地域社会における生活と学校
− フィリピンにおけるコミュニティ・スクールの運動 −
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はじめに
I.コミュニティ・スクールにおける地域社会との関わり
II.コミュニティ・スクールの展開
1) 初期の運動
2) 公立学校局による全国レベルでの推進
III.運動の原理
1) 一元アプローチ
2) カリキュラムの地域社会への適合
3) プロク
4) 母語による教授
IV.運動の衰退
1) 教員の負担
2) 基礎的な学力の低下
3) 他の政府機関の活動の拡大
V.農村不安とコミュニティ・スクール運動
結び
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はじめに
フィリピンの代表的な教育運動に,1940年代から1950年代にかけて全国各地に広がったコミュニティ・スクール(Community School)がある。これは各地でほぼ同じ時期に地域レベルの運動として始まったものが,後に政府・公立学校局(Bureau of Public Schools)の支援により全国レベルで推進されるようになったものである。学校教育と地域社会における教育の統合,地域に適合したカリキュラムの作成,さらに地域の人々の言語である母語による教授など,コミュニティ・スクールにおいては多くの興味深い試みが行われた。
フィリピンでは,学校を通じて地域社会にインパクトを与えようとする試みがそれ以前から行われていた。例えば1903年からは市民教育レクチャー(Civico-educational Lecture)が,また1933年からはコミュニティ会合(Community Assembly)が,それぞれ公立学校局によって数年間にわたり行われた。後にイロイロ州(Iloilo)でコミュニティ・スクールの運動を推進したアギラル(Jose V. Aguilar)も1938年に,学校督学官(school superintendent)として赴任していたカピス州(Capiz)において1200人の教員を指揮し,稲の改良品種を普及させる教育キャンペーンを展開した。また,後にパンガシナン州(Pangasinan)で運動の展開を支援したオラタ(Pedro T. Orata)も日本軍政下に「生活を中心とした教育(life-centered education)」と題した連続セミナーを公立学校局の職員を対象として行った。一時中断されたセミナーは戦後,カリキュラム部局(Curriculum Division) の長となったオラタのもとで再開された。1)
こうした試みが全国レベルで推進された背景には,今世紀前半のアメリカ統治下でのフィリピン平定の促進や,その後の農村不安の解消という政治的課題があったといわれる。公立学校局によるコミュニティ・スクールの推進も,1950年代初頭を頂点とした農村不安の解消という緊急の課題を背景としていたといわれる。本論文では,運動の展開,原理および問題点を検討した後,この農村不安の問題とコミュニティ・スクールとの関わりを考察する。
運動の実態の記述は,主にベルナルディノ(Vitaliano Bernardino)による1958年の著作とカーソン(Arthur Leroy Carson)による1978年の著作とに依拠した。ベルナルディノは教育行政官として,カーソンはシリマン大学(Silliman University)の学長として,それぞれ運動の展開を推進したことで知られる。2)
I.コミュニティ・スクールにおける地域社会との関わり
教育省次官(Undersecretary of Education) であったプートン(Cecilio Putong)は1949年の講演で,コミュニティ・スクールが「その位置する地域社会における生活と,深く関わり,一体となるような学校である」3)と述べた。ユネスコ技術援助使節(UNESCO Technical Assistance Mission)の責任者であったフリージ(Urban H. Fleege)は1955年に,コミュニティ・スクールが「地域社会の開発と教育の基本的なプロセスとが,活気をもって結合されている施設」4)であると記している。またカーソンは著作のなかで「コミュニティ・スクールは,地域社会の資源と要請という観点からみて,地域の総ての人々の教育のための施設である。地域社会の要請とは,個人の利益を相応に考慮したものである」5)と記した。
これらの説明は,いずれもコミュニティ・スクールが,地域社会と密接に関わることを特徴としていたことを示している。運動が実践されていた小学校のオン校長(Conrada V. Ong)が挙げたコミュニティ・スクールの特徴は以下のようであった。6)
1.学校の施設が,成人を対象とした午後の授業のために提供される。成人は図書室や運動場も利用することができる。
2.地域社会の資源が学校プログラムの活性化に用いられ,また学校活動が地域社会に投影されるような,2方向の編成をとる。
3.学校プログラムは「教育は生活である」という考えを基本とし,教授において現実の生活の場を用いる努力がなされる。
4.民主々義の精神と,寛容の気風とが浸透している。
5.科目内容よりも姿勢が重要とされ,個人的な業績よりも集団的な努力が強調される。創造的な自己表現が奨励される。
このように記述された地域社会との関わりが,コミュニティ・スクールにおいて具体的にはどのように追求されていたのかを,運動の展開と原理のなかに順にみていくことにする。
II. コミュニティ・スクールの展開
1) 初期の運動
コミュニティ・スクール運動の指導者たちの動機は「戦後の復興と独立のチャレンジからの要請」であり,また多くの都会の住民が戦時中に農村に移住した経験をもったこともこれに貢献したとカーソンは記している。ベルナルディノも経済的,社会的および文化的に,国全体の復興が必要であったと記している。7)
