はじめに
安全・安心に対する人々の関心は年々高まっている。私の妻は輸入品の5倍も値段の高い国産ニンニクを「美味しいから」ではなく「安全だから」という理由で買ってくる。輸入ニンニクを食べて病気になった人がいるのかどうかは知らないが,安全・安心がブランド価値を上げ,商品の付加価値を高めていることは間違いない。
事故や安全上のトラブルが大きく報道され,社会の関心を引きつける。鉄道,航空,バス、医療,原子力,エレベータ,流れるプール,ジェットコースター,温泉施設,etc. 事故が起きるたびに当事者が謝り,被害者に怒鳴られ,マスコミに叩かれ,国に叱られ,対策がとられ,規制が強まり,罰則が厳しくなり,緊急点検が行われ,マニュアルが増え,再発防止のために多額の資金が投じられる。
しかし一方では,ヘルメットをちゃんとかぶらずにバイクを走らせているオニーチャンや,子どもを前か後ろ,ときには両方に乗せた状態で傘を差して雨の日に自転車をこいでいるオカーサンをしょっちゅう見かける。歩行者用信号は赤でも渡るし,開かずの踏切では遮断機がくぐられる。チャイルドシートの利用率は40パーセント台を低迷している。タクシーに乗ったときにシートベルトを締めようとしたらバックルが見つからない。駅員や車掌が放送で「危険ですからおやめください」と毎日呼びかけているのに駆け込み乗車はなくならない。そして毎日事故が起きる。
アメリカ産牛肉を食べてクロイツフェルト・ヤコブ病にかかるリスクを避ける同じ人が,夜,自転車に乗るとき無灯火走行でクルマにはねられるリスクをとるのはなぜだろう。ほんのわずかでも放射能が検出された食品を食べようとしない人が,それよりはるかに発がんリスクの高い煙草をやめようとしないのはなぜだろう。
ところで,狭くて曲がりくねっていて見通しの悪い道路は危険である。この道路をまっすぐな広い道に改良したら安全になると思いますか?
そこを通るドライバーが以前と同じくらいゆっくりと走り,以前と同じくらいの用心深さで運転すれば事故は確かに減るかもしれない。しかし,そんなドライバーはいないだろう。人々はまっすぐな広い道では速度を上げ,注意力を下げる。ならば事故は増えるのか,それとも以前と変わらないのか。道路の改良は効果のない安全対策なのか。
結論を先に言うと,安全対策がどのような成果をあげるのか,あるいはあげないのかを決めるのは,その安全対策によって人間の行動がどのように変化するのかにかかっている。これは工学の問題ではなく心理学の問題なのである。
本書は,人間の心理を考えない安全対策,安全施策では事故リスクを減らすことができないことを心理学の知見や理論を援用しながら説明する。そして,どうすれば安全・安心が実現するのか,それとも実現する見込みはないのか,我々がとるべき行動は何なのか,現代の日本社会に存在するさまざまなリスクを例にあげながら論じたい。