所有権批判論

2003.6.30
海野・尾谷・水野


1、カント(ロック「労働所有論」への批判)

万人は、その力(支配力)の及ぶ限りで地上の一切のものを使用することが許されている。
(根源的共有態)

諸個人の私的所有は、こうした共有態から何らかの作用の媒体によって導出される。
     ↓
ロック批判:物に対して投下された「労働」は、個別的所有の成立根拠ではなく、先占の外的表示のための一手段に過ぎず、他のもっと適当な表示方法によって取り替えうるものである。
           ↑
所有権を含めて一般に権利とは、人と人との関係に係わるのであって、人と物との関係に直接係わるものではない。したがって、所有権が語られるためには、物にかかわる人の労働だけでは、何らの権利根拠も示されないまま。という認識に基づく。

カントは「取得の権原」(個別化の要件)として先占を提示する。
ただ、その単独的な一方意思が相互的に実践的関係に入りうる全ての人々の選択意思を結合することによる絶対的に命令的な意思の中に含まれている限りにおいてだけである。
           ↓
所有権が含意しているような万人に対する拘束性を課すためには、全般的な意思が必要。
(普遍的結合意思=人民各自の意思の全般的合致としても社会的な結合)

だがカントは、市民の間にある不平等な所有秩序の構造を基本的に容認していた。
(能動的市民と受動的市民の分類)

私的所有から拠ってくる不平等の解決は難しい??


2、私的所有批判(マルクス)

自由よりも平等の契機を重視し、不平等の元凶としての私的所有を批判すると共に、それに対して共同所有を対置する。
貧困の拠ってくる根本原因・・・私的所有という人間の社会的存在様式そのもの。

マルクスのこういった私的所有批判は、「疎外された労働論」で顕著に見て取れる。
自由で目的意識的生産活動をおこなうことが人間の類的本質という前提に立って。

@事物の疎外
→私的所有の関係の中では、労働者は、その労働の対象であるとともに成果でもある自然を、自ら享受することは出来ない。労働者から労働生産物が疎外されていること。
A自己疎外
→労働が労働者にとって外的で疎外されたものになっている
B類からの疎外
→賃労働者にとって労働はかれの個人的生活のための手段になっているので、かれからは人間の類的本質が疎外されている
C人間からの人間の疎外
→人間と人間との対立が生じていること
         ↓
私的所有とその基礎にある疎外された労働を止揚することによって、疎外された形で展開されている人間の活力を取り戻すことで人間の完全解放が目指されるようになった。


3、共同所有(社会主義)

資本家が独占している生産手段を、社会全体の共有財産に移す。
→労働者の搾取・階級一般の廃止
         ↓
社会による生産手段の掌握とともに、商品生産が廃止され、したがってまた生産者に対する生産物の支配が廃止される。社会的生産の内部の無政府状態に代わって、計画的・意識的な組織が現れる。(BYエンゲルス)

*ソ連や中国は社会主義でなかったとする主張
 →利潤制度の導入、能力給の導入、独立採算制など・・・
  むしろこれらは資本主義の特殊な形態である。


4、社会主義の問題点
 生産手段の所有の社会化は、誰もがフリーライダーになろうとする<無責任の社会化>を生む。
 みんなのものは誰のものでもないから、誰も保持活用の努力を払わず他人の努力に寄生しようとする<共有地の悲劇>
「他者の犠牲において利得しない」という基本的な公正観念の腐食。


5、資本主義の問題点

商品生産特有の「生産の無政府性」→競争の強制法則→生産力の飛躍的発展
→恐慌の例
自由と社会的責任の調和の失敗
私的所有というときの、その私的なものの利益追求が徹底化され、統制不可能なまでの貪欲なマネーゲームを繰り返すなかで、結果として経済の停滞や混乱をもたらした。


6、所有のもたらす弊害

<所有的個人主義>のひろがりによる、各人への「他人には無い個性」の所有の強要
・ 「私有」概念の蔓延・肥大
   →それぞれに所有者がいる私的領域か、さもなくばその外部領域か。という二分化
     →私有地ならその所有者の意思が絶対であるが、それ以外の土地なら何でもあり、という状況
   →古都の景観の例
・ 「所有」概念の強迫性による精神病理


☆論点

私的所有(資本主義)と共同所有(社会主義)について、どちらがよりよいか?? 


