2002 瀧川ゼミ
2002・5・13
担当:松木謙茂

J・S・ミル 「自由論」
第4章 個人を支配する社会の権威の限界について


テーマ:自己自身を支配する個人の主権の正当な限界はどこか?
社会の権威はどこに始まるのか?
人間生活の中、どれだけの部分が個人に割り与えられ、どれだけの部分が社会に割り与えられるべきであるか?

社会に生きている者には、社会に対して、あるいは他の全ての人に対して一定の規範的な行為から外れない義務がある。
↓どのような行為か?
1、法律、暗黙の了解によって権利と見なされなくてはならない相互の利益を害しない。
2、社会またはその成員を危害と干渉から守るために生じた労働と犠牲とについて、各人が自己の分担を負う。
→これらの義務を履行しない者は、社会から処罰される。
しかし、他人の利益に何の影響も及ぼさない行為に関しては、その行為者が行為をなし、またその行為の結果に対して責任をとる完全な自由―法律的社会的自由―がなくてはならない。
この学説は「自己配慮の諸徳」のみを重視するものではなくて、「社会的な諸徳」も重視するものである。
    ↓しかし
社会が、「ある人」に持っている関心は間接的であり、「こうすべきだ」という社会の干渉は推定でしかなく、その「ある人」に対しては適用できないかもしれない。
    ↓
最後に決断を下すのはその「ある人」自身であるべき

・では「ある人」の行為が他人に害は与えないが、嫌悪となるときはどうか?(自分○、他人△)
     ↓
他人が向ける悪評による「ある人」が受ける「迷惑」こそ、その「ある人」が受ける罰である。
・他人に有害な行為については社会から道徳的非難、道徳的報復、刑罰をうける。(自分○、他人×)
・自己にのみ関わる欠点についてはなんの邪悪さもない。(自分△、他人○)
     ↓
しかし、自己自身に対して害のある行為(自分×)を行った場合、完全に孤立した個人はいない以上、他人に影響が波及しないということは不可能。
     ↓
社会の幸福の総量が減殺されることになり、行為者の自制を強要するのが当然。
→自己配慮に属する行為でも、個人、あるいは社会に対して明確な損害または明確な損害の危険が存在する場合には、問題は自由の領域から除かれて道徳や法律の領域に移される。
では、「ある人」が、公衆に対する義務に違反することもなく、自己以外の誰に対しても損害を与えないような行為を行い、偶然的に社会に損害を与えた場合はどうだろうか?
     ↓
社会はこの迷惑を、人間の自由という一層重大な利益のために耐え忍ぶことができる。
     ↓なぜなら 
・社会は「ある人」の幼いときの教育に関する権力を掌握していたのであるし、世論や自然的刑罰など圧倒的な力を持っているのであるから、さらに個々人の私事に至るまで命令し服従を強いる権力を必要とするといった主張はされるべきではない。
・世論が、自己配慮に属する行為の諸問題について個人に干渉する場合、その個人の私的な事に関して世論が無関心であるため、その干渉が間違っていることが多い。
→個々人の私事に関しては、正義と政策との一切の原理に照らして、決定権はその結果を甘受せねばならない個人自らに与えられるべき。

◆人間の自由がいかに制限されているかについての実例。(社会、世論が個人へ干渉することの害悪)
@宗教的意見を異にしている人々が、自分が遵守している宗教的儀式や宗教的禁忌を遵守しないという理由で反感を抱く。
→イスラム教国が、豚肉を食べないという宗教的禁制をその国の人々に押し付ける。
     ↓
「個人の私的な趣味と自己のみに関する事柄に対して干渉するのは公衆の仕事ではない」

Aスペイン人の大多数は、ローマ・カトリック教会以外の形式の儀式を不敬とみなし、ローマ・カトリック式を強制しようとする。
     ↓
「我々は、我々自身に対して適用されるとすると甚だしい不公正として憤慨してしまうような原理を容認することないようにしなければならない。」