フィリピンで最初のコミュニティ・スクールが,東ネグロス州(Negros Oriental)の山間部にあるバリオ・マラボ(Malabo)で始められたものであったということで,カーソンとベルナルディノの見解は一致している。1942年に設立され,1943年に学校督学官アルデコア(Venancio Aldecoa)8)により正式に登録された学校は,この年に校舎が焼失し,生徒が四散したため一時中断されたが,シリマン大学の後援とカーソン夫人(Edith Carson)の指導の下で1947年に再開された。学校は再登録されなかったが,1953−54年度まで「向上センター」(Center of Progress)として,児童,青年および成人を,地域を基盤に教育し続けたという。年長の少女は午前中は家で働いて午後に勉強し,男性の青年や成人は夕方の授業に出席し,児童のためには半日の授業が行われた。シリマン大学からの後援が打ち切られると,建物と敷地は政府に譲渡され,公立小学校が設立されたが1974年に再訪したカーソンは,地域社会と関わる伝統がまだ見られたと記している。
初期の運動のなかで最も有名なものに,1948年から54年までアギラルが学校督学官として指導したイロイロ州にあるサンタ・バルバラ市(Santa Barbara)の中等学校とティナ(Tina)の小学校での1948年からの実践がある。2つの学校はそれ以前から通常の学校として開校していた。中等学校における運動は,地域社会の調査から始められ,食料生産,家庭の衛生および識字が問題であることが明らかになった。これらの問題に対処するために,学校のプログラムの変更,地域をゾーンに分けての組織化および州で保育と畜産を担当する行政官からの援助の確保がなされた。生徒は半日アカデミックな授業を受け,半日は職業・家政活動を,学校か家庭のどちらかで行うようになった。ゾーンごとにセンターが設けられ,会議や,農業普及局(Burau of Agricultural Extension)や畜産局(Bureau of Animal Industry)の協力による実演が行われた。4年生は成人教育の授業を担当した。運動の評価として,生徒のイニシアチブと資質とを引き出したこと,父母が学校と協力するようになったこと,労働の価値に対する認識が高まったこと,青少年の非行が減ったことなどが挙げられている。
ティナの小学校においてもまず初めに調査が行われた。学校を通じて地域社会の生活状況を改善する活動が家庭との協力により行われ,特に家庭の清掃とトイレの建設とに重点が置かれた。
またそれまで用いられてきた英語に代えて地域の人々にとっての母語であるヒリガイノン(Hiligainon)で教授をする試みが,イロイロ市にある小学校の第1,2学年の生徒を対象に1948−49年度から始められた。このイロイロ市での試みは,全国で同様な試みが行われる先駆けとなった。その後,イロイロ州の全域で小学校の第1,2学年にヒリガイノンによる教授が,英語の教材をヒリガイノンに翻訳したものを用いて行われるようになった。9)
1950年にベルナルディノがサンタ・バルバラ市を訪問したときには,中等学校と小学校を中心とした家屋と道路の清掃・美化や,トイレと排水路の建設,成人を対象とした識字教育と農業実演が行われていた。ベルナルディノは地域社会の問題と資源の教室への導入が,ことに保健と家政学の授業において行われており,労働の体験が学校教育の一部となっていたと記している。地域をゾーンに分けた組織化が,教員の負担を軽減する目的で始められていた。1955年に再訪した際には,ゾーンごとの組織によって清掃・美化の活動が続けられ,各ゾーンで会合がもたれ,演劇などの活動も行われていた。ほとんどの家庭にトイレと排水路が設けられていた。授業と地域社会とを結びつける試みも続けられていた。農業の実演は農業普及省の担当に移っていた。
イロイロ州は運動が盛んなことで知られ,国内のみならず国外からも教育者が州のコミュニティ・スクールを訪れ,研究対象としてきたという。カリノグ(Calinog)のコミュニティ・スクールは,映画に撮影されて国外にも紹介された。10)
カガヤン州(Cagayan)では当時の学校督学官ガフド(Miguel R. Gaffud)11)の指導で運動が展開した。1949年のガフドの報告によると,学校のリーダーシップによって,宗教組織や友愛組合,地域の有力者などの参加する会議が開かれ,保健衛生,家庭美化,社会・文化的発展,識字,市民・公民訓練,道徳・宗教的生活などの分野の改善のための取り組みがなされたという。地域社会はゾーンに分けられ,教員がゾーンの,校長が市の,支区視学官(district supervisor)が学校支区の顧問となった。
パンパンガ州(Pampanga)においては1947−48年度に,それまであった教員・PTA連合の機能が拡大され,地域社会における生活を学校へ導入すること,学校を地域社会の公民・社会的な中心とすること,人々を民主々義的な価値に目覚めさせること,家庭と地域社会とにおける生活を人格形成と公民教育の場とすることなどが目的とされた。次いで,地域社会にある組織のもつ,人々に貢献できる能力が調査検討された後,コミュニティ・スクール会議(community school council)が設立された。これは,市やPTA,教会,社会・公民クラブ,企業,同業者組合の代表により構成された。全州で行われた活動は,保健衛生,食物生産,家内工業,識字,公民活動,レジャーであった。12)
セブ州(Cebu)では1947年から,農地保護と再植林のプロジェクトがコミュニティ・スクールによって行われた。最初はいくつかの町で行われていた運動が,政府機関や市民団体の参加により全州に広まった。各地で運営にあたった組織は,市長や視学官,校長を指導者として,市議会,警察署長,出納官,郵便局長,地域の有力者などにより構成された。13)
同じ頃に始まったパンガシナン州の運動は,他の州と異なり定まった組織化のパターンをもたなかった。運動は食物生産の改善に集中し,教員は目的達成のためにあらゆる資源を用いた。農業や工芸技術を担当する行政官,園芸の教員,工芸技術の教員や獣医など,地域社会を助けられる総ての人々の協力が要請されたという。14)
バターン州(Bataan)の運動は,学校督学官ソリス(Miguela M. Solis)により1949年に始められた。最初のプロジェクトは,州立の中等学校の商業科目と関連させて「市場の日」(market day)などを開催することであった。これにより売却可能な生徒の作品の販路が確保され,また生産活動への人々の関心が高められた。ソリスの後任のラヤ(Juan C. Laya)は,後述するように1949年から1951年の間に「バターンの小さな民主々義」(Little Democracies of Bataan)または「プロク」(purok)と呼ばれる,地域社会の人々の組織の展開を促した。バターンの運動が広く知られるようになったのは,ラヤが指導していた時期であった。15) プロクは2年間で州の総てのバリオで組織されたが,1952年8月にラヤが急死したことにより,プロクを統合した州調整会議(provincial coordinating council)の設立は挫折した。
