2002瀧川ゼミ
22/APR/2002
担当 山田智史

John Stuart Mill 1859, On Liberty 「自由論」(塩尻公明、木村健康 訳)岩波文庫

第二章「思想及び言論の自由について」
"On Liberty of Thought and Speech"


ここでは、意見の自由及び意見を発表することの自由が、人類の精神的幸福にとって必要な理由として、三つの仮定が述べられている。
1 一般に認められた意見が誤りであって、他の或る意見が真理であるかもしれないから。
2 一般に認められた意見は真理であるとしても、その真理性を高めるためには反対論が必要であるから。
3 対立した意見は両方が真理を分有していることがほとんどであるから。

※この著作についても、自分の考えが真理であることの真理性を高めるために、あらゆる反対論を立てながら論を展開しているのだと思う。


「意見の発表の統制」の形態

専制政治→議会制民主主義 : 政府による意見の発表の統制→公衆全体による意見の発表の統制
「仮りに一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮りにその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない。」(36.8)→世論に従った形での統制も否定。
  ↓
意見の発表を沈黙させる事に特有の害悪は、それが人類の利益を奪い取るということ
・ 意見が正しい場合→人類は誤謬を棄てて真理をとる機会を奪われる。
・ 意見が誤っている場合→真理と誤謬との対決によって生じるところの、真理の一層明白に認識し一層鮮やかな印象をうけるという利益を失う。
抑圧しようと努めている意見が、@誤った意見であるということを確信することはできないし、例え確信できたとしても、Aその意見を抑圧することは悪である。

言説の自由が必要であることを証明する三つの仮定

《第一の仮定》

「権威によって抑圧されようと試みられている意見は、あるいは真理であるかもしれない。」

他人の意見を抑圧しようとしている人々はそれが真理であること否定する。
 →自己の無謬性を仮定(※)することになる。(彼らの確実性が絶対的な確実性だと思い込んでいる。)
    ↓しかし
各個人または各時代が不可謬であることはありえない。(絶対的確実性というものは存在しない。)
・ 「ひとは、自分の孤独の判断に対して自信がなければないほど、いよいよ盲目的な信頼をもって、「世間」一般の無謬性に依頼するようになるのが常である。」(46.8)
※ 「世間」=政党、宗派、教会、社会階級など自分が接触する世間の一部
・ 「かつては一般に信じられていた多くの意見が現代によって拒絶されていることがたしかであるように、現在一般に信じられている多くの意見が、未来の時代によって拒絶されるであろうことも、同様に確実なのである。」(41.7)
    ↓だから
「われわれの意見を反駁しまた論破する完全な自由は、まさにわれわれが行動の諸目的のためにわれわれの意見を真理であると仮定することを許す当の条件なのである。」(48.11)
→「全能の神ならぬ存在としては、これ以外のいかなる条件をもっても、自分が正しいという合理的保証をもつことはできない。」(43.12)
(※)「無謬性の仮定」=ある人が、自己の反対側からなされうる主張を、他の人々に聴かせることなしに、他の人々のためにその問題の決定を試みること。(ある教説(それがどんあものであれ)を確信する感情のことではない。)
  →反対意見がいかに不道徳、不敬虔であっても、それは否定されなければならない。
  (「法の力が最も善い人々と最も高貴な教説とを根絶やしにするために用いられた、歴史上忘れがたい数々の実例はまさにこのような場合にある」(52.10))
 例)ソクラテス/キリスト/マルクスアウレリウスアントニヌス/今日の実例(世論が法律と同様の有効性を持つ)

<現在、全体として人類の間に合理的な意見と合理的な行為とが優勢を示しているのはなぜか?>
→それは、人間悟性の内在的な力ではなく、「人間は議論と経験によって、自分の誤りを正すことができる。」(44.12)という、人間精神の一つの特性に依拠する。
→「人間の判断力の一切の価値とは、それが誤っている場合に匡正されうるという、一つの特質によるのであるから、人間の判断を匡正する手段が断えず手近にあるときにおいてのみ、それに対して信頼を置くことができるのである。」
→(匡正する手段=議論、経験)
Ω経験だけでなく議論が必要Ω→「自己自身の意見と他人の意見とを照合することによって自己の意見を訂正しまた完全にする堅実な習慣が、自己の意見を実行に移すにあたって少しも疑念と躊躇とを生ずるどころではなく、かえって自己の意見に正当な信頼をおくための唯一の安定した基礎をなすのである。」(45.13)
   ↓
「われわれが最も多くの根拠をもっている信念も、全世界に向かって、この信念の根拠なきことを証明せよ、と不断に勧誘すること以外には、依存すべき何の保障ももたないのである」(46.15)
→「誤り易き存在によって到達しうるかぎりの確実性のすべて」(47.9)

