第8章 教育

平成13年11月26日
A01J301 松尾元治郎

学校の意義

人間社会は、社会を存続させる為に子供達を教育する。
学校は既成の階層別、支配的イデオロギー、現在の労働人口を再生産するだけなら意味はない。それは家庭でも出来る。
学校は社会との間に中間の空間を創り出し、そこで、社会の批判的理解の展開の為の、社会的批判の再生産だけでなく社会批判を創り出すための場として作用する。
学校運営の論理と社会における経済秩序、政治秩序の論理とは相違するから学校は社会からの圧力とは独立して自律したものでなければならない。
教師は、彼等が理解する真理を教え、そして、学生達の社会的出身に関係なく、最善を尽くして問いに応ずるものである。
しかし、社会はともすると学校へ影響を及ぼす。
学校は知的訓練の場であり、教える者には、特殊な資質が必要である。

<アステカ族の「青年の家」>
アステカ・インディアンの教育制度には、二つの種類の学校があった。
一つには「若い男たちの家」で多くの男子が参加し、社会の普通の構成員により管理されていた。
もう一つは、選抜された子供達を対象にしたもので、僧院と寺院に結びついていた。そこでは、より真剣で、より厳格で、より知的な教育がなされた。
前者は社会的再生産のものであり、後者はエリート教育の為のものである。後者の存在は、野心的な庶民によって、熱心に求められたものと思われるが、これは肯定したい。

基礎的学校教育ー自律と平等

大半の子供達は、少数者の為の媒介的教育と多数者の為の直接的教育に分けられてきた。支配者と被支配者の再生産である。
多くの場合、学校はエリート制度であり、出産、血統、富、性、階層性での位によって支配され、宗教的・政治的公職を支配してきた。
しかし、これは学校の内的性格からみて疑問である。教師の観点からみると、ある教義は、特定の者にではなく、自主的にそれを習う能力のある者には平等に教えられるべきである。
学校は社会から隔離された自律的なものであるべきである。

<屋根の上のヒレル>
学校は何の為にあるのか。
学校が市民として必要な知識を授けるのであれば、市民は全員学校へ行かねばならない。それは単一平等であり、市民の単一平等と相関している。彼等の教育は、両親の社会的地位や経済能力とは関係ない。
しかし、学校の内側から考えるなら、知識獲得の必要性は、知識配分の唯一の基準ではない。少なくとも関心と能力が同じくらい重要である。
そして、理解する能力に応じて識別する必要が生じてくる。
こうした識別にどう対応するかは学校の目的とカリキュラムに大きく依存する。

教師達が、民主主義を理解しているならば、学生達を同じ様なレヴェルに高めようとする。学生達も市民として知っておくことの必要な課目を学ぶ。学校教育は少数者の独占でなく、社会での等級と職務を自動的に決めるべきものでもない。学校教育を受けたからといって、特権を持ちえない。それは政治的、社会的生活を共通の形で普及させる。教師は、全ての学生は関心を持ち、学ぶ能力があると仮定して、伸びる力を開花する様に努める。
学校の民主的実践によって、共同体の民主的責任は果たされる。学校は、最初から学生を識別しない。

<日本の事例>
ウィリアム・カミングズの意見を紹介し、論評を加えている。
学校は団体のそして政府の侵入行為から守られている場合のみ、本物の共同教育を提供する事が出来る。日本に於いては、強い教職員組合が社会との防波堤の役目をなしている。
(1) 初級のレベルには専門科目の教師はおらず、能力別学級編成も実施されていない。低学年での学校内の区別は、弱い学校の(あるいは教師達の職業への確 信のなさの)しるしである。
(2) 生徒達は、お互いに教え合って、或る共通の学習基準まで高めようとする。
それは生徒達を学校の中心的営みの中に組み入れ、習熟度が例外的に低い生 徒数を最小限にする。
(3) カリキュラムの水準は低くない。学校が弱く、階層制社会の圧力が及ぶ時は低くなる。それは最小限の教育で 満足する労働者を求める企業指導者の要求、親たちの無感覚と無関心、上流階 級の親の尊大さ等に起因しており、集団の社会的再生産に他ならない。
(4) 学校の維持は全ての者の責任である。共有された学習と共有された仕事は、ともに分業よりも市民の世界をめざしている。それは分業に存在している優劣 の比較を思い留まらせる。
民主的な条件の下での標準的な学校教育の成果は、必要な基礎的知識を教えられ、学習の経験自体が民主的であり、それは、個々人の達成だけでなく、相互性と友情という報酬をもたらす。
ただ単に読み書きだけを教える教育は、古い区別が再生産され、階級社会の基本的構造が維持される。

