20世紀フィリピン宗教教授制度の選択肢
− 1901年法律第74号と1935年憲法制定時の議論 −
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はじめに
1 1901年:宗教教授制度の創設
2 1934−35年:宗教教授制度の維持
おわりに
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はじめに
公立学校における宗教教授は,それを行わないことも含めて,各国で様々な形態がとられている。それらは最終的に確定したものというよりも現在の到達点とみるべきであり,過去の歴史的経緯と各時点の諸条件に規定されながら,未解決の問題を抱えつつより望ましい形態を模索する途上にあるとみるべきであろう。また西欧において近年,非キリスト教圏からの人口流入が各国に新たな対応を迫っていることにみられるように,既存の形態には環境の変化により絶えず見直しを迫られる可能性がある。研究が蓄積されている国とは異なる形態をとってきた国の経験を検討することは,この問題に取り組む各国に有益な示唆を与えるものと考えられる。そこで本論文では,現在,独自の形態で宗教教授が行われるフィリピンにおいて,その形態が形成されてきた経緯を跡づけることにする。
フィリピンの公立学校では宗教教授は,両親から要請があった場合のみ,その子どもである生徒に対して行われる。両親がこの要請をしない子どもには,この宗教教授を受ける権利も義務もない。両親の意志による選択制であるが,他の必修科目の履修と替えることができる必修選択ではなく,単位取得や進級,修了と無関係な「任意選択制(optional)」である。1)宗教教授を行うのは,宗教組織から派遣される聖職者や教育担当者であり,公立学校の教員が宗教を教えることは禁じられている。このため,教育担当者を派遣することができる宗派の宗教教授のみが,その宗派に属する生徒に対して行われることになる。教育担当者の給与などの費用を,政府が負担することはない。フィリピンでは宗教組織の教育活動に政府・公立学校が場所と機会とを提供する形態がとられているとみることもできる。
この形態は1901年から現在まで変更されることなく保たれたが,その大きな理由は1935年から73年まで有効だった憲法がその維持を定めたことにあった。以下では,1901年にこの形態が定められた経緯と,1935年憲法の制定とに焦点をあて,そこで展開された議論や,現在の形態の他に示された代案を検討する。
1.1901年:宗教教授制度の創設
今世紀前半のフィリピンはアメリカによって統治された。現在の公立学校制度はこのアメリカ統治下の1901年1月に制定された法律74号によって開始された。この法律のなかで,上で記した形態の宗教教授が最初に定められた。アメリカ統治初期のこの時点で立法の権限を有していたのは,5人のアメリカ人から成るフィリピン委員会(Philippine Commission) であった。2)フィリピン人には法案採否の投票権はなく,立法への関与は公聴会での発言など間接的なものに限られた。ここでは法律が制定される過程での宗教教授についての議論を,1)法案の形成と,2)その審議とに分けて取り上げる。1)では,宗教教授の規定の採択に尽力し,その成立に貢献したタフト(William Howard Taft) を中心に,主にアメリカ人の立場を明らかにする。2)では公聴会でのフィリピン人の発言を検討する。
1) 法案の形成
フィリピン委員会のメンバーなど,法案の形成に関与したアメリカ人の間には,これからフィリピンで開設されていく公立学校での宗教教授の扱いについて,相容れない2つの主張があった。一方は公立学校での一切の宗教教授を禁止すべきであるという主張であり,他方は限定的な宗教教授を例外として認めたほうがよいという主張であった。前者が政教分離を遵守する立場であるのに対し,後者は政教分離が原則であるとしながらも,公立学校の普及の方をより優先させる立場である。それは,カトリック信仰の強いフィリピンでは宗教を教える学校の方が人々にとってより魅力的なはずである,という考えに基づくものであった。
公立学校での宗教教授の禁止は,法律74号の起草以前から勧告されてきた。軍政下で公立学校の責任者であったトッド第6砲兵隊長(Albert Todd) は,フィリピン委員会への勧告のなかで「政府により維持される学校は教会から絶対的に分離されること。原住民は宗教教授が行われる学校を望むなら,それを私的な財源により維持すること」3)と記した。アトキンソン公教育総督学官(Fred Atkinson) も,この勧告と同じ立場をとっていた。アトキンソンが最初に法案を起草したとき,そこには「いかなる宗教教派にも,部分的にであれ全面的にであれ公金により維持される学校で,その固有の信仰を教える権利はない」4)と記された。
しかし委員長のタフトをはじめとするフィリピン委員会メンバーの何人かは,一切の宗教教授を禁止するのは賢明でないと考えた。このため公聴会が開かれたとき,法案の条文は次のように変更されていた。