<ところが現代(19c半ば)>
自己の意見を真理であると信ずるよりもむしろ、そのような意見なしには何をするべきかわからなくなると確信している時代。→自分の重要視する信念を否認する者に対して抱く不寛容の意見及び感情が精神的自由を迫害
     ↓
無謬性ではないがそれに近いものが、一般的世論の信頼によって確信を与えられた政府の意見として根拠付けられる。
→ソクラテスが死刑に処されたように、あるいはキリスト教徒が迫害を受け続けたようには現在迫害されることはないが、しかし、世論の力によって意見を偽装させたり、意見を積極的に広める努力から手を引かせたりさせているという現状がある。(知的講和)

このような人々は思想と興味とを原理の領域にあえて立ち入ることなしに論じえる実際問題(有用性)に限局して目的を達しようとする。(迎合主義、御都合主義)

人々の精神を強化し拡大させるような最高の問題に対する自由で大胆な思索が棄てて顧みられなくなる。
(人間精神の道徳的勇気のすべてを犠牲にしてしまう。)


Ω平凡な知力の持ち主をさえ高めて思想する者の尊厳を多少とも帯びさせる衝動力が与えられる場合Ω
・ 宗教改革の直後におけるヨーロッパ
・ 18世紀後半の思想的運動
・ ゲーテ及びフィヒテの時代におけるドイツ
→古い精神的専制は投げ捨てられ、しかも新しい精神的圧制はまだ生じていない時期
  (異端的な思弁を恐怖する傾向が一時停止されたとき)←自由に議論することができた時期。


「精神的自由を主張するまではわれわれはいかなる新しい出発をも期待することはできない。」(72.10)
→議論がされ続けることによって完全な真理へと到達できる可能性は広がる。

《第二の仮定》

「一般に認容されている意見が真理であると仮定した場合に、それらの意見の真理性が自由に且つ公然と論究されない場合」(生きている真理ではなく死せる独断)

「ある種の人々は、自分の真理と信ずるものに対して疑うところなく同意する人があるならば、たとえ彼がその意見の根拠について何らの知識をもたず、またその意見に対する最も浅薄な反対論に対してすら堅持しうる弁明をなしえないとしても、それで充分であると考えている。」(73.6)

そのような人々の勢力が支配しているところでは、公認の意見が拒否されることはほとんどない。
 (公認の意見が一つの偏見として、議論の入る余地のない信念となってしまう)

議論が行なわれない。(公認の意見が賢明に思慮深く拒否されることがない)

@真理の根拠を学び知ることができない。(正しい信念を持つことはできない)
→「真理の部分は、双方の側に対して平等公平な注意を払い、双方の理由を最も強い光の中で明視しようとして努力してきた人々以外にはかつて何ぴとにも真に知られてはいないのである。」(77.15)
→反対説が何故真理を帯びないかを明らかにしない限り、自分の意見の根拠を知ることはできない。
→ある意見の根拠を知らないことは意見自体の価値を下げるものではないのではないか?
A意見の根拠が忘却されるだけではなく、また実にしばしば意見そのものの意味が忘却される。
例/学説や信条が誕生してすぐは、その真理性を追究、拡大させるためにその根本的原理をあらゆる思想形式で理解していて、他の教説との差異を感じ、それは性格に対する豊かな影響を経験させる。
しかし、その信条が一般に認められ、一つの世襲信条となり、受動的に受け入れられるようになると、以前のような活力は失われ、他の教説との比較も必要とされなくなり、ただ信頼してそれを受け入れるような状態になり、信仰は人間の内的生活に影響を及ぼさなくなり、鮮明な概念と生命ある信仰は機械的に暗記された少数の文句にとって代わる。

「ある事柄に関してもはや疑問がなくなると、その事柄については考えることを止めてしまうという人類の宿命的な傾向は、人類の誤謬の半ばを生み出す原因である。」(89.1)「確定された意見の深い眠り」(89.3)
   ↓人類が進歩するに従って、論争や疑問の対象となる真理が少なくなってくるが…
重要な真理に対して反対者が存在しない場合にはそれを創り出すことさえ必要である。
→積極的な知識または確信と呼ぶに値する確信に到達するための手段としては、これをいかに高く評価してもなお足りな
い。
    ↓
反対者との一切の論争を行なうに際して必要とされる心的過程なしでは、自己の革新の確実性は証明し得ない。