1950年3月にベルナルディノが訪問した際には,総てのバリオに読書センターが築かれ,模範的な家が選定されて標識が貼られ,識字キャンペーンが行われ,共同トイレが建てられた。学校では工芸技術や家政学の授業での生徒の作品を販売する学校売店が設けられ,機関紙が発行されていた。小学校の第1学年では母語による教授が行われ,そのための教材が作られた。地域社会に協力することを通じた教育が推進され,総合的な評価の方法が導入された。野外活動や講師の招待,奉仕活動などが行われていた。しかし1955年10月に再訪した時には母語による教授を除くほとんどの活動は行われていなかった。16)
2) 公立学校局による全国レベルでの推進
学校がこのように生徒の教育という領域を越えた機能を果たすようになった1つの契機は1947年10月の行政命令94号による教育行政機構の改変であったといわれる。この行政命令により,成人教育部(Office of Adult Education)が成人教育部局(Division of Adult Education)とされて公立学校局の下に置かれるようになったため,成人や就学していない青少年(out-of-school youth)の教育も,公立学校局が担当することになったのである。戦前の試みが成果を上げられなかった理由として,児童の教育と成人の教育とを別個に扱ってきたことがあると指摘するベルナルディノは,新しい行政機構の下で初めてコミュニティ・スクールが実現できるようになったと記している。17)
各地で学校督学官の指導の下で独自に展開してきたコミュニティ・スクールは,やがて全国レベルで推進される運動となる。最初にコミュニティ・スクールの運動を全国で推進したのはフィリピン学校督学官連合(Philippien Association of School Superintendents:略号PASS)であった。1949年5月にバギオで総会を開いて設立されたPASSは,最初の10年プログラムを「農村地域に重点を置いた教育の改善」とし,コミュニティ・スクールをそのための方策とした。その後に開催された総会では,いずれもコミュニティ・スクールの諸側面に基づいたテーマが取り上げられた。1953年に発行が始まったPASSの旬報は,コミュニティ・スクールの機関誌として機能したという。18)
また公立学校局も,コミュニティ・スクールを推進する方針を取っていく。1949年8月3日発行の公報(bulletin)では,前述のイロイロ州での試みが報告された。この公報ではコミュニティ・スクールという言葉は用いられなかったが,11月に行われた前述のプートンの講演において初めて言及がなされ,1950年に発行された公報では,出版物における最初の言及がなされた。こうしてコミニュティ・スクールは,公立学校局が公式に認めるプログラムとなり,それまで旬刊で発行されていた「成人教育報(Adult Education Bulletin)」は名称を「コミュニティ・スクール報(Community School Bulletin)」に改めた。
これ以降,コミュニティ・スクール運動の全国的なリーダーシップはPASSと公立学校局が合同してもつようになった。1949年以後,公立学校局はコミュニテイ・スクールに関する数多くの公報や回状(circular)を発行している。また教員の研修やカリキュラム開発,学校運営,職業教育,道徳・公民教育,調査・評価などの領域で,コミュニティ・スクールに適合するような刷新が行われたという。
1955年には,教育省と外務省の協力によりフィリピン・ユネスコ国立コミュニティ・スクール訓練センター(Philippine-UNESCO National Community School Training Center)が設立され,運営のための政府予算が割り当てられた。また国立フィリピン大学において,コミニティ・スクールのための人材を訓練するセミナーや会議,ワークショップが行われ,1952年からは公立の教員養成学校の総てにおいてコミュニティ・スクールに適合するカリキュラムが定められた。私立大学においてもフィリピン女子大学などで,教員養成カリキュラムの中に関連したコースが設けられた。19)
III. 運動の原理
地域社会と密接に関わるというコミュニティ・スクールのあり方を実現してきたものに,学校と地域社会の間の相互作用を引き出す一元アプローチ(unitary approach)や,カリキュラムの地域社会への適合,地域の人々の組織化,母語による教授などがある。これらを順にみていく。
1) 一元アプローチ
アギラルや,アルバイ(Albay)州の学校督学官であったデ・カストロ(De Castro)が提唱した一元アプローチはフィリピンのコミュニティ・スクールの基本的な原理である。デ・カストロは,一元アプローチが「児童と成人,学校と地域社会との間の相互作用の機会をもたらす」20)ことにより学校が改善され,カリキュラムが豊かになり,地域社会が改善されると記している。
ベルナルディノの説明によると,一元アプローチは従来の学校の機能である児童の教育と,成人教育や地域社会の改善とを別個なプログラムとせずに,一つの統合されたプログラムに包含するものである。児童と成人とが同時に学ぶコミュニティ・スクールにおいて一元アプローチが実現されるのであり,それはコミュニティ・スクールの総ての側面に適用されているという。
例えば職業訓練や工芸技術,家政学の活動を学校のみでなく家庭で行うことができれば,就学していない家族の構成員も学校の指導から利益を得ることになり,また反対に,家族の内にいる経験の豊かな成人から生徒は学ぶことができる。こうした活動は園芸・農業や家禽・家畜飼育,裁縫,織物,竹・木細工などのプロジェクトで行われる。教員に力量があれば,アカデミックな科目の学習活動においても成人を授業中の討論に招待することができる。選挙についてであれば有権者の成人を,妊娠と育児ついてであれば母親を,共同組合や小売販売についてであればそれに携わる人が,それぞれ招待される。事前にその題材に関して学習して予備知識を備えた生徒が司会を行い,母語で討論されるのが一般的である。こうした授業は教室に限らず市役所のホールや共同組合の店舗などでも行うことができる。21)