15条.次のことは合法であるものとする。すなわち公立学校が置かれた町に所在する教会の司祭ないし聖職者本人,または指名された宗教の教員によって公立学校の生徒にその学校の建物において1週間に3回,半時間宗教を教えること。ただし生徒の両親または保護者がそれを希望し,その希望を学校長に提出される書面で表明すること。校長はその教授のための時間割と教室とを定めねばならない。しかしながら次のように規定される。すなわち宗教教授は公立学校において就業時間内に行われてはならない。公立学校の教員は学校の建物において上述の権限のもとで宗教儀礼を司ってはならず,また宗教を教えてはならず,また指名された宗教の教員として行動してはならない。両親が希望しないなら,生徒はここで許可された宗教教授を受けることを要求されてはならない。・・・・5) 〔下線部イタリック〕
タフトは「公立学校制度に対する教会からの過度の反対を避けるために,この規定が賢明」6)であり,「これにより・・・・教会は子どもを学校に送るのを禁ずることを躊躇するだろう」7)と考えていた。タフトは次のようにも述べている。
・・・・彼らが現在の制度に気持ちを馴染ませられるようにするため,我々にとり可能な限りのことをし,彼らが世俗的な教育を受ける,その同じ建物で,同じ日に,彼らが大切にする宗教の宗教教授を許可することなく,宗教から完全に分離した教育制度を導入することは賢明であろうか?・・・・8)
タフトらの意図は,フィリピン人や,フィリピン人に影響力をもつの現地カトリック教会からの反発を緩和することで,公立学校制度や,ひいてはアメリカの統治そのものの導入を円滑化することにあったのである。
タフトはこの条項案と政教分離との間の問題を考慮しなかったわけではない。フィリピン委員会の任務の指針であったマッキンレイ大統領名(William McKinley)の訓令のなかで,フィリピンにおいて信教の自由が保証され「政教分離が真正で,完全で,そして絶対的であること」9)と記されており,委員会にはこれを遵守することが求められていた。このためタフトは条項案を擁護し,校舎を利用する機会が総ての宗派に対し平等であり,またその機会が学校本来の目的で校舎が使われていない時に限られることなどから,それが本国の判例に照らして政教分離に抵触しないと主張した。10)
しかしタフトも,この宗教教授が公立学校で半永久的に続けられることが望ましいとは考えてはいなかったとみられる。アメリカ本国の公立学校で宗教教授が禁止されるようになってきた以上,フィリピンでもそれに従うべきであるという,委員の1人モーゼス(Bernard Moses) の意見に対し,タフトは「その状態への我々の到達の仕方は漸進的であった」と指摘し,「可能な限り変化を急激なものとせず,なおかつ我々の訓令に従うのが最善の方針」11)であると述べている。厳密な手続きや許可される時間帯の限定といった条件を設けることで,いわば技巧によって政教分離への抵触を回避した変則的な制度を,タフトは過渡期の一時的な措置以上には考えていなかったとみられる。
ここで確認しておくべき点は,宗教教授が生徒の人格形成に寄与すると主張したアメリカ人がいなかったことである。タフトが宗教教授を認めたほうがよいと主張したのも,公立学校制度の導入の円滑化のためであり,青少年の人格形成のためではなかった。
なおアメリカから来島したプロテスタントの宣教師たちは条項案に反対したという。12)これはアメリカ本国でのプロテスタント教会の立場を反映したものと思われる。
2) 法案の審議
すでに述べたように,フィリピン人には法案採否の投票権がなく,公聴会で発言の機会が与えられただけであった。しかしこの発言により,条項の文面には若干の変更が加えられることになる。
3日間にわたり開かれた法案の公聴会では,15条について9人のフィリピン人が発言したが,賛成したのは2人だけで,他の者は条項案に反対した。反対の理由は2通りあり,対照的であった。1人がカトリックの宗教教授により高い地位を与えるべきであると主張したのに対し,残りの6人は一切の宗教教授の禁止を主張した。
ここで確認しておくべきことは,3分の2の者が公立学校での宗教教授の禁止を主張したことが,必ずしも総てのフィリピン人の意見を反映していたとはいえないことである。この時期にアメリカ人に重用され,フィリピン委員会からしばしば助言を求められていた者は,フィリピン人のなかでも一握りのエリートに限られていたからである。公聴会での発言者の多くもこうした著名なフィリピン人で占められていた。例えばデル・ロサリオ(Tomas G. del Rosario)はマドリード大学の法学士であり,フィリピン委員会と緊密な協力関係にあった連邦党(Federal Party) の指導者の1人であった。カルデロン(Felipe G. Calderon)は革命政府によるマロロス憲法の起草者であった。メンディオラ(Enrique Mendiola)は数冊の著作がある,マニラの名門私立学校リセオ・デ・マニラの教師であった。ヘレス・イ・ブルゴス(Xeres y Burgos)は博士の学位を有していた。