専門化した学校

民主的教育は単一平等で始まる。しかし、学力が一定の水準に達すると、その後は個々の 学生の関心と能力に応じて教育は行われるべきである。
教育をあまり必要とされない者と、親の力により将来に備えての高い教育の道へ進む者と 早い段階で分けてしまうのは民主主義的観点からは好ましくない。その意味では就業年限が伸びたのは平等に寄与している。
平等の市民性は共同の学校教育を必要とするが、一定の学力以降は各人の選択にまかせるべきだ。職業を望む者は職業に。学業を続けたい者には、学業継続を認めてもよいが、費用 負担は共同体が負担するものではない。
共同体が、大学での一般教育を負担するのであれば、大学に行かない者にも同じ教育の負担をすべきである。

民主主義にふさわしい唯一の基礎的教育の拡大は、真の機会、真の知的 自由を提供する拡大である。それは慣例的に集められた学生達の為だけでなく、他のすべての者たちの為でもある。このレヴェルを特定する事は出来ないが、「生活についての正当で人間的な振る舞い」というもののために制限なく学べる事は良いことである。しかし、その者を試験により少数にしぼってはいけない。
しかし、特殊なあるいは専門的訓練に関しては、事態は異なる。選別が必要である。理想としては、関心と能力のある者を、教育可能である間はすべて教育する事であろう。
でも、専門的な学校教育は、いつまでも続くものでなく、一つの領域の知識に精通した時に終わる。費用負担、教育場所の限定はあるが、学生は公的な学校で公職担当の準備をしている間は可能な限り平等に扱われる。
専門的な公職には一層の教育が必要であり、普遍的な公務員試験等の選別が必要となる。
上級の地位を求めての競争が激化されるに伴い、既成エリートは早期選別を要求するが、子供によって学ぶ速度も、目覚める年齢にも違いがあるから妥当でない。
高い教育と階層性の中での高い地位との結びつきを教育は要求していない。専門教育は才能ある者を独占するが、識別は避けられない。学校の仕事である。
識別で得られるのは、富と権力でなくて、権威と信望である。

<ジョージ・オーウェルの学校時代>
予備校「クロスゲイド」は自律的でない。
ハロー、イートンの要求に合わせてカリキュラムを創り、親の偏見と野心が学校内の社会関係を型どっている。
富と階級の専制の完全な一例である。商業的経営の予備校はそうなる。社会から自律した環境でなく、貨幣が重きをおいている。
パブリック・スクールが世に出るための一つの手段に過ぎなく他にも方法があるとしたら、予備校の存在意義はなくなる。
学校が自由であるためには、種々の観点からの制約が必要である。

結合と分離

子供達は子供達の将来の目的に応じカリキュラムが決まり(結合の原理)、また、それにより学校、クラスへの配分(分離)がなされる。親の職業、富、政治的、宗教的コミットメントと関係なく無作為な結合による自律的な教育的共同体を考えた場合、生徒以外の何者でもない子供を作り出す必要があるが、それは専制的な社会でのみ可能である。
自律的な学校は媒介する制度であり、親との緊張関係にある。義務教育では、親の主張は 制限される。
教育の目的は学問があり、共同性のある人の育成である。
媒介する制度の性格は、媒介する社会的諸力への関連によってのみ決定されうる。

合衆国では、基礎教育の諸要求と配慮の平等とが、人種的、宗教的、民族的多元主義と衝突している。
全体としての共同体にとって、また、子供達にとってどういった種類の学校が最良なのか 意見は一致しない。親が相異なる教育哲学を持っている子供が、同じ学校に行くべきなのか どうかは一つの問題のままである。基礎教育の場合、子供達を一緒にする理由は必要性である。学校は民主社会の中で、大人の人々の結合を予想した結合のパターンを目指すべきである。
これは、無作為性を排除する。大人は関心、職業、血縁等と無関係に結合しないからである。
※これでは、単なる社会の再生産になるのではないであろうか。