所有権があるとはどういうことか。

私はペンを持っている。これは所有か。
⇒借り物かもしれない。
⇒逆説的だが、私が、私の意思で、私のものではない状態に移行させて始めて事後的に証明・確認できる。
つまり所有とは私の意思で処分可能な状態にあること。所有権=処分権と観念できる。

もし所有ができないとすると・・・・・・
 現在の私有財産制そのものが否定される。
 ⇒物についての所有は認められる。(認めざるを得ない)

物とは何か。たとえば生命は、身体は、所有できるか。
 ロックの所有権論は
  @『人間は自分の身体を所有している』
  A『だからその身体の労働を使って価値を創造した場合、それは彼の所有物となる』
 だが、ロック的所有権の根拠となっている@は本当か。

1、身体の所有

【1】私はとても困窮している。あと一週間もその状態が続けば確実に飢え死にしそうである。
その時に、私の前に、腎臓を片方百万円で売ってくれという人が現れた。その百万円がなければ私は確実に飢え死にして身体の全てと生命をなくしてしまう。しかし、腎臓という身体の一部分を売れば私の命が助かるだけでなく、その腎臓を買った人の命も助かる。二つの命がなくなるのではなく、どちらかが生き残るのではなく、どちらも助かるのならば反対する理由はどこにもないように思える。
しかし、日本では臓器売買は禁止されている。

私が私の体を所有できるなら、自由に処分できるはず。それができないのであれば、結局身体には処分権がもてない、つまり所有権がないということになる。

【2】売春はどうか。私が私の意思で私の身体を使って行う行為がなぜ他人によって禁止・処罰されるのか。その行為の対価をもらうことがなぜいけないのか。
なぜ、売春は他の仕事と同じように扱われないのか。もし、同じように扱われないとすれば、使用を制限されていることになる。

第三者に迷惑をかけていない行為にさえ制限が課されるものを(身体を)本当に所有しているといえるか。(⇒2、身体所有の問題性)

【3】脳死臓器移植はどうか。
自殺や安楽死の多くは精神的窮地に陥った時の自己生命の放棄であり、脳死臓器移植は肉体的窮地に陥った時の自己生命の放棄である。事前における両者の意思決定は本質において大きな隔たりはない。国が臓器移植を法律で認めることは、国が人々に自殺や安楽死をすすめることと、本質的にどれほど違いがあるというのか。国が、人間の身体をその人の所有物と認め、個人の意思を真に尊重するのであれば、自殺も安楽死も同様に認めるべきである。

そもそも臓器は物と言えるか。民206条・85条によれば、物には所有権を観念しうる。

判例・学説・・・@人体から分離されたその一部(歯・毛髪・血液・精液)
        A遺骨
        B遺体
これらを物とし、所有権の成立を認める。ただし、死体の所有権は、祭祀・供養・埋葬等を目的とする管理・処分権としての特殊な所有権であるとしている。(肯定の可能性あり)
⇒死体から本人ないし遺族の承諾なく臓器を摘出…臓器の窃盗罪(刑235)
 それを知っていて移植を受ける者…盗品収受罪(256)
 墓を暴いて人骨を盗んだ者…死体領得罪(190)or窃盗罪

摘出・分離されてない臓器・組織・細胞はどうか。
⇒通説では、人格を有する人に対して排他的支配権を認めない。(所有権はない)
 精神と肉体を合わせ持つところの人間が権利(ここでは所有権)の主体である
 カント : 『人間は己の所有物ではない』

⇒また別の学説では、人格は身体そのものではなく、人格が、一種のものであるところの身体を所有する。としている。人格とは精神を指し、精神が身体および外界のものを所有する。従って臓器は物であり、所有権が成立する。

ロック : 『全ての人間は自分自身の身体に対する所有権を持つ』

*ただし、仮に臓器に所有権が成立するとしても、そのことによってのみ臓器売買は正当化されない。麻薬は所有できるからと言っても、麻薬の売買は正当化されない。

2、身体所有の問題性

身体は、存在(あること)と所有(持つこと)の境界領域にある。
つまり、われわれは身体によって何かを所有し、意のままにすることができるが、それを可能にしてくれる、その当の身体が、現実には私の意のままにならない、という意味で、身体は存在と所有の境界領域であると考えることができる。ところが、現代のわれわれの身体観においては、「ある」が「持つ」によって過度に侵食されている。何かを所有することが身体的実感を支えていると言ってもよい。
⇒所有に捕われる必要はないのではないか。

3、神学的身体論の立場から

人間は身体を持つのではなく、身体そのものである。(所有⇒存在へ)
身体の所有が身体の道具化ひいては自然物の所有・道具化を生み出すことへの批判。
人間が制御できないもの、制御しないものを他者として尊重し、安易に他者性を剥奪する行為に抵抗する。その意味では、すでに自らの身体の各部位が人間にとって他者としての意味を内包している。

「対象を所有するということは、対象を作り、それに形を与え、それを自分の意志に従って、自分の観念の似姿に作り変える一連の過程である。それは、物を自分自身の領域内に同化する方法である。こうして、人は自分の身体化の範囲を拡大し、他者の自制を求める権利の境界線を拡張する」[Engelhardt]
⇒ 人間が手を加え、制御可能にした対象物は、人間の身体の一部として所有される。
 人間の手が加えられれば加えられるほど、その対象物は人間に固有の価値を付与される。
⇒人工授精・体外受精への積極的な価値の付与

4、具体的に

【1】売春をしているA子さんは、『私が、私の意思で、私の身体を使ってその対価を得ることの何が悪いの。』と考えています。あなたはこれに賛成しますか、反対しますか。また、賛成の人はではなぜ日本では売買春が禁止されているのでしょうか。反対の人はなぜ反対するのですか。