またカーソンによれば,一元アプローチは児童と成人のもつ潜在的な教育の能力を解き放つものであるという。それは教員が負わされた責務と負担とを軽減できるものであり,児童と生徒とが共に学ぶ過程で行われる。非文盲の成人が学校から教材を借りて文盲の者を教えたり,文盲の成人が大工道具の使い方を自分の道具で年長の児童に教えたり,母親が近隣の児童と自分の子どもに一緒に裁縫を教えたりということは,日常的にみられることであり,このようにして地域社会の隠れた人的資源を見出すことが,地域社会の教員を発見することであるとカーソンは主張している。22)
2) カリキュラムの地域社会への適合
ベルナルディノによれば,これまでのカリキュラムは中央の部局で定められ,教科書や学習課程,指導書を通じて伝達されるものであるという。このようなカリキュラムの概念が,教育を本からの知識を児童に伝達することだけに限定し,児童の学ぶべき内容と題材がもっぱら中央の部局で定められるようにしてきたというのである。このようなカリキュラムの問題点に対する批判としてベルナルディノは「バタネス諸島の北端からスル諸島の南端まで同じことが行われる。マニラで良かったことが,サンタマリアでも良いとみなされた。セブの人々に有益なことが,モロの人々にも同様に有益であるとみなされた」23)という記述を引用している。
このような従来のカリキュラムのあり方に対してコミュニティ・スクールにおいては,教育の目的の決定や,内容の選択・準備,評価の基準の作成などに,教員や視学官をはじめ一般の人々も含めた地域社会からの参加がなされるようになっているという。こうした変化は参加する人々の教育に関する問題への関心を高め,コミュニティ・スクール運動への人々の責任意識を育てることになった。また教員や視学官はカリキュラムの作成のために必要な知識をもつことを要求されるようになった。
このためそれぞれの地域社会で教育の哲学やカリキュラム開発の原理を明確化する必要が生じた。これに応える試みの優れたものとして,ブラカン州で1951年にまとめられたカリキュラム開発の基本的な哲学と原理が挙げられる。これは2年間に開かれた2回の会議を基礎にして作られている。またバターン州でも,カリキュラム開発のための原理を 156の項目にまとめたものが,教員と教育行政官のために作られた。24)
こうしてそれぞれの地域社会で作られるようになったカリキュラムは,個別の要請や状況に適合し,地域社会の資源を活用する方向のものであった。この方向はカリキュラムの内容の活性化とその内容を豊かにすることとをねらいとするものであった。こうしたカリキュラム作りの実現は,その地域の教育行政官の理解と指導力とに大きく依存するため,その構成や内容は地域により多様であったという。それでも多くの地域で,その地域における生活の社会・経済的な諸側面や歴史,地理,産業などについて謄写板やタイプによる教材が作られたという。これらの教材は,その質に関しては中央の部局の作成した教材と比べるべくもないが「人々の要請と状況という点からみた関連性と有効性とにおいては優っている」25)とベルナルディノは評価している。
ベルナルディノによると,コミュニティ・スクールにおけるカリキュラムの変革は3段階に分けられるという。第1段階では全体の構成は変わらずに,生活に具体的に関わるような問題が題材として用いられる。第2段階では地域社会の実際の問題や状況を用いて学習が展開される。授業のスケジュールは柔軟で,野外活動なども行われる。第3段階では地域社会の問題と要請とに沿って全体の計画と編成とがなされる。26)
コミュニティ・スクールにおける独自のカリキュラム作りにおいて盛んに用いられた手法にカリキュラムの統合(integration)がある。1951−52年度にフィリピン教員養成大学で最初の試みが行われた後,1〜2年で「統合」は公立小学校の教員の間で広く知られるようになり,同大学の研修部門にはこの手法を学ぼうとする教員が多数集まったという。27) 「カリキュラムの統合」(integrated curriculum)あるいは「コア・プログラム」と呼ばれるこの手法をベルナルディノは「知識,技術および態度を,社会的な価値のある課題についての活動と結びつけて学習する」28)ものであると説明している。このカリキュラムの統合は,学校で常に行われるのではなく,一定期間に限りある教育目的を効果的に達成するために行われた。
3) プロク
「プロク」(purok)はコミュニティ・スクールの運動をより効果的にするための地域社会の人的資源の統合と組織化に必須のものであり,また地域社会の開発のための様々な活動を行うために不可欠な機構である。「ゾーン」や,その他各地の現地語によりさまざまな名称で呼ばれる。1つのプロクは通常30戸から50戸程度の近隣に居住する家族で構成される。同じプロクに属する人々は共通の文化や問題,目標,理想をもつため結びつきが強く,経済的・文化的な協力の実現が容易である。その地域でコミュニティ・スクールの運動を行う学校から,1名ないし3名の教員が派遣され,そのプロクの助言員となる。各プロクの名前は一般には地域の名士や徳目などからとられる。
プロクが最初に用いられたのは,イロイロ,カガヤンおよびバターンの各州で,後にコミュニティ・スクールの行われる総ての州で,地域社会の組織化の一般的な方法となった。プロクを最初に宣伝したラヤは,バターン州のプロクのことを「小さな民主々義」と呼んで紹介した。やはり学校督学官のアギラルとガフドが,イロイロとカガヤンでそれぞれプロクを導入した。
バリオ内でのプロク間の結束と統合とを促すために,バリオ会議(Barrio Council)がしばしば組織される。こうした組織化は,個々のプロクの能力の範囲を越えた活動や問題解決のために必要となるものである。バリオ会議は通常,各プロクの長や指導者により構成される。同様に,バリオが集まって構成されている市のレベルで市調整会議(municipal coordinating council)が組織され,さらに州レベルで会議が組織されることもある。これらの協力会議が政府機関や民間団体,国際機関などからの援助の受け皿として機能している州もあった。