13)欧米の自由主義思想となじみ,フリーメーソン団加入者も少なくなかった14)これらエリートの宗教に対する態度は,農村に住む大多数のフィリピン人と異なっていたと思われる。タフトは「彼らの見解を,この問題についての大多数の人々の見解とみなすのは危険である」15)と指摘している。農村に住むフィリピン人の宗教教授についての意識を窺い知るための資料は限られており,断定することはできないが,1901〜1905年頃に各地で教会系私立学校が人気を博した理由がそこで宗教教授が行われたことにあると,何人かのアメリカ人教育行政官が分析しており,16)この時期に,子どもの宗教教授を望んでいたフィリピン人は少なくなかったものと推察される。
一方,カトリックの宗教教授の重視を主張したラバゴ(Manuel Ravago) は,カトリック教会の利益を代弁する人物であったとみられる。ラバゴは,アメリカ統治下での反カトリック教会キャンペーンに対抗してサント・トーマス大学が発行した新聞『リベルタス(Libertas)』の編集長であった。ラバゴは上の条項案の代わりに「全諸島の小学校の教員がカトリック信徒であること」「カトリックがフィリピンにおいて普遍的に信仰される宗教であり続けるかぎり,それのみが学校で教えられること」および「その宗教教授は毎日の授業の一部であり,教員には学校に出席する生徒にこれを教える義務があること」17)と定めるように求めた。これは,カトリック教義が必修であったスペイン統治下の形態の存続を求めたものとみることができる。
ラバゴは代案の正当性を主張し,フィリピン人は子どもたちにカトリックの宗教教授が行われることを望んでおり,彼らは教員の賃金を負担するのであるからカトリック信徒の教員とカトリックの学校を要求する権利をもつと述べた。ラバゴはまた,複数の宗派があるアメリカとカトリック1宗派しかないフィリピンとでは教育制度は必然的に異なるべきであり,代案がアメリカの憲法に反するなら,憲法の方が一時停止されるべきであると述べた。18)
プロテスタントの宣教が進み,アメリカ統治が南部イスラム地域にまで広がるにつれ,公立学校でカトリックのみの宗教教授が行われるべきであるという主張は根拠を失うことになる。しかし上でみたとおり,カトリックのフィリピン人に限れば,その多くが子どもの宗教教授を望んでいるという指摘は,正しいものだったと思われる。
しかしこの代案は,はるかに厳しい制約を宗教教授に課す条項案の是非すら問題としたアメリカ人たちにとり「いかにして提出し得たのか理解できない」19)ものであり,到底受け容れることのできないものであった。
これに対し,フィリピン委員会の判断に一定の影響を及ぼしたのが,宗教教授の禁止を求めるフィリピン人の主張であった。スペイン統治下で修道士が植民地行政に従事し,商業活動によって大土地所有者となるなど,植民地支配に深く関与したことから,デル・ロサリオをはじめ多くの発言者が,カトリック教会の活動が厳しく制限されるべきであり「学校と教会は完全に分離されるべきである」20)と主張したのである。
また公立学校で宗教教授が行われると,宗派間の対立が学内に持ち込まれたり,宗派と学校関係者の間で対立が生じる危険性があると指摘した者もあった。フィリピン人教師の1人は「政府や子ども,教師が宗教の相違に関与することを防ぎ,起こりうる問題を防ぎ,校舎が不和の場となることを防ぐ」21)ため,宗教教授は公立学校の外で行われるべきであると主張した。
カトリック教会が宗教教授を通じて再び影響力を拡大するのではないかという懸念を表明した者もあった。ヘレス・イ・ブルゴスは次のように述べた。
・・・・カトリック教会の強硬さと,富と宗教的影響力によって人々を掌握したその力のゆえに・・・・教会を学校へ入れることは,不和と辛苦を生み,再び総ての害悪を浮かび上がらせるであろう。フィリピン人はそれらと闘い,今はそれらから解放されたと信じているのである。個人の自由は制限され,教会人の巧みな影響力は次第に人々の良心を欺き,徐々に総ての政治的自由を抑圧するであろう。・・・・22)
こうした発言は,連邦党員などエリートのフィリピン人によってなされたことを念頭において読むべきであると思われる。スペイン統治期の修道士たちに代わって新たに政治力と特権的な地位を手に入れたこれらのフィリピン人たちは,その地位が修道士たちによって奪回されるのではないかと危惧していたからである。タフトは,これらのフィリピン人たちが条項案に反対し「修道士たちがそれを学校を支配する手段に用いるかもしれない」と主張したのは,「修道士たちの復帰を恐れ」23)ていたためであると観察している。宗教教授禁止の主張の背景には,発言のなかで表明された信念のみでなくこうしたエリートの思惑もあったものと推察される。
またカルデロンは,公立学校で宗教教授が行われるべきでないと考えながらも,タフトらの意図に賛成して条項案を支持した。議事録には次のように記されている。
