間の非生産的支出の効果的な証拠」を積み上げる必要。

…いずれにせよ上流階級の無為は複合的平等の条件下ではそれに必要な社会的財の集中もないであろうし、要求に応じられるものではないであろう。無益さはその社会的価値が低くなろう。しかし、なにもしないこと、時間をぶらぶらとして過ごすことは少なくとも時には良いことである。そうする自由は配分的正義の中心的争点である。

・ほとんどの人々にとっての余暇

一般的な理解:余暇は単純に仕事の対立物であり、その本質は無為。
もう一つの理解:すること何もないという意味であるわけではなく、しなければならないものは何もないという意味。=“余暇は無為を意味しない”→故に余暇の生活と矛盾しない生活の形もある。

余暇の特徴

・非生産性を余暇の中心的特徴とすることは、余暇の意味に非本質的かつ自己主義的規制を加えることになる、それ故、人間活動がその内側から方向付けられていることに特徴を見いだすことのほうが外的目的や物質的成果をもっていないということよりも重要になってくる。
         ↓
それ故「仕事」を「自由な活動」として、その時間を「自由な時間」として述べることが可能となってくる。

・マルクス:「外的な目標が単なる自然の必然性として現れることをやめ、個人が自分で選べる目標になった」とき、障害の克服は自由の実践になりうることがある。

…しかしながら、依然として仕事と休息のリズムが人間的幸福にとって決定的に重要であり、少なくともある人にとっては彼らの通常の仕事からの休憩がないと、種としての生活が保てない、そういったことが問題となる。
人々は「仕事の停止」という狭い、そして慣例的な意味での余暇を必要としている。

休息の二つの形態
“休息”として、全ての者がまったく同じ量の自由時間を持つことは求められていない。現実には人々の行う仕事に多くの種類があるとすれば、相当の多様性はあり得る。故に、いろいろな種類の仕事と働く人に関する複合的な議論を展開すべきである。
             ↓
休暇と安息日と大きく二つにわけて議論


1.休暇(の短い歴史)

・私的な休暇を意味する休暇(ヴァケイション)の使用は1870年代に遡り、「休暇を取る」という意味to vacation という動詞は1890年の末からである。
・「休暇」はすべて貴族が宮廷や都会から田舎の屋敷へ退くことをブルジョアが模倣したことからはじまり、すぐに都会と町からの逃亡それ自体が人気となった。

○休暇の性格
・休暇について決定的に重要なことは、その個人主義的(あるいは家族的)性格である。各人が自分の休暇を計画し、行きたい所へ行き、したいことをする。
・休暇は商品であり、その選択は購買力によって制限を受ける。
・休暇が社会生活と文化の中心的特徴になってくると、或る形の共同の用意が必要になってくる。Ex.野生動物と荒野の保全・公園、海岸、キャンプ地などへの税金の支出
・休暇は特定の時代の特定の場所における一つの人工物である。

2.安息日(の考え)

◎性質

・共同の財、すべての者の共同の財産
「家族の共同体に収容されている奴隷でさえも、国民的共同体に収容されている異邦人【居留外国人】でさえも聖なる休息に加わることを許されるべきである」

・資本主義以前の経済においてさえも、各人に休息を押しつけることなしに休息を保護することは難しいことだったことは真実である。

・安息日の休息はそれが購入はできないものであるゆえに、休暇よりも平等である。
      ↓ ↓ ↓
しかしながら、これらの性質といったものは平等と自由の喪失が同時に進行する一つの例と言えるかもしれない。
      ↓ ↓ ↓
例であるかもしれないが、安息日の歴史的経験は不自由の経験ではない。祝祭日は成員たちのためのものであり、成員達は法の限度内で自由であり得る。少なくとも法が約束、社会契約であるときは、たとえその約束が個人的に構想されたものではないとしても、成員は自由であり得る。

●人は公共的な祝祭日に対して私的な休暇の方をとるのだろうか?
・祝祭日が可能な共同体であれば、祝祭日は存在するであろう。それは共同体を作る共同生活の一部であろう。休暇という言葉は私達がこのような共同生活からどれほど離れてきてしまっているかを示している。→私達は「空っぽの日」つまり休暇を切望している。

まとめ

…祝祭日と休暇は自由時間の配分の二つの異なる仕方である。休暇は仕事との対照が必要であり、仕事は休暇が与えてくれる満足の重要な部分であり、祝祭日はイデオロギー的なものである。

大事なことは、自らの時間と場所にとって不可欠な休息が排除されないこと。
休暇が不可欠なのであるならばそれを享受すること。共同生活があるところでは共同生活に形を与えてくれる祭りに参加できること。
道徳的に必要なことは、その公正で道徳的な構造がどのようなものであるとしても、マルクスが資本の「侵害」と呼んだものによって歪められておらず、備えが求められているのに公共的な備えが整っていないことで歪められておらず、あるいはまた奴隷、外国人、賤民を排除することで歪められていないことである。

論点

現状として、参加を義務付けされた『祝祭日』は地方とかに行けばあるかもしれないが、都会などでは見うけられないと思う。そうである一方、『自治会』や『近所づきあい』を商品としたマンション販売などが人気となったりする。成員が参加する『祝祭日』はあったほうが良いのか?
またあったとして参加義務の程度はどれくらいであればいいのか?


Copyright (C) 2000-2010 大阪市立大学法哲学ゼミ
http://www42.tok2.com/home/takizemi/

2001年度スケジュールに戻る