プロクと教員との関係が組織化のレベルによって多様であったため,プロクの人々が両者の関係を明確に理解していないことがしばしばあった。プロクを最初に組織した教員にとって最終的な目標は,プロクを構成する一般の人々がリーダーシップをとるようになることである。このため順調に機能するようになったプロクでは,教員は中心的な役割から退いて顧問や助言のみを行うようになった。29)
4) 母語による教授
コミュニティ・スクールの運動によって喚起された議論に,母語による教授の問題があったとべルナルディノは記している。学校での教育は従来は英語により行われ,母語は成人教育に用いらるだけであった。しかしコミュニティ・スクールにおける教育目的の達成が児童と成人の間および学校と地域社会の間の相互作用に依拠するものであったため,ベルナルディノはコミュニティ・スクールにおいては母語による教授が適切であるとして,母語は「学校と地域社会とのコミュニケーションの手段である」30)と主張している。
母語による教授は,それによって生徒の学習効果が上がることは明らかであるにもかかわらず,英語教育の始まる学年を遅らせることから父母の間に抵抗があったという。父母にとっては英語の習得が,子どもを就学させる主要な目的だったからである。このような状況に変化をもたらしたのが,イロイロ市で最初に行われ,その後各地で行われた母語による教授の実験であった。
7組の小学校の第1,2学年の生徒に英語の代わりにヒリガイノンで教授を行うイロイロ市での実験は,公立学校局の調査・評価部局(Research and Evaluation Division)の技術的な指導の下で1948−49年度から6年間行われた。実験の結果,第1,2学年での母語による教授は,その後の英語の習得に悪影響を及ぼさずむしろ有利にはたらくことや,他の教育の諸側面においても母語による教授が優れていることが明らかになった。2年目が終了した後,実験はイロイロ州の全域に広げられた。このことは,実験が人々に好意的に受け取られたことを示するものであったとベルナルディノは記している。
イロイロ市での実験に基づいて,ブラカン州とパンガシナン州で,2年間の実験の後に州の全域で母語による教授が始められた。またバターン,カマリネス・スル,ラグナの各州では人々の抵抗が少なかったため,最初から全域で母語による教授が始められた。1955年に48人の学校督学官を対象に行った調査によると,どのような形でも母語を教授に用いている学校支区は54%,これを含めて適切な教材があるならば用いたいと考えている学校支区は69%であった。
このような試みや要望により,母語による教授は公式に認められるようになる。学校督学官の1952年度の総会は,必要な教材が入手できる場合に,小学校の第1,2学年で母語を用いて教授することを認めると票決し,続いて公立学校局長も同じ方針の政策を示した。そして国家教育委員会(National Board of Education)が,小学校第1,2学年において,国語と英語の教育を行いつつ母語を用いて教授することを決定し,これを1957−58年度から実行することが教育省令1957年1号により定められた。31)
IV. 運動の衰退
コミュニティ・スクールは,PASSや公立学校局が運動を推進したにもかかわらず,1950年代の末までには衰退していた。公立学校局は衰退の理由を「高圧的な官僚制を負わされたことが,活気と生気のある運動には適合しなかったため」32)と解釈したが,テキサス大学のフォーリー(Dogulas Foley)33)は,農村開発を担当する他の政府機関の活動が拡大したため教員と学校が地域社会に対して果たしていた役割が奪われたことと,父母と教員からの不満とを理由に挙げている。教員の地域社会での活動が多すぎることと,それにより教室での授業が犠牲になっていることに対する不満である。34)これらの点についての議論を次にみる。
1) 教員の負担
従来の学校教育においては教員は,定められたコースに従い与えられた指導書を用いるだけであったのに対し,コミュニティ・スクールにおいては教員は,カリキュラムの作成に携わることも要求される。これに加えて教員は地域社会の改善のための活動のために学校から長時間離れることを要求される。このことは,教員の基本的な役割である児童の教育の質を低下させる恐れがある。学校で生徒を一日教える仕事の上に,成人のプログラムのための仕事を課すのは,一般の教員には過重であるとみられるからである。コミュニティ・スクールに対する批判は主にこの点に集中した。
多くの教員は,コミュニティ・スクールの運動を従来のものより好んではいたが,それによって新しい負担が教員に課せられるようになったのもまた事実であった。アギラルはこの問題に関して,教員が一元アプローチを習得すれば,負担は軽減されると主張した。一元アプローチによって地域社会の人々がリーダーシップをとるようになれば,教員の新たな負担の多くが解消されるというのである。しかしベルナルディノは,教員と地域社会のリーダーの質の現状からみて,アギラルの想定する状況が実現するまでには10年ないし30年を要するのではないかと記している。
パンガシナン州ではこの問題に対応するため「教員−地域社会コーディネーター」(teacher-community coordinator)を任命する試みがなされた。これに任命された教員は,学校での職務の一部を免除され,代わりに地域社会と学校や他の機関との連絡,プロクの組織の補助,地域の調査などを行う。1954−55年度は41人,1955−56年度は53人が任命され,地域の教育行政官の評価は高かった。しかしこの試みは予算不足のため中断された。ベルナルディノがこの試みを評価して,政府がこのためのポストを創設するように促したのに対してカーソンは,このような試みは児童の教育と成人のプログラムとを分けることになり「地域社会と一体となるという,運動の中心的なねらいを否定することになる」35)と記している。
3) 基礎的な学力の低下