<私立学校と教育回数券>
アメリカのリベラリズムは、全ての子供に同じ教育を求めていないし、私立学校の存在も認めている。
教育の選択は子の成長を願う親の考えによって決まる。親には経済的な差があり、望むようには必ずしも行かない。この不平等を解決するものとして「回数券計画」がある。
しかし、回数券計画は「なんら強力な地理的基盤や習慣的忠誠心はない、多数のそして変化しつつある多様なイデオロギー的な集団がある社会」をめざす事になり、健全な民主社会を形成しない事になる。
親の自由な選択は政治的割り当てよりも劣る。子供達は国家の職員によって、一般的な慣例を実施する政府の監督官達によってのみ保護されうる。基礎的な教育の在り方は公共的に討論されねばならない。
※「回数券計画」が何故上述の様な結果に終わるのかは理解出来なかった。

<才能の通路>
才能に応じて進路可能なのはアメリカ自由主義における原則である。しかし、聡明な生徒が他の生徒に良い影響を与えるなら同一教育も許される。能力別学級編成は、科学者達の早期補充に有益だが、まず人々を一人前の市民にするのが先決であり、早期の実施は疑問である。
社会は階層性の上下、才能の有無等が混じり合って存在しており、それが民主社会を組織している。公共的生活、民主政治の為にも能力別学級編成は問題である。
限定された形での分離は認められるとしても、区別を全面的にして二階級の制度を作るのは望ましくない。初期段階に行われるとすれば、既存の階級制度の再生産になる。学校の自律制の否定である。合衆国では、人種集団の階層制を生み出す危険性がある。不平等の倍化であり、それは民主政治にとって特に危険である。

<教育施設の統合とスクールバス>
学校の性格は子供達の社会的配置により決定される。これを避けるには学校を近隣空間から分離する事である。また、教育施設の統合及び構成する子供達の種類に応じた比例配分が必要となる。
しかし、黒人活動家の主張は自分たちの地域社会の存立を望む。黒人同士なら相互補強が可能だからである。この考えは集団的同一性の教育を進め、分離主義に通じ好ましくない。
多元的社会を認めるなら、子供達の教育は集団に依拠する形となる。家族によって具体的に表される集団の特殊性に対し、国家はすべての集団の共同と相互関係を必要とする。学校は一方で多元主義を尊重し、他方で協同の為の諸々の可能性を開いておく仕方で子供達を一緒にすべく機能しなくてはならない。多様な種類の子供達が学校の中で互いに出会うことが必要である。
民族的分離主義を修正するためには、地域を結びつけるバス通学が必要となる。

<地域住民の学校>
子供達は、親の支持する学校へ行くが、学校は、政治的責任、専門的責任を負った教師達によって教育される特殊な知的訓練の場であり、親はその結果に満足しない。
地域住民の学校は、地域の政治的影響により必ずしも同一ではないが、そこでの教育は保障されている。
学校における多元的社会の葛藤を治めるには、国家の役割が必要であるが、そこには学問的主題の誠実さ、教育の専門性、平等な考慮の原理による制約が必要である。政治の専制は、学校教育の価値を堀り崩す。

論点

1 学校は、社会における既成の階層制、支配的イデオロギー、現在の労働人口を再生産するためのものでなく、将来の社会発展の為に存在する。したがって、社会とは離れた自律したものでなくてはならない。

2 学校は、上の階層に属する親からの階層維持の為の要求がなされても屈すべきでない。

3 才能による学級別編成は、子供の発育状況もあり、また、社会の再生産に通じるので初期段階で行うのは好ましくない。

4 エリート教育、専門教育は社会の構成上必要であるが、基礎教育の後、能力に応じて行なわれるべきである。

5 教育があるという事は、富と権力にではなく権威と信望につながるものである。

6 多元的社会の存在から学校へ様々な要求がなされ、それに対し一般的な基礎教育の必要上、国家が関与するが、それには一定の限界が要求される。

担当者の意見
1 親の経済力に左右されずに教育がなされるというのは賛成である。

2 教育があるということは、必然的に富と権力につながるものではないか。

以上

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