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2002 瀧川ゼミ
2002・5・13
担当:松木謙茂
J・S・ミル 「自由論」
第5章 適用
以上の諸章において主張されてきた諸原理の適用の雛型を示し、本書全体を構成している2つの格率(マキシム)の意味と限界を明瞭にする。
2つの格率とは…
@個人は、彼の行為が彼自身以外の何びとの利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていない。
A他人の利害を害する行為については、個人は責任があり、また、社会が、その防衛のためには社会的刑罰または法律的刑罰を必要とするという意見である場合には、個人はそのいずれかに服さねばならないだろう。
↓
他人の利益に侵害を与えること、またはその惧れがあるときに社会の干渉は正当化されるが、それは、詐欺、違約、暴力などそれを許すことが社会全体の利益に反すると思われるような場合にのみにおいてである。
また、商業においては、品質低下の詐欺防止や労働者保護のために社会的統制という干渉が正当な場合もあり得る。他方、商業に対する干渉で特定の商品の獲得を不可能または困難ならしめる場合においては、これらの干渉は生産者または販売者の自由に対する侵害ではなく、購買者の自由に対する侵害として反対されるべきものである。
↓
◆では毒薬の販売などに関して、犯罪や災害を予防するために自由を侵害することはどの程度まで正当であるか?
→「予定的証拠」という方法で、毒薬で犯罪を犯そうとする者には購入が困難になると同時に他の目的の購入者には彼の自由を侵害することをほとんどなくすることができる。
予定的証拠…契約を結ぶ際に署名などの定式的手続きの遵守を定めることで、契約が実際に締結されたことを立証するための証拠
また、事前の予防策によって自らに対する犯罪を防止することは、社会に固有の権利である、ということから考えられることは、純粋に自己のみに関する個人の不行跡にたいして、予防または刑罰の形式を以って干渉することは正当ではない、という格率に対しても明白な限界があることを示唆する。
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例えば酩酊によって過去に他人に暴力を加えた者が、飲酒を制限する法律的制限の下に置かれることは正当である。
◆非難に値する個人的行為であるが直接の結果である害悪がその行為者の上に落ちてくるために、社会がそれを禁止、処罰できない場合に、その行為に対して他人が勧告しまた扇動することは自由なのか?
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自己自身のみに関する事柄について、自己の危険負担において自由に行為するすることが許されねばならないとしたら、何を行うのが適当であるかについて互いに相談すること、意見を交換し示唆を与え合うことも同様に自由でなくてはならない。
◆では自己の利益のために、社会と国家が害悪と見なしている行為を他人に促進することも正当なのか?(例:売春斡旋者、賭博場経営者)
―許容しようとする側の意見―
・利益を得ているからと言って、そうでなければ許されたはずの行為が、犯罪になるということはありえない。終始一貫して許容または禁止されなくてはならない。
・社会は個人のみに関係することを悪いと決定する権利を持っていない。社会は諌止しかできない。
・Aが諌止の自由を持つならば、同様にBは勧誘の自由を持たなければならない。
―反対側の意見―
・社会は、抑圧などの目的で個人のみに関係する行為の善悪を決定する権利は持っていないが、その行為を悪と見なす場合には、行為の善悪はいろいろと議論を呼び起こすに足る問題である。
→教唆者の利欲の絡んだ勧誘の影響を排除しようと努めることは誤った行動とはいえない。
・私利のために他人の好みを煽り立てる者の術策からできるだけ遠ざかり、人々が自分の欲するところに従って選択できるように万事を整えるとしても、社会はそれによって何ものも失わない。
↓
賭博することは自由であるが、賭博場の経営は許されないことになる。(正犯は処罰されないが、従犯が処罰されてしまう)
↓
この道徳的変則について、正当だと断定できない。
◆国家が、一方において行為者の最善の利益に反すると考えられる行為を許しておきながら、間接にこれを思い止らせるようにすべきか?(例:国家は、酩酊の手段である酒類を一層高価にするような方策を講じたり、あるいは販売を制限すべきか否か)
・酒類の入手を困難にする目的で課税することは、酒類の完全な禁止と程度が違うだけで、個人の選択の幅を狭めている点で許されないだろう。
・財政目的のための課税については、消費者にとって最も必要としない物品は何であるかを考えて、また、人を害する可能性が高いものを優先的に課税することは国家の義務であるので許される。