教員の負担と関連した批判として,コミュニティ・スクールの運動が算数や読み書きなどの基礎的な技術を児童が習得するのに妨げになるという指摘がある。これは教員の負担が大きいことと,アカデミックな内容を教授するのに適した方法が取られていないことからくる批判である。カリキュラムの統合と地域社会の改善の活動とにより,小学校のテストの結果が低下したという指摘もあった。36)
ここで批判の対象となったカリキュラムの統合は「社会的な統合された活動」(socialized integrated activities)あるいは「経験」「活動」などと呼ばれ,地域社会やより広い社会の問題を学ぶために一日の多くの時間を費やすものを指す。これに対して最初にフィリピン教員養成学校で行われた試みにおいては読み,書き,計算などを学ぶ時間は減らされることはなかったと,ベルナルディノは反論している。これらの技術の学習は,地域社会の問題についての活動と結びつけられて「コア」と呼ばれる時間に行われた。
「統合」の人気はそれから1,2年で急速に加熱し,十分な原理の理解と技術の習得がなされずに各地で行われるようになった。しかしこの熱気はやがて鎮静化し,父母からの不満も加わって,読み,書き,算数などを直接教える時間数が増え,社会的な活動と合わせて教える時間は減少していった。1959年までには地域社会と関わる活動は学校では行われなくなり,代わって英語や数学,科学の新しいカリキュラムの運動が導入された。37)
3) 他の政府機関の活動の拡大
1953年に大統領に就任したマグサイサイ(Ramon Magsaysay)は,農村開発を政策の柱に据えた。農業普及局,植樹産業局(Bureau of Plant Industry),畜産局,健康局(Bureau of Health),社会福祉庁(Social Wealfare Administration)などの政府機関が,この政策に応えた活動を展開した。また1956年の共和国令1408号のもとで各バリオが新たにバリオ会議を組織することが定められ,行政命令57号が州および市レベルでの地域社会開発計画会議(Community Development Planning Council)の設立を定めた。こうして,学校の地域社会に対する役割は次第に他の政府機関へと移行し,教員により組織されたプロクは新しいバリオ会議に置き換えられていったのである。38)
こうして衰退したコミュニティ・スクール運動に対するフィリピンの教育学者の評価は高い。カーソンは,それが「哲学と,豊富な実践の経験とをもたらした」ものであり,公立小学校よりも広い基盤を得る可能性があったと記した。イシドロ(Antonio Isidro)も「コミュニティ・スクールは再興され,強化されるべきである」39)と記した。
V. 農村不安とコミュニティ・スクール運動
はじめに述べたように,コミュニティ・スクールが全国レベルで推進された背景には農村不安の解消という政治的課題があったといわれる。コミュニティ・スクールや,後に他の政府機関が進めたフィリピンの農村開発の政策の背景には,戦後から1950年代にかけての農村を中心とした体制不安が存在したのである。1940年代末に武力解放路線に転じたフィリピン共産党の軍事組織であるフク団(Hukbalahap)は中部ルソンを中心として勢力を拡大し,1950年代初頭にかけて国内治安上,最大の危機要因となっていた。このためアメリカは5年間で2億5千万ドルにのぼる援助を行い,農地改革を含む内政の改革をフィリピン政府に勧告すると同時にフク団鎮圧のための軍事的支援と指導を行った。このためフク団の勢力は1950年代初頭を頂点として次第に衰えたが,その後も国内治安の確保に関心をもつアメリカ側の意図を背景に,農村における不安の解消がマグサイサイ政権の課題となったのである。40)
教員がプロクを通じて行った学校周辺での交通法規の強制,正しい市民的行動のポスターの掲示,地域社会の会合,法令違反の通達などの全国規模の法と秩序のためのキャンペーンは,直接的な対反乱活動ではなかったとしても,これらの活動を通じて学校は,アメリカの軍事顧問と政府警察軍がフク団と戦闘を展開していた時期に,政府の良いイメージを増長する役割を担い,他の農村改善プログラムと協調していたとフォーリーは記している。41) コミュニティ・スクールの運動を公立学校局が推進した背景には,農村不安の解消という,フィリピン政府ならびにアメリカの抱えてい緊急の課題が存在していたのである。
このためコミュニティ・スクールは,公立学校局を通じてフィリピン政府によって推進されただけでなく,国外からの支援も受けてきた。1930年代にアメリカでコミュニティ・スクールの運動を推進したスタンフォード大学のハナ教授(Paul Hanna)は「時代の最も重要な社会的発明の一つとして,自由社会は歓呼して迎えるであろう」42)と述べてフィリピンの運動を賞賛した。このようなアメリカの教育者による支援が,1950年代半ばにはダイナミズムを失っていた運動の延命を助けたのである。
またユネスコの教育顧問使節(consultative educational mission)の1949年の勧告もコミュニティ・スクールの普及を提言していた。そして1951年4月20日のユネスコと政府との合意に基づき,前述の訓練センターの設立が1953年7月11日より開始され,ユネスコ側が5〜6人の専門家派遣の費用を負担する一方,政府も1954−55年度に10万ペソの予算を計上した。パンガシナン州バヤンバン(Bayambang)に建てられた訓練センターは,コミュニティ・スクールのための教員や指導者の訓練を目的とし,教員の育成と研修,効果的な手法の実演,新しい手法の実演・開発,教材作り,評価,レポートの出版などを機能としていた。1955年1月3日から始められた最初の10週間訓練プログラムには,41人の学校督学官が参加した。43) しかしこの訓練センターも,運動の現場にはほとんどインパクトを与えずに「フィリピンの教育者たちが歴史を築いている」という考えを長続きさせるのに貢献したとフォーリーは記している。何千人もの海外の教育者が,この訓練センターと,公立学校局が来訪者のために人為的に維持していたコミュニティ・スクールとを訪れたという。こうしてコミュニティ・スクールは,途上国の教育改革の方向性を国外からの援助と助言とが勢いづけた典型的な事例となったとフォーリーは記している。
