2002 瀧川ゼミ
平成14年4月22日
担当:中 充

J・S・ミル『自由論』 
第一章 序説


主題:市民的・社会的自由(社会が個人に対して正当に行使しうる権力の本質と限界)
従来の自由の意味=政治的支配者が社会の上に行使することを許された権力に対してかける制限
これらは
@政治的自由または権利(一種の責任免除の承認)
A憲法による抑制の確立
という制限方式の途をとった。
@については多数のヨーロッパ諸国で認められたが、Aについてはそうはいかなかったため、この第二の方式を獲得することが自由を愛する者の主な目的となった。そして人民は彼らの志望をこの点以上に押進めることはなかった。

しかし人類の状態の進歩とともに、統治者が利害の点では人々自身と対立する独立の権力であることをよしとしない時代が来た。
→選挙の要求・・・統治者と人民が同体となり、統治者の利益と意志が国民の利益と意志とならねばならない。(人民は自分自身に対する自らの権力を制限する必要を持たない)

だが、権力を行使する人民は必ずしも、権力を行使される人民とは同じではない。
人民の意志とは大多数者または自己をそのように認めさせることに成功した人々の意志である。それ故人民は人民の一部を圧制しようと欲するかもしれない。
→個人を支配する政府の権力を制限することは、権力の保持者が社会に対し正式に責任を負うているときにおいても、まったくその必要性を減ずるものではない
「多数者の暴虐」は、官憲の行為を通じて行われる場合と、社会自らが暴君となる場合とがある。
→官憲の圧制のみならず、優勢な意見と感情との暴虐に対しても保護を必要とする
☆個人の独立に対する集団的な意見の合法的な干渉には限界が必要であり、そしてその限界をどこに置くべきか、つまり法律・世論によってなされる行為の規制がいかなるものでなければならないかという問題が浮上。

これまでその規制は習慣の効力により自明のもの、容認できるもので、その理由を説明する必要のないものと考えられてきた。
そして実は、行為の規制に関する意見の根拠は、個人の好みでしかないのである。
(普通人にとって多数者が自分と同じ好みを持っているということに支えられた彼自身の好みというものは、完全に満足すべき理由である)
また、社会または社会のある有力な部分の嗜好と嫌悪とは、法律または世論による刑罰をもって一般人の遵守すべきものとして定められた、諸々の規則を事実上決定してきた。
※中でも宗教的信仰の領域においては、意見の相違にたいする寛容はほとんど実現されていない

イギリスにおいては、新たな法律によって個人が統制されそうになると、その問題が法律上の正当な範囲内にあるか否かを弁別することなく大きな反感が起こる
→政府の干渉の適不適を慣習的に吟味するための承認された原理が存在しない
ミルはここで、およそ社会が強制や統制の形で個人と関係するしかたを絶対的に支配する資格のあるものとして一つのきわめて単純な原理を主張。

<原理>
個人の行動の自由への干渉を正当化できる唯一の目的は、自己防衛である。 
単に彼自身だけに関係する部分においては、彼の独立は絶対的である。

但し、個人が強制的にそれを行わされても正当である他人の利益のための積極的な行為も多数存在する 例)法廷での証言、共同の防衛でのつとめ

☆個人自身にのみかかわりをもつ行動の領域こそ、人間の自由の固有の領域である
 @ 意識という内面敵領域(良心、思想、感情の自由など)
 A 嗜好および目的追求の自由
 B 個人相互間の団結の自由

これらに対する侵害は自然に消滅してゆく傾向のある害悪ではない。侵害するような権力を持たせないということ以外には抑制できないのである。


論点

1. パターナリズムが正当化される余地はないか。
2. 危害原理の例外として一定の人間的・社会的義務と責任を認めているが、これを拡大解釈すれば結局は他者に危害を与えない多くの規制・強制が正当化されてしまうのではないか。

私見
1.本人にとってきわめて不利益になることが明白な事柄について政府が放置することは、個人の価値ある生存を守るべき社会の義務が果たされていないことになるため、最低限のパターナリスティックな規制は認めるべき。
2.例えば将来の国家存続のためという根拠で「二人っこ政策」がとられてしまう、など。例外を許容することで、もとの原理自体の実効性を骨抜きにしてしまう。

Copyright (C) 2000-2010 大阪市立大学法哲学ゼミ
http://www42.tok2.com/home/takizemi/

2002年度スケジュールに戻る