Bニューイングランドと共和政時代のイギリスのように、清教徒が十分な勢力を持っていたとき、自分達が不正と見なす快楽は何人も享受してはならないという盲目的な主張をし、それなりの成功を収めた。
→清教徒でも、自分達と異なった宗教的感情によって統制されることを歓迎できないはず。
     ↓ 
「断固とした態度で自分のことを考えよと要求しなければならない」
「しかし、上のような盲目的な主張に基づいている原理が承認されれば、その原理がその国の大多数者もしくは優勢な勢力の意見に従って実行されることに対して、何人も合理的な反駁を加えることが出来ない。」

C社会と政府が最も民主的な国であるアメリカ合衆国において、多数者は自分達が到底競争し得ないと思われる程度の華美または豪奢な生活様式を不快として、効果のある奢侈制限法が存在する。
→民主的感情が、公衆は個人の所得の支出方法に対して拒否権を持っているという考えと結合した場合に生じる、実にありがちな結果である。
社会主義的意見が広く普及している場合は、さらに自由に対する侵犯が行われることとなる。

D不節制を防止する目的で、イギリス植民地とアメリカ合衆国で薬用に供する場合を除いて、アルコール飲料の使用を法律によって禁止。
→公衆が悪と見なす行為を捉えるために、公衆が無害と認めている事柄さえも禁止。
※イギリスにおいて禁酒法を訴える「同盟」役員の意見
「私は一市民として、私の社会的権利が他人の社会的行為に侵される場合には、常に法律 を制定する権利を要求するものである。」
この役員の言う社会的権利とは
→「他の一切の人々をして、あらゆる点で彼らにまさに為すべきことを厳密に履行させるということが、あらゆる個人の絶対的な社会的権利であるということ、また、最も些細な事柄においてすら為すべきことを為さなかった者は、私の社会的権利を侵害するものであり、したがって私は、この不満を取り除くことを立法府に向かって要求する権利を取得すること。」(筆者の解釈)
      ↓
この原理では、どのような自由の侵害でも正当化できるということになり、個々の自由侵犯のいかなるものよりもはるかに危険である。

E安息日厳守主義の立法
休日は勤労階級がすべてその趣旨に同意しない限り遵守されえないものであるから、ある人々が休日に労働することによって他の人々にも労働を背負い込ませる可能性がある限り、法律が休日を保障してやることは正当である。
      ↓しかし
各人が休日の習慣を遵守するか否かが他人にとって直接に利害関係を持つ、ということを根拠としているこの正当化は、ある個人が自分の閑暇を利用するするために適当と考えて自ら選んだ仕事には適用できない。
休日の娯楽についても、娯楽を与える職業が自由に選択され、また自由に辞職され得るものである限りは、制限できない。

Fイギリスにおいて、新聞がモルモン教に対して行っている露骨な迫害。

確かに一夫多妻制を是認するモルモン教は文明の退歩であるが、「砂漠の僻地に追い込まれ、なおかつ多くの譲歩をしているモルモン教徒に、自分たち(モルモン教徒以外の人)の欲する法律の下に、そこに暮らすことを許さないなどということは、圧政の原理以外のなにものでもない。」
「直接利害関係のある全ての当事者達が満足しているような社会状態に対して、それが憤激すべきことだからといって無関係な人が立ち入って、正当な方法を用いずにその社会制度の廃棄を要求することは、承認できない。」
      ↓なぜなら
「野蛮が全世界を支配していたときにおいてすら、文明は野蛮に打ち勝ったのであるから、野蛮がすでに充分に征服された後において、それが復活して文明を征服するかもしれないなどと告白するのは、行き過ぎというものであろう。」

◎論点◎

・ミルは法律による刑罰以外に、世論による道徳的非難、制裁など、社会的制裁を肯定しているようにみえるが、「世論が間違っていることもある」と言っており、また世論が行き過ぎることがあることも認めている以上、罰の程度がはっきりしない社会的制裁は否定されるべきではなかったのか?

・例えば過失によって人を死なせたとき、全てのケースではないにしてもやはり法的な刑罰が科せられるべきであろうが、ミルはこのことを説明できていないように思うがどうであろうか?

・自己に対して害がある行為について、「社会の幸福の総量が減殺されることになり行為者の自制を強要する」とあり、パターナリズムが否定されているが、泥酔や麻薬使用など本人が意図しないであろう行動をとりかねない行為についても、これらを規制するようなパターナリズムは否定されるべきか?


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