またフォーリーは,コミュニティ・スクールの運動に関与した教育者がその後不釣り合いに高い行政上の地位に就く傾向があり,コミュニティ・スクールを提唱することは昇進に有利にはたらいていたと指摘している。ユネコスによる多くの奨学金と研究助成金の制度があり,またコミュニティ・スクールの指導者のなかには選ばれて国際開発局(Agency for International Development)による行政官交換プログラムの下で研究した者もあった。1950年代には学校督学官と,督学官補,アカデミック科目担当の視学官の3人が奨学金を得た学校支区も存在した。
このように,アメリカが推進した改革運動や訓練プログラムは地域レベルおよび全国レベルで指導的地位に就く人材を不釣り合いに多く輩出し,フィリピンはコミュニティ・スクールをはじめ職業教育プログラムや州立大学,専門科学ハイスクールによって「進歩的」なアメリカの教育の考えを展示するアジア地域の実演センターとなっていたとフォーリーは記している。44)
ところでこのアメリカからの影響は,最初の試みがフィリピンの各地で始められた時からすでに存在していたのではないかと考えられる。ベルナルディノは,フィリピンの他に同じタイプのコミュニティ・スクールの運動がみられるのはアメリカのみであり,その歴史はフィリピンより古く,戦前にまでさかのぼると記している。アメリカにおける試みを紹介した本45) も,1941年にはフィリピンで入手可能であった。フィリピンにおける運動の指導者は,フィリピン独自の特徴や背景を強調する傾向が強く,アメリカからの影響を認める記述が見出されないことから,ベルナルディノは「アメリカにおけるコミュニティ・スクールの展開の影響によって,フィリピンのコミュニティ・スクールの運動が生じた」という説には「証拠がない」と断った上で,上述の事実を根拠に,アメリカのコミニュティ・スクールを「遠い背景」(Remote Backgrounds)と位置づけている。46)
フィリピン統治においてアメリカは,エリート層の支持を確保することに意を用いた。このためフィリピンのエリートにはアメリカの教育と文化を賞賛する意識傾向が生み出されていた。各地のコミュニティ・スクールを指導し展開させてきた学校督学官は,アメリカでの試みから何らかの示唆を得ていた可能性はある。
結び
コミュニティ・スクールの運動は1940年代後半に,学校督学官の指導により,各地で独自に始められた。運動の始まった背景には,戦後の荒廃からの復興と,独立のための要請があった。運動はやがて全国レベルで推進されるようになり,PASSと公立学校局が,コミュニティ・スクールを推進する方針をとった。
コミュニティ・スクールにおける手法の一つに,学校での従来の児童の教育と,成人教育や地域社会の改善活動とを一つのプログラムに包含する「一元アプローチ」がある。これは児童と成人の間の相互作用を引き出すものである。また各地で地域社会に適合したカリキュラムの開発が試みられた。地域社会の人的資源を動員するために,近隣を基盤とした「プロク」と呼ばれる組織が形成された。また小学校第1,2学年では,従来の母語を英語の代わりに教授用語とする試みが,コミュニティ・スクールにおいて広く行われた。これは母語が児童と成人との間のコミュニケーションの手段であったためである。
コミュニティ・スクールは1950年代の末には衰退していた。その理由としては,教員の地域社会での活動が多すぎたため,教室での授業が犠牲になっていることに対する教員と父母の不満があった。また政府の農村開発政策により農村開発を担当する他の政府機関の活動が拡大したため教員と学校が地域社会に対して果たしていた役割が奪われたことも,運動が衰退した理由である。
公立学校局によるコミュニティ・スクール運動の推進は,1950年代初頭を頂点とした農村不安を背景としたものであった。このためフィリピンの国内治安の確保に関心をもつアメリカをはじめとする国外からの支援が,衰退していた運動を延命させることになった。それは国外の教育学者や機関による提言,施設の建設,助成制度などにより行われた。
フィリピンの公教育制度がアメリカ統治期に創設されたものであり,それがアメリカ軍によるフィリピン平定作戦を促進させるねらいをもったものであったことは周知の事実である。公教育制度はそれ以後,アメリカによるフィリピン統治の手段として機能してきた。コミュニティ・スクールの運動を公立学校局が全国レベルで推進した背景にも,フィリピンの国内治安の確保に関心をもつアメリカの意図が存在したとみることができる。コミュニティ・スクールを通じての農村開発の進展により,農村不安が解消されることが期待されたのである。
フィリピン人のベルナルディノによる著作の中にはこうした視点からの記述はみられない。それはカーソンの著作についても同様であり,時代背景としての農村不安の問題についても言及されておらず,運動の沿革や特徴,事例の報告などが記述されるだけであった。フォーリーがいうように,フィリピンの開発において教育が果たしてきた役割が,フィリピン人自身の手によってより批判的な視点から検討されることが望まれる。47)
注
1)市民教育レクチャーは地域の人々が関心をもつような題材について,その分野の専門家である教師や教育行政官,地方行政官などが講義を行うものであった。題材は農業,家禽飼育,養殖,養豚,果樹栽培,保健衛生,害虫駆除,家屋改築,出産育児,調理法などであった。コミュニティ会合も,学校が後援する会合を通じて人々を教育し啓発することをねらいとするものであった。市民教育レクチャーと異なる点は,講義の内容があらかじめ印刷され,誰でも入手できるようになっていたことで,これにより専門家でなくても事前に印刷物に目を通すことで,講義を担当することが可能となった。印刷物の一部が残存しており,その題目は家畜の世話,菜園,白蟻,根菜栽培,伝染病予防,茸栽培などであった。これらの印刷物は優れた内容だったため,その後も学校で用いられた。またアギラルによるキャンペーンが「地域社会改善のための組織的なプログラム」(organized program of community improvement)であったとベルナルディノは記している。Bernardino, Vitaliano, The Philippine Community School, Quezon City, Phoenix Press, 1958, pp. 36-39.