15条に関して,彼はそれを支持した。同条に学校で司祭が教えることを許可する規定がなければ,出席する子どもは5日でいなくなるだろうと彼は述べた。・・・・一般の世論が学校での宗教教授を支持するだろうと彼は信じていた。・・・・学校で宗教教授が行われるべきであると考えるかと問われて彼は「否」と答え,それは自由を侵すからであると述べた。彼が望むのは調和であり,彼は委員会が適切な方針をとってきたと信じていた。24)
カルデロンはタフトらと同様に,大多数のフィリピン人が宗教教授を望んでいる点を重視したのである。メンディオラも,一般のフィリピン人の希望を考慮し,1週間あたりの時間数を3時間に増やしたうえで「学校でなく教会でその宗教教授を行う」25)という方式を提案した。先の教師も,教会が近隣にない場合でも「宗教教授のために安価で家屋を借りることができる」26)と主張した。しかしこの提案をタフトらが取り上げることはなかった。この方式に注意が払われなかったのは,それがタフトらの望んでいた,学校をフィリピン人にとって魅力的なものにするという結果をもたらすものではなかったからではないかと思われる。
しかし多数のフィリピン人が公立学校での宗教教授に反対したことは,フィリピン委員会の判断に影響を与えた。条項案の採決にあたり,委員の1人の「モーゼス教授は,執行会議で条項を承認していたにもかかわらず,その採択は賢明でないと公聴会で聞いたことで説得され,条項に反対の演説をした」27)のである。モーゼスは演説のなかで,15条を次のように書き換えることを提案した。
いかなる教員も他のいかなる者も,本法律にもとづき設置また維持されるいかなる公立学校においても,いかなる教会,宗派,または教派の教義も教えてはならない。28)
もとの条項案を支持するタフトはこれに対し,上の文面を含めた内容を第1段落とし,続けてもとの条項案とほぼ同じ内容の文面を第2段落とする妥協案を示した。採否の投票は,この妥協案に対して行われたが,モーゼスはこれに反対の投票をした。また別な委員の「アイド判事(Henry C. Ide)もその議論に影響され,条項に反対の投票をした」29)。このため投票結果は賛成3票,反対2票とわずか1票差であった。
こうしてフィリピン人の主張は,公立学校での宗教教授を完全に禁止させるまでにはいたらなかったが,アメリカ人の判断に影響を与え,条項案を変更させ,原則として宗教教授を禁止する旨の文面を付加させたのである。
公立学校での宗教教授に関する1920年代以前の統計資料は管見の限りでは見当たらないが,1934−35年度には公立の小学校とハイスクールの就学者の 15.44%にあたる 186,228人の手続きがなされていたと記録されている。そのなかの 99.19%がカトリックであった。30)これらは宗教教授を受けた生徒の正確な人数ではなく,そのおおよその実態を示すものとみるべきであるが,これらの数字から,公立学校で実際に宗教教授が行われていたことと,それを受ける生徒は受けない生徒よりはるかに少なかったことが窺われる。
2.1934−35年:宗教教授制度の維持
独立準備期間の自治政府であるフィリピン・コモンウェルスの1935年11月の発足に先立ち,制憲議会が1934年7月30日から1935年2月8日まで開かれた。制憲議会は1934年7月10日の選挙で選出された 202人の議員から構成された。この時点では婦人参政権が認められておらず,議員たちは男性のみによる投票で選出された。31)
これらの議員たちが公立学校での宗教教授の問題についてどのような立場をとったかを窺い知るための資料はほとんどないが,1人のカトリック司祭の記述によると,議会内には宗教教授の禁止を主張するフリーメーソン団員の議員グループと,宗教教授を擁護する,カトリック教会の側に立つ議員グループがあったという。2つのグループの規模は不明だが,オドハティー・マニラ大司教(Michael O'Doherty) が主催した1934年10月22日の夕食会には,カトリック教会に近い立場をとる44人の議員が出席し,公立学校での宗教教授の権利をはじめとするカトリック教会の利益を守るために団結すると宣誓したという。32)これらの議員には,コロンブスの騎士のメンバーで元最高裁判事のロムアルデス(Norberto Romualdez)をはじめ,制憲議会副議長のモンティノーラ(Ruperto Montinola), デルガド(Jose M. Delgado),ロクシン(Jose C. Locsin), アベーヤ(Manuel Abella) らが含まれた。制憲議会での発言のなかでカトリック教会の立場が明白に示されることはなかったが,公立学校での宗教教授を支持した議員の多くが教会の利益を代弁する者であったことは念頭におく必要があると思われる。
制憲議会では2度にわたり,公立学校での宗教教授を道徳との必修選択にすることが提案された。まず起草の段階で,ロムアルデスとレイエス(Godofredo Reyes) が「権利章典」のなかに次の条文を含めるよう,起草委員会に提案した。
両親の任意選択により,総ての公立学校において道徳倫理または生徒の両親の宗教の課程が定められること。33)