・販売の制限については、社会に対する犯罪を防ぐために、人を選んで酒類の販売権を与えるようなことは適当な処置である。
・酒類に近づくことを困難にし、また誘惑の機会を減少させる目的をもって売店の数を制限することは、売店を使用する小数の者に不便を与えるのみならず、労働者階級を小児か野蛮人として扱うことになるので許されない。
◆契約などにおいて、相互の合意によって彼らにしか関係のない事柄を規制できる自由が、個人の自由に含まれている。一旦契約を結んだ以上は、その契約を遵守しなければならないが、自分を奴隷として売るような契約は無効である。
↓なぜなら
そもそも、他人の利益と関係がない限り個人の行為に干渉しないという理由は、その個人の自由を顧慮するためであるから。(愚行権を制限する理由)
個人の自由を制限するその他の事例として…
・ある人が明白な契約または行為によって、一定の形式の行為を継続するであろうことを他人に信頼させた場合は、その他人に対して負担せねばならない、一連の新たな道徳的義務が発生する。
→当事者の契約解除は法律的には自由だが、道徳的には不自由である。
(結婚して子供が生まれた場合)
・人に代わって行為する場合には、その他人のことが自分のことでもあると言う口実によって、自分の好むままに行為する自由を与えられるべきではない。
→国家がある人に対して他人を支配しうる何らかの権力を許している場合には、その権力の行使に対しては油断のない監督を継続する義務がある。
上記の国家の義務を遂行するにあたり、誤用された自由の観念が障碍となるのは子供に関する場合である。
―教育の場合を考えて見ると―
生まれてきた子供に、ある水準まで教育を与えてやることは親の神聖な義務であるが、国家が、この親の義務を強制させようとすると、黙って耳を貸すものはいない。
国家教育については、国家自らの手による教育指導に対しては反対するものであるが、国家による教育の強制に対しては国家の義務である。
親の道徳的義務が認識されず、法律的義務が強制されないのは教育の問題だけではない。
―子供が生まれる場合―
親は、子供を生むという責任を引き受けるとき、生まれてくる子供が望ましい生存を営める見込みを普通程度に持っている必要がある。
結婚当事者が家族を扶養しうる資力を持っていることが証明できない限り、結婚を許可しないという法律は、国家の正当な権力を逸脱するものではない。
◆国家が個人の行動を制限するのではなく、個人の行動を助成する場合、国家が個人の利益のために何事かを為し、または為さしめなければならないか否か?(干渉を不可とする理由が自由の原理には依存していない事例)
政府の干渉に対する反対論
@為さねばならないことが、政府によって為されるよりも個人によって為される方がよりよく為されるであろうと思われる場合がある。
Aその仕事が、個人自らの精神教育の一手段として個人によって為されることが、政府によって為されるよりも望ましい。
(→このことは本書の言う自由の問題ではないが、傾向を一にしている。)
↓
個人に(半)公共的動機から行動する習慣を与え、また、彼ら一人一人を孤立させるのではなく互いに結合させるような目的に向かって行動する習慣を与える。
↓
自由な憲法を運営、維持するために有益
B不必要に政府の権力を増大するという重大な害悪
↓
さまざまな事業の被雇用者が政府によって任命され給料を支給されるようになると、国内に存在している広大な教養と練達した知能の一切が、厖大な官僚群の中に集中し、社会の残りの人々は、何もかもひたすら彼らにだけ期待することになる。すなわち、一般国民は、自分たちの為さねばならぬ一切の仕事に関して、彼らの指導と命令を期待し、能力と野心をもつ者は、自己の立身出世をそこに求めることになる。
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一般国民は実際的経験が乏しいため、官僚群の職務執行を批評したり阻止できなくなる。
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官僚からの組織のための教育によって、全国民の奴隷化。
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官僚の怠惰な慣例による当地団体そのものの精神的能動性の衰退。
→これらの害悪が起こらないようにするために、能率を害しない限りは最大限に才能を散在させること、但し、情報はできるかぎり集中し、またこれを中央から散布すること。
◎論点◎
・個人が自らに対して危険な行為をしようとしても、社会は諌止しかできないというミルの考えからすれば、自発的な奴隷契約も許容されるのではないか?
・賭博や売春が許容される社会がよい社会であるといえるのだろうか?自由を杓子定規にとらえすぎていないか?
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