所有と自由
〜所有と自己決定の関係〜

2003.6.23      岡村 岡元 西田 大貝

1 自己決定権とは?

Imidas2002より
「一定の個人的な事柄について、公権力から干渉されることなく、個人自ら決定することのできる権利」
一定の個人的な事柄…
 個人の尊厳や善き生が前提
 自己の生命・身体の処分にかかわる事柄
 家族の形成・維持にかかわる事柄    など

〈2つのルーツ〉

個人の自律=私的自治の原則 (J.S.ミル「自由論」)
そのひとが社会に対して責を負わねばならない唯一の部分は、他人に対する部分である。単に彼自身だけに関する部分においては、彼の独立は当然、絶対的である。個人は彼自身(精神と肉体)については、その主権者である。
⇒他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい権利

民族自決(米ウィルソン大統領)
民族がその政治、社会制度などを自由に決定する権利。少数民族や従属民族が政治的独立を獲得するために要求してきた。そこに1960年代末からアメリカで起こった「新しい社会運動」(患者の自己決定権,性と生殖に関する自由,プライバシー権などの主張)が合流。

〈その後の展開〉
・「水俣宣言」・・・「抑圧されている人には、自分たちの生活を左右する決定の実施については、その決定がどこで行われるにしろ、これを批判し、反対し、実施を阻止する天賦の普遍的価値がある。」

⇒一種の自然権としての抵抗権
 自分たちの外で決定されることはもちろん、形式上は自己決定の手続きを踏んでいても、決定の内実を批判できる権利−回復的人権
 担い手である〈ピープル〉が国境の枠を越えて連帯する「参加民主主義」

・訴え・訴えられるという関係性の捨象
・・・適格な判断主体に十分な情報を与えればちゃんとした「自己決定」になるし、そうした決定には「自己責任」が伴う

・他者とのつながりの重要性
・・・個人が世界システム内での位置を絶えず自覚する、他者と生き生きした関係をつくるなど、他者と内面的にも現実的にもつながり合い、重なり合っている関係を考慮することが必要

★自己決定は単なる自己判断とは違う


2 自己決定権の肯定

近代の<所有>の原理;「〜はわたしのもの(所有物)である。したがって、それをどう処分するかは、すべて私が自由に決定できる。」

所有格の――私達は、生の構成主体(身体、生命、特性・能力)を“自分の”と解し、自分との関係を「所有−用益」と理解。
 ↓
しかし、この所有という観念にむしろ私達は“所有”されているのではないか?
 ↓
他動詞possessの受動態“possesed”
⇒私達は所有という概念に取りつかれている。

*でも、私達は特性を備えた身体として「産まれて」いるのであり、そこに自分の選択は
ない。にもかかわらず、「所有」の能力を行使した「貢献」度による処遇の格差は公正な分配として正当化されている。

○自己所有(セルフ・オーナーシップ)いう考え〜私達自身の自己理解のあり方から

前近代
 「存在する」とは「生きている」ということ。
 生きているかぎり、そのものは存在する。(物活論)
 そして「生きている」とは魂・霊が「宿っている」こと。
      ↓
  魂との排他的な関わりを他者=他の魂たちが承認する。

近代
 「私的所有」の概念
 魂信仰は宗教的合理化とともに、非合理的な呪術と貶められ、非神話化された。

ここで自己所有という近代的な観念を跡づけるために問題となるのは、自己の実体化を押しすすめたデカルトの物心二元論である。
→「われ思う」という手形によって「自由な主体」であることが担保されると自認する近代的な個人が誕生した。
ロックの自己所有論で非神話化はさらに加速。
*自己決定は「自己所有」という近代のドグマに支えられてきた。


○ 立岩真也―自己決定権の発想を「裏返し、逆に考え」ていくことで、そこに<他者>の受容・享受という原理を見出した。
〈近代の、私的所有の原理の特徴〉
 @個人単位に、財に対する権利が配分されること
 A持分されたものについて、独占的で自由な処分が認められること
 Bその権利は、ある者が実際にあるモノを所持している、利用しているといった具体性から離れていること
※ただし、反する規範、現実が存在する―法人所有、公共財

所有権とは、通常所有しているものについてその処分の仕方(保持するか、破棄するか、贈与するか、受領するか…)を決定できるということ。

*他者の存在を受領することの中に、他者の自己決定を認めるとする。「他者」であることの尊重と「自己決定」の尊重とは矛盾せず、むしろ前者が後者を指示する。

☆自己決定の正の効果
決定の方向、内容により、自己決定の受け入れは不利益と言い切れない。
自己決定が流通している間(例;薬漬け医療でも公的な保険の賄いがある場合消費者を含め負担者にも悪い話ではなく容易に流通しうるといえる)、問題は起こらない。当人が当人の決定として死を選ぶとしても、迷惑を嫌がる周囲にとってもよい決定であり、そのような自己決定を期待するかもしれない。この作用が働けば自己決定に問題はない。

