自然は所有できるか? 2003-04-21 池田・岡・小栢・和田

はじめに

 

所有権とは―「自由に其所有物の使用、収益および処分を為す権利(民法206条)」

 

現在の制度では

動物・・・個人の所有対象となる

海,空・・・国家が“主権”という形で所有する

天体・・・所有対象とはならない

 

環境を“所有”することの問題点=環境破壊,生態系の崩壊,生物の権利侵害etc・・・

 

義務や、一定の制限を課す

ストックホルム宣言,ワシントン条約,ラムサール条約⇒人類のための「共通な利益」

ユネスコ世界遺産保護条約,国連海洋法条約⇒「人類共同の遺産」

 

〈論点〉

     自然は所有できるのか

     自然を所有できるなら、それはなぜか

     自然はなぜ特定個人が自由に処分できないのか

 

ロックの『統治論』より

 

所有の根拠→神から人間に与えられた権利

 

“特定の”人間が自然を所有することの正当性

自然は、人間が生きる上で不可欠

個人は自分の身体を所有

自分の身体の動き,労働も本人の所有に属す

自然のものでも、人間が自分の労働など、自分のものである何かを加えたならばそれは自己のものとして所有

 

制限

     所有物を腐敗させてしまうような所有のしかたは許されない

     所有しても、なお他の人に同じようによいものが十分残っていなければならない

 

 

     

    

 

 

 

→環境を所有する上で考えなければならないのが、「倫理」

 

 

環境倫理学

 

 人間中心主義―人間以外の自然物に対する人間の行為は、倫理的対象とならない

 

 自然中心主義―人間以外の自然物に対する人間の行為も、倫理的対象となる

  @.動物解放論・・・個々の動物の生存権擁護が目的

  A.生態系保存論・・・生態系は、それを構成する個々の種の個体よりも大きな価値

 

→動物解放論に対する批判

     動物の生きる権利を認めていくと、人間は牛や豚を食べられなくなる

     蝿や蚊,ごきぶり,病原菌にまで生きる権利を認めるのは不条理

 

 生態系保存論に対する批判

     現在の生態系のみに絶対的な価値を付与し、保存せよという要求には根拠がない

     “環境ファシズム”として、個体の生命を犠牲にしかねない

 

つまるところ、自然中心主義も人間中心の考え方に基づかざるをえない。

しかしそれを前提とした上でなお、自然に独立な価値があるのではないかと考える。

自然に内在する価値は、人間にとっての価値とは次元の異なるものなので比較できない。

 

 

自然の権利

     自然は所有出来るのか

     もし所有出来るとしても所有権の内在的制約があるのでは?(所有権VS自然に内在する価値)

→自然の権利を考える

環境倫理学が登場する以前

     古典時代、古代ローマの考え方

     キリスト教思想の誕生

     デカルトの二元論

     科学の発達

     ダーウィンの進化論 

 

環境倫理学の起源

@     生態学倫理→<相互依存主義><生命中心主義>

A自然権思想(natural right)→自由主義思想→自然自身の固有の権利(the right of nature)

 

1生態学倫理

生態学…有機体(いかなる種類も含めて)が相互に、あるいは、環境全体と、どのように作用しあうかという研究 ex)生物群集、食物連鎖

→相互依存主義、相互連結→人間は共同体の一部→倫理の対象を拡大

     地球は生きているという思想

     人類は「非常に拡大された生命共同体」の数ある集団のひとつに過ぎない

     「生命のメカニズム」の「健全な機能」の充実

     「資源としての無用な存在」の権利

 

2自然権の拡大

すべての存在は人類の道徳的共同体に含まれるのか

     樹木の当事者適格⇔人間に対しての新しい権利(環境に関する権利)

     道徳的多義主義…倫理的な活動はいくつかの異なった論理的段階に存在することが出来る

     他人の権利を認める→倫理的に成熟していく

     生息地の概念

     生態圏中心的な民主主義 

     人間がひとつの生態系に参加することは、一定の殺生、搾取、抑制を伴うものである

(自己実現の一連のプロセス)←やりすぎはよくない(環境倫理学が抑制装置)

 

