17/dec/2001 担当 山田智史

第12章 政治権力


主権と制限された統治 p425

主権:人々が追求する財の一つにすぎないだけでなく、国家権力としてそれは、権力自体をふくめて、あらゆるさまざまな追求が統制される手段となる。
      ↓
権力は維持されるべきであるという要請と、それは抑制されるべきであるという要請が同時に存在する

専制政治:
・国家権力が富、才能、血縁、性によって植民地化された状態
・あらゆる配分領域において境界線においてだけでなく、それを越境したところにおいても、権力を優越させるために彼のエネルギーのすべてが捧げられる

権力の閉鎖された使用 p427

・権力の他の領域への転用を制限し、其の使用を抑制し、政治領域での交換の封鎖を明確化するために、たくさんの政治的、理論的エネルギーが費やされてきた。
・力(force)と政治権力(political force):
・主権についての共通の理解のリスト(各政治文化によって常に複合的で、微妙な陰鬱があるが)
例)アメリカのリスト 
→国家の境界線を定め、統治権力と他のすべての領域との境界線を定める→自由に加え平等の効果
→制限された政府は封鎖された交換と同様に、複合的平等への決定的に重要な手段の一つである。
         ↓

知識/権力 p429

制限を加えられた政府は政治の領域における配分を決定しない。
誰が国家権力を所有し、行使すべきなのか?
a.その使い方を最もよく知っている者…(政治共同体についての)特別な知識をもつ者
b.その効果を最も直接に経験する者…市民

国家という船 p431

プラトンの「テクネー(技術)による政治」のアナロジー
民主制の市民たちは統治の舵取りをめぐって争い、自分たちを危険に落とし入れる。権力の行使に「本来的にかかわりのある」特別な知識をもつ者に統治は委ねるべきなのである。

・「本当のアナロジーは一人の政治家による政策の選択と、船の所有者あるいは乗客による到着地の選択との間にある。」(レンフォード・バンブロー)
・政策に関する限り、政治家と水先案内人が知る必要があるのは、人々があるいは乗客が欲していることは何であるかである。
・政治権力を行使する決定的に重要な資格は、人間の目的へのある洞察ではなくて、一定の人間たちへの或る特定の関係である。

→権力の適切な行使は、市民たちの市民的意識あるいは公共的な精神と調和した全市民による方向付けにほかならない。(←それ以上に良い判断力はありえない)
→特別な仕事のための特別の知識をもった人々とは、支配者の代理人ではなく、市民たちの代理人である
→権力の所有はbによって行使の代理をaが行なうべき

※特別な知識はそれ自体が専制的なわけではない
訓練の制度 p434 科学と社会科学は一種の権力を、特定の制度、環境の中(軍隊、病院、警察署、学校)で有益でまた必要でさえある権力を生み出す。しかし、この権力は常に主権によって制約を受けており、それ自体が社会の意味についてのより広範囲にわたる理解によって生み出され、性格付けられている。 (到着地のすでに決まっている船の水先案内人)

所有/権力 p439

所有権…事物に対するある種の権力
    人々に対する権力をいろいろな種類と程度においてともなう
権力としての所有権…現実の所有ではなくて、物の所有に仲介された人々の管理
→主権についてともなうのは他の人々の意思(到着地と危険)に対する持続的なコントロール

私的所有と私的な政府
封建制度…土地の所有者がその土地に住んでいる人々に対する懲戒的な直接的な権力行使の権限をもつ。

1789年…全体としての政治的共同体によってのみ権威が与えられると思われていた一定の種類の意思決定を取り除くために、所有権という世襲財産が再定義された。
Ω今日の社会生活が組織化→「経済的」活動と「政治的」活動に分化
 →資本主義の所有権は依然として政治権力を生み出している。

会社や工場 <所有者が非所有者に規律を守らせる>
      正当性…所有者故に避けられない危険の甘受、企業的熱意、創意工夫、資本投下
      労働者は自分の意思で所有者と関わる
都市や町  企業家的エネルギー、企て、危険の甘受によって作り上げられている。
      市民は自由な居住が許されている。
→都市や町も所有権が、政治権力を受け入れるための基礎となるのではないか?
     ↓

イリノイ州のプルマンの場合 p445

ジョージプルマンは一つの模範的な町、計画された共同体を作った。そして、そのすべてが彼のものだった。
・すべての決定が、所有者であるとともに管理(統治)者である一人の人間に依っていた
・プルマンの住民の地位は民主政治と両立する地位ではない。
→政治的共同体というのは、自己尊重が市民性と密接に結びつき、共同体の行き先と危険(地域の目的や危険さえ)についての決定が共有されていると考えられるもの→外国人労働者