2)Ibid.; Carson, A. Leroy, The Story of Philippine Education, Quezon City, New Day Publisher, 1978.ベルナルディノは1949年3月から1953年8月までブラカン州で学校督学官を務め,そこでコミュニティ・スクールを始めた。次にパンガシナン州で学校督学官として,すでに行われていた運動を指導した。1957年フィリピン大学より博士号を授与され公立学校局長となった。著作はこの学位取得論文をもとにしている。(Bernardino, op.cit., pp. 13-14)カーソンは1920年代と30年代に中国で教えた経験をもち,1931年にコーネル大学より農村教育学で博士号を取得した。1939年から1953年までシリマン大学の学長を務めた。最初のコミュニティ・スクールをシリマン大学が後援したのはこの時期であった。1963年から1967年までケソン市三位一体カレッジ(Trinity College of Quezon City)の学長を務めた。
3)Ibid., p. 21.
4)Ibid., p. 24. フリージは,後述するユネスコの訓練センターの拡張を支援した。
5)Carson, op.cit., p. 48.
6)マニラ市内で唯一のコミュニティ・スクールであったプンタ小学校(Punta Elementary School)の校長の記述をカーソンが要約したものである。Bernardino, op.cit., p. 22; Carson, op.cit., pp. 48-49.
7)Ibid., p.46; Bernardino, op.cit., pp. 38-39.
8)アルデコアは,中等学校教員であった1939年に,教員向け全国誌に寄稿した論文でコミュニティ・スクールの実験校の設立を提唱したが,「コミュニティ・スクール」という言葉がフィリピンの出版物で用いられたのはこれが初めてであった。またアルデコアがその下で学んだシリマン大学教育学部長のヘフリン教授(Clyde Heflin)は「学校とコミュニティ」というコースの最初の教官であった。Ibid., pp. 18,43; Carson, op.cit., pp. 45-46.
9)Bernardino, op.cit., pp. 45-47.
10)Ibid., pp. 185-188.
11)ガフドは後に,成人教育部局の長となった。Ibid., p. 48.
12)Ibid., pp. 49-50.
13)Ibid., p. 50.
14)Ibid., pp. 50-51.
15)Ibid., p. 51.
16)Ibid., pp. 197-200.
17)Ibid., p. 43, 65.
18)ベルナルディノはコミュニティ・スクールを最初に公的に承認したPASSの初代の会計も務めた。Ibid., pp. 51-53.
19)Ibid., pp. 53-57.
20)Ibid., p. 65.
21)Ibid., pp. 64-67.
22)Carson, op.cit., p. 48.
23)Bernardino, op.cit., p. 110.
24)Ibid., pp. 109-114.
25)Ibid., pp. 114-118.
26)Ibid., pp. 252-253.
27)Ibid., p. 232.
28)Ibid., pp. 116-117.
29)Ibid., pp. 123-128.
30)Ibid., pp. 121, 234.
31)1958年の著作でベルナルディノは,政府予算がまだ確保されていないため,各学校支区は生徒の父母などから母語教授のための財政援助を得ていると記している。Ibid., pp. 120, 234-240.
32)カーソンが1967年に公立学校局長から受けた説明である。Carson, op.cit., p. 47.
33)University of Texas at Austin の人類学の教授。
34)Foley, Dogules, "Colonialism and Schooling in the Philippines, 1898-1970," in: Altback, Philip G. and Gail P. Kelly (Eds.), Education and the Colonial Experience, New Brunswick, Transaction, 1984, p. 46.
35)Bernardino, op.cit., pp. 3-4, 226-230; Carson, op.cit., p. 47.
36)元公立学校局教授部局長で,当時は公立学校局行政官のアンドレス(Demetrio M. Andres)の指摘である。Bernardino, op.cit.,p. 232.
37)Ibid., pp. 231-233, Douglas, op.cit., p. 46.
38)Bernardino, op.cit., pp. 55-56, 129; Carson, op.cit., p. 48; Foley, op.cit.,p. 46.
39)Carson, op.cit., p. 49; Isidro, Antonio, Trends and Issues in Philippine Education, Quezon City, Phoenix Press, 1968, p. 219.
40)滝川勉 他『東南アジア現代史』有斐閣,1982, pp. 60-61.
41)Foley, op.cit., p. 46.
42)Bernardino, op.cit., p. 19; Foley, op.cit., p. 46.
43)Brenardino, op.cit., pp. 20, 101-105.
44)Foley, op.cit., pp. 46-47.
45)Everett, Samuel (Ed.), The Community School, New York, D. Appleton-Century, 1938.
46)Bernardino, op.cit., pp. 31-35.
47)Foley, op.cit., p. 52.
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以上は,『 知られざる新教育 』 (1993年3月) のための最終ドラフトにもとづき,ウェッブ上での掲載のために若干の加筆・修正を行ったものです。刊行された論文とは異なるところがあります。
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