3所有権の内在的制約

完全に自然の権利を認めなくとも少なくともこのような自然の権利を考えるならば、所有権には内在的制約が存在するといえるだろう

 

所有権の内在的制約

完全に自然の権利を認めなくとも少なくともこのような自然の権利を考えるならば、所有権には内在的制約が存在するといえるだろう

 

ではその認められる範囲はどこまでか。

1 循環型社会としての現在

 近代に始まる資本主義経済システムによれば、技術は進歩し続け、成長し続ける。

 しかし、現在の環境問題の顕在化は、歴史が築き上げてきた自然観の崩壊・行き詰まりを意味し、自然が有限であることを明らかにした。

                 

現在のままの経済活動が継続するならば(過剰消費社会の継続)、資源は枯渇し地球の崩壊につながるだろう。

 

<循環型社会>

生産―消費の過程で出される排出物を自然界に廃棄することを極力抑えて、資源として再使用・再利用する経済システムに立脚した社会のこと

 

2 開発か、保護か

自己の所有物をどのように扱うか(価値の与え方)は、その主体たる個人の自己決定に委ねられている。

つまり、積極的に環境を保護し生態系の維持に努めることも、現在の消費社会を前提とした循環経済システムの構築(ともすれば環境破壊につながる)のどちらをとることも可能。

 

環境破壊と環境保護のどちらも、この論理からは正当化できることになってしまう。

 

3 世代間倫理

現在世代が未来世代の生存可能性に対して責任を負っているという考え

=現在世代にはエネルギーに関して完全循環型の利用形態を義務付けられる

現在世代の所有を制約する概念

 

4 世代間倫理は正当化できるのか

@自己決定の内在的制約

いかなる世代も未来世代の生存可能性を一方的に制約する権限をもたない。

 決定システムは現在のものである以上、このシステムのなかでは環境破壊の被害者となるかもしれない未来世代から同意を取り付けることは不可能。

 

自由主義の原理―他者への危害が生み出されない限りにおいて、個人の自由が尊重される

              

未来世代への危害もこれに含まれる

 

AJ・ロールズの社会契約論

 もし人類のすべての成員が仮説的な原初状態にいるとするならば、誰も自分がどんな世代の構成員であるかを知ることができない。これを「無知のヴェール」といい、この無知のゆえに、誰もが従いうる唯一の理解可能な道徳原理は、“すべての世代が等しい権利を持たねばならない”という原理である。

           

現在が最も不利な世代である場合を考慮して、不利な世代の利益を配慮して行動するべきである

 

 

5 世代間倫理に対する批判

@歴史相対主義

価値観は時代とともに変化しつづけるもの。

現在世代にとっての厚生が必ずしも未来世代のそれと一致しないのではないか。

A功利主義

人間は打算的な生き物である以上、“人間が利己的ではなかったら”という前提で倫理を組み立てることはできない(⇒社会契約論的正当化に対する批判)。

また、未来世代が現在世代と同じ道徳の概念を持つとはいえない

 

B封建的システムの崩壊

封建的なシステムの倫理は世代間のバトンタッチという形で成り立っていたが、近代化によって、社会が封建的システムから脱却したことは、「過去世代に遠慮しない―未来世代にも責任を持たない」ということを含んでいる

現在は現在世代内での相互性のみに拘束され、それを満たせば自由に行動できるはず。

6 現状としての世代間倫理

・「科学の進歩の速さが人口に追いつくだろう」といわれた進歩主義の時代が終わりを告げようとしている昨今で、科学の成長に希望を持ち続けているような楽観主義的な考えを唱えることは、無謀である。

 

・地球の生態系に対して個人が加入するかしないかの自己決定権を行使することはありえない。

自己も他者も否応なしにこの共同社会に属している以上、他者の権利を尊重しなければならないのではないか。

 

 

環境経済学

1 はじめに

 環境は所有することができるのか?できるとして、所有するべきなのか?できないとして、それでも所有したほうがいいのか?やっぱり所有しないほうがいいのか?を環境経済学の観点から説明する。