【2】17才のB君は高校生です.。
『誰にも迷惑をかけていないから、タバコは吸ってもいい。』と考えています。
彼の考えに賛成しますか。また、賛成の人はではなぜ日本では未成年者の喫煙が禁止されているのでしょうか。反対の人はなぜ反対するのですか。

1、売春への批判
  @売買春は、性病を蔓延させ、非嫡出子を産み出すので悪い。
  A買春は、男の女に対する経済優位の象徴だから許せない。
  B買春は、女を男へと隷従させる性的奴隷制度だからけしからん。
  C売春は、愛がない金目当てのセックスだから卑劣だ。
  D売春は、体を物のように売るので、非人間的な職業だ。
  E売春は、客の性器と接触する肉体労働なので、猥褻で穢れた職業だ。
  F売春を行う女性にも本当はそれを望んでいないが、仕方なくしている女性もいる。
  G売買春の合法化は、セックスの希少価値を損なうので問題がある。さらにひいては少子化に拍車がかかることになる。

2、未成年者の喫煙
  @健康問題
   未成年で喫煙を開始した人は成人で開始した人より7年早く肺がんになる。
   *60才までに肺がん死する人数
     非喫煙者              1
   15才前から開始           30
   16〜25才で開始          15
   26才過ぎてから            7
  A喫煙を始める時期が早いほど容易にニコチン中毒に陥り、かつニコチン依存が強くなる
  B若年期の喫煙がシンナー・アルコール・覚せい剤・麻薬依存のきっかけになることが多い。
  C若年期の常習喫煙者は妊娠時も禁煙できず早産・低体重児の原因になっている。 
    D受動喫煙であっても背が伸びにくくなるなどの害がある。
  E1日1箱で 300 × 365 = 109500円
   15才から70才まで吸うとして  
      約110000 × 55 = 6050000円(約600万!!)

3、結論
売春についても、喫煙についても、『私の身体なんやからいいやん』という考えだけでは正当化できない。やはり身体を『所有』することはできない。

◆近代の所有

@ 個人単位に財に対する権利が配分される。
A 配分されたものに独占的で自由な処分が認められる。
B その権利はある者が実際にそれを所持している、利用しているといった具体性から離れている。
→しかし所有の初期値の割り当てが問題。また身体が私のものであることは前提とされている。そもそもあるものがなぜ自己のものといえるのか。

◆自己制御・生産→所有 という考え方
 しかし労働→取得という図式はまず、世界中のものが人間のものとしてあらかじめ与えられていなければならないことになる。
 
 身体そのものは私自身が作り出したものではなく、また手足は制御できたとしても内部器官までは制御できない。だからこの主張によって身体の所有を正当化することはできない。
 
すなわちこれは、制御されないもの(身体、そして能力の少なくともある部分)については私的所有(処分)を否定し、さらにはそれが自身のもとに置かれること自体さえも否定してしまうことになる。

しかし私の身体が私のものでないとすると、自己の身体が他者によって奪われてはならないという感覚も正当化されなくなる。これは私達の直感に反する。
(だからこそ「身体に対する自己決定」が主張されてきた。)
ではどうして自己の身体は他者によって奪われないと考えるのか。


◆その人が他者として在ることを認める
Aの存在はAが作り出したものではなく、Aが身体aのもとにあるということである。
その人が作り出し制御するものではなく、その人のもとに在るもの、その人が在ること
を奪うことはしない、奪ってはならないと考えるのではないか。
つまりその人が生命・身体を「持つ」からでなく、その人が他者として生きているときに、その生命、その者のもとにあるものは尊重されなければならない、と考える。


◆自己決定権
 近代的所有権は単に所持するだけでなくそのものを自由に処分できる処分権を意味し、それはそのものをどう扱うかという「決定」と同じである。その限りで「所有権」と「決定権」は同じであるとされる。
        ↓

上に見たように、身体については処分権を含める所有をしているとは考えられず、私の身体は私が在ることと切り離せないため、他者によって奪われてはならず、私のもとに置かれる。
        ↓
すなわち擁護されるべき自己決定は処分権としての自己決定ではなく、他者がそれを奪ってはならないという義務から生まれる権利であると考える。
その意味で自己決定権は、その者が他者としてあること、他者としてあるその者の在り方を承認することの一部である。


◆論点


参考文献

 現代所有論 日本法哲学会編 有斐閣 1991
 所有のエチカ
 マルクス主義同志会(ネット)
 私的所有権 立岩真也
 生と死をめぐる断章   鷲田 清一  京都新聞掲載
 ジェンダー論批判序説 上野千鶴子
 永井俊哉講義録 155号
 宮城県警察ホームページ http://www.police.pref.miyagi.jp/syonen/syounen/kitsuen.html
 身体論に関する神学的考察 『基督教研究』第59巻第2号   小原 克博


Copyright (C) 2000-2005 大阪市立大学法哲学ゼミ
http://www42.tok2.com/home/takizemi/

2003年度スケジュールに戻る