しかしこの提案は退けられ,代わりに現行制度の維持を定めた「現在,法律で許可されているように,公立学校における任意選択制宗教教授が維持されねばならない」34)という文面が「総則」の草案のなかに含まれて,10月26日に全体会議に提出された。
次いで全体会議において1935年1月28日にアルタディ(Jose Artadi) が,この総則のなかの文面を次のように変えることを提案した。
総ての公立学校において,両親または保護者の任意選択により,道徳または宗教教授が科目のなかに含まれねばならない。35)
これも先のロムアルデスらの提案と同様に宗教教授を必修選択化するものであった。しかしこの提案も,この日の投票で否決され,現行制度の維持を定めた草案とほぼ同じ内容の条文が「総則」のなかに残されることになった。
議事録には投票数は記されていない。この問題についてどの程度の浮動票があり,それに対しどのような働きかけがあったのかは不明である。しかしこの投票結果も一般のフィリピン人の希望とは必ずしも一致していなかったのではないかと思われる。この時期にも多くのフィリピン人が子どもの宗教教授を望んでいたとみられるからである。1933年から35年まで副総督と公教育長官を兼任したアメリカ人のヘイドン(Joseph Ralston Hayden) は,次のように記している。
・・・・子どもに宗教教授を,教会が彼らに与えている以上に確保したいと望むフィリピン人は多い。何人と,推定していうことを著者はできないが,公立でなく私立の学校に子どもを通わせるのはなぜかと著者が尋ねた両親のなかで非常に多くの割合が,大きな理由の1つは彼らが子どもに宗教教授を受けてほしいことであると答えた。私立学校のための余裕がない貧しい人々のなかでは,おそらく割合はより高いであろう。・・・・36)
以下では,宗教教授の必修選択化を求めたアルタディらの主張と,これに反対し,宗教教授の禁止を求めた主張の内容を,議事録のなかの発言を中心に検討することにする。
1) 宗教教授の必修選択化を求める主張
アルタディは提案の意図が,宗教教授を現行の任意選択制から必修選択制に変えることで「両親が望まない・・・・のでなければ,我々の公立学校で常に宗教教授が行われる」ようにすることにあると説明した。「両親がそのように要求したときだけ,教えられる」ような「現行法のもとで,学校で宗教教授が存在しないように実質的になって」37)いる状態は,望ましくないというのがアルタディの立場であった。
公立学校で原則として宗教教授が行われることが望ましいとする根拠は,それが生徒の人格形成に必要であるということであった。アルタディは次のように述べた。
・・・・国家は公教育を担うにあたり,子どもの利益のために単に子どもを教授し,ただ知識という種を撒くのではなく,国家の利益のために,知識をどのように用いるべきかを子どもたちに教えることで教育すると,私は理解しているからである。・・・・総ての宗教の教義,すわなち神への畏れ,・・・・アラーへの畏れ,隣人愛,生命と自由と他人の財産の尊重といった,我が国に平和と秩序と幸福を確立するのに必要不可欠な教義の原理の精神を子どもが身につけるために,国家は学校において,宗教の教育を他の実用的な学科と同等に扱い,その教育を我々の子どもたちに与えるべきであることを,私はここに支持する。38)
バリリ(Perfecto Balili) も「道徳性,人格の鍛練や我々が子どもたちに教えるべき公民上の徳性の教育は,宗教と結びつけなければ効果がない」39)と述べ,宗教教授の必要性を主張した。
アルタディは,特にこの時期に青少年の宗教離れが進んでおり「我々が日々,呼び求めている神がだれであるかと問わねばならないような若者」40)が目立つようになったことや,青少年非行の問題に学校が有効に対応できず「あたかもエゴイズムが人間の唯一の基準であるかのように行動・・・・するための手段が,教育から作りだされるだけであるようにみえる」41)ようになっていたと強調した。
またアルタディは「両親や保護者の勧めに従って,自分の望む宗教を選ぶことができ」また道徳との選択制となっていることから「もし両親が自分の子どもが宗教を教えられることを望まないなら,宗教が教えられることはない」ので,この提案のもとでも「信教の自由が存在する」42)と説明している。
なおアルタディは,政府は宗教の教員の給与を支払わないと述べ,この点に関しては現行の制度が維持されると述べた。43)
2) 宗教教授の禁止を求める主張
アルタディの提案に対し,ロハス(Manuel Roxas)は「子どもが教わりたいと望む宗教に,教師の用意がないなら,それは実行不可能である」44)として,それが実現不可能な提案であると批判した。またカストロ(Servando Castro) も公立学校のスケジュールのなかに新たに宗教教授を加えることで,「生徒をだれの助けもなしで日々の糧を得る能力のある,役に立つ人間に育てる」ための「時間を削り,生徒たちを自立した人間に育てるという公教育の目的を挫折させる」45)として,アルタディの提案に反対した。このようにアルタディ案の履行上の問題点が指摘されただけでなく,現行の任意選択制のものも含めて公立学校で宗教教授が行われることが批判の対象とされた。