彼は封建領主というより専制者
1898年
イリノイ州最高裁判所…「会社を所有するのではなくて、ひとつの町を所有するということは、われわれアメリカの制度の理論と精神に矛盾する」として、生産目的に使用されていない財産すべての放棄を命じた。
  ↓
・町は民主的に統治されなければならなかった。それは所有権が住民を奴隷的にするからではなくて、住民がアメリカ市民としてすでに所有している権利のための闘いを、まさに所有権が彼らに強く促すゆえにであった。
・民主主義が求めているのは所有権が政治的に流用されないこと、所有権が主権、権威的命令、人々への持続的な管理のようなことへと変形されるべきではないということである。
↑この点において、都市と工場の原理(産業的民主主義に向けてのあらゆる要求の道徳的基盤)は同じである。
権威の決定について、反対する、選択の自由があるということが重要

政治と経済の境界線は、居住と仕事の間の相違に関係しているにちがいない。
 例)オーケストラの指揮者と演奏者の関係
 労働者は所有権に服し、居住者は自らを治める。
「居住人(政治的共同体)は市民であり、労働者(経済的共同体)は居留外国人である」
  ↓
経済的な企業体はそれが共同行為の場であるかぎり、町と似ている。
  地主→家族:課税、立ち退き  →公共的討論、選挙された公職者、正当な手続等の権利が保障される必要がある。行使そのものは不当ではない
  所有者→労働者:解雇、残業

労働者が工場内で主張する自律(政治的支配は必ず一定の自律を伴う)とはなにか?
→国家レヴェルで組織される産業民主主義
 企業は或る地点で企業化の管理を離れ、権力の正しい配分に精通した民主的な考えに応じて再定義されなければならない???

民主的な市民精神 p458

政治の領域においての自律性は民主主義という統治形態にある
市民は自らを統治(govern)しなければならない。
→統治は単一平等ではありえない(民主主義は単一からなるシステムではない)
→民主主義は権力を割り当て、その使用を正当化する一つの方法
→それは市民たちの間の議論によって決められることが重要
  ↓
完全に民主的な決定というものは、政治的に最も技量のある市民たちの願望に最も接近するのであろう。
民主政治は政治的人間の独占物である。
 ↓
独占を避ける方法…クジによる公職担当者の選出

例)アテネのクジ p460

   アテネの公職はクジによって無作為に選出される市民によって行なわれたが、最も重要な公職(広範な思慮深さが求められるもの。法律と政策)は討論と投票によって配分された。
   →クジは政治的権力ではなくて、行政的権力を配分していた

政党と予備選挙 p462

権力は説得に属するので政治的人間は避けられない

ルソーの議論…「市民は十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに意思を少しも伝え合わないなら(徒党を組むなどのことがなければ)常に良い決定に達する」
→現代テクノロジーは個々の市民たちを政策決定と公職の候補者とに直接に接触させるようなことを可能にしている。例)テレビ討論会と即席の投票
⇒意思決定への参加の偽りの、そして究極的に堕落した方法である。

予備選挙:自分の支持する候補者を支持する代議員を選ぶ方式。
     候補者は自分の訴えを節合された構造を通してでなくて、マスメディアを通して行なう。
→政党組織、ボス連、ゆるぎない地位の政治家などの影響力を最小限にし、個々の市民の影響力を最大化することができる。
Ω予備選挙は選挙に似ている。それぞれの市民は一投票者であり、各投票者は他の投票者と平等である。
党大会:地方の有力者や党の活動家などが数日間に渡って集会を重ねながら代議員を選出する方式
    参加者と支持者の間の距離を縮めており、議論の求心性の維持に役立つ
  Ω党大会は集団(party)に似ている。市民は自分が寄せ集めることができる権力をもってやってくる。権力を寄せ集めることは投票ができることよりも、政治過程により深く市民をかかわらせる。

ω参加の一層強い形を求めるこの議論は複合的平等の主張である。
ω例え不平等であっても議論と討論に参加することは、単一平等のためにそれらを廃止するよりもよいことであるし、より満足できることである。
ω民主主義は平等の権力(power)ではなくて、平等の権利(right)を要求する。
…権利=最小限の権力の行使(投票権)とより大きな権力の行使の努力(言論集会請願権)の機会
  ↓共有されているのは権力ではなく、権力を行使する機会と場
個人はそれぞれ原理、思想、計画をもっており、同じ目的を持った人々と協同し、また他の目的をもった人々と対立する。個人あるいは個人とその同胞は目標の探求のために、その対立に優位にあろうとする(不平等な権力を行使する)ためのあらゆる手段は全く正当である。(他の領分を使っての優越は除く)
  ↓
市民は潜在的に参加者であり、潜在的に政治的人間である
  ↓
市民的精神と自己尊厳の関係
市民は自己にもつ原理が求めるときは政治的闘争に加わり、権力の行使と探求の中で協同したり張り合ったりできる存在であると自己で認識することで自分自身に尊厳をもつ。また、政治敵領域以外においても権利の侵害に対抗することができる者として、自分自身に尊厳をもつ。
↑抵抗はそれ自体が権力の行使であり、政治は他のすべての領域がそれを通して規制されるところの領域だから
 ↓
市民はしかるべき時に仲間と協議し、耳を傾け、そして傾けられ、自分がいうことすることに責任をもつといった用意と能力がなければならない。
権力の意識が道徳的活力の一つの形として認められる。
        ↑市民性の創出→専制のおわり


