「積極的安楽死は法的に認めるべきである」肯定

担当 松木・小栢・成石

「死ぬことの自由」・・・・・・自ら死を選ぶ自由について
・なぜそうまでして生き続ける事を強要されなければならないのか?
・・・「生き続けなくてはならない」という脅迫
・・・生き長らえるための治療は果たしてその「ひと」を「生かして」いるのか?

・生かされ続けることに対する精神的苦痛
・・・「生きがい」を見出せない生は精神的苦痛でしかないこと

「死に場所」と「死ぬ時」・・・・・・自らの死を自由に選択したいという気持ち
・「命のある限り生き続ける、生き続けたい」ということの曖昧さから抜け出し、自らの死ぬ時期や死ぬ場所を見つけることの大切さ
・・・自らの死を考えることで生きることを充実させる、という考えかた

「きれいに死にたい」という願望・・・・・・無理やり生かされることへの抵抗
・「そうまでして生きて居たくはない」という気持ち

・「滑り坂理論」について

積極的安楽死は単に「一つの選択肢」としてあるのであり、決して強要されるものではない。
「暴力的な」優性思想と繋がるものではなく、「生き方」の一つとして存在するものであり、また「死ぬ」ということを選択することを勧めるものでもない。 
 思想・信条の自由の一つとしてあるべきものであり「押し付け」では決して有り得ない。

※滑り坂理論とは・・・一つの選択肢が認められるとさらに別の選択肢が許容されていくことによって、最初の選択肢が認められた意味を失って間違った方向にころがっていってしまうという理論
(例)出生前診断による中絶を正当とする
      ↓
   障害児を生むことは良くないことになる
      ↓
   障害者は排除される対象となる(障害者差別の助長)
      ↓
   暴力的な優性思想への発展

・「生きる」ということとはなにか
 
自分の人生とはなにか、自分の生とはなにか、ということについて自分で決定するということは我儘で傲慢なことなのか?
自己決定に基づいて自分がいつ死ぬかを決めるのは悪いことなのだろうか?

・「不必要な殺人」をなくす

「慈悲殺」をなくし、本人の意思に従って人生を全うしてもらうことができる 
「死ぬことの自由」が守られる・・・本人の意思が守られる

・自殺と安楽死
・・・「これ以上生きていても仕方が無い」と「これ以上生かされていたくはない」との違い

「生きていれば別の未来も開ける」という可能性があるかないか
・・・過剰な延命治療による「ただ生かされている」というだけの状態は、果たして本人にとって意味のある治療だろうか?
「自分が自分として生きていける」という可能性があるかないか
・・・アルツハイマーになり、「ただ生きているだけ」の自分の生についての決定を、正常な判断能力のあるうちにしておくことは意味の無いことか?
「あの時死ななくてよかった」と思える時が来る可能性があるかないか
・・・不治の病となり、末期を迎え後は死ぬのを待つだけという状態で、耐えがたい苦痛を終わらせ
安らかに(苦しまずに)死にたい、という願望はかなえられてはならないものなのか?


・積極的安楽死について考える 

積極的安楽死とは、自らの生を豊かに、悔いの無いものとするための一つの手段・選択肢であり、個人の思想・信条に関わるものであり、そこには他者が介在してはならない領域が存在する。
積極的安楽死は自殺とは異なるものであり、「生きる」ということの手段としても存在するといえる。
自分の人生を自分が主人公として生きるための選択肢として、積極的安楽死は法的に認められるべきであるという主張は、はたして間違いであると言えるだろうか?

参考文献

・ライフズ・ドミニオン  ロナルド・ドゥオーキン著/水谷 英夫・小島妙子 役/信山社
・http://www.arsvi.com/0p/et.htm
・http://www.d2.dion.ne.jp/^seriko/columnA.htm


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