公立学校での宗教教授に反対した議員の多くは,公立学校に宗教組織,とりわけカトリック教会の影響が及ぶことを警戒していた。エスリサ(Leoncio R. Esliza) は,このことの危険性を指摘して,宗教組織の影響力が「特定の宗教や一部の人間の絶対化とひいきとをもたらし,多くの者に損傷と損害を与えるだろう。そして特に我々の公立学校においては,この影響力は我々の健全な教育制度を壊滅させるように働くであろう」46)と述べた。エスリサは,近年カトリックの聖職者らの政治活動が目立ってきたことに言及し,こうした事態が起こり得るものであると述べている。この危険を避けるため,公立学校での宗教教授の禁止が明文化されるべきであると主張されたのである。
またカストロは,公立学校で宗教教授を許可する制度は治安や風紀を乱すおそれのある宗教組織にまで「凶器を与える」と述べ,草案のなかの任意選択制の宗教教授の維持を定めた条文の削除も主張した。47)カストロはこうした宗教組織の例として,1931年にパンガシナン州タユッグで農民一揆を起こしたコロルム講(Colorum) などを挙げている。さらにカストロは共産主義にも言及し「宗教という仮面をもつ無政府状態がこの・・・・法律によって保護され,深刻な混乱の種を撒き,政府を転覆させる」48)かもしれないと述べている。これはフィリピン共産党が1930年に設立され,1932年に非合法化されていた当時の状況を背景としたものとみられる。
エスリサやカストロはまた,公立学校での宗教教授が宗派の間の「敵対心,対立や嫉妬に火をつけ」また「ひいきと,処遇と機会の不公平という深刻な問題が指摘され国家が非難されるであろう」49)と述べ,宗教教授が宗派間や国家と宗派の間の対立の要因になると述べている。そして公立学校での宗教教授の禁止を定めることが「我々の宗教組織の間に調和と親密な友好の感情を育て」「不和と怨恨の感情を軽減することで,総ての者への慈愛と善意というそれらの神聖な目的を保たせる」ことになると主張された。50)
ところでエスリサは,宗教教授が人格形成に寄与することは否定しておらず「宗教教授は・・・・道徳と精神の大きな進歩の実現に貢献した」51)と述べており,この点ではアルタディらの主張を受け容れていた。エスリサの立場のアルタディらと異なる点は,公立学校が宗教教授の場として不適切であると考えていたことにあった。上でみたようにエスリサは,公立学校での宗教教授は宗派間の対立を生み,宗教組織にその本来の目的を見失わせるので,結果的に人格形成に寄与できないと主張していた。宗教教授は「それぞれの教会,修道院,私立学校,協会,団体などの敷地で」行われるべきで「子どもと生徒は週に2日間は学校に行かず,午後5時から翌朝7時までは自由である」とエスリサは述べている。そして公立学校での宗教教授が禁止されてから宗教組織が道徳性の向上に貢献した事例としてカナダのケースを紹介し,フィリピンでも同様に,公立学校で宗教教授を行うことなく青少年の人格形成が実現し得ると主張した。52)公立学校で宗教教授がほとんど行われてこなかったそれまでのフィリピンでの状況もエスリサは肯定的にみており,次のように述べた。
我々の公立学校において宗教教授が行われることなしに,生徒・学生は神の存在と救い主イエスへの愛を知りかつ尊ぶようになってきた。彼らは神の次に両親を敬っている。彼らの道徳の高さは子どもとして注目すべきである。彼らは法を守り平和を愛する。これは基本的に,我々の国家の学校の教育機構に宗教教授という病原菌が入らなかったためである。53)
この時期の青少年が宗教的な態度と高い道徳性を身につけており,それが公立学校で宗教教授が行われなかったためであったとするエスリサの認識は,アルタディが青少年非行の問題を指摘したのと全く異なるものであった。
おわりに
公立学校での宗教教授については,現在の形態が定められた1901年にも,その維持が定められた1934−35年にも,それが最も望ましい形態であると主張したフィリピン人はほとんどいなかった。この形態に反対し,宗教教授の一層の重視を求める立場と,その禁止を求める立場からの発言が大勢を占め,両者の折衷案として,現在の形態が定められてきたということができる。1901年にはアメリカ人の間で,この形態を支持する者と,宗教教授の禁止を主張する者とが拮抗しており,後者が選択される可能性もあった。その場合,今世紀のフィリピンの宗教教授史は全く異なったものになったとみられる。
これに対し1935年憲法の発効後は,この問題をめぐる議論の内容が変化する。憲法で言及されたことにより宗教教授の枠組みの変更が困難になったことから,これ以降の議論は細部の規定の変更が中心となり,宗教教授のあり方が,形態そのものの変更の可能性まで含めて,根本的に問い直されることはほとんどなくなった。54)公立学校での宗教教授を支持する立場にしろ,これに反対する立場にしろ,現行の形態を支持しない者が少なくなかったことを考えるとき,この議論の内容の変質は,より望ましい宗教教授のあり方を模索するうえでの足かせとなったように思われる。細部の規定に関する議論からは,現行の形態そのものの欠陥や限界に起因する問題への有効な対応策を見出すことは期待できないからである。