第13章 専制と正しい社会

正義の相関性と非相関性 p470

正義は社会的な意味に相関している(⇔各人を公平に扱う古典的な非相関的な定義)
配分的正義についての実質的な説明はすべて局地的な説明であり、調和的である必要はない。
例)カースト制度が成員たちの共有された了解(understanding)に基づいている時、「正しい」社会、正義とは、カーストの儀式的純粋性に基づいた社会であり(例えば分け前について当然に不平等があるのは正当である)それは外部的、普遍的な原理に基づくものではない。
・より良い正義を比べることはできない
・専制と正義の違い→社会的材を享受するために、権力行使、陰謀、暴力を必要とするかどうか
   ↓
全体主義…画一化、すなわち当然分離しているべき社会的な財と生活の諸領域の体系的な同等化であるため、高度に分化された社会でのみ可能(?)
Ω「当然そうあるべきought」という圧力から生じる不平等に正義の理論はあてはめられない。
   ↓
複合的平等は全体主義の対立物である…「最大限の同等化に対立するものとしての最大限の分化」

二十世紀における正義 p476

平等主義的政治の現在の形は資本主義と貨幣の特殊な専制とに反対する闘いに起源がある
→金権政治(全体主義より恐れるものではない。) 
 ↓ 
それらへの抵抗→金権政治の集中化に対応してある点では政治権力の集中を必要とする(運動や政党による国家の掌握)→金権政治が打倒された場合、国家は衰えるのか?
      ↓衰えないためには…
配分の独立宣言(配分諸領域の真の自律)
原則的には、運動と国家は、独立性をもった機関である。もしそれらが自己尊厳をもった市民たちの手の中にあるならば、現実においても、独立した主体であるだろう。
    ↓
Ω複合的平等は市民たちが材の範囲で自分の権利を主張する能力、自身の意味の感覚を擁護する能力に依存している。<非集権的な民主的社会主義 democratic socialism)>
  →この種の制度は、その中で安心感を感じ、それを守ろうという用意のできている人々がそこに存在することが必要。(永久的な警戒)

平等と社会変動 p479

調和の観点から見た複合的平等→相異なるどのような社会でも、正義がまず分離に寄与する場合にのみ、正義は調和に貢献する。(異なる領域に適合している原理はお互いには調和しない。)良き囲いが正しい社会を作る。
・その囲い、境界線は人工的で、社会的な財についての世間で認められている理解に基づいて修正されるもの
・分化・差異(differentiation)事実と複合的平等の議論そのものが変わることはない。

優越とそれに伴う不平等に反論するためには、問題となっている財と、これらの財について共有されている理解へ留意することがまさに必要なのである。

複合的平等と自己の尊厳
・正義に関する広い概念が必要としているのは、市民たちが或る領域では支配し、或る領域では支配されるということである。(ここでの支配は財の分け前が多いということ)
→諸領域の自律がどのような仕組みよりも社会的財の共有・割り当てに寄与し、支配されることと自己の尊厳を保つことの両立を築く。
        ↓
優越化を伴わない支配(rule)は私たちへの侮辱ではなくまた、私たちの道徳的あるいは政治的可能性への否定でもない。→複合的平等の持久力の源泉である。


<第12章の論点>

¶電子端末による直接選挙制は理想的な手段ではないのか?
→ウォルツァ−は真の民主制(直接民主制)を「意思決定へのいつわりの、そして究極的に堕落した方法である」(P463)と考える。
    ↓
単一平等のための平等の権利(投票権)をウォルツァ−は否定していない。

¶市民(乗客)になる資格について
ウォルツァ−の政治権力に対する考え方だと、「国籍」を基準にするのはおかしくないか?
→町や都市も所有権が政治権力の基盤となるべきではない。といっている。所有権は国籍に置き換えられるのではないか?

<第13章の論点>

¶非集権的民主主義は各々の財の範囲で市民の能力に依存している。
→やはり正しくない決定があるのではないか?
→特に主権の範囲について問題になるのではないか?
・市民の政治参加意志の低さ(情報中心→衆愚政治への畏怖)
・地域エゴ

¶専制を防ぐ手段は?
 複合的平等は市民たちの自己の権利を主張する能力だけに依拠

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