☆自己決定に絡む要因
@自己決定を認めることは、ひとまず周囲にとって負担だが、周囲の利害に添う決定であれば利益になる。
A決定を本人に委ねることによって心理的な負荷を免れることがありうるが、その本人にかかった負荷が周囲に波及すれば結局周囲にとっても負担になりうる。

★批判
→自己決定であるがゆえになされることのすべてが許され、認められるのか?
強制がないから、自己決定だから、同意の上だから問題がないのではない。
その人のもとにあることでその人に享受されるものについては、それが手段として用いられることがあるべきではない。

◎決定能力の所有が唯一の条件⇒自己決定の主張は、私的所有権の圏内にある。
行為のためには決定が必要であり、決定のために決定能力が要請されるのは当然。
→しかし、私達は様々なことが思い通りにならないことにおおいに困っている。決定し、制御することが困難な、あるいは不可能な事態も存在しうる。


3.身体に関する自己決定権と所有権

「私の身体」と「私のモノ」の関係

所有論
 事実:占有・処分(私の身体)
 規範:所有権(私のモノ)
両者は対比として捉えられる。

ロック・カント:
 「事実としての占有・処分」から「規範としての所有権」へ飛躍する
 事実としての占有(私の選択意思によって意のままに動かせる)
 規範としての所有(私の所有対象である)

自己身体の所有
批判:「私の身体」と「私のモノ」との関係は、事実としての占有と規範としての所有という対応関係ではない。

身体の二種類の状態
 @私の選択意思によって意のままにしうる状態
 A私の自我の一部(その身体が私のもとにあること私がその身体の下にあること) 

Aは事実としての占有行為と規範としての所有権の議論に当てはまらない
カントらは身体の二種類の状態を一括して「私の身体」という事実に数え入れている。しかしこれでは「私」と「身体」の関係における、占有・所有に先立つ身体の自己決定権が見失われる。

「私の身体」とは何か

「私」と「私の身体」は近さと疎遠さの両義的な関係に成り立つ
「私はこの有機的な肉体において生きており、この有機的な肉体は普遍的な、分かたれぬ、外的な、私の現存在である。だが人格として私は同時に、私の生命と肉体をも、そうすることが私の意思である限りにおいてのみもつのである。」(へーゲル)
=私は身体であり、かつ身体を持つ

私が生きている限り「私の身体」は消滅することはないので、「私」は常に「私の身体」とともにある。

死=人格である「私」はもはや存在しないので、「私の身体」も消滅する。

「私の身体」が私の意志と一体のものとして作動しないときは?
病気:「私が身体のもとにある」とはいえても「身体が私のもとにある」とはいえない
…生きている限り、人は常に自らの身体と慣れ親しむことを学ぶ

他人による所有・占有

「私」が身体との新たな距離に慣れ親しむことを不可能にする。

他人によって「私の身体」が支配されるため「私」と「私の身体」が分断されもはや「私の身体」ではなくなる。

例、奴隷主が意のままに奴隷の身体を操る
  レイプ
これらの事実は単なる外的な身体への所有権の侵害に加えて、「私の身体」のあり方そのものを破壊している。

所有権による身体の擁護は「私の身体」が「私」のものではなくなる可能性を含む
…所有権は移転譲渡の観念を含むため

・身体への所有権を放棄すればよいか?
・身体は誰のものではないとすればよいか?

そうすると…「私=私の身体」に襲いかかってくるものに対して物理的な反撃の手段しか残されない。

身体への所有権とは
外部の攻撃から「私」を守るための抵抗の言葉


「私の身体」に対する自己決定権と所有権の関係

破壊の危険と外部からの保護の二面性を含む所有権をどのように捉えれば「私の身体」そのものを確保できるか?

譲渡や移転を含む所有権という概念でなく、「私の身体」自体を端的に認めること。
=他者からの承認を持つのではなく、「私」の存在という事実そのものを、一切の媒介なしに、むしろそこから他者とのあらゆる関係が始まる端点として肯定する

身体の自己所有=自己決定の基盤ではない

自己所有:すでに在る「私」が自分にとって外的な対象との間に結ぶ関係
自己決定:「私」が存在し続けることを支える決定、「私」そのものに先行する決定

両者によって「私の身体」は成り立っている

<注>自己決定とは
・ 他者による干渉から逃れる消極的権利
・ 社会的弱者を他者決定から守るための権利
自己に関わる事柄に対する排他的権力、あるいは自己支配能力ではない


4.神聖さと不可侵さ

哲学者
・物や出来事は人や物の利益に奉仕する場合のみ、かつそれ故にこそ初めて価値のあるものとなることができる。
・あらゆる物は誰かがそれを欲しない限り、あるいは誰かが欲する物を手に入れるのに役に立たない限り無価値。