公立学校での宗教教授のあり方については,上でみてきたように1935年憲法制定までの期間になされた議論のなかで,現行の形態に代わるものまで含めたラディカルな選択肢が提示されており,この問題について示唆に富んでいるということができよう。
注
以下の略号を用いてある。
C.P. : Commonwealth of the Philippines
P.I. : Philippine Islands
R.P. : Republic of the Philippines
U.S. : United States
1) これらの規定内容が必ずしも完全に遵守されてはいない地域もある。拙稿「1987年憲法下のフィリピンの公立学校における宗教教育の実態」『東京大学教育学部紀要』第32巻, 1993年3月を参照。
2) 1901年9月にフィリピン人3人が委員会のメンバーになった。May, Glenn Anthoney, Social Engeering in the Philippines, Westport: Greenwood Press, 1980, p. 31.
3) U.S. Bureau of Census, Census of the Philippine Islands Taken under the Direction of the Philippine Commission in the Year 1903, Vol. III, Washington: Government Printing Office, 1905, p. 640.
4) May, op.cit., p. 82.
5) Draft of the Original Bill Entitled "An Act Establishing a Department of Public Instruction in the Philippine Islands, and Appropriating Forty Thousands Dollars ($40,000) for the Organization and Maintenance of Normal and Trade Schools in Manila for the Year 1901," quoted in: R.P., Congressional Records: Senate, Vol. IV, No. 31, Marzo 9, 1953, pp. 299-300.
6) Taft, William H., "Letter to the Elihu Root, January 9, 1901," U.S. Library of Congress, Presidential Papers Microfilm, William H. Taft Papers, Ser. 8, Vols. 2-3.
7) Taft, "Letter to the Elihu Root, January 13, 1901," quoted in: de Leon, Esmeraldo A., The Teaching of Religion in the Public Schools of the Philippines," unpublished PhD dissertaion, Florida State University, 1961, p. 96.
8) Taft, "Remarks on Section 16 of the School Bill," January 21, 1901, quoted in: de Leon, op. cit., p. 166.
9) "President McKinley's Instruction to the Taft Commission," quoted in: Kalaw, Maximo, The Development of Philippine Politics, Quezon City: Solar Publishing, 1986, p. 455.
10) Taft, "Remarks・・・・," p. 164.
11) Ibid., p. 165.
12) Taft, "Letter・・・・, January 9, 1901."
13) Galang, Zolio M.(ed.), Encycolpedia of the Philippines, Vol.III, Biography, Manila: Exequiel Floro, 1950, pp. 347, 501, 521.
14) デル・ロサリオはフリーメーソン団に加入していた。池端雪浦『フィリピン革命とカトリシズム』頸草書房, 1987年, 205頁。
15) Taft, "Remarks・・・・," p. 166.