《第三の仮定》

「相矛盾する学説が、一は真理、他は虚偽というのではなく、両者が真理を分有している場合」(94.2)
・一般大衆の意見…完全に真理であることは稀にしかないか、或いは全くない。(真理の一部でしかない)
・異端的な意見…一般の意見に妥協を図るか、敵対して立ちこれと同様の排他的態度を持って自己を完全な真理として主張しようとする。
  ↓なぜか
「人間の精神においては、一面的であることが常に通則であって、多面的であることは例外であるから、意見(世論)の変革の行なわれる場合においてすら、真理の一部分が姿を現すと共に他の一部分が影をひそめるのが常である。」(94.15)

Ωルソーの例/ルソーが生きていた当時の世論はルソーの意見より明確な真理を多く含み誤謬は少なかったのだが、世論に欠けていた真理がルソーの意見の中に含まれていたからこそルソーの意見は現在にまで影響を与える思想となっている。
Ω政治の例/秩序又は安定を標榜する政党と進歩または革新を標榜する政党が政治生活の健康にとって必要
→「これら二つの考え方のいずれもが効用を持っている所以は、相手方に欠陥が存在しているためであるがしかしまた、二つの考え方のいずれにも理性を失わさせず常軌を逸させないものは主として相手方の反対というものなのである。」
(97.7)

<公認された原理のうちのいくつかは半心理(half truth)以上のものであるのでこれに異なる原理を唱えることは誤りではないか?という反論。>  例)キリスト教道徳
→キリスト教道徳さえ、多くの重要な点で不完全であり、一面的である。
(キリスト教道徳によって承認されないような思想と感情がヨーロッパ人の性格形成に寄与している)
                               ↑ギリシャローマ道徳、イスラム教道徳etc
→専ら宗教的なタイプによって人の精神と感情を形成しようと試みることは、自らが至高の意思とみなすものに対しては服従しうるが、至高善の概念を上昇、共感することはできない。
      ↓
「真理の或る一部分を以って真理の全体であるかのように主張する自負に対しては、抗議が行なわれざるを得ないし、また抗議されるのが当然である。」(105.2)

真理は問題のあらゆる側面が、すなわち真理の断面を体現するあらゆる意見が、単に弁護者を持つというにとどまらず、人の傾聴をかちうるという形で弁護されて、それらの側面の間に均衡を見出すということに比例してしか、その顕現の機会をもちえない。


締め

Ω反対者とその意見とをありのままに看取する冷静さをもち、またそれをありのままに陳述する正直さ、そして、反対者に不利になるようないかなる事実をも誇張せず、また反対者に有利になるような、または有利となると想像されるようないかなる事実をも隠蔽しないことこそ、こうの論議に関する真の道徳である。

ω論点ω

■ そもそも真理とは何か?   …時代や社会の影響を受けない真理はありえるのか?

■ 「無謬性の仮定」について
無謬性の仮定の否定とは個人がいかなる教説を確信することをも否定するものではなく、まして、個人の主張を制限するものではない。→個人は他人の意見を抑圧しなければ、何を言ってもいい。
      ↓
自分の志向が世論の志向と一致しているということで自分の意見の確実性を世論に依託してしまうということ、また世論の好むものや嫌悪するものに屈従せざるを得ないというミルが生きた当時(1859当時)の特徴は今現在にも通じるところであるが、これは時代の影響を受けない課題ではないのか?
      ↓
社会という他者との関係の上で成り立つものを軸に置いてしか自己の確信を得られない構造であるなら、自己の信念の確信の確立は社会(世間)への信頼へ取ってかわる。
      ↓
そのような状況の中で真理なるもの、人類の精神的幸福なるものを勝ち得ることはできるのか?目先の有用性に優越されてしまうのではないか?言論の自由は制限されてしまえばいいのではないか?(社会の定めた真理があるのだから。)

■ ミルが言論の自由を必要とした理由はなにか?

■ 現在、日本で考えてみる。 (ポルノ規制、メディア規制三法案、etc…)

Copyright (C) 2000-2010 大阪市立大学法哲学ゼミ
http://www42.tok2.com/home/takizemi/

2002年度スケジュールに戻る