実情
・物や出来事はもともとそれ自体として価値のある物となることが出来る。

価値の3つの種類

道具的価値 人々の欲するほかのものを得ることに役立つという、その物の有益性・能力に依存している場合の価値。
例 薬、お金

主観的価値 人々がたまたま楽しんだり、たまたま望む人々にとってのみ有益となる価値。
例 野球の試合の観戦

本来的価値 人々がたまたま楽しんだり、欲したり、必要としたり、彼らにとって良いものとされることとは独立した存在である価値。
例 文化、芸術、自然  
人間の生命の価値は上の3つのものすべてである。

本来的価値
量的価値:人々が既にどんなに多くのものを持っていてもより多くのものを欲する場合。
例 知識
神聖・不可侵な価値:既に存在することにのみ価値を置く場合。
例 生命、芸術、自然

・連想・指示作用―古代エジプトでは、猫はある神に連想づけられており、猫を傷付けることは神を冒涜することになった。
・歴史―芸術:人間は特別に好きでもない絵画であっても、芸術として保護する。それは、人々にとって価値があり尊重するべきものとみなされている人間の創造の過程を含んでいるからである。 
自然:自然によって発展させられてきたある動物の種が、人間の行為によって絶滅させられるのを善としない。

両者供にそれらが出現するに至った経緯に基づいて不可侵性を得る。
=人々は両者に共通した創造の過程に神聖を感じる。

人類は進化の最高のものであり、人類が滅びるならすべての芸術、文化も消滅する。

自然と芸術という神聖さの和合


5、各論に照らして考える

これまで自己決定は自己所有を唯一の正当化根拠としてきたことへの批判ないし、新たな観念において自己決定を考えなおしてきた。それを元とし今まで扱ってきた各論について再考してみたいと思う。

*内在的価値の有無から
『身体が私のもとにあるということと、私が身体のもとにあるということ、また、意のままにそれを私が使えること、これらの事実と、その身体を他者に使用させず、私の意のままに動かしてよい、処分して良いという規則、規範は別の次元にある。』
            ↓
つまり所有権は処分権を意味するが、その者のもとにおかれることと、自らのもとから切り離す(処分すること)は分けることが可能である。と考えられる。
            ↓
「私」と「私の体」は区別できる。私と私の体は不可分なものと考えるのではなく、私の体であるということとそれが私によって所有されていることは別と考える。

以上のように考えられるならば、私の臓器や私の体内に存在している胎児もまた私の所有しているものではなく、独立なものとして考えられる。そしてこの臓器や胎児そのものにもまた内在的価値があると考えられる。であるならば、私の所有権を正当化根拠として臓器や胎児を私の自己決定のもとで自由に処分することも許されないと考えられる。

(論点1)
内在的価値を根拠として臓器売買や堕胎は否定できるか。

(論点2)
内在的価値を根拠として、動物や自然の私の自己決定による処分を否定できるか。
{この場合自然や動物は私とは独立した存在であることは明白なので、上記のような体についての議論は省略して考える}

*自己決定権と私的所有権の違い
『その者があるものを譲渡することが私達にとって無惨だと映るのは、制御の対象として想定していな
 いものが制御されるもの、比較されるものの範疇に繰り込まれる場合、他者が他者であること、自ら
 が他者であることが尊重されるべきだという感覚に反するからだ。』

つまり人間は自己を他者との対比の中において確認する。自己決定権の発想を「裏返して、逆に考え」ていくことで、そこに{他者}の受容、享受という原理を見出すことができる。

以上のように考えるならば、人間は他者に応対する責任があると考えられる。他者の求めに応対するという責任意識を含まない自己決定は自らの利害や損得に絡め取られてしまい、自己と密接に関わる他者を完全に無視した自己判断でしかないと考えられる。他者の自己決定に対する自分の自己決定を押し付けるということは他者の自己決定を侵害していることになる。ならば、自己所有(私的所有)しているからといって、完全に他者の存在を無視した自己決定は認められないと考えられる。
以上のような過程をへると堕胎(更には、胎児実験)や臓器売買も現実に自己とつながり合い重なり合っている他者との関係において自己決定権をもってしても処分することは許されないのではないか。

(論点3)
他者との関係において自己決定権は否定され、自己決定による臓器の売買や堕胎も否定されうるか。

参考文献

ロナルド.ドゥオーキン『ライフズ.ドミニオン』(信山社出版株式会社 1998年)
立岩 真也『私的所有論』(勁草書房 1997年)
大庭 健. 鷲田 清一編『所有のエチカ』(ナカニシヤ出版 2000年)
『現代思想』1998年7月号
『思想』2001年3号


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