16) U.S. Philippine Commission, Fourth Annual Report of the Philippine Commission, 1903, Pt. 3, Washington: Government Printing Office, 1904, p. 732; P.I. Bureau of Education, Sixth Annual Report of the Director of Educaiton for the Fiscal Year 1906, Manila: Bureau of Printing, 1906, p. 15.
17) U.S. Philippine Commission, Minutes of Proceedings, January 14, 1901," quoted in: R.P., op. cit., p. 304.
18) Ibid., p. 304.
19) Taft, "Remarks・・・・," p. 167.
20) U.S. Philippine Commission, "Minutes of Proceedings, January 11, 1901," quoted in: R.P., op. cit., p. 301.
21) U.S. Philippine Commission, "Minutes・・・・, January 14, 1901," p. 304.
22) U.S. Philippine Commission, "Minutes of Proceedings, January 12, 1901," quoted in: R.P., op. cit., p. 302.
23) Taft, "Letter・・・・, January 9, 1901."
24) U.S. Philippine Commission, "Minutes・・・・, January 14, 1901," p. 305.
25) U.S. Philippine Commission, "Minutes・・・・, January 12, 1901," p. 302.
26) U.S. Philippine Commission, "Minutes・・・・, January 14, 1901," p. 304.
27) Taft, "Letter to the Elihu Root, January 21, 1901," U.S. Library of Congress, Presidential Papers Microfilm, William H. Taft Papers, Ser. 8, Vol. 1.
28) U.S. Philippine Commission, "Minutes of Proceedings, January 21, 1901," quoted in: R.P., op. cit., p. 306.
29) Taft, "Letter・・・・, January 21, 1901."
30) C.P. Department of Education, "Report on Schools Offering Religious Instruction Submitted by the Director of Education, June 24, 1937," quoted in: de la Rosa, "Religious Instruction in the Public Schools," Manila: National Library, 1938, pp. 539, 544.
31) サイデ, グレゴリオ・F『フィリピンの歴史』時事通信社, 1973年, 537頁; Flanz, Gisbert H. and George Mcnake, Philippines," Albert P. Blaustein and Gisbert H. Flanz (eds.) Constitutions of the Countries of the World, New York: Oceana Publications, 1973, p. 7.
32) Noone, Martin J., The Life and Times of Michael O'Doherty, Archbishop of Manila, Metro Manila: Casalinda Bookshop, 1988, pp. 254-255. 夕食会は,宗教教授の禁止を定めようとするフリーメーソンの議員の活動が強まったのに対抗して開かれたという。
33) quoted in: C.P., Message of the President, Vol. 4, Pt. 1, Manila: Bureau of Printing, 1939, p. 426; also in: Isidro, Antonio, The Philippine Educational System, Manila: Manila Educational Enterprise, 1947, p. 318.
34) Laurel, Salvador H. (ed.) Proceedings of the Philippine Constitutional Convention, Vol. VII, Manila: Lyceum Press, 1966, p. 754. 法律74号の宗教教授に関する条文は,1917年に制定された行政法にほぼそのまま転載されていた。ここで言及されている「法律」は,この行政法の条文を指す。
35) Laurel, Vol.VI, p. 399.
36) Hayden, Joseph Ralston, The Philippines: A Study in National Development, New York: Macmillan Company, 1942, p. 566.
37) Laurel, Vol.VI, p. 407.
38) Laurel, Vol.VI, p. 400.
39) Laurel, Vol.VI, p. 414.
40) Laurel, Vol.VI, p. 404.
41) Laurel, Vol.VI, p. 400.
42) Laurel, Vol.VI, p. 401.
43) Laurel, Vol.VI, p. 407.
44) Laurel, Vol.VI, p. 405.
45) Laurel, Vol.VI, pp. 412-413.
46) Laurel, Vol. I, p. 372.
47) Laurel, Vol.VI, pp. 409, 413.
48) Laurel, Vol.VI, p. 409.
49) Laurel, Vol. I, p. 370.
50) Laurel, Vol. I, p. 373.
51) Laurel, Vol. I, p. 370.
52) Laurel, Vol. I, pp. 370-372.
53) Laurel, Vol. I, p. 371.
54) 細部の変更については拙稿「フィリピンの公立学校における宗教教育, 1901〜87年」『アジア経済』第34巻第4号, 1993年4月を参照。
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以上は,『 火曜研究会報告 』 第18号 (1993年6月) のための最終ドラフトにもとづき,ウェッブ上での掲載のために若干の加筆・修正を行ったものです。刊行された論文とは異なるところがあります。
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