2 環境経済学

 ・需要供給曲線

 a 右上がりの曲線=供給曲線(限界費用)

 b 右上がりの曲線=需要曲線(限界効用)

 aとbの交点=均衡点

  均衡点を頂点とした左側の三角形の面積=社会全体の利益

→面積が大きいほど社会全体の利益は大きくなる。一般に完全競争状態のときに最大

・私的財と公共財

 私的財…1人の利用によってほかの者の利用が排除される財

 ex リンゴ、車、本

 公共財…1人の利用によってほかの者の利用が排除されない財

 ex 空気、共有地、安全、

→環境(自然)も公共財の一種

・外部効果

 個々の経済主体(企業・自治体など)の活動が市場を介することなく、他の経済主体の経済活動に影響を与えること。プラスの影響を与えているものを「外部経済(ex教育)が存在している」、マイナスの影響を与えているものを「外部不経済(ex大気汚染)が存在している」という。

 私的限界費用>社会的限界費用…外部経済発生

 私的限界費用<社会的限界費用…外部不経済発生

→外部経済の発生は一見よいことのように思われる。しかし、利益を内部化(左側の三角形の中に閉じ込めること)できないので社会全体としては損失がある。

一般に公共財は外部効果が発生する。外部効果の発生は社会全体としては損失である。

→なるべく、公共財を作らないのが望ましいはず。公共財の私的財化

・コースの定理

もし、当事者のどちらか一方に所有権が与えられていたならば、どのような状態にあっても、当事者間の交渉によって、社会全体として最も望ましい状態を作り出すことができること。

→前提としてどちらかに所有権を設定する必要がある。

 問題点:@交渉費用の存在を無視している。Aたとえ、社会全体としては最も望ましい    状態が達成されるとしても、当事者間では初期の所有権の割り振りに大きく依存することになる

 コースの定理を応用したものとして、排出権取引がある。

 

3 公共財の問題点 「共有地の悲劇」

 「共有地の悲劇」:すべての人が自由に牧草地を利用できるとする。そうすると、牧夫はできるだけ多くの牛を放牧しようとする(牛が育つ利益のほうが、牧草が減る損失よりも大きいので)。もちろんほかの牧夫も同じことをする。みんなが牛を放牧するとそのうち牧草がなくなってしまうので、結果として、だれも牛を放牧することができなくなる。

        →みんなが使える場所を設定することが誰の役にも立たなくなる。

 さらに、次のような問題も。

 1「もしあなたが、われわれの申し入れたとおりに行動しないと、責任ある市民として振舞わないことを理由にわれわれはあなたを公然と非難することになろう」

 2「もしあなたが、われわれの申し入れたとおりに振舞えば、ほかの人々は以前共有地を利用しているのに自らを恥じてそこから抜けてしまう間抜けだと、われわれは影であなたを非難するであろう。」

 →現代社会でも、よくある話。

このような状態を回避するには、共有地を分割して各人に権利を与えればよい。そうすることによって、各人は各人の責任で利用することになるし、最も合理的な使い方をするからである。

 

例:マンションの共同ゴミ捨て場

マンションの共同ゴミ捨て場には、通常各人の利用権は設定されていない。しかし、このゴミ捨て場を小さく分割して各人に与えれば、各人の責任でゴミ捨て場を管理すれば望ましい状態が作られるのでは…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

ロバート・Dクーター、トーマス・S・ユーレン『新版 法と経済学』

(1997年商事法務研究会)

日引聡、有村俊秀『入門 環境経済学』(2002年中公新書)

加藤尚武『環境倫理学のすすめ』(1991年丸善株式会社)

田村正勝 『見える自然と見えない自然』(行人社 2001年)

尾関周二・編 『環境哲学の探求』(大月書店 1996年)

山手治之他・編 『ベーシック条約集(第3版)』(東信堂 2002年)

品川哲彦 『思想(923号)』より「環境、所有、倫理」(岩波書店 2001年)

尾関周二 『エコフィロソフィーの現在』 (大月書店 2001年)

三橋規宏 『環境経済入門(第2版)』 (日本経済新聞社 2002年)

参考ホームページ

えぶぁ〜ぐりぃんのページ http://star.ruru.ne.jp/yuzu/index.htm